神都画人「伊勢の円山四条派・後編」によせて
郷土史家 田中里史
展示概要
「伊勢の円山四条派・前編」では磯部百鱗の時代までの円山四条派の画家を紹介しました。前編で紹介した主に江戸時代までの絵画は、ほとんどが師や同派の絵をそのまま真似る、いわゆる粉本主義的なものでした。よって、円山四条派の絵画は落款(名前)部分を隠してしまうと誰が描いたかわからないような無個性な絵も多くあります。それに対し、明治以降の作家たちは、円山四条派から出発しながら、各々が個性を発揮し、様々な絵を描きました。後編はそのような、百鱗以後の伊勢円山四条派系統の画家たちによる、明治の新時代の絵画を紹介します。
明治以後の四条派
伊勢の文化の発展・繁栄は御師(おんし)たちによって支えられており、伊勢円山四条派も同様でした。しかし明治維新後の御師制度の廃止によりその経済的基盤がくずれたことで、グループとしての伊勢円山四条派はほぼ消失しました。よって、明治以後はグループを作らず、伊勢外に居住し、師の絵をそのまま真似ることなく、各々が一個の個性をもった画家として活動していくことになります。そして、その新時代の境目に位置する画家が磯部百鱗でした。
~明治20年代
磯部百鱗は江戸時代に生まれ、主に明治に活躍した画家です。新時代の絵画が現れるのはこの百鱗からです。百鱗は天保7年(1836)に生まれ、明治以前に、地元で林棕林に学んだあと、京都に出て四条派の師に就きました。そして絵とは別に故実を学びました。当時、四条派の画家が故実を学ぶことは少なかったようで、呉川はそのことを『百鱗翁遺墨』の中で「この点が翁の卓越した点である。」「四条派を学びつヽ故実を研究された翁は必ずや何物かを期する処があったのであろう。」と言っています。江戸時代にも西洋の文化は流入して来ています。後に百鱗は歴史画家としても活躍しますが、呉川が言うように、すでに明治以前に絵画の新時代を感じ取っていたのかもしれません。
百鱗は明治維新前後に京都から帰ってきたようですが、明治初年は伝統的なものが排斥された時代でした。この時期には後の時代の大家たちも大変苦労したようです。よって、この頃の百鱗は神宮に奉職して神官として生計を立てていました。息子の磯部百三は「父が神官から勇退して、もっぱら画筆に親しむやうになったのは、四十代のやうに思ひます。」と書いています。明治6年(1873)のウィーン万国博覧会で日本の美術工芸品が予想以上の好評を受けたことをきっかけに、しだいに伝統画が見直されるようになっていきます。そこで、時期は恐らく明治10年頃、百鱗は神官を辞め再び画家として出発します。そして明治15年、*フェノロサの日本美術の優秀性と、保護・開発の必要性を説いた日本美術擁護の演説が大きなきっかけとなり、新しい日本画が発展していくこととなります。日本画の展覧会も開かれ、百鱗はそれらにしばしば受賞し、名声をあげました。
百鱗の活躍した明治15年から明治20年代は幕末以来の伝統画派が最後の花を咲かせた時とされています。この時期の日本画の新時代的な変化は、フェノロサによって提唱された図案の工夫でした。江戸時代は同じような絵ばかりが描かれましたが、これ以後は各個人が工夫して色々な題材、構図で絵を描くようになります。百鱗もかつては見られなかった図案の歴史画、花鳥画、風景画を描いています。ただし、技術的にはまだ従来の四条派を大きく外れないものでした。百鱗の弟子である中村左洲も、基本的には百鱗と同様でした。
明治30年代
明治30年代は新しい日本画が芽を吹き、模索と実験が試みられた時期でした。この時代の影響を受けているのが中村左洲、そして特に川口呉川がそうでした。左洲、呉川は若い頃に身につけた四条派的な技術を根底として、色々な絵に挑戦しました。
