古市

「昔の暮らしの道具」展
令和4年度 第23回特別企画展
2022/10/04

令和4年度 第23回特別企画展
「昔の暮らしの道具」展

目的

 明治時代から現代にかけての150年余り、人々の暮らしを支えてきた道具類は、生活の変化に合わせて様々な工夫と改良がなされてきました。昭和30年代の高度経済成長期になると技術は飛躍的な進歩を遂げ、今を生きる私たちは便利な生活を享受しています。
 今回の企画展では、高度経済成長期以前の暮らしの中で、身近に使われてきた生活道具を中心にご紹介します。ゼンマイ式の振り子柱時計や真空管ラジオなど、ひとつひとつの道具に、懐かしさや新鮮な驚きを持って触れることで、昔の暮らしに思いを馳せ、現代の暮らしを見つめ直すきっかけにしていただければ幸いです。
 さらに、道具類の背景にある郷土の歴史や文化を感じ取り、ものを大切にする心や先人から受け継がれてきた知恵を、後世へ伝える役目も果たせればと願っています。


場所

 伊勢古市参宮街道資料館 [ 地図 ]
 〒516-0034 三重県伊勢市中之町69
 TEL/FAX 0596-22-8410 TEL


期間及び開館時間

 令和4年10月4日(火)~10月30日(日)
 9:00〜16:30 最終日は14:00まで
 休館日:月曜日及び月曜日が祝日の時はその翌日


主な展示物

 パネル・昔の道具など


「昔の暮らしの道具展」

大きく次の5つに分類「茶の間で使う道具、衣類の手入れに使う道具、明かりと暖を取る道具、台所で使う道具、その他の道具」しご紹介します。
 ① 茶の間で使う道具・・・・・・・ ラジオ・電話機・蓄音機・扇風機・時計・ちゃぶ台
 ② 衣類の手入れに使う道具・・・・ 洗濯板・たらい・洗濯機・アイロン
 ③ 明かりと暖を取る道具・・・・・ ロウソク立て・提灯・カンテラ・ランプ・電灯・囲炉裏・火鉢・炬燵・行火・ストーブ
 ④ 台所で使う道具・・・・・・・・ 羽釜・おひつ・おひつ入れ・電気炊飯器・保温ジャー・IH電気炊飯器
 ⑤ その他の道具・・・・・・・・・ 行李・カメラ・おもちゃ



(その1)茶の間で使う道具

ラジオ

 「ラジオ」とは、電波を利用して報道・教育・教養・娯楽などを音声、音響で人々に伝達する放送のことで、またその受信機も指します。
 いつもどこでも聴ける便利さから、ラジオは人気があります。受験勉強の息抜きに深夜ラジオ放送を聴いたり、ドライブ中に渋滞からくるストレスを紛らわすためにラジオを聴いたりなど、何かをしながらラジオ聴いたりすることも、生活の楽しみの一つになっています。
 また、災害時に備えた防災グッズの必需品にもなっています。
 ラジオは、関東大震災が起こった2年後の大正14年(1925)に本格的な放送が始まります。当時はラジオにも受信料がかかりましたが、その普及が速かったのは、人々が日々の暮らしの中で、情報を求めたからです。

真空管ラジオ

 現在のラジオはスイッチを入れるとすぐに音が出ますが、当時は電球のような形の真空管を利用していたため、温まるまで音が出ません。感度も悪く雑音が多く聴き取りにくいものでした。外枠は木製ですが、次第に真空管の代わりにトランジスタを使うことで、プラスチック製になり小型化していきました。

テレビの普及とラジオ放送の変化

 1953年にはNHKテレビが放送を開始しますが、まだまだテレビは庶民が手に入れられる値段でなかったため、ラジオは「娯楽の王様」として親しまれ続けます。
 しかし1964年の東京オリンピックを機にテレビが爆発的に普及をし始めると、ラジオは次第に斜陽の時代を迎えます。同じ時期、トランジスタの普及とともにラジオの小型化が進みラジオは「居間で、みんなで楽しむメディア」から「自分の部屋で、一人で楽しむメディア」へと性格を変えていきます。この頃情報番組や音楽番組が数多く放送され趣味性の高い深夜放送も盛んになります。

