古市

「伊勢のシネマ」展
令和3年度 第21回企画展
2021/10/05

令和3年度 第21回企画展
「伊勢のシネマ(銀幕チラシ・ロケ地・小津安二郎の世界)」展

目的

 映画の誕生は、明治28年(1895)。フランスのリュミエール兄弟が、スクリーンに映像を映して多くの人々が一度に鑑賞できる「シネマトグラフ」を開発し、同年パリで有料公開されたのが最初です。日本には2年後の明治30年にシネマトグラフが輸入され、大阪で初興行されました。その後、興行は全国を巡回し、映画は瞬く間に代表的な娯楽産業へと成長していきました。
 伊勢での初興行は大阪興行と同年の明治30年、古市の芝居小屋「長盛座」で行われました。江戸時代、お伊勢参りを終えた旅人が立ち寄る花街として栄えた古市を皮切りに、映画は歌舞伎などに代わる娯楽として伊勢の町に拡大。最盛期の昭和30年代には、10館以上の映画館が軒を並べました。
 今回の企画展では、劇場が発行した銀幕チラシ(無声映画から戦後映画の黄金時代まで)をご紹介することで、映画が人々の娯楽を支えた往時に想いに馳せ、伊勢の歴史文化の奥深さを感じて頂けるものと確信しています。
 また、風光明媚な伊勢志摩を舞台にした映画に着目し、街並みや自然風景、暮らしの情景などが登場するロケ地を写真やパネル版で展示。伊勢志摩の魅力に改めて気づいて頂けるきっかけになれば幸いです。
 さらに、伊勢の三重県立第4中学校(現在の宇治山田高等学校)出身で、国際的に高く評価されている映画監督、脚本家の小津安二郎(1903〜1963年)にスポットを当て、「晩春」「東京物語」などで親子や家族をテーマに撮り続けたその世界観を、パネル版などでご紹介します。


場所

 伊勢古市参宮街道資料館 [ 地図 ]
 〒516-0034 三重県伊勢市中之町69
 TEL/FAX 0596-22-8410 TEL


期間及び開館時間

 令和3年10月5日(火)〜 10月24日(日)
 9:00〜16:30 最終日は15:00まで
 月曜日及び祝日の翌日は休館


主な展示物

 銀幕チラシ・ポスター・パネル版など

1.日本映画の歴史

映画の誕生

 映画は19世紀末にフランスのリュミエール兄弟が、多くの人が一度に鑑賞できるシネマトグラフ(スクリーン映写方式)を完成させると、瞬く間に世界中に広がりました。見世物としての驚き、娯楽としての楽しみ、芸術としての感銘が人々を魅了したからです。
 日本人による映画撮影は1898年の浅野四郎による短編映画「化け地蔵」「死人の蘇生」に始まります。ここから現代に至るまで日本映画は日本文化の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げ、日本を代表する大衆娯楽の一つとして位置付けられて行きました。
 また、最初の映画常設館は1903年の東京浅草の電気館で、初めは粗末な見世物小屋でしかなく観客は土間で立ったまま映画を観ました。光源にはガスを使い、映写も手回しでした。電気の普及が遅れていた日本では、映写には大変な苦労が伴いました。その後、粗末な見世物小屋から立派な建築へと、常設の映画館は急成長していきます。

最初の監督
 最初は映画を撮るカメラマンが監督のようなものでしたが、しだいに技術職としてのカメラマンと、場面や役者の段取りに気を配る監督職とに分かれていきます。日本で最初の監督は尾上松之助(1875〜1926)を映画スターに育てあげた牧野省三がいます。
 牧野省三まきの しょうぞう(1878 〜1929)は、日本の映画監督、映画製作者、脚本家、実業家です。 日本最初の職業的映画監督であり、日本映画の基礎を築いた人物です。「映画の父」と呼ばれたD・W・グリフィスになぞらえて「日本映画の父」と呼ばれました。1908年に最初の作品「本能寺合戦」を、1910年には長編「忠臣蔵」を撮っています。

映画会社の誕生
 明治45年(1912年)、吉沢商店・横田商会・Mパテ商会・福宝堂の4社が合併し、日本で初の本格的な映画会社・日本活動写真株式会社、略称日活が誕生しました。日活は東京向島(むこうじま)と京都にそれぞれ撮影所を設け、東京では新派(後の現代劇)を京都では旧劇(後の時代劇)を製作しました。以降、半世紀以上にわたって続く東京と京都の映画的対立はここから始まりました。


純映画劇運動

 欧米映画を堪能した若い観客層は旧劇や新派映画にあきたらなくなりました。
 1917年に*帰山教正が「活動写真劇の創作と撮影法」と題する理論書を発表したのをきっかけに1918年には日本映画の近代化運動「純映画劇運動」が起こります。帰山教正は「映画は演劇の模倣であってはならない」と説き、*弁士の廃止、女優の採用、映像表現の革新、物語内容の現代化、演技・演出の写実化などを取り入れ理想の映画製作を目指しました。女形が女性役を演じる様式的な歌舞伎・新派演劇の映像的置き換えに過ぎなかった活動写真を、映像固有の表現形式である映画に発展させようとしました。これにより新派が現代劇、旧劇が時代劇、活動写真が映画という語に置き換わって内容も近代化されていきました。