中村左洲は早熟の天才型の画家で、数えで24歳の時に展覧会で賞を受け、その後たびたび入賞します。しかし結婚して子供が生まれると出展はやめ、注文画を描き、弟子を取って職業画家に専念しました。左洲の代表作である「群らがれる鯛」が大正六年の文展(文部省美術展覧会)に入選しますが、これはすすめられての出品であって、実際の展覧会での活動は明治末まででした。前記したように左洲の通常の作品は百鱗に近く、図案を工夫した四条派の絵ですが、時々、実験的な風変りな絵があります。今回はそれらを選んで展示しました。他にも洋画風のリアルな人物画などもあり、探せばまだ異色な作品が出てくるかもしれません。
川口呉川は早くから百鱗に絵を学んでいましたが、活躍はかなり遅がけで、大正四年の文展入選からでした。その後も精力的に活動し昭和はじめ頃まで文展と、その後身である帝展(帝国美術院展覧会)でたびたび入選しました。令和元年南勢愛好会出版の『川口呉川作品集』を見ると、非常にバラエティに富んだ様々なタイプの絵を描いていることがわかります。
明治末~大正時代
左洲が活躍した明治期では、展覧会は京都と東京で分かれていました。明治40年から官展である文展が開催されると、全国の画家が文展を中心に活動するようになります。この文展以後に活躍したのが川口呉川、伊藤小坡であり、その後の帝展以後に活躍したのが宇田荻邨です。明治末から大正期は、文化的に西欧の影響を強く受けた時代でした。その傾向は小坡、荻邨に見られます。また呉川も洋画的な絵が存在し、特に色使いにその特徴が出ています。
伊藤小坡は絵を描き始めたのが遅く、地元で百鱗に習った後に京都に出て、森川曽文、谷口香嶠(こうきょう)に学びました。それ以前も展覧会へ出品していましたが、有名になったのは大正4年(1915)の文展で『制作の前』が三等に入賞してからでした。『制作の前』は画室で資料に向かう女性画家の絵で、それは恐らく小坡であり、それ以後大正末まで、小坡自身や一般女性を画題にした絵を出展して好評を博しました。この頃は文学でも美術でも女性が活躍し始め、美人画がよく描かれました。明治44年にアジア諸国の女性解放運動にも影響を与えた「人形の家」が日本で上演されるなど、それらはやはり西欧の影響であると思われます。この時期の小坡の絵自体も、輪郭線の少ない洋画風のタッチで描かれています。
宇田荻邨は左洲、小坡、呉川より一世代後の人です。地元で左洲に学び大正2年(1913)に京都へ出て菊池芳文に就きました。芳文の勧めで京都市立絵画専門学校に入学、芳文が亡くなると その後を継いだ菊池契月に学びました。展覧会での初入選は大正8年(1919)の第一回帝展でした。この時期は土田麦僊などの知恩院派と交流し、その影響を強く受けています。知恩院派とは西洋美術と東洋美術を融合し、新しい日本画の創造を目指した若手画家達のことで、保守的な文展に対抗して国画創作協会をおこしました。この時期の荻邨作品は、暗く重たい色調が特徴です。
大正末~昭和以後
大正末から昭和初期にかけては、大正期の反動からか、伝統文化の影響をうけた日本画が描かれました。昭和10年代の思想言論統制と戦後復興の時代を経て、現代へとつながっていきます。
伊藤小坡もこの昭和初期は源氏物語を題材にし、源氏物語絵巻のような絵を描くなどしています。また、昭和6年には吉川観方の故実研究会に入ります。その後は作品の制作年代不明などあり、はっきりと区分できませんが、注文画としての美人画の完成度が一番高かった時期かと思われます。戦後は年齢的なこともあり、招待出品などを除き、日展などには出品していません。
宇田荻邨は大正末期ごろから知恩院派の影響を脱却します。そして伝統的な大和絵や琳派の研究へと向かいます。絵は明るく爽やかな色調となり、帝展で連続で特選を受賞、日本画家のスター的存在となりました。戦後は、古都京都の現在の風物や洛外の四季の風景などを多く描いたため「京洛の画家」と言われました。