高音質なFM放送のラジオ局が登場

 音楽放送が人気を集めるにつれて「高音質放送」への需要が高まり、1970年頃には音質の良いFM放送の局が次々に誕生し、高音質による音楽番組を中心とした編成で人気を集めます。

インターネットとラジオ

 近年はインターネット回線を活用した「インターネットラジオ」が誕生しています。海外の放送を気軽に聞くことができます。また2006年には放送局が運営するウェブサイトで、ラジオ受信機がなくてもインターネット回線があるところであれば自由にラジオ番組を聴くことが可能になりました。


電話機

 1876年にグラハム・ベルが電話機を発明してから14年後の1890年(明治23)に、日本初となる東京~横浜間での電話サービスが開始されました。当初の加入数は、わずか197世帯でした。電話から電話に直接つながらなかった時代、ハンドルを回して電気を起こし電話交換手に電話番号を言って繋いでもらいます。電話機を使用している家庭は少なく用があるときは近所の家に出向いて電話機を借りるとか、かかってきた電話は「呼び電」で取り次いでもらっていました。

磁石式電話機(手回し式電話機)

 ハンドル(磁石)を回して電気を起こし、交換手に電話番号をいって繋いでもらう。
 時代は巡り、昭和に入ると黒電話が登場します。電話機は1933年(昭和8)に、郵便や通信を直轄していた逓信省(ていしんしょう)によって提供開始されました。


ダイヤル式黒電話

 電話を利用する人が増えると、出来るだけ早くつなぐ必要があるため、機械で自動的に瞬時に繋ぐダイヤル式に改良されました。その後にはプッシュホンになり今では携帯電話の時代となりました。
 時代が移り、1985年(昭和60)、通信の自由化により国有だった通信事業が民営化され、時を同じくして家の電話が黒電話以外に自由に買い替えられるようになりました。黒電話の時代は一家に一台が当たり前でしたが、これを機に家電メーカー各社から様々なカラーやフォルムで、留守番電話機能や子機、ファックス機能などを搭載した電話機が続々と登場しました。

 *電話誕生から携帯誕生前までを述べましたが、スマホ一台で世界中と繫る現在から考えれば、不便に思えますが、手紙や電報しかなかった時代、電話がもたらした時間差のない情報共有は画期的なものでした。150年前に始まった東京~横浜間の電信線仮設工事は、日本の情報化時代の幕開けともいえるかもしれません。


蓄音機

 蓄音機が最初に発明されたのは1877年(明治10)、発明王エジソンによってでした。
 一般に知られるようになるのは明治時代中期で、明治30年代には蓄音機を販売する店が登場しました。レコードが円筒形から現在と同じ円盤型になったのもこの頃です。
 昭和初期になると日本ビクター社等沢山の蓄音機会社が誕生したため、日本でも徐々に普及し、1936年(昭和11)にはレコード(SP)の年間生産量が300万枚になりました。1950年代には新しい規格のレコード(LP・EP)が登場し、電気による駆動や音の増幅を行う電気式蓄音機が普及していき、旧式のレコードとぜんまい式蓄音機は1960年代前半に姿を消しました。
 1982年(昭和57)のCD販売以降、レコード市場は衰退し年間生産量も1979年(昭和54)の2億枚に対して、2012年(平成24)には45万枚になりました。
 しかし、CDには不可聴域に欠落する周波数帯域があるため、レコードは今でも根強い人気があり、市場から絶滅していません。

明治36年から44年製造の蓄音機

 写真はアメリカのビクター社から明治時代中期に発売された蓄音機です。大きなホーンは花形やベル付き、金属製や木製など好みで交換できるようになっていました。



 明治時代末期には、ホーンを内蔵して家具らしさを出した蓄音機が登場します(写真)。上蓋を開くとターンテーブルがあり、上の扉の中は内蔵されたホーンになっていて、ここから音が出ます。



