ごあいさつ
神宮が鎮座する伊勢は古来より、各地から訪れる参拝客とともに、様々な情報・文化が流入しました。一方では御師が各地へ赴き、多様な人物と親交を深めました。このような伊勢特有の環境は、当時の画壇にも大きく影響し、狩野派、円山四条派、南画派など多彩な画人を輩出しました。
円山応挙の弟子で御師・岡村家の養子となった岡村鳳水、同じく応挙の門下で古市寂照寺の再興に努めた月僊、内宮の御師家に生まれた磯部百鱗、その弟子で猿田彦神社の宮司の娘・伊藤小坡、「鯛の左洲」として知られる中村左洲などが有名ですが、他の画人たちにスポットが当たる機会は多くありません。系譜によると140人もの画人が互いに切磋琢磨し、絵筆を振るっていたのです。
彼らの隠れた名作を少しでも世に出そうと当館では、「神都画人」をテーマとした企画展を8回(2013~2021)にわたり開いてきました。今回、それらの資料に更なる調査結果を加筆し、後世へ伝えるべく一冊にまとめることが資料館の任務の一つであるとの思いに至り刊行しました。
令和6年3月吉日
伊勢古市参宮街道資料館 館長 世古富保
刊行によせて
神都とは伊勢市の旧名であった宇治山田のことで、畏敬の意味も込められていた。伊勢神宮の門前町であった宇治と山田が中心となり、平安初期から発展を続け、江戸時代には幕府の直轄領となり、山田奉行が置かれていた。「一生に一度はお伊勢さんに」といわれ、全国で人々が最も訪れたい場所で持った。宇治山田は、文化芸術の中心地であり、「神都画人」とは、「宇治山田の画家」のことであった。
神都画人でまず特筆すべき作家として、古くは江戸時代後期に、京都知恩院の住僧となって円山応挙に師事し、伊勢国山田の寂照寺を再興し住職となる一方、この地方を代表する円山四条派の画家として活躍した月僊がいる。
宇治山田では、江戸時代末期になると多くの文人画家たちとの交流が強くなり、特に京都・大阪との繋がりが強くなっている。こうしたことを背景として、地元で林棕林(そうりん)絵の手ほどきを受けた後、京都の長谷川玉峰(ぎょくほう)に四条派の画法を学んだ磯部百鱗(ひゃくりん)が明治初期頃から活躍を始めている。この百鱗こそ神都画人では、最も大きな働きをした画家である。神宮の樹々を描いて、あたかもそこに神が宿るような雰囲気が漂った独自の画風を窺わせている。中村左洲(さしゅう)、伊藤小坡(しょうは)、川口呉川(ごせん)など数多くの画人を育てるなど、百鱗の業績は絶大で、高く評価されるべき画人である。
そして、この百鱗の後継者は川口呉川であった。呉川については郷土を離れて大阪などで活躍したことが影響したのか、近年ではその活躍がほとんど不明であったが、伊勢古市参宮街道資料館での「川口呉川展」の開催とそれに伴う調査研究の成果により、活躍の様子が明らかになっている。
明治に入ってから、美術の世界では大きな試練の時期を迎えていた。伝統の画風を確実にこなすだけでなく、他の作家では成し得ない画境を構築する必要があった。新しい表現を求めて画家は腐心を積み重ねていく。東京では岡倉天心やフェノロサを中心とする日本美術院の作家たちが活躍し、京都では竹内栖鳳が写生を軸とする、誰でもが美しいと感心する清らかな画風を確立して京都の中心作家として飛躍的活動を展開していた。
百鱗に絵の手ほどきを受けた後、京都に出て、百鱗の紹介により森川曽文(そぶん)に師事した後、谷口香嶠(こうきょう)に師事し、徴笑ましい親子の姿を描いた「ふたば」が文展に入選、一躍画壇にデビューして、以降、京都の重要な作家の一人として高く評価されていた伊藤小坡であったが、栖鳳の表現する清爽な作風に魅了され、栖鳳のもとで、すべてを捨てて運筆から学び直すことを決意して励み、1939年、新文展に新しい作風を示す「神詣」を出品している。何とも言えないほど清らかで美しい作品で、以降、上村松園(しょうえん)と並ぶ京都を代表する女性画家として人気と評価を集めている。
また、百鱗に師事し、宇治山田から外に出ることがなかった中村左洲の表現も忘れることはできない。「群れる鯛」が文展に入選し、正面から鯛を描いた表現が好評を博した。四条派独特の技術の高さを示す左洲の運筆はさすがであった。
その他、多くの画家たちが神都画人として活躍しているが、そのほとんどがわかららない状態になっていたが、伊勢古市参宮街道資料館の数多くの企画展を開催して閲覧の機会を提供しつつ、世古富保館長の膨大な調査研究によって、ここにまとめられ、刊行されることとなり、この文献によって、神都画人の活躍を窺うことができるようになっている。本当にご苦労様でした。
令和6年3月吉日
元・三重県立美術館学芸員 森本孝
目 次
ごあいさつ
刊行によせて
第1章 月僊 月僊上人の門流
第2章 (その1)伊勢の円山四条派(前編)岡村鳳水から磯部百鱗まで
(その2)伊勢の円山四条派(後編)磯部百鱗から昭和初期あたりまで
