最初の黄金時代(1927年〜1940年)
・トーキー時代始まる
ものを言う映画、音や音楽を出す映画のことをトーキー映画と呼んでいました。*トーキー映画は観客へ大きな驚きと感銘を与え、世界各国に広がっていきます。サイレント時代からトーキー時代へ。映画は音声を自ら発することが可能になりスクリーンには賑やかさと華やかさが加わってきます。
1927年アメリカ映画「ジャズシンガー」の成功を皮切りに映画界はトーキー時代へ突入します。弁士の相変わらぬ人気と勢力、製作会社、興行側双方の資本力の弱さ、技術の壁などから日本におけるトーキーの進展はおもわしくなかったもののトーキー化への努力は続けられていました。それでも日本映画の大半がトーキー化になるのは、1930年代半ばを過ぎてからであり欧米映画にはかなり遅れを取ることになりました。
*トーキー映画
発声映画のこと。サイレント(無声)映画の対語。厳密には映像と音声が同期した映画をさす。リュミエール兄弟による1895年の初興行以来、しばらくの間、映画フィルムは自らの音を備えていなかった。しかし興行場では弁士が語り、楽師が音楽を演奏しており、かならずしも無音で映画が上映されていたわけではない。その後、映像と音声の同期が試みられた。商業的長編映画として初のトーキー映画は、1927年にアメリカのワーナー・ブラザースが公開した「ジャズ・シンガー」である。日本では1931年(昭和6)に松竹キネマが製作した「 マダムと女房」が本格的トーキー映画第1作とされている。
こうしたトーキーの出現は、新しい俳優の出現や新ジャンルの確立をもたらしました。落語や声帯模写など、語り芸を生業とする者がスクリーンへ登場し始め、榎本健一、古川ロッパ、加えて花菱アチャコと横山エンタツの大阪漫才風喜劇が台頭するようになりました。
また「愛染かつら」のように主題歌の流行を通して人気を博する映画も現れました。
トーキー出現は、撮影期間の長期化という現象をもたらし、これを機に日活は1934年に多摩川へ、松竹は1936年に大船へ移転拡充しました。それぞれの特徴として日活は重厚で泥臭い作風を、松竹は洗練された都会風の作風を得意としました。
30年代は日本映画の傾向として小市民映画からホームドラマ(家庭劇)へ、或は叙情的リアリズムへと時代の移り変わりとともに少しずつ変化していきます。
明治期演劇新派の家庭劇を源とするこのジャンルは、日本映画に数多くの題材を与え、多数の傑作を生みだしてきました。父母、兄弟姉妹、祖父母、親戚や友人など身近な人々が登場するドラマは、1950年代近くまで続き、日本映画の一大ジャンルを築いています。
松竹の小市民映画
純映画劇運動の旋風が去ったのち、やがて運動の蒔いた種が実ってくると、明朗活発な都会風現代劇を作ろうという気運が生じ、新派のように選ばれた美男美女ではなく、ごく普通に生活している大学生やサラリーマンの喜怒哀楽をいかにもありそうなこととして描くことが求められて、作風に着実な変化を示すようになりました。
1926年はこの松竹現代劇が本格的に始動した年でした。牛原虚彦うしはら‐きよひこ( 1897〜1985 )は「彼と東京」(1928年)や「陸の王者」(1928年)といった健全な青春映画、スポーツ映画を撮り、ごく普通の庶民を等身大で描く都会風現代劇が出現しました。
また五所平之助ごしょ‐へいのすけ(1902〜1981)の「村の花嫁」(1928年)や「伊豆の踊子」(1933年)など田園を舞台とした叙情的な作風も登場しています。
松竹現代劇に見る明朗で軽快なムードはやがて*小市民のささやかな幸福を描くというふうに変化していきました。この傾向を代表するのは小津安二郎おづ‐やすじろう(1903〜1963)です。小津は最初、ノンセンス喜劇から出発し、ハリウッドのルビッチやビィダーの影響を強く受けていたために「バタ臭い」と評されました。彼はゆるやかに主題と文体を変え大学生やサラリーマン、さらに下町の庶民を主人公に、人生をめぐる諦めと*達観を好んで描くようになりました。「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「生れてはみたけれど」(1932年)など庶民を主人公とした人生観を詰め込んだ作品を多く残しました。