ポータブル蓄音機

時代が経つにつれ、大きく立派な蓄音機から小ぶりで扱いやすい蓄音機に変わっていきます。持ち運びの出来るものや、電気蓄音機も登場しました。大正時代、蓄音機は全国に普及し初期には西洋音楽中心だったレコードも庶民に人気の義太夫や浪花節など邦楽レコードが発売され人気を博しました。ハンドルを回してゼンマイを巻くと、レコードが回ります。針がレコードの溝を通る時の細かい振動で音が出ます。現在のCDは、針ではなくレーザーで音を出します。

*蓄音機の登場前は、音楽を鑑賞するには会場に足を運ぶしかなく名人の技を耳にできる機会は限られていましたが、蓄音機とレコードの登場により誰もが優れた音楽を楽しめるようになりました。


扇風機

 扇風機といえば夏の暑さを凌ぐのに欠かせない家庭のパートナー。現代では夏の風物詩でもあり、家電の定番でもあります。日本では江戸時代には概に団扇を複数枚使った手回し扇風機が作られていました。江戸時代末期には人力扇風機も小説の挿絵に登場しています。



 世界初の電気扇風機は19世紀後半、モーターの発明とほぼ同じくしてアメリカで発売開始されました。日本に初めて輸入されたのは1893年(明治26)で、翌年には直流エジソン式電動機の頭部に電球をつけた日本初の電気扇風機を開発しました。白熱電球が登場して間もないころに、スイッチ調査ひとつで、頭部に電灯がともり、同時に風が出る扇風機は、真っ黒で分厚い金属の羽をつけた丈夫なものでした。しかし技術的な面や使い勝手は高価な輸入品には及びませんでした。しかし大正時代になると多メーカーが本格的に国産扇風機を量産し始め、電気扇風機はアイロンと並んで最も早く国産化されました。

風物詩となった扇風機

 扇風機は家屋や店、鉄道車両内などで広く利用され、夏の風物詩の一つともなりました。

一時期エアコンにシェアを奪われる

 高度成長期、昭和後半~平成期に冷房機能を備えたエアコンが低価格化し普及すると扇風機が使用される機会が減りました。しかし2017年においては、従来よりも効率が良く、消費電力が小さいブラシレス直流モーターを採用した扇風機が多数登場しています。


時計

 人間と時の関わりは長く、大昔は太陽の位置でおおよその時刻を把握していたものと思われます。紀元前5000年ごろにエジプトで時刻の計測に日時計が使われていたようです。その後、水、ローソク、油など様々な素材を用い「時」を計る時計がつくられました。
 日本では671年に天智天皇が、漏刻(水時計)で時を計り鐘や太鼓を打って時を知らせることを始めました。江戸時代には櫓(やぐら)時計などの和時計が作られました。しかし1873年(明治6)より太陽暦を採用したため和時計の時代は終わりました。

   江戸時代後期に作られた和時計

 一挺天符枕時計(いっちょうてんぷまくらどけい)

 江戸時代の日本では、不定時法と呼ばれる時刻制度を使っていました。不定時法では、1日を昼と夜に分けてそれぞれを6等分にし、その一つの長さを一刻(いっとき)と呼んでいました。時間の単位は刻のみで、現在のような分や秒の単位はありませんでした。そのため時計の針は一つしかありませんでした。時刻は子、丑、寅、卯・・・と干支で表す方法と九つから四つまでの数字で表す方法がありました。  太陽暦を採用した明治6年にはゼンマイ式振り子時計(ボンボン時計)が初めて輸入され、その後日本各地で多くの時計メーカーが誕生しました。今は電池式時計、電波時計がよく使われています。  写真下の柱時計は壁にかけておく時計です。ふりこが動いて時を刻みます。電池ではなく、ゼンマイの力によって動いています。1週間~10日に1度くらいのペ―スでゼンマイを巻かないと 時計は止まってしまいます。

柱時計

   



ちゃぶ台

 食事をするときに使う台で、円形や角形のものがあります。使わないときは足を折りたたんでしまえるため狭い部屋でも便利でした。
 ちゃぶ台が主流をなした大正時代より前の、江戸時代から明治時代は、専ら箱膳が使われました。