第3章 南画派ほか 狩野派 浮世絵派
第4章 掲載作品一覧ほか 全作品333点掲載
第一回三重の作家たち展の一部出展名簿
あとがき
謝辞
参考・引用文献
第1章「月僊(げっせん)」
第1章では江戸中期から後期にかけて活躍した古市ゆかりの画僧月僊をご紹介します。月僊(1741〜1809)は、尾張国名古屋の味噌商の家に生まれますが、7歳で仏門に入り浄土宗(じょうどしゅう)の僧となります。10代で江戸の増上寺(ぞうじょうじ)にて修行、かたわら雪舟様式の復興を掲げる桜井雪関(せっかん)(1715〜90)に絵を学びました。のち京へ入り、知恩院の大僧正(だいそうじょう・僧の最高の位)から厚い待遇を受け、円山応挙の門に入り写実表現を習得し独自の画風を確立しました。安永3年(1774)、34歳で伊勢山田にある寂照寺(じゃくしょうじ)の住職となった後は、絵を売って蓄えた財を元手に、寺の再興に努め、多くの社会的奉仕事業を行い貧民救済にも尽力しました。
ここでは滑稽味と写実的な生々しさを合わせ持つ人物画や温かみのある山水画を中心にご紹介します。
伝記
月僊は寛保元年(1741)、尾張国名古屋に味噌を商う丹家七左衛門(たんけしちざえもん)の二男として生まれました。7歳で仏門に入り、浄土宗の僧となります。10代で江戸の増上寺(ぞうじょうじ)に入り、二見町出身の定月(じょうげつ)*大僧正(だいそうじょう)から月仙の号を賜りました。生まれつき絵が好きで、仏門修行の傍ら、雪舟の流れを汲む画家桜井雪館(さくらいせっかん)(1715〜1790)に画を学びました。その後、京都に上り浄土宗総本山知恩院にて修行することとなり、円山応挙(まるやまおうきょ)に師事して写実的画風の感化を受けました。また与謝蕪村(よさぶそん)(南画)の影響を受け、両者の画調を融合して個性的な画風を確立しました。安永3年(1774)34歳の時、知恩院の大僧正に懇願され、当時荒れ果てていた伊勢国宇治山田(現・三重県伊勢市)の浄土宗鎮西派(ちんぜいは)知恩院末寺の寂照寺(じゃくしょうじ)の住職となります。寂照寺は古市の歓楽街に近く、そのため*破戒(はかい)僧が続き当時無住となり衰徴(すいび)を極めていたといいます。月僊派遣の目的は寺の再興にあったといわれますが、月僊もそれに応えました。当初は、画料をむさぼるために、世人より「乞食(こじき)月僊」と称されましたが、晩年には画料をもとに、1500両を山田奉行に納め、その利息でながく貧民を救うなど社会事業に尽くしました。これは「月僊金」と呼ばれ、明治時代まで活用されたといわれます。また画料を資として、寂照寺を再興(寺の*伽藍(がらん)、山門、*庫裡(くり)の改修再建など)もおこないました。没年は文化6年(1809)69歳の生涯でした。翌年文化7年(1810)9月12日、寂照寺に*顕彰碑(けんしょうひ)「月仙上人之碑」が建立。題は「寂照寺画僧月仙上人*碑銘(ひめい)」で、弟子の定僊(じょうせん)による文章です。月僊の生涯は、伝記、小説等様々に語られていますが、最も基礎的な資料は、この碑文です。「碑銘」自体は、画人としての月僊ではなく、寂照寺再興と貧民救済に尽くした人として顕彰する目的で建立されたもので、画人としての月僊について言及する記述はほとんど含まれていません。
著作として「列仙図賛」(3巻、天明4年(1784)刊)・「耕織図」・「月僊画譜」などの作品があります。
*大僧正(だいそうじょう)僧の最高の位
*破戒僧(はかいそう)戒律を破った僧。なまぐさ坊主
*伽藍(がらん)寺院または寺院の主要建物群
*庫裡(くり)住職や家族の居間
*顕彰碑(けんしょうひ)個人の著名でない功績や善行などを称えて、広く世間に知らしめるために建てられる石碑などのこと
*碑銘(ひめい)石碑に刻みつけた文章
画風
寂照寺に移った34歳から*示寂(じじゃく)する69歳まで30数年におよぶ後半生を伊勢で送ることになりますが、この間月僊は、人物画、山水画を中心にきわめて多数の画を描きました。そうした画の中には、堂の再建や貧民救済という名目ゆえの多作であったことは差し引いたとしても、ぞんざいで美術的にはいささか評価をためらわせるようなものも少なくなく、それゆえに画人としての評価に深刻な影響を及ぼしていることは否定できません。