50年代にいたってその文体の厳密さは完璧なものと化し、彼は巨匠として畏敬されました。サイレント映画からトーキー映画へ移っていく時期でもありました。
*小市民映画
昭和初期の日本映画に流行した現代劇映画の一ジャンル。大正から昭和にかけて社会的、経済的不安にさらされた小市民の生活を内容とし、彼らの失業や生活苦の現実面を積極的に描くのでなく、哀愁と感傷、ナンセンス的笑いを盛込みながら描いた一連の作品をいう。1920年代末から30年代にかけて日本映画とりわけ松竹映画が小市民映画の秀作を送り出した。
*達観(たっかん)
真理や道理を悟り、何事にも動じない状態のこと。
日活映画の革新
近代化では、松竹に一歩遅れた形になった日活は、1923年の関東大震災による向島撮影所の閉鎖を受けてようやく女形から女優への移行を果たします。翌年には京都の郊外に「日活太奏撮影所」が開設されます。
日活現代劇の代表ともされる溝口健二みぞくち‐けんじ(1898〜1956)は、純映画劇運動を継承するかのように、ハリウッドで学んだ撮影技法を駆使し、「霧の港」(1923年)、「血と霊」(1923年)、「狂恋の女師匠」(1926年)など様々なジャンルを試み、後礎を築きました。
他方、内務省による活動写真検閲なども行われ、衣笠貞之助きぬがさ ‐ていのすけ(1896年 〜 1982年)の「日輪」などは作品に当局の介入があり大幅な編集を余儀なくされました。しかし衣笠はその後も精力的に活動を続け、川端康成の協力を得て日本最初の前衛映画となる「狂った一頁」(1926年)や欧州で高い評価を受けた「十字路」(1928年)などを発表。純映画劇運動が理想とした目標の一つである国際進出は、溝口と衣笠という次の世代によって実現されました。
小津安二郎監督・溝口健二監督二人の作品は戦前期の日本映画の到達点を示しています。
小津安二郎 おづ やすじろう(1903年 〜1963年)
日本の映画監督、脚本家。日本映画を代表する監督の一人。「一人息子」(1936年公開)は人生の希望と挫折を淡々と画き、「淑女は何を忘れたか」(1937年公開)は夫婦間の微妙な駆け引きをユーモアとアイロニーを込めて描いている。
溝口 健二 みぞぐち けんじ(1898年 〜 1956年)
日本の映画監督。女性映画の巨匠と呼ばれ、一貫して虐(しいた)げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。また、ジャン=リュック・ゴダールを始めヌーベルバーグの若い映画作家を中心に、国内外の映画人に多大な影響を与えた。代表作に働く女性の生きることの困難さを、大阪弁や京都弁の生き生きした会話を通して、女の意地と男のエゴイズムとの葛藤の中に描いた「浪華悲歌」(なにわエレジー)(1936年公開)・「祗園の姉妹」(ぎおんのきょうだい)(1936年公開)がある。
30年代の主な映画
日活:内田吐夢の「人生劇場・青春篇」1936年・「土」1939年
熊谷久虎の「蒼氓」1937年・「阿部一族」1938年
松竹:島津保次郎の「隣の八重ちゃん」1934年
小津安二郎の「一人息子」1936年
野村浩将の「愛染かつら」1938年・
清水宏の「有りがたうさん」1936年・「花形選手」1937年など
映画熱上昇
・映画熱上昇
大正末期から昭和初期は映画熱がぐんぐん高まっていきます。時代劇と現代劇の比率を昭和2年(1927年)の統計でみますと、時代劇製作の多い順から、マキノ75%、東亜63%、帝キネ61%、日活55%、松竹43%となります。しかし生活の洋風化が進み現代劇のスターが人気を呼ぶようになると現代劇の製作比率は段々と高く成り逆転するようになります。
1930年版の「日本映画事業総覧」によると、撮影所は大小合わせて13カ所。長編映画の年間製作本数750本。映画常設館1244館。観客数は大人約1億1243万人、子供が4050万人。日本全国で発行される映画雑誌・新聞等は350種に及び、日本は映画製作本数でアメリカ映画に拮抗する映画王国でした。
・映画雑誌の黄金時代