*帰山 教正(かえりやま のりまさ)(1893〜1964)
 日本の映画理論家、映画監督、脚本家。日本映画界に革新をもたらした人物であり、日本最初の映画評論誌『キネマ・レコード』を創刊した後、舞台の模写的作品に過ぎない旧来の日本映画の革新を目指して、1918年に純映画劇運動を提唱。理論書『活動写真劇の創作と撮影法』を発表して、女優の起用、活動弁士の廃止、映画技法の使用などを主張。映画藝術協會を設立して自ら映画製作を行いその理論を実践した。作品には初めて女優が登場する大正8年(1919年)公開の「生の輝き」、大正9年(1920年)の「幻影の女」等がある。


*活動写真弁士(活弁 かつべん)
 活動写真弁士の略称。映画の旧名称である活動写真の説明者をいう。サイレント映画(無声映画)時代、スクリーンの傍らで映画の解説、登場人物の台詞(せりふ)、情景の説明などを行うのを職業とした芸人。日本における映画の初公開は1896年(明治29)だが、公開の手配はすべて興行師が行ったため、客引きの口上言(こうじょういい)がついたのが活弁の元祖。初期には上映前に映画の原理や作品の解説などをする前説(まえせつ)と、上映中にしゃべる中説(なかせつ)とがあったが、1920年代に入って前説は廃止になり、また活弁という名称に変わって、映画説明者あるいは映画解説者といわれるようにもなった。活弁は、スクリーンに映っている俳優自身がスクリーンの後ろで台詞をいう形式から、やがて弁士がその俳優の声色(こわいろ)を使う声色屋の時代、サイレント末期になると弁士自身の個性ある話芸を聞かせる時代へと推移した。活弁の話芸が売り物であり、写真は添え物で、ファンは活動(写真)を見に行こうといわず、だれだれ(弁士の名前)を聞きに行こうというようになった。人気弁士は映画そのものよりも、弁士本人の人気の方が大きかったといわれるほどで、声色調、落語調、熱弁調など様々なスタイルの弁士たちが人気を競っていた。
 活弁がこのような主導権をもったのは日本の映画興行の特性で、外国では字幕と音楽伴奏だけの上映が普通であった。当時の日本の観客の大部分は外国映画の欧文字幕が読めないということもあり、また浄瑠璃(じょうるり)をはじめとする語物の伝統も根強く、活弁は不可欠、当然のこととして定着した。観客が自己の鑑賞力に自信をもたず、感動の度合いまでも説明者の指示に従いたがったという側面もあった。政府統計によると、1926年(昭和1)には日本全国の弁士は女性も含め7576人であったが、30年代になり、トーキーの普及とともにほとんどの弁士は廃業せざるをえなくなり、活弁の時代は終わった。


映画と社会教育

 増え続ける観客、とりわけ少年観客層の増加に文部省は社会教育の一環として映画を位置付けました。1921年文部省主催の「活動写真展覧会」が東京で開催され、摂政宮(後の昭和天皇)も参観、映画への認識が大いに高まり1923年の「父は何処へ」、1924年の「国を掲げて」など教化映画の製作が進められました。


表現主義映画

 第一次世界大戦(1914年~1918年)後は、映画の製作と興行の主導権はヨーロッパからアメリカへ移りました。しかし敗戦国ドイツは逆に映画の製作に力をいれ表現主義映画の代表作 *「カリガリ博士」(1919年)など次々と日本へ送り込みました。日本では、*小唄映画が流行し、はやり唄と映画との結びつきが生まれました。

*カリガリ博士
 1919年製作、1920年公開。20世紀初頭ドイツでおこった表現主義を積極的に摂取した表現主義映画の代表作。ゆがめられた遠近法、幻想的な照明効果、誇張された演技などの反リアリズム的要素から成り立ち、不安と混沌の内的イメージを強烈に主観描写した映画史上画期的な作品で、革新的なドイツのサイレント映画。


プロダクション林立・時代劇人気と剣劇スター

・プロダクション林立
 関東大震災(1923年)を機に映画製作と映画館は急速に成長しました。小さな資本の群小プロダクションが林立、剣劇映画が多かったが、現代劇(メロドラマや喜劇)も結構作られました。

・時代劇人気と剣劇スター
 動きのスピード化、アメリカ活劇映画からの強い影響などで、旧劇人気の衰退と入れ替わるように新しい剣劇映画が台頭してきます。中でも*マキノ映画が大人気でした。
 また、旧劇の沢村四郎五郎を抱えていた松竹は現代劇の俳優を使った「新時代劇」を製作。この頃から「時代劇」という呼称が広まっていきます。

*マキノ映画
 1923年(大正12年)6月1日、日活と決別した先駆的映画監督である牧野省三が興し、1923年から9年にわたって独立プロとして自由製作と配給に終始したことの意義は大きい。京都がアジアに冠たる映画都市として輝くことになった功績は多大である。
 マキノ映画から育ったスターとして「紫頭巾・浮世絵師」(1923年)の阪東妻三郎、「鞍馬天狗」(1927年)の嵐寛寿郎など多数が登場した。


最初の黄金時代(1927年〜1940年)