ちゃぶ台が各家庭に広まったのは大正時代~昭和の初め頃


 箱膳は、当時の食事のスタイルをよく表しています。家族の一人ひとりが自分の箱膳で食器を管理し、食事の際に、箱から出して使いました。 食事のたびにお椀や皿を洗う習慣はなく、食べ終わったら、お茶などで食器を綺麗にして中にしまいます。 家族の分だけありますが自分専用の箱膳を使いました。次第にちゃぶ台に変わり現在ではテーブルになっています。



(その2)衣類の手入れに使う道具

洗濯

 洗濯とは、汚れた衣類を洗ってすすぐことをいいます。最近では小さな子ども以外は、服が泥やほこりで汚れることは少なくなりました。道路が舗装され、砂ぼこりが舞うことも減りました。しかし外の汚れが付くだけでなく、汗で服が濡れて汚れてしまうこともあります。また、現在では昔に比べると毎日服を着替えることも普通になり、一人分の汚れものは昔より多くなっています。昔は今と違って家族構成も二世帯、三世帯が多く、家族全員の一日の汚れ物の量は、現在の家庭の量よりも多かったそうです。この汚れ物を洗うことが実は重労働だったのです。


洗濯板とたらい 明治~昭和の中頃

 ギザギザのある洗濯板は汚れた衣類を洗うための道具です。水やお湯を入れたたらいの中に入れて洗濯をしました。石鹸がまだない時代には米のとぎ汁や豆腐を作るときに出る汁などが使われていました。中国がルーツである洗濯板は、欧米経由で明治時代になってから日本に伝わりました。洗濯をするために集まる井戸端は、近所の人たちと情報交換をする場でもありました。



手回し洗濯機 昭和の初め頃

 洗濯物と洗剤を溶かしたお湯を入れてハンドルを手で回し綺麗にしました。



一槽式洗濯機(いっそうしきせんたくき) 昭和30年代~40年代

 洗濯物と洗剤を入れてスイッチを入れると機械が自動で洗濯をしました。洗濯が終わると2本のローラーに洗濯物を通し、飛び出したハンドルを回すと脱水が出来ました。



二槽式洗濯機 昭和40年代~昭和の終り頃

 洗濯槽だけだった洗濯機に脱水槽が付け加えられました。洗濯槽だけだった洗濯機に脱水槽が付け加えられました。



乾燥機付き洗濯機(かんそうきつきせんたくき)現在

 洗濯物を入れてスイッチを押すだけで、洗うことはもちろん脱水、乾燥まですべて自動でやってくれます。



*こうして家事の中に占めていた洗濯の割合も少しずつ減っていくことになり、男女の家庭での役割分担の変化なども加わり、女性が外に働きに出ることが普通になっていったのです。道具の進化は単に作業の効率化だけでなく社会の構造にも変化をもたらすことがあるのです。


アイロン

 アイロンやコテは衣類のしわ伸ばし道具と考えると、その起源はとても古く紀元前2000年前からあったという説もあります。日本では電気のない平安時代に洗い物のしわを伸ばすのに丸い器に炭火を入れて使う「火熨斗(ひのし)」を用いていました。また江戸時代には炭火で焼いて使う焼きコテも登場しました。コテは炭火や熱灰の中に入れて加熱し衣類の細かい部分の仕上げや直しなどに使われました。
 明治中期になるとイギリスから炭火アイロンが輸入され、これが国産化され普及しました。炭火アイロンは蓋を開き中に炭火を入れ、その熱気と容器の重みを利用して布地のしわを伸ばすものです。

火熨斗(ひのし)(江戸~明治の初め)

 火熨斗(ひのし)は日本で最初に使われていたアイロンで、平安時代にはすでに存在していました。柄杓(ひしゃく)のような金属の入れ物に炭火を入れ炭火の熱と入れ物の重さで布のしわを伸ばしました。火熨斗には蓋がなかったため炭火が外にはじけ飛んで布を焦がしてしまうこともあったようです。


コテ (江戸~昭和の初め) 

 火鉢などの炭火の中に先のとがった金属の部分を入れて、直接熱して使いました。衣服や布のしわを伸ばしたり、折り目をつけるときに使いました。冷めてしまったらまた炭火の中に入れて使いました。


炭火アイロン(明治~昭和の初め)