嶋谷自然は、それ以後の現代画家です。最初に地元で左洲に学び、縁あって東京へ出て矢沢弦月に就きました。その後京都に移った頃から帝展を目指します。昭和4年(1929)に帝展に初入選。名古屋に移り、戦後、官展が日展に引き継がれた後、6回・7回で連続して特選をとり大家に。中部日本画会をつくるなど中部画壇に非常な貢献をしました。絵は一生風景画を描き続けました。最初に左洲にならいましたが、自然の絵にはもう四条派の面影は見られません。
以上、簡単に当時の時代的背景を考えて区分してみました。当時の美術・文化の知識に乏しく、かなり大雑把かつ強引に時代分けをしたため、おかしいところもあるかもしれません。また、その逸品を直接目にしていない画家もおり、不完全な内容となっているかもしれません。その点、ご了承いただければと思います。
自然 富士秋景図(部分)
その他
江戸時代、円山応挙が活躍した時期は絵画の変革期でした。狩野派の粉本主義が批判され、曽我蕭白、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村、そして月僊など個性的な画家が多数現れた時代です。その中でも応挙は特に写実を重視しました。京都画壇ではその円山四条派が浸透していたため、東京よりスムーズに洋風写実との調和がすすみました。絵の教育者として名高かった円山四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)は磯部百鱗と同時代の人であり、知り合いでした。楳嶺は優れた弟子を多数育て、中でも高弟だった菊池芳文、谷口香嶠、竹内栖鳳、都路華香(つじかこう)は楳嶺四天王と呼ばれています。小坡は同じく楳嶺の弟子である森川曽文に学んだあと、谷口香嶠を師としました。荻邨は京都では最初菊池芳文に就き、死後は跡継ぎの菊池契月に学びました。呉川、小坡はのちに竹内栖鳳に学んでいます。このように、伊勢の円山四条派系の画家は京都の同派系統の画家達とつながっていました。また、師につく以外にも画学校に入学するという新たなる選択肢ができました。呉川、荻邨は明治42年(1909)に創立された京都市立絵画専門学校で学びました。そして、その教授も上記した竹内栖鳳、菊池契月、菊池芳文らでした。明治以後、伊勢の多くの画家達が全国で活躍できたのは、このように江戸時代に先進的だった円山四条派という画派が伊勢に根付いていた、ということも大きな理由でした。
今回は伊勢円山四条派から出た新時代の絵画ということで、そのテーマに沿った作品を選びました。しかし他にも伊勢円山四条派系統の画家は多数存在します。地元にいて伝統よりの四条派の絵を描いた画家には横地玉華、吉田百僊、西田章山、小西左文、小西柳子、中井左琴、中村百松、北勢で活躍した水谷百碩。百鱗から受け継いで歴史画を描いた橋本鳴泉、山本鳴波等。他にも現在ではほとんど名前の知られていない画家が多数存在します。
*アーネスト・フエノロサ:明治11年(1878)に来日し、東京大学で哲学などを教えた。美術が専門ではなかったが日本の美術への関心をもち、明治15年に龍地会(明治12年に古器旧物の保存と伝統の復興をめざして結成された組織)で講演を行った。同年、その講演が「美術新設」として出版され、大きな反響を呼び、以降の日本絵画の方向性を決定づけた。
呉川 静日隠波図(部分)
まとめ
〇江戸時代は師の絵をコピーしたような絵が大多数でした。
〇明治初年は廃仏毀釈など、伝統的な文化が否定され、伝統的な絵を描いている時代ではありませんでした。
〇明治6年のウィーン万博で日本の伝統工芸が世界から認められ、徐々に伝統文化を保護する動きが始まりました。
〇明治15年のフェノロサの演説が非常に大きな転機となり、新しい日本画の模索がはじまりました。
〇フェノロサの演説内容に応じて、まず図案の工夫がはじまりました。画家が伝統技術をもって、それぞれが新しい画題、色々な構図で絵を描きました。百鱗、左洲がそういった画家にあたります。