・トーキー時代始まる
 ものを言う映画、音や音楽を出す映画のことをトーキー映画と呼んでいました。*トーキー映画は観客へ大きな驚きと感銘を与え、世界各国に広がっていきます。サイレント時代からトーキー時代へ。映画は音声を自ら発することが可能になりスクリーンには賑やかさと華やかさが加わってきます。
 1927年アメリカ映画「ジャズシンガー」の成功を皮切りに映画界はトーキー時代へ突入します。弁士の相変わらぬ人気と勢力、製作会社、興行側双方の資本力の弱さ、技術の壁などから日本におけるトーキーの進展はおもわしくなかったもののトーキー化への努力は続けられていました。それでも日本映画の大半がトーキー化になるのは、1930年代半ばを過ぎてからであり欧米映画にはかなり遅れを取ることになりました。

*トーキー映画
 発声映画のこと。サイレント(無声)映画の対語。厳密には映像と音声が同期した映画をさす。リュミエール兄弟による1895年の初興行以来、しばらくの間、映画フィルムは自らの音を備えていなかった。しかし興行場では弁士が語り、楽師が音楽を演奏しており、かならずしも無音で映画が上映されていたわけではない。その後、映像と音声の同期が試みられた。商業的長編映画として初のトーキー映画は、1927年にアメリカのワーナー・ブラザースが公開した「ジャズ・シンガー」である。日本では1931年(昭和6)に松竹キネマが製作した「 マダムと女房」が本格的トーキー映画第1作とされている。


 こうしたトーキーの出現は、新しい俳優の出現や新ジャンルの確立をもたらしました。落語や声帯模写など、語り芸を生業とする者がスクリーンへ登場し始め、榎本健一、古川ロッパ、加えて花菱アチャコと横山エンタツの大阪漫才風喜劇が台頭するようになりました。
 また「愛染かつら」のように主題歌の流行を通して人気を博する映画も現れました。
 トーキー出現は、撮影期間の長期化という現象をもたらし、これを機に日活は1934年に多摩川へ、松竹は1936年に大船へ移転拡充しました。それぞれの特徴として日活は重厚で泥臭い作風を、松竹は洗練された都会風の作風を得意としました。
 30年代は日本映画の傾向として小市民映画からホームドラマ(家庭劇)へ、或は叙情的リアリズムへと時代の移り変わりとともに少しずつ変化していきます。
 明治期演劇新派の家庭劇を源とするこのジャンルは、日本映画に数多くの題材を与え、多数の傑作を生みだしてきました。父母、兄弟姉妹、祖父母、親戚や友人など身近な人々が登場するドラマは、1950年代近くまで続き、日本映画の一大ジャンルを築いています。


松竹の小市民映画

 純映画劇運動の旋風が去ったのち、やがて運動の蒔いた種が実ってくると、明朗活発な都会風現代劇を作ろうという気運が生じ、新派のように選ばれた美男美女ではなく、ごく普通に生活している大学生やサラリーマンの喜怒哀楽をいかにもありそうなこととして描くことが求められて、作風に着実な変化を示すようになりました。
 1926年はこの松竹現代劇が本格的に始動した年でした。牛原虚彦うしはら‐きよひこ( 1897〜1985 )は「彼と東京」(1928年)や「陸の王者」(1928年)といった健全な青春映画、スポーツ映画を撮り、ごく普通の庶民を等身大で描く都会風現代劇が出現しました。
 また五所平之助ごしょ‐へいのすけ(1902〜1981)の「村の花嫁」(1928年)や「伊豆の踊子」(1933年)など田園を舞台とした叙情的な作風も登場しています。
 松竹現代劇に見る明朗で軽快なムードはやがて*小市民のささやかな幸福を描くというふうに変化していきました。この傾向を代表するのは小津安二郎おづ‐やすじろう(1903〜1963)です。小津は最初、ノンセンス喜劇から出発し、ハリウッドのルビッチやビィダーの影響を強く受けていたために「バタ臭い」と評されました。彼はゆるやかに主題と文体を変え大学生やサラリーマン、さらに下町の庶民を主人公に、人生をめぐる諦めと*達観を好んで描くようになりました。「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「生れてはみたけれど」(1932年)など庶民を主人公とした人生観を詰め込んだ作品を多く残しました。
 50年代にいたってその文体の厳密さは完璧なものと化し、彼は巨匠として畏敬されました。サイレント映画からトーキー映画へ移っていく時期でもありました。

*小市民映画
 昭和初期の日本映画に流行した現代劇映画の一ジャンル。大正から昭和にかけて社会的、経済的不安にさらされた小市民の生活を内容とし、彼らの失業や生活苦の現実面を積極的に描くのでなく、哀愁と感傷、ナンセンス的笑いを盛込みながら描いた一連の作品をいう。1920年代末から30年代にかけて日本映画とりわけ松竹映画が小市民映画の秀作を送り出した。


*達観(たっかん)
 真理や道理を悟り、何事にも動じない状態のこと。


日活映画の革新

 近代化では、松竹に一歩遅れた形になった日活は、1923年の関東大震災による向島撮影所の閉鎖を受けてようやく女形から女優への移行を果たします。翌年には京都の郊外に「日活太奏撮影所」が開設されます。
 日活現代劇の代表ともされる溝口健二みぞくち‐けんじ(1898〜1956)は、純映画劇運動を継承するかのように、ハリウッドで学んだ撮影技法を駆使し、「霧の港」(1923年)、「血と霊」(1923年)、「狂恋の女師匠」(1926年)など様々なジャンルを試み、後礎を築きました。
 他方、内務省による活動写真検閲なども行われ、衣笠貞之助きぬがさ ‐ていのすけ(1896年 〜 1982年)の「日輪」などは作品に当局の介入があり大幅な編集を余儀なくされました。しかし衣笠はその後も精力的に活動を続け、川端康成の協力を得て日本最初の前衛映画となる「狂った一頁」(1926年)や欧州で高い評価を受けた「十字路」(1928年)などを発表。純映画劇運動が理想とした目標の一つである国際進出は、溝口と衣笠という次の世代によって実現されました。