 木の取っ手を持って蓋を開け、中に火のついた炭を入れて使うアイロンです。明治時代に外国から入ってきたものですが中に新しい空気を入れる煙突がついているのは日本ならではの形です。アイロンの後ろの部分には火の燃え方を調節する空気穴もあります。


電気アイロン

 家庭で電化製品が使われるようになると火熨斗にかわって電気アイロンが登場します。
 早いところでは昭和初期。昭和30年代には多くの家庭で使われ始めます。初期の電気アイロンは鉄の重さと電気の熱で、衣類のしわを伸ばします。電気アイロンは火熨斗に比べて、炭火がいらないという便利さがありました。炭火だと火の粉が飛んで服が焦げることもありましたが、電機ではそんなことがありません。しかし温度調節がなくアイロンをかけている最中に高温になり、服を焦がすこともありました。そこでアイロンと服の間にもう一枚の布をあてて、アイロンをかけていました。
 現在のアイロンは温度調節ができるので、適切な使用法であれば、こうした失敗を防げます。又しわを伸ばすときには、これまでは服に霧吹きなどで水をかけて繊維を柔らかくし、熱でしわを伸ばしていましたが、スチームアイロンの登場でこうした作業が一度に可能になりました。現在ではアイロンの取り回しが楽なように、電気コードがついていないコードレスアイロンもあります。


電気アイロン (昭和の初め~)

 電気の熱を利用したアイロンです。炭に火をつけたり、炭を運んでくる必要もなくなり、コンセントにつなげるだけで熱くなるのでとても便利になりました。また、スイッチ操作をするだけで温度の調整も簡単に出来るようになりました。


スチームアイロン (現在)

 アイロンと霧吹きが一体となりました。



*アイロンは温度管理がしやすいように炭火から電気に変わりましたが、その代わりに電気コードがついて操作性の良さを失ったのでした。コードレスアイロンはその操作性を回復するためにつくられました。このように作業が簡単にでき失敗することがないようにと道具は進化していきます。アイロンは現在では市場の小さな商品ながらその後も次々と新たな工夫が続けられています。



(その3)明かりと暖を取る道具

明かり

 昔の明かりといえば真っ先にロウソクが思い浮かびます。日本でロウソクが作られ始めたのは室町時代(1300年代)と言われています。ロウソクは高価で貴重だったため、使う場面は限られました。普段の生活には灯明(とうみょう)が使われました。灯明は油を燃やして明かりにするもので、鯨の油や魚の油、植物の種から絞った油が使われます。


江戸時代

 江戸時代に入ると和ロウソクの生産が増えましたが、それでもまだまだ高価で一本のロウソクの値段は今の値で2~3万円もしました。そのため、価格の安い動植物の油から作った灯油(ともしあぶら)を使いましたが、これも一升当たりの値段が米の2~4倍して気軽に使えるものではありませんでした。


ロウソクとロウソク立て(室町~大正)

 室内用の明かりや仏壇用として使います。



明治時代~大正時代

 明治時代になると石油ランプやガス灯が登場します。それまでの行灯(あんどん)から石油ランプに急速に変わった時代です。幕末の開国とともに入ってきた石油ランプは行灯の10倍の明るさで、明治末期までにはかなり普及しましたが、それでも庶民には家に一灯あれば裕福といえるものでした。全盛期は大正時代でした。


 ガス灯は街灯などで活躍しますが、ガス管を配管しなければならないので家庭では普及しませんでした。
 1879年(明治12)にはアメリカでトーマス・エジソンが白熱電球を実用化し、およそ10年後には日本でも電球が作られるようになります。しかし一般家庭で廊下や便所にまで照明器具が付くようになったのは、1950年(昭和25)代以降のことです。


提灯(ちょうちん)(江戸~昭和)

 中にロウソクを立て、火をつけ、主に外に行くときに使います。使わないときには木箱に入れて、玄関に近い部屋に置いておきます。今はお祭りなどで使われます。



カンテラ(明治~昭和)

 灯油を燃やして明かりをともします。持ち運びがしやすいため外に行くときや作業場などで使われました。



石油ランプ(明治~昭和)