〇明治30年代には新しい日本画を目指して、伝統的技法から脱却しようとし、色々な手法が試されました。呉川がそういった画家にあたります。左洲もそういう絵があります。
〇明治末~大正は渡欧した人々から西欧の文化が多く流入し、西欧絵画の影響を受けた時代。日本画も洋画的なものが多く、小坡、荻邨にそれが見て取れます。呉川にもいくらかそういう傾向があります。
〇昭和初期はその反動で、伝統文化を取り入れた絵が描かれます。小坡、荻邨にそういう傾向があります。
〇昭和10年代~戦後しばらくは文化的暗黒期。
〇戦後は日展がはじまり、そこで活躍したのが嶋谷自然。四条派から現代画へつながります。
〇明治以後の伊勢円山四条派の系統は、従来の四条派からはじまり、徐々にその影響が無くなっていきます。百鱗、左洲は技術的には四条派といえます。呉川は四条派と新日本画がまだ完全には調和せず、試行錯誤の時代。小坡は四条派と新しい日本画がうまく調和しています。荻邨の絵は四条派の影響は薄くなっています。自然はもう四条派的な部分は見ることができません。
百鱗 虎図(部分)
総括
〇伊勢の円山四条派は地域の環境、そして現地の人々の努力と熱意によって郷土に根付き、他の画派には見られない規模で発展してきました。特に画人としては磯部百鱗や中村左洲、伊藤小坡などが有名です。また、画風は、磯部百鱗を境にして伝統を重んじて発展させてきた時代とそこから離れた多種多様な絵を描くようになる新時代の絵画に二分されます。
〇伊勢においては、円山応挙から連なる磯部百鱗までの画家は、円山四条派の画風をそのまま守って発展してきました。京都へ修業に行った人でも就くのは円山四条派の先生だったので、同様でした。しかし明治以降の日本文化・文明は、全てにおいて、新時代にふさわしいものが模索され、新たなる形が作られてきました。それは伊勢の絵画についても同様でした。
〇磯部百鱗の弟子たち以降の絵画では、円山四条派から始まるも、伝統的な絵画を抜け出した、様々な作品を観ることができます。百鱗に習って全国的に活躍した人は、京都などへ遊学し、違う派の先生に習い、四条派と違う新しい時代の絵を描きました。伊勢から出なかった一般に四条派とされる左洲ですらこれまでと違う絵を描いています。
〇伊勢四条派が百鱗までで終わりとするのは、伊勢にあった伊勢円山四条派のグループが消失したからです。百鱗以後も(四条派とは言えないが)絵の系統は続きましたが、伊勢という地縁でつながったグループではありません。これは御師の廃止の影響が大きく、伊勢に住む御師やそれに関する人々が生活基盤を失い絵を習う余裕がなくなったからです。また教養人・文化人のたしなみとして絵画を習う、ということも経済的な理由と新時代の文化によって消えていったのもその理由です。
〇百鱗門から多くの非常に優秀な画家が生まれましたが、ある書物では百鱗の弟子の数は20人ほど、と書かれています(優秀な弟子に乏しい林棕林は200人とも)。これは上記したように教養人・文化人のたしなみとして習う人がいなくなり、本気で絵を学ぶ人だけになったためです。また、それ以前は伊勢の円山四条派という団体が協力して多数の画家が誕生しましたが、百鱗以後(特に百鱗)は師個人の力による処が大きいです。
〇百鱗以前も四条派から出て新時代の絵に進む人は見られました。百鱗自身もそういう部分がありました。呉川の話によれば、四条派で歴史画を描く人は少なかったそうです。百鱗は京都で故実を学び、四条派の伝統ではない歴史画を画き始めました。この影響で百鱗以後の系統に歴史画を描く人が沢山現れました。茁斎、落合月槎、棕林の弟子に久保倉翠濤(くぼくらすいとう)という画家がいました。東京で川上冬崖に洋画を習い、陸軍省図画教授となりましたが、早世しました。
〇百鱗以後も、中央とは関わりない地方画家の中には、従来の四条派、もしくは四条派から派生したとわかるような絵を描く人はいました。
左洲 菖蒲図(部分)