小津安二郎監督・溝口健二監督二人の作品は戦前期の日本映画の到達点を示しています。

小津安二郎 おづ やすじろう(1903年 〜1963年)
日本の映画監督、脚本家。日本映画を代表する監督の一人。「一人息子」(1936年公開)は人生の希望と挫折を淡々と画き、「淑女は何を忘れたか」(1937年公開)は夫婦間の微妙な駆け引きをユーモアとアイロニーを込めて描いている。

溝口 健二 みぞぐち けんじ(1898年 〜 1956年)
日本の映画監督。女性映画の巨匠と呼ばれ、一貫して虐(しいた)げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。また、ジャン=リュック・ゴダールを始めヌーベルバーグの若い映画作家を中心に、国内外の映画人に多大な影響を与えた。代表作に働く女性の生きることの困難さを、大阪弁や京都弁の生き生きした会話を通して、女の意地と男のエゴイズムとの葛藤の中に描いた「浪華悲歌」(なにわエレジー)(1936年公開)・「祗園の姉妹」(ぎおんのきょうだい)(1936年公開)がある。


30年代の主な映画
日活:内田吐夢の「人生劇場・青春篇」1936年・「土」1939年
   熊谷久虎の「蒼氓」1937年・「阿部一族」1938年

松竹:島津保次郎の「隣の八重ちゃん」1934年
   小津安二郎の「一人息子」1936年
   野村浩将の「愛染かつら」1938年・
   清水宏の「有りがたうさん」1936年・「花形選手」1937年など


映画熱上昇

・映画熱上昇
 大正末期から昭和初期は映画熱がぐんぐん高まっていきます。時代劇と現代劇の比率を昭和2年(1927年)の統計でみますと、時代劇製作の多い順から、マキノ75%、東亜63%、帝キネ61%、日活55%、松竹43%となります。しかし生活の洋風化が進み現代劇のスターが人気を呼ぶようになると現代劇の製作比率は段々と高く成り逆転するようになります。
 1930年版の「日本映画事業総覧」によると、撮影所は大小合わせて13カ所。長編映画の年間製作本数750本。映画常設館1244館。観客数は大人約1億1243万人、子供が4050万人。日本全国で発行される映画雑誌・新聞等は350種に及び、日本は映画製作本数でアメリカ映画に拮抗する映画王国でした。

・映画雑誌の黄金時代
 大正時代に入ると、洋画ファン向け、邦画ファン向け、各撮影所が出す宣伝雑誌、ファンから自然発生的に生まれる同人誌など映画雑誌の創刊ラッシュが続きます。中でも1919年創刊の「キネマ旬報」、1946年創刊の「スクリーン」などは、息長く発展し現在に至っています。

・押し寄せるアメリカ映画
 物語のわかりやすさ、展開の速さ、男女俳優の魅力、様々な分野の開拓、中でもスラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)=チャップリンが有名=は子供から大人まで大人気でした。

・映画と広告
 30年代この時期、新聞、ラジオに加え映画は3大メディアとなります。広告や広報活動はこれらのメディアを通して発展していきます。


戦争時と敗戦後の映画事情

・戦時下の映画
 映画が大きな影響力を持ち始めた大正末(1925年)、内務省は映画検閲の全国統一化を実施しました。以降警察の取り締まりを基本としました。一方映画製作者・興行者・観客の教化など啓蒙を基本とする文部省との二つの流れがありました。  日中戦争、太平洋戦争と戦時下で検閲は強化されていきます。1939年4月に映画法が公布、10月に施行されました。製作と配給は許可制、監督と俳優は登録制となり、脚本の閲覧や外国映画上演の制限も行われました。
・戦争の拡大と映画
 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃により戦争は一気に拡大していきます。日本国民の多くが近親者を*出征(しゅっせい)させており、戦線の様子を伝えるニュース映画や記録映画は大きな感心を引きました。しかし劇映画は無論の事、ニュース映画や記録映画にも検閲の目は厳しく、戦争の実態は隠されたままでした。

*出征(しゅっせい)軍隊に加わって戦地に行くこと。


・敗戦と占領
 1945年8月15日、日中戦争から大東亜戦争へと拡大し続けた戦争(1937〜1945)も終りました。検閲だけでなく物資不足にも苦しんでいた映画会社は製作を中断、米軍を中心とする占領軍の指導を仰ぐことになります。軍国主義から民主主義へ映画界はあわただしい大転換を余儀なくされますが、息苦しかった戦時体制からの開放感も漂いました。しかし皮肉にも占領軍による新たな検閲が始まります。