しかし、この多作こそが月僊様式の成立と深く関わっているという論評があります。江戸時代後期の文人画家で画論家としても評価の高い*田能村竹田(たのむらちくでん)が江戸画壇で最もすぐれた画家谷文晁(1763〜1840)と比較するかたちで月僊を評しています。その内容は、次の通りです。「たっぷりと惜しげもなく墨を注ぐように描く文晁に対して、まるで墨を惜しむかのように痩筆乾擦で描いた後、淡墨(あわずみ)を用いて草々とした画面を整えるところに月僊画の特徴がある」。竹田の指摘は、現在目にする多くの月僊画、特に山水画の典型的画風を端的に衝いています。また、竹田は月僊の描く人物画をも特筆しています。人物画にこそ月僊の特徴が顕著に表れているのは事実で、「人物簡にして疎朗、迫塞する処無し」(簡明でおおらか、せせこましいところがない)という評言が、いかにも月僊の人物画の様式的特質を鋭く衝いています。山水画にしても人物画にしても、様式成立後の月僊画は、一種素描的な画風を示しているところに大きな特色があります。しかしこのような様式獲得の要因として竹田は「多作に因る」と判断しています。たしかに多作を可能にする簡素で分かりやすい素描であることは疑いない。しかし着目すべきは、この素描的で簡疎な表現に「新裁」つまり真意を盛り込んだもの、という言葉を当てて評しているところにあります。対立軸として置かれた文晁の画風が、古来の伝統的画法を受け継いだのに対して、伝統にこだわらずに新しい表現の創出に取り組んだ結果、同時代の画壇とは大きく異なる独自の画風を創り上げたということです。岡田樗軒(おかだちょけん)は「近世逸人画史」(1824)で、*旧弊(きゅうへい)を脱して独自の様式を打ち立てた月僊は、名声を一気に高め、その画を求めるものが殺到したと記しています。現存する月僊画の多くは、白文方印「寂照主人」に代表されるように寂照寺に関わる印文をもつ印章が頻繁に使用されていることから伊勢地方全般にわたって描かれ続けたと考えられます。竹田の月僊評もこの時代の画によって形成されています。安永3年(1774)34歳で寂照寺に移ってから69歳で示寂する文化6年(1809)まで、月僊は伊勢で暮らしていました。結果としては30数年という、それ以前に比べて圧倒的に長い画歴を伊勢で展開することに成ったわけです。30数年に及ぶ伊勢時代の画は、年紀や印章の状態比較などによってある程度の編年が可能となりますが、画風からみると、その展開の様子は著しく平たんで、決定的な変転はありません。つまり、簡疎な筆墨表現を特徴とする月僊様式は、一旦打ち出されるとその進歩あるいは展開の加速度を急速に落とし、ほぼ固定化された作風が月僊固有の様式として定着したのです。
江戸における桜井雪館、京都における円山応挙や与謝蕪村などとの師承(ししょう)関係は、月僊の様式形成に*輻輳(ふくそう)する様相を与えました。例えば雪館から学んだ古画や中国画への関心、応挙に接して得た写生、蕪村から学んだ南画の手法がそうです。また南ぴん派をはじめとする長崎派の摂取も月僊の作域や表現の振幅を広げることになりました。この様な諸派兼学の姿勢は、江戸時代後期絵画を特徴づけるもので、谷文晁はその象徴的存在です。月僊にも同様の傾向が見られるのは先に述べたとおりです。月僊の画歴の高揚期は、明和・安永のころで、寛政期の文晁にむしろ先んじている点からしますと、江戸時代後期絵画の特徴を文晁よりも早く具現していたことには、先行者として改めて月僊の位置づけを再認識できるという点で注目したいところです。
*田能村竹田(たのむら・ちくでん)から観た月僊の特徴
①浄土宗の僧であった。
②伊勢の国に定住した。
③山水画と人物画に秀でた。
④地方在住であったが、全国に名声と人望が上がった。
⑤「簡而疎朗、無迫塞處」(簡明でおおらか、せせこましいところがない)
という画風を特徴とする。
⑥多作であった。
⑦画料をもとに巨万の富を得て伽藍(がらん)を再興し教典を修復し、さらに貧民救済に充てた。
*示寂(じじゃく):徳の高い僧侶が死ぬこと
*田能村竹田(たのむらちくでん):江戸時代後期の南画家
*旧弊(きゅうへい):考え方などがとても古くさくて現状では問題を含む様
*輻輳(ふくそう):四方から寄り集まること
月僊の落款(らっかん)と雅号(がごう)は月僊の画歴、画風展開の経過を検討するうえで有用な資料となります。「月僊」は、「月仙」、「月僲」、「月韆」とも書きます。落款・印章の使用例から推論しますと、画歴の初期、すなわち江戸在住時代から京都時代を経て伊勢転住後3年間ほど「月仙」を用い、転任後しばらくの間「月僊」を併用しました。「月僊」は「列仙図賛」を刊行した安永9年(1780)過ぎに使用を止め、その少し前から併用し始めた「月僲」を伊勢時代の大部分、様式的には月僊様式のほぼ全てに使用したと現段階では結論づけられています。
第2章 伊勢の円山四条派(前編)
伊勢の地は、古くから神宮の門前町として全国各地から参拝者が訪れ、御土産の工芸やおもてなしの芸能など色々な文化が生まれました。そのため画檀においても狩野派、円山四条派、南画派など多種多様な画人が育ちました。中でも広く受け入れられ後代まで受け継がれたのが四条円山派です。
さて、伊勢の円山四条派の画人としては中村左洲(なかむらさしゅう)、磯部百鱗(いそべひゃくりん)が有名ですが、その系統は円山応挙(まるやまおうきょ)にまでさかのぼることができます。応挙には「応挙十哲」と称される優秀な十人の弟子がいましたが、そのうちの一人、岡村鳳水(おかむらほうすい)という画人が伊勢に定住したことで伊勢の円山四条派がはじまりました。
