海の見えるレストラン
夜明け方、ニケに起こされた。しばらくつき合っているうちに空はすっかり明るくなっていた。西班牙製の洋燈の灯りを消し、もう一度ベッドに戻った。頭を横たえようとすると、ニケはもう枕許にいた。羽布団の左肩をそっと開けてやると頭から潜り込み、中でくるりと方向転換して頭を左の腕にのせた。背中を向け右前肢を腕にのせるといつもの姿勢になった。そのまま眠り込んでしまったらしい。起きた時、柱時計の針は十時を指そうと動いたところだった。
朝刊を取りに外に出た。影のない通りは平板に見える。昨夜の雨が舗装路に染みを作っていた。神戸の東急ハンズから送ってもらったUSmailの郵便受けから二紙を取り出し家の中に入った。日曜日だけは書評を読むためにもう一紙とっている。「毎日」は、年末恒例の「今年の三冊」になっていた。『ダ・ヴィンチ・コード』が二人の書評子に採られている。面白く読んだが、それほどの作だったろうか。複数の人が採り上げた作品が少ないのは、それほどの話題作がなかったことを示しているのだろう。総じて、不作の年ではなかったか。
朝食後、昨夜読み終えた本について概略をまとめてみる。面白く読んだが、他の読者にはどうだろうか。自分の心覚えのつもりで書く。書き終えるととうに昼を過ぎていた。どうやら、今日は一日こんな天気らしい。
「この前行った海の見えるレストランでお昼というのはどうかな。」
「いいわね。」
話は決まった。日が差さない分、寒いだろう。ウォーキング・クローゼットの奧にしまいこんであったボア付きのランチコートを引っぱりだしてきた。丈が短めでカーコートにはぴったりの長さだ。妻の方は本格的なランチコート。手には買ったばかりの鹿皮の手袋と寒さ対策は万全である。
「今日はそんなに寒くはないだろう。」
「あら、だって屋根開けるんでしょ。」
それはもちろん開ける。曇りでもやはり開けて走りたい。
走り出すと、寒さはたいしたことはなかった。高速道に乗ると、右前方の空にハング・グライダーがふわりと、風を孕んで浮かんでいた。どこから飛んできたのだろう。
たった一つしか開いていない料金所に列ができていた。ハイウェイカードの読み取りに手間取っているらしい。機械から上下を逆さまにしてもう一度試みるように指示する女性の声が聞こえてくる。一区間しか乗らないこちらは二百円だ。自動販売機の釣り銭受け取り口を大きくしたような受け皿に硬貨を放り込むと、妻が笑いながら
「お賽銭みたいね。」と言った。
有料道路の入り口には鉄製の大きな釣り橋が架かっている。
「あれ、橋が白くなってる。」と、妻。
「前からずっと白いよ。ここの橋は。」
「そっか。赤いのはあちら側か。」
この車を買ってからこの橋を渡るのは三度目である。今まで何を見ていたのだろう。たしかに、どんより曇った空を背景に今日の橋は白さが際立って見える。これまでは上天気だった。きっと、海や島に目を奪われていたにちがいない。
展望台の駐車場にはそれでも何台もの車が停まっていた。前回行きはぐれたレストランは、この近海で捕れた魚介類や地元の肉類を使った創作料理を謳っていた。案内された席は窓際で、目の前には志摩の海が視界いっぱいに広がっていた。半円形の外周は屋根まで全面の硝子で、それも上に行くほど張り出していた。円の内側はステージになっていてピアノが据えられていた。料理は軽いものをと、ベーコンと馬鈴薯、ポルチーニ茸のパスタを、妻はシーフードドリアを頼んだ。
水平線が僅かな弧を描いて視界の端に消えていた。少しずつ黒い雲が広がりだし、空はまだらに染め分けられていた。雲の色を反映してか、海もまた色を変えている。遠く水平線に近い部分は濃い青灰色に、入り江に近い辺りは岩礁や海藻類の間からコバルト色に見えている。岬と半島に挟まれた内界を舷側をオレンジ色に塗った船が滑ってゆく。ちょうど雲が割れたその辺りだけぼんやりと丸くライトをあてたように海の色が明るんで見える。漁船が何艘か出ているのだろう。舟影は見えないのに白く引かれた水脈が幾筋か平行に延びているのが見える。晴れた海もいいが、曇りの日の海もいいものだ。
「今日もいい日曜日だったね。」
カプチーノの泡を匙ですくいながら妻が言った。
「ほんとに、その通りだ。」エスプレッソの残り香を楽しみながら、そう思った。
店を出ると雨粒が当たりはじめた。車の方に歩き出して、おやと思った。マフラーの辺りがやけに目立つ。妙にアグレッシブな感じがするのだ。
「おい。マフラーあんなだったか。」と、妻の方に振り返ったときだった。緑色のコペンがその向こうにもう一台見えた。後ろ姿がおとなしい、あれが妻の車だ。さっきの車に近づいてみた。リアトランクの上にキャリアーが付き、車の下部にはプロテクター、マフラーの周りにもアルミガードと、すっかりドレスアップされた車には、ボンネットの上に大きな鷲のステッカーまであった。どうやら持ち主は男性らしい。妻は周りを見回している。持ち主がいたら話がしたそうな顔つきだが、雨が当たり出した。待っていても現れそうにないので車を出した。帰りは閉めたままである。少し走ると雲の割れ間から夕焼け空が見えた。明日も晴れらしい。
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