大正時代に入ると、洋画ファン向け、邦画ファン向け、各撮影所が出す宣伝雑誌、ファンから自然発生的に生まれる同人誌など映画雑誌の創刊ラッシュが続きます。中でも1919年創刊の「キネマ旬報」、1946年創刊の「スクリーン」などは、息長く発展し現在に至っています。
・押し寄せるアメリカ映画
物語のわかりやすさ、展開の速さ、男女俳優の魅力、様々な分野の開拓、中でもスラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)=チャップリンが有名=は子供から大人まで大人気でした。
・映画と広告
30年代この時期、新聞、ラジオに加え映画は3大メディアとなります。広告や広報活動はこれらのメディアを通して発展していきます。
戦争時と敗戦後の映画事情
・戦時下の映画
映画が大きな影響力を持ち始めた大正末(1925年)、内務省は映画検閲の全国統一化を実施しました。以降警察の取り締まりを基本としました。一方映画製作者・興行者・観客の教化など啓蒙を基本とする文部省との二つの流れがありました。
日中戦争、太平洋戦争と戦時下で検閲は強化されていきます。1939年4月に映画法が公布、10月に施行されました。製作と配給は許可制、監督と俳優は登録制となり、脚本の閲覧や外国映画上演の制限も行われました。
・戦争の拡大と映画
昭和16年(1941年)12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃により戦争は一気に拡大していきます。日本国民の多くが近親者を*出征(しゅっせい)させており、戦線の様子を伝えるニュース映画や記録映画は大きな感心を引きました。しかし劇映画は無論の事、ニュース映画や記録映画にも検閲の目は厳しく、戦争の実態は隠されたままでした。
*出征(しゅっせい):軍隊に加わって戦地に行くこと。
・敗戦と占領
1945年8月15日、日中戦争から大東亜戦争へと拡大し続けた戦争(1937〜1945)も終りました。検閲だけでなく物資不足にも苦しんでいた映画会社は製作を中断、米軍を中心とする占領軍の指導を仰ぐことになります。軍国主義から民主主義へ映画界はあわただしい大転換を余儀なくされますが、息苦しかった戦時体制からの開放感も漂いました。しかし皮肉にも占領軍による新たな検閲が始まります。
・占領軍が残した映画教育
占領軍によって示された映画製作の基本方針は、平和国家、民主主義、個人の尊重、封建的忠誠心や復讐心の排除などがありました。
・戦後間もない日本映画
戦後すぐに作られた日本映画は、内容が無難な歌謡映画、レビュー映画、喜劇などでありましたが、新たな題材も増えていきます。
・解放された青春
戦前の窮屈さとは違って、戦後の男女の交際と恋愛の自由は、若者たちに明るい開放感をもたらしました。現実の生活は貧しく多くの障害があっても、男女の平等と自由恋愛は若者たちにとってまぶしいほどの希望に満ちていたようです。
・反戦と社会意識
映画人たちのほとんどが、戦中の国家主義から戦後の平和主義、個人主義へと大転換していきました。映画ではかつての軍国主義への自戒や反省が描かれると共に社会問題へも批判のまなざしが向けられるようになります。
・戦争の悲しみと苦しみ
戦争犯罪者を
*弾劾する作品も作られましたが、観客の共感を呼んだのはそのような映画ではありませんでした。被害者側の悲劇として大きな共感を呼んだ「ひめゆりの塔」(1968年公開)、災難のように戦争が間接的かつ感傷的に暗示された「二十四の瞳」(1954年公開)。なかでも「戦争と平和」(1956年公開)は加害者としての日本人を垣間見せ、「真空地帯」(1952年公開)は家父長制度下における軍人一家の悲劇を見つめたものです。
*弾劾(だんがい):身分保障された官職にある者を、義務違反や非行などの事由で、議会の訴追によって罷免し、処罰する手続き。
・女性たちの苦悶
日本映画は一般に、女性たちの苦しみや悲しみには敏感であったといえます。すでに戦前から溝口健二や成瀬巳喜男監督の作品には女性たちへの特別な眼差しがありました。戦後は、溝口・成瀬監督の秀作群と共に、新藤兼人や木下恵介監督の作品にも女性たちへの応援歌が聞こえてきます。
戦争末期に、優れた才能を持つ二人の監督、黒澤明と木下恵介がそれぞれ第一作を発表、両監督は戦後の日本映画を背負って立つことに成ります。