この章では、円山応挙から磯部百鱗につながる岡村鳳水、上部茁斎(うわべせっさい)、林棕林(はやしそうりん)といった伊勢の画人たちをご紹介します。
円山四条派
江戸後期から京都で有名になった写生的画風の円山応挙を祖とする円山派と、与謝蕪村の文人画(南画)を基礎としている呉春(江戸中期の絵師)を祖とする四条派を合わせた呼び名です。
近世伊勢の画壇
近世においては、京都や江戸のような画壇の中核都市が固有の画派を生み自律的な伸展を示したのに対して、多くの地方都市は中核都市から種々の画派を移植することに努め、その結果、いわば他律的にいくつかの画派が併存するかたちをとることが多くありました。
近世の代表的な画派は、狩野(かのう)派・南画派・円山四条(まるやましじょう)派・長崎派などですが、これら近世画壇を構成する主だった画派は、伊勢においても移植され、多くの画人を育てました。その多様振りは、一地方都市としては他に例をみないほどで、この多様性こそが、近世伊勢の画壇の特徴をなしています。これは、神宮の門前町としての性質が、各地から来訪する多種多様な人々の交流を促したことに起因すると思われます。こうして、多くの画派を生んだ近世伊勢の画壇でしたが、中でも広く受け入れられ後代まで受け継がれたのは、円山四条派でありました。
伊勢の円山四条派の画人たち
円山四条派は、写生的画風の円山応挙を祖とする円山派と、与謝蕪村の文人画(南画)を基礎とした呉春(ごしゅん)を祖とする四条派を併せたものをいいます。長く命脈を保ち、近代日本画の確立に大きな役割を果たしたことで知られています。
伊勢円山四条派の画人としては、岡村鳳水(おかむらほうすい)(1770〜1845)がいます。鳳水は、丹波亀山(現京都府亀岡市)に生まれ、京都に出て円山応挙に学び、応挙の有力な弟子の一人になりました。後に伊勢の岡村又太夫の養子となり、円山派の画風を伊勢に伝えました。門下からは多数の画人を輩出しましたが、上部茁斎(うわべせっさい)(1781〜1862)、榎倉杉斎(えのくらさんさい)(1798〜1867)、荘門為斎(しょうもんいさい)(1778〜1842)、水溜米室(みずためべいしつ)(1817〜1882)が知られています。
特に上部茁斎の門からは、林棕林(はやしそうりん)(1814〜1898)が出ています。棕林は江戸に出て谷文晁や渡辺崋山らと交遊しました。門人に磯部百鱗(いそべひゃくりん)(1836〜1906)がおり、百鱗の門からは、近代京都画檀を代表する女流画家伊藤小坡(いとうしょうは)(1877〜1968)、田南岳璋(たなみがくしょう)(1876〜1928)、中村左洲(なかむらさしゅう)(1873〜1953)らを輩出し、左洲の門からは、後に近代京都画檀の重鎮となる宇田荻邨(うだてきそん)(1896〜1980)をはじめとして、嶋谷自然(しまやしぜん)(1904〜1993)、鈴木三朝(すずきさんちょう)(1899〜1997)などが出ており、その系譜は現代に続いています。
円山応挙の画風は、岡村鳳水の他にも、月僊(げっせん)(1741〜1809)によってより広範に伝えられています。
参考文献 伊勢市史 第3巻「近世編」
(伊勢円山四条派の祖である岡村鳳水から磯部百鱗の時代まで)
伊勢は各地から人々が参宮にやってくるため、非常に多様な情報・文化が流れ込んできました。逆に御師として伊勢から各地へ派遣された人々は、色々な人物とコネクションを持つことが出来ました。岡村鳳水が伊勢にやってきたのも参宮を一つの目的としてでしょう。
林棕林は御師として大老井伊直亮(いいなおあき)と交流しました。他にも上部茁斎と関白であった鷹司(たかつかさ)殿下の遭遇など、通常で考えにくい繋がりの多くはおそらく師職関係によるものだと思われます。
しかし技術というものは、情報や交流だけでは得られるものではありません。技術を持った人に直接・継続的に学ぶ必要があります。伊勢の人々は、たまたまやって来た円山応挙の弟子岡村鳳水から絵を学ぶことを望み、強いて逗留させ、結局は面倒な手続きを踏んでまで養子にし、伊勢に定住させてしまいました。そしてその後も多くの人が一つのグループになってその画派を学び受け継いでいきました。
このように伊勢の環境、そして現地の人々の努力と熱意によって円山四条派は伊勢に根付き、他の画派には見られない規模で発展して行きました。
岡村鳳水は円山応挙の直弟子ですが、上部茁斎の弟子の時期には、画家数人が上京し、その内の一人水溜米室は四条派画家の横山清暉(よこやませいき:寛政4年〜元治元年江戸時代末期に活躍した四条派の絵師)に絵を学んでいます。ある書には林棕林も清暉門だとしており、また磯部百鱗も四条派の画家の長谷川玉峰(はせがわぎょくほう:文政5年〜明治12年花鳥画を得意とした四条派の画家)に学んでいます。