・占領軍が残した映画教育
 占領軍によって示された映画製作の基本方針は、平和国家、民主主義、個人の尊重、封建的忠誠心や復讐心の排除などがありました。

・戦後間もない日本映画
 戦後すぐに作られた日本映画は、内容が無難な歌謡映画、レビュー映画、喜劇などでありましたが、新たな題材も増えていきます。

・解放された青春
 戦前の窮屈さとは違って、戦後の男女の交際と恋愛の自由は、若者たちに明るい開放感をもたらしました。現実の生活は貧しく多くの障害があっても、男女の平等と自由恋愛は若者たちにとってまぶしいほどの希望に満ちていたようです。

・反戦と社会意識
 映画人たちのほとんどが、戦中の国家主義から戦後の平和主義、個人主義へと大転換していきました。映画ではかつての軍国主義への自戒や反省が描かれると共に社会問題へも批判のまなざしが向けられるようになります。

・戦争の悲しみと苦しみ
 戦争犯罪者を*弾劾する作品も作られましたが、観客の共感を呼んだのはそのような映画ではありませんでした。被害者側の悲劇として大きな共感を呼んだ「ひめゆりの塔」(1968年公開)、災難のように戦争が間接的かつ感傷的に暗示された「二十四の瞳」(1954年公開)。なかでも「戦争と平和」(1956年公開)は加害者としての日本人を垣間見せ、「真空地帯」(1952年公開)は家父長制度下における軍人一家の悲劇を見つめたものです。

*弾劾(だんがい)身分保障された官職にある者を、義務違反や非行などの事由で、議会の訴追によって罷免し、処罰する手続き。


・女性たちの苦悶
 日本映画は一般に、女性たちの苦しみや悲しみには敏感であったといえます。すでに戦前から溝口健二や成瀬巳喜男監督の作品には女性たちへの特別な眼差しがありました。戦後は、溝口・成瀬監督の秀作群と共に、新藤兼人や木下恵介監督の作品にも女性たちへの応援歌が聞こえてきます。
 戦争末期に、優れた才能を持つ二人の監督、黒澤明と木下恵介がそれぞれ第一作を発表、両監督は戦後の日本映画を背負って立つことに成ります。


第2の全盛時代へ(1952年〜1960年)

 日本映画の黄金時代は1950年代です。もう少し幅をとるなら1930年代から1960年代初頭まで(日中戦争〜第二次世界大戦末期から敗戦間もない時期を除く)ということになります。優れた人材の多くは30年代に傑作、秀作を生み出しており50年代に円熟期を迎えます。
 1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると翌年に*GHQによる映画検閲が廃止となります。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活すると共に多数の映画が製作されるようになりました。国際映画祭において黒澤明、木下恵介、溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し日本の文化的矜持(きょうじ)の回復に務めました。また1958年には映画人口が11億人を突破するなど映画は、娯楽の殿堂として不動の存在になると共に映画産業における第2の黄金時代が到来することになります。

*GHQ連合国軍最高司令官総司令部


50年代の主な映画

東映「新諸国物語 笛吹童子」シリーズ(1954年三部作)中村錦之助、東千代之助主演
「新諸国物語 紅孔雀」シリーズ(1954〜1955年五部作)
また市川右太衛門、片岡千恵蔵など大人向け時代劇も活性化し、時代劇王としての地位を築く。現代劇でも中原ひとみ、高倉健、佐久間良子、千葉真一などのスターを輩出した。また日本初の長編アニメカラー映画「白蛇伝」はくじゃでん(1958年)を公開するなど日本アニメ映画の中興の祖としての役割も大きい。

東宝「三等重役」森繁久彌主演よりサラリーマンシリーズ・社長シリーズ・駅前シリーズが大ヒット。今井正監督「また逢う日まで」(1950年)、稲垣浩監督「無法松の一生」(1958年)、成瀬巳喜男監督「浮雲」(1955年)、岡本喜八監督「独立愚連隊」(1959年)、黒澤明監督「生きる」(1952年)、「七人の侍」(1954年)、「隠し砦の三悪人」(1958年)、「ゴジラ」(1954年〜1975年)。以降小田基義監督+円谷英二特撮監督「透明人間」(1954 年)、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による「日本誕生」(1959年)など特撮作品でヒットした。

松竹「君の名は」(1953年〜1954年)大庭秀雄監督、「にごりえ」(1953年)、「キクとイサム」(1959年)今井正監督を初め文芸作が大ヒット。小林正樹監督「人間の条件」(1959年〜1962年)ではヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞を受賞した。さらに福田晴一監督「二等兵物語」(1955年)など松竹が得意とする喜劇作品もヒットした。
木下恵介監督は「カルメン故郷に帰る」(1951年)、「日本の悲劇」(1953年)、「二十四の瞳」、「女の園」(1954年)、「樽山節考」(1958年)等、小津安二郎監督は「麦秋」(1951年)、「東京物語」(1953年)、「早春」(1956年)、「彼岸花」(1958年)など発表している。

日活1953年の製作再開以降、市川崑監督「ビルマの竪琴」(1956年)などの文芸作を製作していた。石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子などの自前のスターを作りだし若者向けや無国籍アクション映画を製作・配給した。中でも「太陽の季節」、「狂った果実」(1956年)、「嵐を呼ぶ男」(1957年)、「陽のあたる坂道」、「風速40米」(1958年)などの石原裕次郎主演作が大ヒットする。

大映1950年代から60年代前半にかけて男優では長谷川一夫、市川雷蔵、女優では京マチ子、山本富士子らが出演し、溝口健二監督「近松物語」(1954年)など名作を多数送り出した。