 ロウソクや菜種油の灯りの比べると石油ランプの炎は、はるかに明るいものでした。灯油を燃やして、明かりを灯します。主に部屋の中に下げたりして使いました。灯油でガラスが汚れるので毎日掃除が必要でした。



電灯(大正~昭和)

 電気が通って間もないころは、居間の天井から裸電球が下がっているのが、一般的でした。カサをつけると電球の下を全体的に照らすことが出来ました。
 また、すすが出ないため掃除をする手間も省けました。



昭和時代~平成時代

 蛍光灯は、1941年に日本でも初めて発売され、1953年には環形ランプの出現とその明るさから一気に普及しました。1990年代にはさらに高効率化が進んだHf型も出現しましたが、2019年政府の「エネルギー基本計画」により照明器具のLED化が進められ各メーカーは生産を中止しました。
 水銀灯は1901年蛍光灯より早く発明され、その大光量と効率の良さから色を問題としない野外や工場用として色々なタイプに発展しましたが、2017年の「水銀に関する水俣条約」により各メーカーは生産を停止し、現在はLEDランプへ移行しています。


暖房

 寒い季節は暖房器具が必要です。現在は家の構造も西洋的になり最も進んだ暖房法のセントラルヒーテイグなどは、スイッチ一つで部屋中が暖かくなり、家の中で火を燃やしたり炭の補充をしたりという手間も苦労も必要でなくなりました。ところが一昔前までは囲炉裏の火を絶やさない様にとか、火鉢に炭を補充するとか暖をとるための様々な工夫と生活の知恵がありました。


たき火

 暖房の始まりは地面の上で木を燃やす焚火(たきび)だと考えられます。30万~50万年前に火を使っていた痕跡があります。火は神聖なものであり野獣から身を守るためにも重要であったと考えられます。


囲炉裏(いろり)

 囲炉裏はたき火を家の中に持ち込んだもので、縄文や弥生時代の住居跡にもすでに見られます。暖房の他にも煮炊きなどの炊事の道具として、また照明の役割も果たすなど、生活の中で重要な機能を担っていました。



火鉢(ひばち)

 その歴史は古くすでに奈良時代に置炉の一種である火鉢が登場しています。燃焼時間が長く火力が安定し、煙の出ない木炭を燃料にしています。炭火には輻射効果があるため、小さな火でも体の芯まで温まります。火鉢はインテリアの置物としても魅力があります。



炬燵(こたつ)

 江戸時代、畳が一般的な日本人の生活に普及した炬燵も今のような形になり広く普及しました。炬燵は熱源を布団で覆うため熱効率が良い局所暖房器です。これは伝統的な日本の住まいが全室暖房に向いていないことや、そのための十分な燃料がなかったことなども要因しています。昭和30年ごろまでは炭火が使われていました。



行火(あんか)

 一人用のポータブルな暖身器具として、行火と湯たんぽがあります。行火は内部に炭火などを入れ湯たんぽは容器に熱湯を入れていました。現代では電気行火や電気毛布に変わっています。これらを小型化したのが懐炉(かいろ)であり、現代では使い捨て懐炉がポピュラーです。





ストーブ

 明治時代以降には石炭ストーブや薪ストーブが生活の主流を担っていました。また大正時代から昭和時代にかけては石油やガスを燃料とするストーブが国内で生産されるようになりましたが、依然として火鉢や炬燵などの個別暖房を使用する家庭が多い時代でした。それは気密性が低く隙間風の多い家の構造に起因していたといえます。石油・ガス・電気ストーブ等がようやく庶民に普及しだしたのは、昭和全盛期(1960年代~)です。1978年(昭和53)より石油ファンヒーターが市場に出回り始め、1980年頃には約100万台程度流通していました。石油ストーブは1960年代~現在に至るまで家庭用の暖房手段として長く愛されてきました。





(その4)台所で使う道具

 水道に流し台、ガスコンロといった、私たちが普段見慣れている風景が出来上がったのは今から50年位前のことです。水道・ガス・電気が普及した後には炊飯器や冷蔵庫といった新しい道具が使われるようになったからです。それまでは井戸から水を汲み、かまどや七輪で薪や炭を燃焼にして料理をしていました。現在の台所仕事に比べると手間暇がかかりました。 その頃に使われていた道具からは当時の人たちの知恵や工夫を見て取ることができる上、日々の家事の中で長く丁寧に使われてきたことも知ることもできます。