このように伝統的には円山派といえますが、四条派の影響もかなり受けています。
よって伊勢の系統全体を表記する時には両派含めて「伊勢円山四条派」となるわけです。
この章の「伊勢の円山四条派(前篇)」は、伊勢円山四条派の祖である岡村鳳水から始まり磯部百鱗までの世代の画家で、江戸時代から続く保守的、伝統的な円山四条派の画風を守って発展させてきました。
三重県明和町在住 郷土史研究家 田中里史 2019・8
まとめ
伊勢の円山四条派を時代で二分した理由として、田中里史氏は次のように語っています。
「伝統的で円山四条派の画風を強く感じるのが磯部百鱗の世代辺りまでだからです。百鱗の時代にもその範疇に入らない絵を描く画家も出てきています。そして、その弟子以降はそれぞれが伊勢円山四条派から出発しながらも、保守的、伝統的なものから離れて多種多様な絵を描くようになり、新時代の絵画が生れてきます。
円山四条派
江戸時代の画壇
江戸時代の絵画史において、その前期の中心的存在であった狩野(かのう)派に対して、後期にその役を担った画派が円山四条派でした。この画派の祖である円山応挙(まるやまおうきょ)が目指した様式は、モチーフの均整のとれた写生的表現と、そのモチーフを包含する空間の余情的構成の融合でした。
江戸前期に狩野派や土佐派は伝統的、形式化に陥り創造性を枯渇されていたのに対して、京都を中心に多くの進取の気性に富む画家が真の絵画の在り方を模索していました。画家円山応挙のもとには、数多くの弟子が集まり、円山派として一派をなしました。応挙の息子の応瑞(おうずい)や僧月僊など応門十哲がその代表的画家でありました。
そのほかに注目すべき画家として松村月渓(げっけい)=呉春(ごしゅん)がいます。
呉春は始め文人画の与謝蕪村の高弟でしたが、師の没後、応挙に入門し、文人画の叙情的感覚と円山派の精緻(せいち)なフォルム描写を融合させ、*瀟洒(しょうしゃ)で軽妙な作品を数多く制作しています。呉春は京都四条に画室を構え、多くの弟子が出入りするようになり、四条派という新たな画派を形成しました。
このように円山応挙の門人が増加し京都の町屋の*風尚(ふうしょう)と趣向にあった様式が定着・普及するようになりました。
円山四条派は、絵画的性格を微妙に変化させつつ受け継がれ、近代日本画の展開の基礎となり、現代に至るまで受け継がれています。
*軽妙(けいみよう):軽快で妙味があること。
*瀟洒(しょうしゃ):俗を離れてあっさりしているさま。
*風尚(ふうしょう):その時代の人々の好み。
伊勢の画壇
伊勢においても京都、江戸に次ぐ地方都市としては他に例をみないほど多くの画人を育てました。江戸中期から昭和始めまでに文献に掲載されているだけでも173人が確認できます。
神都画人 江戸中期〜昭和初期の間で173人の画人が出ています。
・円山四条派・・・・・107人
・月僊上人の門流・・・ 15人
・浮世絵派・・・・・・ 8人
・南画派 ・・・・・・ 31人
・狩野派 ・・・・・・ 12人
特徴
この様に社寺関係者や参拝客を相手にする商工業者を中心として発展してきた伊勢は、京、江戸に次ぐ多くの画人を育てました。
また同時に画派の多様性(狩野派・円山四条派・南画派・浮世絵派など)が特徴でありましょう。これは神宮の門前町としての性質が、各地から来訪する多種多様な人々の交流を促したことにあると思います。
近代の伊勢画壇は多種多様性に富んでいましたが、その中でも広く受け入れられ後代まで受け継がれたのは円山四条派であります。
岡村鳳水(ほうすい)(1770〜1845)は丹波に生まれ京都にでて応挙に学び、後に伊勢の岡村又大夫の養子になり、円山派の画風を伊勢に伝えたのが始まりでその系譜は現代に続いています。
現代において
・宇田荻邨(うだ てきそん)(1896~1980)
・嶋谷自然(しやましぜん)(1904~1993)
・鈴木三朝(さんちょう)(1899~1997)
などの画家がいます。
伊勢の円山四条派(前編)の画家たち
大国士豊
岡村鳳水
荘門為斎
上部茁斎
向井紫鳳
榎倉杉斎
水溜米室
林 棕林
端館紫川
黒瀬松琴
落合月槎
広田正陽
鈴木柳亭
楠田彩雲
磯部百鱗
内人重茂
大国士豊(おおくにしほう)
宇治生まれ。名を盛水。通称丹波。雅号を士豊といいました。幼少にして父を失うが、14歳の時京都に出て御所画所土佐家に入学。一機軸をあみ、名声周囲に聞こえ入門する者が多数いました。その後、敦賀・遠江・伊豆に遊学し、韮山代官江川太郎左衛門の弟子になりました。当時は鷹を私有することは禁じられていたが駿河の府中に限り許されていたので、士豊は同所に泊まって日夕鷹を写生し、真に迫った作品であることより人々は鷹画と称しました。
士豊 伊勢市蔵
岡村鳳水(おかむらほうすい)