国際的な映画監督たち

 1951年*「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭で日本映画初のグランプリを受賞、それまで国際的には無名だった日本映画が一躍脚光を浴びます。この後、国際映画祭における受賞ラッシュが続いて、日本映画は世界的な感心と注目を浴びアメリカ映画ともヨーロッパ映画とも異なるアジア映画の独自性を評価されることになります。また、1982年ヴェネツィア国際映画祭は過去のグランプリ受賞作中の最高作に「羅生門」を選びその栄誉を称えました。極東の国から届けられたフィルムに世界中が驚嘆しました。

・黒澤 明(くろさわ あきら)(1910年 〜1998年)監督
 日本の映画監督、脚本家。 第二次世界大戦後の日本映画を代表する映画監督であり、国際的にも有名で影響力のある映画監督の一人。 ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られている。
 1910年3月23日現在の東京都品川区に生まれ。1936年PCL映画製作所(現・東宝)に入社、山本嘉次郎監督に師事。1943年「姿三四郎」で監督デビュー。1950年の*「羅生門」でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、第24回アカデミー賞特別賞(最優秀外国語映画賞)を受賞、「世界のクロサワ」と呼ばれる日本を代表する監督の一人となる。1998年9月6日、東京都世田谷区成城の自宅で死去。享年88歳。痛快で娯楽性のある斬新なその作品は全世界の映画人に衝撃を与え、発表当時のみならず今なお映画製作・映像製作に多大な影響を与え続けている。

*「羅生門」(らしょうもん)1950年公開の日本映画で、黒澤明監督。三船敏郎、京マチ子、森雅之などが出演した。黒澤明監督は生涯で30本の監督作品を発表したが、その内16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。


・木下 恵介(きのしたけいすけ)(1912年 〜 1998年)監督
 日本の映画監督、脚本家。真面目で抒情的な作風で知られ、数多くの映画を製作した後、テレビ・ドラマにも進出しました。日本映画史に輝く名作*「二十四の瞳」を初め、ヴェネツィア国際映画祭正式出品の傑作*「樽山節考」、日本初のカラー映画*「カルメン故郷に帰る」など数々のヒットを生み世界が認める功績を残しました。日本映画最盛期に黒澤明とともに人気、評価を二分し、日本映画界の一時代を築いた天才監督です。

*「二十四の瞳」(にじゅうしのひとみ)1954年(昭和29年)公開。松竹大船撮影所製作、木下恵介監督・脚本、高峰秀子主演による日本映画。1952年(昭和27年)に発表された壺井栄の小説「二十四の瞳」が原作であり、この2年後公開された。日本が第二次世界大戦に突き進んだ歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていく女性教師と生徒たちの苦難と悲劇を通して、戦争の悲壮さを描いた作品。


*「楢山節考」(ならやまぶしこう)1958年(昭和33年)公開。松竹大船撮影所製作のカラー映画。深沢七郎原作の同名小説の最初の映画化作品。


*「カルメン故郷に帰る」1951年公開。日本初の総天然色映画として製作された。主演は高峰秀子と小林トシ子。東京でストリッパーをしているハイカラな娘が友達を連れて里帰りしたことから静かな村が大騒ぎとなるさまをコミカルに描いた作品。


・溝口健二(みぞぐち けんじ)(1898年 〜 1956年)監督
「西鶴一代女」1952年、「雨月物語」(1953年)、「山椒大夫」(1954年)とヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。

・衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)(1896年~1982年)監督
「地獄門」(じごくもん)を1953年公開。第7回カンヌ国際映画祭でグランプリ受賞している。

・小津安二郎監督(おづ やすじろう)(1903年〜1956年)監督
 サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の「晩春」(1949年)、「麦秋」(1951年)、「東京物語」(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。

 1958年には映画の観客数がピークに達しました。(約11億3000万人)。国民1人当たり年12回足を運んだことになります。映画製作本数と映画館数のピークは1960年で547本、7457館でした。戦後の大手としては、東宝・松竹・大映・日活・東映があり、製作陣、演技人とも最も充実した時代です。


1960年代〜2000年まで

 1960年をピークに映画産業に陰りが見え始めます。観客数は1958年の11億人強を最高に急激に下降し1963年には半分以下の5億人強となりました。この背景には1953年より登場したテレビの急激な普及があります。テレビは1959年の皇太子結婚をきっかけに一般に広く浸透し、1964年の東京オリンピックでその勢いを加速しました。映画人口もピーク時の7分の1で映画がこれほど衰退した国は世界に例がないと云われました。
 その一方では、1969年に寅さんこと渥美清主演の「男はつらいよ」が松竹から配 給されます。同作品はその後27年間に及び全48本が製作され世界映画史上、最長寿記録の人気シリーズとなりました。車寅次郎の日本各地をめぐる放浪と帰郷、東京柴又の家族との人情喜劇に、山田洋次監督の手腕が光ります。
 また、1976年には角川春樹が映画製作に進出。「犬神家の一族」を皮切りに、「人間の証明」、「野生の証明」など封切された作品を次々に大ヒットさせました。洋画とテレビに押される一方だった日本映画の停滞を打ち破り、角川映画の勢いは1980年代の半ばまで続きました。