羽釜(はがま)(江戸~昭和の中頃)

 かまどでご飯を炊くための道具。かまどにかけるつばの部分が羽のような形をしているため羽釜と言います。むずかしい火の調整が必要です。



おひつ (江戸~昭和の中頃)

 羽釜で炊いたご飯を移し食卓に持っていくために使った道具です。木が余分な水分を吸ってくれるので、蓋をしてもご飯が蒸れず美味しさを保つことが出来ました。現在でもお寿司屋さんなどで見つけることもあります。



おひつ入れ

 保温用で、ワラでできています。



電気炊飯器(昭和30年代~50年代)

 電源を入れるだけで、自動でご飯が炊きあがり、ご飯が炊きあがると自動で電源が切れる炊飯器です。羽釜でご飯を炊くときは火加減などがむずかしく、ずっと見張っていなければなりません。電気炊飯器の登場でご飯を炊くのがとても楽になりました。



保温ジャー (昭和30年代~50年代)

 電気炊飯器が誕生した後もしばらくは保温することができなかったため、炊きあがったご飯はおひつに移しかえていました。しかしおひつのご飯はすぐに冷めてしまいます。そこで長時間保温できる保温ジャーが誕生しました。



IH電機炊飯ジャー(現在)

 ご飯を炊いてそのまま保温できることはもちろん、コンピューターが内蔵されているため、硬めに炊いたりおかゆにするなど自分の好みに合わせて美味しくご飯を炊けるようになりました。




(その5)その他の道具

行李(こうり)

 乾いた洗濯物は、きちんとたたんで箪笥(たんす)にしまいます。箪笥には一段ごとに収めるものが決まっていてたたんだ洗濯物はいつもの場所にしまいます。しかし箪笥は家にいくつもないので、家族の衣類のすべてを箪笥にしまうことはできません。ですから箪笥のほかに行李(こうり)や衣装箱などにもしまいます。
 行李には柳行李と竹行李があります。柳行李は柳で編んだ箱形の入れ物で、同型のものをかぶせて蓋にして、衣類の保管とか、引っ越しの時に荷物を運搬するのに使われました。落葉低木のコリ柳は水に浸すと柔らかく、乾燥すると硬くなる性質を生かし、麻糸で編んで角を布や皮で補強してあります。



カメラ

フイルムのなかった時代

 小さな穴を通った光が壁などに外の景色を映すことは、紀元前の昔から知られていました。この仕組みを利用して作られたピンホール(針穴)カメラがいわばカメラの原点です。ただしもっとも初期のピンホールカメラは、カメラといっても撮影機能はなく針穴の反対側にあるスリガラスのスクリーンに、景色などを映すだけの装置でした。
 15世紀ごろ、この装置はさまざまに改良され「カメラ・オブスキュラ(小さな暗い部屋)」と呼ばれてヨーロッパの画家たちの間で流行しました。




ピンホールカメラの仕組み

 さらに16世紀になるとピンホールの代わりに、より明るい像が得られる凸レンズを使ったものが登場します。これらは映った景色などをなぞって正確な写生をするためのもので、フイルムなどの感光材料の代わりに人間が手書きで撮影していたことになります。


