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From Russia with lag

ネヴァ川にかかる橋の上から

 St.PETERSBURG 3

午後は、市内にある名所古蹟巡礼。まずは、大ネヴァ川に架かる宮殿橋を訪れた。橋の上に立つと北にはペテルブルグの礎を築いたペトロパヴロフスク要塞、東にはエルミタージュ美術館、西にはヴァシリエフスキー島、南は旧海軍省と360度のパノラマが一望できる。なにしろ川幅が広い。船上にいてこれから接岸する港の光景を眺めているような錯覚に陥るほどだ。

 ロストラの燈台柱

ロストラの燈台柱御影石材の欄干が、湾曲しながら島の岬の方まで伸びている。目を遣ると、岬の突端に奇妙な柱が立っていることに気づいた。朱塗りの柱からにょきりと両腕のように船首が突き出している。互い違いに上から四段、計八個の船首をつけているのが「ロストラの燈台柱」である。「ロストラ」とは船首の部分を意味する。勝利の記念として、敵軍の船首を切り取った古代ローマの風習をもとに1810年に商品取引所とともに建てられたものだ。ヨーロッパ風の建築を見なれた後ではいかにも異様に目に映る。岡本太郎なら喜ぶかもしれない。

 

旧取引所広場の熊その旧取引所広場には、お上りさん目当ての土産物屋台や飲み物を売る屋台が店を出していた。人だかりがするので、行ってみると、口輪をはめられた熊がいて、観光客と並んで写真を撮らせていた。まだ、小熊なのだろう。おとなしく飼い主の言うことを聞いている。動物虐待だからすぐやめろというのが「公式見解」。一緒に写真を撮ってみたいと思うのが好奇心。旅の恥はかき捨てというが、さっき人形と撮ったばかりの妻は今度は熊と一緒に撮ると言って聞かない。1ドル払って、カメラを向ける。馴れたもので、熊は妻に寄りかかられてもじっとしている。大胆になった妻は毛並みを触って「柔らかいよ」と言っている。上機嫌である。

 ペトロパヴロフスク要塞

ペトロパヴロフスク要塞そのまま岬の突端をぐるりと周り、ビルジェボイ橋を渡るとペトロパヴロフスク要塞はもう目の前だ。函館の五稜郭はここをモデルにして造られたと聞いたことがある。しかしここはペンタゴンならぬヘキサゴン。1703年ピヨトール大帝がスウェーデン軍の進軍を食い止めるために急ぎ造らせた要塞である。5月16日に造り始め、秋には大砲の設置が終わったというから突貫工事そのもの。冬には雪が降るという別の理由があったのかもしれない。要塞の中には聖ペトロ、聖パウロに因んだペトロパヴロフスク聖堂が1733年に完成。その名をとってペトロパヴロフスク要塞と呼ばれるようになった。高さ121.8メートルの尖塔はサンクトペテルブルクで最も高い。ネヴァ川の岸辺に立つと、太陽の光を一身に浴びて荘厳に輝くのが何処からも見える。

 巡洋艦オーロラ

巡洋艦オーロラネヴァ川の中洲に浮いているような要塞を、右手に見遣りながら、クロンヴェルク河岸通りを抜け、ペトロフスカヤ河岸通りに入ると、ネヴァ川が大ネフカ川と分かれるあたりに古色蒼然とした軍艦が繋留されている。巡洋艦オーロラ。ロシア革命(1917年10月革命)に際し、革命の始まりを告げる砲声を轟かせたのが、このオーロラであった。現在は海軍中央博物館分館として見学が許されている。日露戦争にも出撃しており、日本軍の砲撃で舷側に大穴が空いた時の絵が展示されている。