 アニメーションやドキュメンタリーの分野は発展し、後の礎(いしずえ)を築きました。1977年に東映が配給した「宇宙戦艦ヤマト」では日本映画で初と言われる徹夜組ができ、1979年には「銀河鉄道999」(東映製作配給)が公開され、同年の邦画配給第一位となり、アニメ映画史上初の快挙となりました。
 1980年代になると従来のスタジオシステムは崩壊し、大手が大作映画を全国の専属劇場で同時公開するという方式が成り立たなくなりました。
 1984年、伊丹十三いたみじゅうぞう(1933年〜1997年)が51歳で「お葬式」で映画監督としてデビューし、日本アカデミー賞など30を超える映画賞を受賞。1987年の「マルサの女」は社会現象化しました。「あげまん」(1990年)、「ミンボーの女」(1992年)など90年代後半にかけて作品を発表し続け計16本の作品を手掛けました。

 シネマコンプレックスが日本に定着した90年代は、長期恒常的な不景気のあおりを受けつつも、1994年に映画館数がようやく増加の傾向に切り替わりました。1960年から30年間、全ての数値で減少し続けていた映画界において、わずかながらではあるが、回復の兆しが見え始めた時期になります。メディアミックスの動きが活発になりゲーム、漫画、アニメなどと連動した映画作品が増加しました。またテレビ製作会社の映画事業参入が増加し、2000年代の邦画復活の布石(ふせき)となりました。
 1950年代より遠ざかっていた国際映画祭の話題もいくつか出現し今村昌平の「うなぎ」(1997年公開)が第50回カンヌ映画祭のグランプリンを、河瀬直美監督の「萌の朱雀」もえのずさく(同年公開)がカメラ・ドールを獲得しました。またヴェネツィア映画祭では北野武監督の「HANA-BI」(1998年公開)が金獅子賞を獲得しました。
 宮崎駿監督の「もののけ姫」は記録的なヒットになりました。


2000年代〜

 近年海外の映画監督の評価もあり日本独自の映像表現が見直されるようになりました。特にホラー映画が海外でも脚光を浴び*「呪怨」などがハリウッドでも*リメイクされるようになり、同時に低迷する日本映画を支える動きが起こりつつあります。その成果でしょうか、2006年は21年振りに邦画の興行収入が洋画の興行収入を超えました。(洋画の興行収入の低迷による一面もあります)
 一方、東京など大都市よりも地方都市でロケーション撮影をする作品が多くなっています。ヒット作品の中には地方都市を舞台にした作品もあり、これをきっかけにロケ地を巡る観光客が増加したケースもあります。
 地方活性化の一役を映画が担っている面もこの時代から急速に大きくなっています。そのため誘致から撮影のスケジュール調整などを担う「フィルムコミッション」が各地に設立されています。
 現在日本映画の製作本数は増加しており、2006年の公開作品本数は821本(1955年以降で最高)入場者数は1億6427万人、2019年には1億9491万人余りでした。

*呪怨(じゅおん)2000年に発売された清水崇監督・脚本によるホラーのビデオ作品。また、これを原作とする2003年1月25日に単館系で公開されたホラー映画。劇場版は、2003年8月23日に続編が公開された。


*リメイク元となる作品を一から作り直すこと。概に作られた作品の再映画化。


映画界のさまざまな仕事・映画は21世紀へ

 俳優、プロデューサー、監督、脚本はもちろんの事、撮影、録音、編集などのスタッフの活躍により1本の映画は出来上がります。しかし総合芸術である映画の仕事には更にさまざまな人たちの努力があります。特に時代劇においては、特別な「技」を必要とする仕事が多くあります。これらは一朝一夕に習得できるものではない伝統的な技術です。
 世界の映画に100年余りの歳月が流れました。時代とともに、映画の題材も変化しています。映画は大衆の*嗜好(しこう)に左右される一方、大衆の欲望を先取りします。時代の波に乗りながら時代の先を進むこともあります。
 産業としての映画製作は苦しい状況が続いています。しかしテレビ、ビデオ、ディスク等を通して、あるいは近年の複合型映画館(シネマコンプレックス)やデジタル映画を通して、映画の流通経路や鑑賞形態が多様化し、鑑賞者との接点は各段に増えました。従来の映画館の外に広がる映画鑑賞者数は、かつての黄金時代をはるかに超えています。そしてコンピューターの導入による技術革新はこれまでの映画製作のあり方を変えつつあります。過去100年余りの間に生み出された多数の日本映画。いまなお生まれ続ける新しい日本映画。21世紀に入り、私たちは日本映画のさらなる発展を願っています。
 映画製作にたずさわる人々の映画作りに賭ける情熱は昔も今も変わりません。しかし、デジタル技術の発展は、日進月歩であり止まるところを知りません。100年後にはどんな新しい映像表現が生まれるのか楽しみです。