感光材料の発展

 感光材料(光を感じて記録できる材料)による撮影が実現したのは19世紀に入ってからでした。1826年フランスでカメラ・オブスキュラを改良し道路舗装で使われるアスファルトを感光材料にしておおよそ8時間をかけて一枚の写真を撮影しました。その後1839年に、フランスで銀メッキした銅板を感光材料にして使う「ダゲレオタイプ」という技術が開発されました。これにより露出時間が30分程度に短縮されました。これは銀板そのものが写真になるため焼き増しができませんでした。この点を改良し、撮影でネガ(濃淡が反転した画像)を作って後でポジ(普通の画像)を作る「ネガポジ法」が、1841年イギリスで開発されました。現在の銀塩写真にも用いられています。
 19世紀後半には感光材料の改良が相次ぎました。ついに1888年、現在のフィルムにつながる「柔らかいため巻き取って扱える」フィルムがアメリカのコダック社から発売されます。その後1935年にはカラーフィルムがさらに20世紀の半ばには撮影した直後にプリントが見られるインスタントフィルムも登場して写真技術の発達はさらに加速していきます。カメラは世界中でつくられ市民のものとして広がっていきました。
 1980年代フィルム全盛の写真技術に劇的な変化が起きます。画像を電気信号に置き換えて記録するビデオカメラ(動画)の発展を受け、静止画の世界にも電子式カメラが登場します。以降写真技術の電子化の流れはさらに加速し、アナログからデジタルへと移行します。デジタルカメラは最初極めて高価でしたが、1990年代には様々な普及モデルが登場し、一般市民が普通に使える道具になっていきます。21世紀に入ると、同時期に普及した携帯電話に搭載されるなどデジタルカメラはごく普通の撮影装置として受け入れられ、現代の写真技術の中心的な存在になっています。

クラッシックカメラ

蛇腹カメラ       60年前の二眼レフカメラ


おもちゃ

 日本のおもちゃの歴史は、ブリキのおもちゃを抜きにして語ることができません。ブリキのおもちゃが日本に入ってきた明治時代から職人たちは、技術を磨き大正時代には世界に認められるようになりました。第二次世界大戦がはじまり金属製のおもちゃの生産も困難になりますが、戦後には再びブリキのおもちゃが生産されるようになります。しかしプラスチックなど新しい素材のおもちゃが登場するとブリキのおもちゃは次第に姿を消していきました。


伊勢玩具(いせがんぐ)

 伊勢のくりもの技術は明治の初めに信州からやって来た職人より伝わったといわれています。 材料であるチシャの木や百日紅(さるすべり)が神路山(神宮林)や大杉谷で容易に入手できたことや参宮客に土産物としてもてはやされたことから大いに発展し、戦前は盆や煙草入れなどの日用品が作られ人気を集めました。
 戦後はけん玉やヨーヨーなどの玩具が中心になり、プラスチック製品におされつつも今なお作られています。他の地方の玩具に比べ鮮やかな色彩が施されていることが特徴です。


はかり

竿秤

 天秤ばかり(てんびんばかり)とは、てこの原理を利用して、質量を図りたい物体と錘とをつり合わせることによって物体の質量を測定する器具です。一定の重さの錘を用いて、支点からの距離を変えることによって測定するものを竿ばかりといいます。



銀秤

 その名の通り、銀をはかった秤です。銀貨は重さが異なる秤量貨幣だったため、売り手と買い手、それぞれ自前の秤で銀貨の重さを調べたうえで取引しました。また、少量の物を図るのに便利なことから薬の調合にも使われました。


秤量器

 秤量器具とは、重量および質量、または容量(体積)をはかる際に使用する器具の総称です。種類として、 液体の体積をはかるための器具には、主に一定量にすることを目的とするメスフラスコや、一定量を採取して別の容器に移すことを目的とするメスシリンダーやピペットなどがあります。




あとがき

 明治時代から現代にかけて使われてきたさまざまな暮らしの道具たち。それらを改めて見てみると、思わず立ち止まってしまうほどの魅力を湛えているものが多いことに気付かされます。
 例えば「火鉢」一つを取っても、炭から出る遠赤外線が身体の芯まで温めてくれるだけでなく、鉄瓶を乗せてお湯を沸かすこともできるし、火鉢の中の炭火で「火熨斗」や「こて」を加熱して、衣類のしわを伸ばすこともできるのです。現代の高気密な住宅では、一酸化炭素の発生が問題になりますが、昔ながらの低気密な日本家屋では、常に自然な換気も行われていたのでしょう。
 このように、暮らしの形に沿った道具の有機的な活用方法に気付く時、今ほど便利ではない時代を懸命に生きた先人たちの深い知恵に、尊敬の念を禁じ得ません。展示された昔の道具一つひとつの声に耳を傾け、その時代背景に思いを馳せ、本当の豊かさとは何かを考えていただくきっかけにもなればと願っています。


伊勢古市参宮街道資料館 代表 世古富保