1770〜1845 江戸後期の画家 伊勢円山四条派は、円山応挙の弟子である岡村鳳水から始まっています。岡村鳳水は現在の京都府嵐山の西方、亀岡市本町の出身で、明和7年(1770)3月6日に岩佐忠兵衛の子として生まれました。絵を描くことを好み、京都へ出て同じ亀岡市出身の円山応挙(1733〜1795)に学びました。それより以前、伊勢一之木の人、笠井末清(1761〜1827)は京都に出て円山応挙に学んでおり、同門の岡村鳳水と友人でした。笠井末清が帰郷したのでその翌年の享和2年(1802)、33歳の時に鳳水は末清を訪ねて伊勢にやってきました。その時、上部茁斎らが鳳水から絵を学ぶため、外宮前の野間屋という旅館に滞在させました。また、その後も鳳水に絵を学ぶものが沢山でました。そこで、上部茁斎ほか鳳水から絵を学びたいという伊勢の人々が、鳳水を伊勢に定住させようとしました。
岩佐家は御師(おんし)御巫(みかなぎ)の檀家であったので、まずその御巫家の養子となり、後に同じく御師である岡村家の養子となってその家を継ぎました。このあたりの事情はわかりませんが、家格の箔をつけるために一度御巫家へ養子に入ったのでしょう。以降は門人も益々多くなり、伊勢に円山流の画風が大いに広まりました。鳳水は弘化2年(1845)5月4日、76歳で亡くなりました。
岡村鳳水は伊勢円山四条派の祖です。円山応挙のすぐれた弟子十人を応挙十哲といいます。伊勢では鳳水は応挙十哲の一人に数えられていますが、若くして伊勢に定住したため、伊勢の外では十哲の内に入ることはありません。しかし、伊勢の多数の人が引き留めて絵を学ぼうとするほど、画家としての実力が高かったことには間違いありません。現存する鳳水の作品は、痛みがひどく状態の悪いものが少なくありません。これは珍重され、頻繁に鑑賞されたための結果だと想像されます。
荘門為斎(しょうもんいさい)
1778〜1842岡本町に生まれ浦口に住みました。松本光信二男ですが、莊門家の養子になりました。円山派。岡村鳳水について画を学ぶこと多年、ついに一家を成します。門下も多くあったが名声を欲せず真摯な画人として一生を送りました。
上部茁斎(うわべせっさい)
1781〜1862 江戸後期の画家。円山四条派を伊勢に広め、定着させるのに大きな貢献をしたのが、岡村鳳水の弟子、上部茁斎です。茁斎は天明元年(1781)に常磐に生まれ、大世古の外宮権禰宜の上部家の養子となりました。幼少期より絵を好み、兄に狩野派の絵を習ったといいます。寛政年間に家を継ぎ、従五位下権禰宜となりました。享和2年(1802)に伊勢へ岡村鳳水がやってくると、その門に入って絵を学びました。
時期はわかりませんが、尾張に行った時に宋代の画家である陳居中(ちんきょちゅう)の絵を模写してから技術が向上し、画名が高くなったといいます。またある時、二見浦の風景を描き、それを鷹司(たかつかさ)殿下(恐らく22代政煕か23代政通)に献上したところ殿下は関白(天皇を補佐する役職)であったため、ついには天皇の叡覧(えいらん)に供するところとなりました。そしてその絵が宮中に止め置かれることとなり、更に亀・鶴二幅を上部茁斎に描かせました。この栄光に浴して以来、上部茁斎は絵に天覧の印を捺しました。文久2年(1862)11月17日に82歳でなくなりました。
上部茁斎は、岡村鳳水が伊勢にやって来た時に鳳水を旅館に止めて絵を習い定住するきっかけをつくりました。そしてその後の鳳水の門人たちの中心人物となりました。また、茁斎には百数十人の弟子がいたといいます。その弟子の内何人かは京都へ絵を学ぶために遊学しています。これは、鷹司殿下など京都に繋がりがあった茁斎の貢献も大きかったのではないでしょうか。円山四条派はこの上部茁斎の弟子たちの時代に、伊勢に深く根を下ろしたといえるでしょう。
榎倉杉斎(えのくらさんさい)
1798〜1867 上中之郷(現浦田町)生まれ。武繁の二男。内宮権禰宜 正4位上に至りました。岡村鳳水を師として絵画を学び、花鳥人物を描き写生で名が知られました。
場所はわかりませんが、社のある浜と帰帆(きはん:港に帰る舟)が描かれています。桜がありますので春景となります。署名は位階に本姓の荒木田、名の武賛(たけおき)が使用されています。岡村鳳水の直弟子の中では作品が残っている画家です。
水溜米室(みずためべいしつ)
1817〜1882 飯南郡早馬瀬の山路家に生まれ、山田浦口町水溜吉太夫の養子となりました。小壮(しょうそう:若くて意気盛んなこと)で絵を好み下中之郷町に住む円山応挙の門下、岡村鳳水について絵を学びます。後、京都に出て鳳遷を師とし、又四条派横山清暉の門に転じ研究を続け画学に励んだ結果画風は大いに高まりました。「三年不出、一年不浴」の語はこの間の彼の努力を形容してあますところがありません。彼の画風は、松村呉春の系譜をふむ「四条派」で写実を基本とし、身辺の素材を描く山水、花鳥画が主で、高い写実力と繊細な画風を特徴とします。米室は絵画のほか文才も豊かで、晩年には中瀬米牛について俳諧を嗜み、冠句にも長じました。