 血の上の聖堂

スパス・ナ・クラヴィー聖堂ネヴァ川に架かるリティヌイ橋を南に下り、市街地に戻る。サンクト・ペテルブルグの夏の天気は移り気で、晴れていたかと思うとにわかにかき曇り、小雨がぱらつく。やれやれあがったかと安心していると、突然驟雨がやってくる。どれだけ晴れていても傘を手放すことができない。トロイツキー橋から伸びている道をマルス広場を左に見ながら進むと、王冠のようでもあるし、葱坊主のようにも見えるロシア独特のフォルムを持った賑やかな塔が見えてくる。

スパス・ナ・クラヴィー聖堂。皇帝アレクサンドル二世が暗殺されたその場所の上に建設されたことから、別名「血の上の聖堂」と呼ばれている。ロシア正教は、ギリシャ正教から分かれたキリスト教の一派で、独特の建築様式を持つ。中央に一本高い玉葱状の黄金のクーポルを戴き、それを取り囲むように数本のクーポルが立つ聖堂はロシアに数多くある。しかし、葱坊主のように粒状の突起が全面を被ったり、或いは色布で巻かれたターバンのような螺旋形状を持つ、高さも色も形もちがうクーポルが、好き勝手に寄り集まったような聖堂は、モスクワのワシリー聖堂とこの聖堂にとどめを刺すだろう。アーチを多用した窓や壁面も装飾過多と感じられるほど多彩である。

 イサク聖堂

イサク聖堂サンクト・ペテルブルグの中心街はエルミタージュ美術館のある左岸。中でも、旧海軍省を扇の要として、三本の大通りが放射状に伸びている。東からネフスキー大通り、コロホーヴァヤ大通り、そしてこのイサク聖堂の前を通るヴァズネセンスキー大通りだ。同心円状に広がる運河や街路が、三本の大通りと交差して、蜘蛛の巣状の模様を描くようにしながら、街はしだいに大きく広がっていったようだ。

繁華な中心街とはいいながら、要所要所にはランドマークとなる聖堂や宮殿、記念像が建設され、その周辺は、人々が憩えるような樹木を配した公園や広場が隣接して設けられている。どちらかといえば、建築物が壁のように周囲を取り囲む「入り隅の空間」で構成されたイタリア諸都市の広場の方が落ち着けるが、広大なロシアには、開放的な広場がよく似合っている。

イサク聖堂は世界で三番目に大きいと言われ、高さは101.5メート。30階建てのビルに相当するという。ヴェネティアが木の杭を何本も打ちこまれたその上に築かれた街だということを聞いていたが、湿地帯の上に築かれたこの街でもそれは同じ。ましてこれだけ大きい聖堂である。基礎となる花崗岩の板の下には6メートルの杭が二万五千本も打ちこまれているという。

 青銅の騎士

青銅の騎士像プーシキンがサンクト・ペテルブルグの洪水を歌った詩の中で、この像のことを「青銅の騎士」と呼んだことに因んでそう呼ばれているが、ピヨトール大帝の騎馬像である。ドイツから嫁いだエカテリーナ二世が、ロシア内における権力基盤の弱さを補うために、ピヨトール大帝の後継者であることを誇示するために建設を命じたというのが実情。馬が後脚で踏みつけているのは、自分を追い落とそうとする宮廷内の敵なのか、またスウエーデンのような外敵なのか。その真意はともかく、今では、結婚したカップルが報告に来る場所として、この日も賑わっていた。

1825年12月、ナポレオン戦争に勝利し、フランスに進駐した青年貴族達はフランスの自由主義に影響を受けて専制政治と農奴制に反対し、この場所で革命を呼びかけた。しかし、反乱は失敗し、ある者は死刑に、またある者はシベリアに流刑となった。貴族の妻達は、流刑者となった夫の後を追い酷寒のシベリアに向けて旅立った。「デカブリストの妻」は、妻が読んでいて、我が家の書棚にもあった。華やかなドレスに身を包んだ花嫁は、遠い昔、自分と何ほども変わらぬ歳の妻たちにそんな過酷な運命が待ち受けていたことを知っているのだろうか。


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