水溜米室は技術が高く、淡い色彩を好みスッキリと垢抜けした作品を描いています。作品は、風に吹かれる紅葉と小鳥を描いたものです。小鳥はシジュウカラであると思われます。
農民が青葉の茂った木立ちの陰で、農耕馬を洗っているところを描いた農村風景だと思われます。「柳蔭洗馬」「清渓洗馬」など洗馬図自体は中国絵画より伝わり、もっと古くから存在した画題です。農耕馬や農耕牛は時々画題として描かれますが、江戸時代には主に西日本が牛、東日本が馬を使って農耕を行ったそうです
林棕林(はやしそうりん)
1814〜1898江戸後期〜明治の画家。上部茁斎の立場を受け継ぎ、磯部百鱗に伊勢円山四条派を教えたのが茁斎の弟子林棕林です。
棕林は文化11年(1814)に生まれ、その後神職である林氏の養子となりました。13歳の時から茁斎の門に入り、以来10年技術の向上に励み、山水風景から鳥獣虫魚まで写生してその量は30数巻に及んだといいます。20歳前半で愛知〜静岡に遊び、江戸で彦根藩主井伊直亮(いいなおあき)が大老となった時、御師として御祝に参上すると厚遇され、7か月間江戸の彦根藩邸に滞在しました。この間、谷文晁、渡辺崋山ほか多数の大家と交流し、大いに得るところがあったといいます。その後も和歌山、大阪、岐阜の各方面に遊び、江馬細江など現地の文化人と交流しした。各地の神社などに蔵されていた南宗画を観て影響を受け、安政年間40数歳の頃に南画方向へ画風が一変します。
元治年間、50数歳の頃、津城で藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)に謁見(えっけん:目上の人に会うこと)し、齋藤拙堂(さいとうせつどう)らと共に数枚を揮毫(きごう:毛筆で文字や絵をかくこと)しました。明治15年、69歳の時に東京絵画共進会に出品し褒状を受けました。明治26年、80歳の時に有栖川宮(ありすがわのみや)殿下に作品を献上し、端渓(たんけい:中国広東省の硯の産地)の大硯(すずり)をいただきました。後、その大硯にちなんで伊藤博文から「實硯堂」の三大字の揮亳を受けたといいます。明治31年85歳で亡くなりました。
林棕林は、上部茁斎に絵を学び、茁斎の立場を受け継いで伊勢円山四条派の中心人物となりました。棕林は酔薫(すいくん)社という画塾を開き、二百人以上の弟子がいたといいます。ただし、有力な弟子は磯部百鱗のみでした。棕林は上記したように各地へ出かけて行って文化人達と交流し、明治には70近い年齢で東京絵画共進会に出品しています。後進の指導をするというよりは、自身が精力的に活動するタイプの人だったようです。弟子の多さは林棕林の功績というよりは、この時期にそれだけ伊勢に円山四条派が広まったということを表しています。
七福神の一人、寿老人です。寿老人は長寿の神で、鹿とともに描かれます。足元にあるキノコは不老長寿の霊薬と言われる霊芝(れいし)です。棕林は後南画に転向しますが、この作品は四条派の絵です。
端館紫川(はしだてしせん)
1855〜1921田中中世古(本町)生まれ。幼少にて水溜米室につき画を学びます。明治18年上京して川端玉章に従い、宮内省御用を奉仕し、御前揮毫(ごぜんきごう)の栄光を得ました。各種共進会等に出品して受賞しました。
紫川 田中好太郎蔵
歴史画の一つで、平安時代の武将、源義家の弟、義光の足柄山伝授の話しを描いたものです。「義光は音楽を好み、朝廷の笙(しょう:雅楽などで使う管楽器の一つ)師範豊原時元に学んで秘曲を伝授されました。しかし時元は子の時秋に秘曲を伝授する前に亡くなりました。後に義光が、東国へ戦争(後三年の役)に行く時に、 時秋もなぜかついてきました。義光はその心を察し、秘曲が自分で絶えてしまわないように、戦場手前の足柄山で人払いをし、時秋に秘曲を伝授しました(これは『古今著聞集』にある話しで、歴史画の画題として時々描かれます)。現在ではあまり知名度がありませんが、東京に出て全国的に活躍したため絵は非常に上手です
黒瀬松琴(くろせしょうきん)
1832〜1917下中之郷(宮町)に生まれ常磐、宮後に住みました。天保3年6月15日に生まれ、大正6年4月18日、86歳で歿しています。明治の初め、外宮に宮掌(くじょう)として奉仕しましたが、明治32年須原大社の宮司となり、後、河辺七種神社や船江上社に奉仕しました。神職の余暇としてではなく、本格的な画家としての修業を積み、その手腕も非凡です。作品は比較的多く残っており、六曲屏風の如き大作もあり、一部の愛好家の間では知られてはいるが、もっと顕彰したい作家です。絵は初め水溜米室に就き、後、京都の幸野楳嶺(こうのはいれい)に師事し、四条派で花鳥を得意としました。明治35年5月、時の皇太子殿下が神宮ご参拝の際、「松下双鶴の図」を献上しました。また明治44年皇后陛下神宮ご参拝の際、「老松亀鶴の図」を献上し、ご嘉納(かのう:献上品などを目上の者が快く受け入れること)にあずかりました。
松琴は、資質が良く、風流を解し、和歌をたしなみ、80歳の高齢でも尚且つ絵筆をふるっており、神都画人の中でも忘れてはならない存在です。
落合月槎(おちあいげっさ)
1811〜1898現度会郡大野木生まれ。中西某の子息で本名は俊明。上部茁斎の門人で円山派の画家。岡本町に住みました。資性温厚で門人を教育するため妙を得、その下に多くの逸材を輩出しました。
孔雀の絵は円山応挙も得意であり、円山四条派でよく描かれる画題でした。江戸時代でもたとえば寛政年間頃から花鳥茶屋(かちょうじゃや)という見世物小屋がはやり、実際に孔雀を観ることができました。月僊の逸話で、紀州藩主から孔雀の絵を頼まれたが実物を見たことがないため、実際に買い求めて写生した、という話が残っています。
広田正陽(ひろたまさはる)
1826~1871 中須興治の次男、正方の養嗣。外宮権禰宜に叙せられたが明治4年神宮改革によって廃官となりました。はじめ上部茁斎について四条派の画を学び、後横山清教軌暉につきました。
鈴木柳亭(すずきりゅうてい)
1824~1892 中河原(宮川)で合羽煙草入れを家業としました。上部茁斎門人にて林棕林と並称されたが棕林は後南画に移り、柳亭独り其流を改めず、茁斎門下の高足となりました。
楠田彩雲(くすださいうん)
1865~1897曽根町生まれ。先代彩雲の男子。初めは水溜米室に学び、後磯部百鱗に師事して四条風の画を得意とし、絵画展覧会に出品してしばしば受賞しました。
朱買臣(しゅばいしん:中国、前漢の武帝時代の官僚。蘇州の人)を描いたものです。朱買臣は家が貧しく、薪(まき)を背負いながら読書に励み、後に武帝に見いだされて出世しました。二宮尊徳像の元ネタとなった話しですが、実は二宮尊徳が薪を背負いながら本を読んで勉強した、という事実は無いそうです。
磯部百鱗(いそべひゃくりん)
1836〜1906 江戸後期〜明治の画家(詳細は後編参照)。林棕林に学び、自身も全国的に活躍しながら多数の優秀な画家を世へ送り出したのが磯部百鱗です。百鱗は天保7年(1836)に内宮の御師の家に生まれました。時期はわかりませんが、棕林に絵を習い出したのは、かなり遅がけだったようです。後、京都に出て長谷川玉峰に学びました。遊学を終えて帰郷したのは維新前後ということから、32歳頃となります。帰郷後はしばらく神宮に奉職し、絵に専念し始めたのは、その職を辞めた後の40代頃だということです。明治18年(1885)、50歳の時に東洋絵画会の総裁からの任命で学術委員となりました。東洋絵画会は従来の伝統的な日本画を中心とした全国的な画家たちの団体で、後に日本美術協会に合流します。以降、百鱗は色々な展覧会に出品して受賞し、全国的に名声が高まりました。明治39年(1906)、71歳で亡くなりました。
百鱗は自身も画家として全国的に活躍しました。そして非常に多くの高名な人々と交流したそうです。また後進の指導にも熱心で、自身のコネクションを利用して京都へ修業に行かせたり、展覧会に出品させたり懇切に世話をしました。そうしたこともあり、その門からは中村左洲、伊藤小坡、川口呉川、田南岳嶂ほか、後々大いに活躍する弟子をこれまでになく多数輩出しました。
内宮・外宮の風景を描いたものです。季節は春と秋で、千木(ちぎ:神社建築に見られる、建築物の屋根に設けられた部材のこと)の形より、緑樹が描かれた春が内宮、紅葉が描かれた秋が外宮です。
あとがき
この本は、令和2年9月に発行された「伊勢古市参宮街道資料館の歩み」より神都画人に関係する項目にスポットを当て、再構成したものです。
この刊行にあたり、沢山の関係機関からもご協力を頂きました。おかげで「資料館の歩み」では、掲載出来なかった代表作品なども加えさらに充実した内容となっています。ご協力頂きました方々には深く感謝とお礼を申し上げます。
伊勢古市参宮街道資料館では今まで郷土画人に関係する発表を8回に渡り企画してきました。しかしながら企画に必要な資料がほとんどなく、このままでは、神都画人という地域の歴史的財産が埋もれてしまうことに危機感を覚え、微力ながら後世に伝える役目を担えればと発行に至りました。
また、これまでの資料は江戸中期から昭和初期までの画人の紹介に止まっています。郷土史としてはこれでいいのですが、昭和以降の現代に至るまでの作品を御紹介することで、次世代に繋がる生きた郷土史になるのではないかと思っています。
このため最終の第4章では現在または少し前に活躍された郷土の芸術家達を取り上げてみました。作成に当たっては、三重県・県教育委員会・㈶県文化振興事業団主催の「第一回三重の作家たち展」の出展名簿から引用したものです。今回は名簿のみに留めましたが、今後、別の機会があれば作品等のご紹介もしていきたく思っています。
令和6年3月吉日
伊勢古市参宮街道資料館 世古富保