*嗜好(しこう)人それぞれに異なる好み。


2.伊勢の映画館

 現在の映画の原形を作ったのは、フランスのリュミエール兄弟です。スクリーンに投影して一度に多くの人々が鑑賞できる方式「シネマトグラフ」を開発し、明治28年(1895年)パリにおいて有料公開されました。
 日本においては、その2年後の明治30年(1897年)大阪南地演舞場で初興行されています。その後、映画の興行は全国を巡回することになります。大阪での初興行と同じ年、津市にある芝居小屋「泉座」で三重県初のシネマトグラフ興行が行われています。この興行は大きな評判となり当初の予定を延長しての興行となりました。
 一方、当時の伊勢はどのような状況だったのでしょうか。江戸時代お伊勢参りで賑わう中、元和3年(1617年)古市に芝居小屋が誕生します。「口の芝居」と「奥の芝居」です。その後明治13年(1880年)に「口の芝居」は「長盛座」となり多くの歌舞伎や芝居が上演されました。他にも伊勢には多くの芝居小屋があり、二俣にあった燕尾座、宮後の新福座(明治41年焼失しその後新明座として再建)、一之木の新北座・蛭子座等多くの芝居小屋が点在していました。これら伝統ある芝居小屋のうち、伊勢における初めての活動写真興行の場所に選ばれたのが長盛座でした。明治30年(1897年)の津市泉座における三重県初興行を打ち上げた翌日には長盛座において伊勢で初興行が行われました。
 その後、伊勢では各地の芝居小屋で何度か活動写真興行が行われることとなりました。(明治39年(1906年)新福座にて大阪の八千代活動写真会の興行、新明座では東京Mパテー(日活の前進)の曽我兄弟を扱った作品の興行など)。この様に映画が日本に輸入されて以来、映画興行は芝居小屋を中心にした巡回興行が頻繁に行われました。
 一方、現在にも連綿と続く常設映画館が誕生します。日本で最初の常設映画館は、明治36年(1903年)に開館した東京浅草の電気館です。三重県における最初の常設映画館は映画初興行の場所でもあった津市の芝居小屋「泉座」で大正4年(1915年)4月に日活直営館の常設映画館として開館することとなりました。泉座が常設映画館となった同年、四日市に2番目の常設映画館が開設。そして伊勢にも常設映画館が誕生することになります。
 伊勢で最初の常設映画館として開館したのが帝国座です。帝国座は明治25年(1892年)に開館した芝居小屋、新北座が前進ですが大正4年(1915年)に三重県では3番目に作られた常設映画館として生まれ変わりました。
 歌舞伎などの芝居に代わる娯楽として日本映画最盛期であった昭和30年代、伊勢でも多くの映画館が開設し、最盛期で10館を越す劇場が人々に娯楽を提供してきました。


伊勢の映画館

帝国座、世界館、松竹館、平和座、伊勢東映、白鳥座、パール劇場、伊勢新東宝劇場・ひかり座、共楽館、伊勢劇場、トキワ劇場、いすず東映、つばめ座・伊勢シネマ

















3.小津安二郎の世界

 小津安二郎おづやすじろう(1903〜1963年)は、日本の映画監督、脚本家で日本映画を代表する監督の一人です。サイレント映画時代から戦後までの約35年に渡るキャリアのなかで原節子主演の「晩春」(1949年)、「麦秋」(1951年)、「東京物語」(1953年)など54本の作品を監督しました。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されています。1962年には映画人初の日本芸術院会員にも選出されました。


生い立ち〜映画界入りまで

 1903年12月12日、現在の東京都江東区深川1丁目に父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれました。生家の小津新七家は松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門家の分家にあたります。両親は典型的な厳父慈母で小津は優しく思いやりのある母を終生敬愛しました。1913年、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針のもと一家は小津家の郷里である松阪市に移住しました(父は仕事があるため東京と松阪を往復する生活)。
 同年4月、現在の松阪市立第二小学校4年生に転入。自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのをきっかけに、映画にのめり込んでいきます。1916年、三重県立第四中学校(現在の宇治山田高校)に入学し寄宿舎に入ると、ますます映画に熱を上げ、家族に偽って名古屋の映画館まで行くこともありました。当時はアメリカ映画一辺倒で、特に感銘を受けたのは、トーマス・H・インス監督の「シヴィリゼーション」(1917年)。映画監督の存在を初めて認識し志すきっかけとなった作品です。
 1921年に中学校を卒業。高校受験に失敗し浪人を余儀なくされますが、映画に没頭。翌年も不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松坂市飯南町)の宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任します。休日は映画館へ出かけ、児童らにも活劇の話をするなど、映画熱が冷めることはありませんでした。
 1923年、一家が東京市深川区に引っ越すのを機に代用教員を辞め、共に上京します。映画会社への就職を希望するも、映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業として軽蔑されていたため、父は反対します。しかし母の異母弟の伝手で、同年8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社、撮影部助手としてついに映画界入りを果たしたのです。


人柄

 小津はユーモラスな人物で冗談や皮肉を交えてしゃべることが多くカメラマンの厚田雄春は「道化の精神」と呼んでいました。人見知りをする性格で特に女性に対してはシャイでありそのために生涯独身を貫いたとも言われています。


テーマ

 初期の作品には昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在します。「大学は出たけれど」、「落第はしたけれど」、「会社員生活」、「東京の合唱」など不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした作品を多く残しています。また、小津は生涯を通して家族を題材にとり親子関係や家族の解体などのテーマを描きました。「小市民映画」の一つに位置付けられています。


作風

 小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ「小津調」と呼ばれました。特徴は下記の通りです。

 *カメラを低い位置に据えるロー・ポジションで撮影
 *極力カメラを固定して撮影
 *人物、小道具が相似形に並ぶ構図
 *小道具や人物の位置をミリ単位で決めた配置
 *同じテーマ、同じスタッフとキャストを採用
 *アメリカ映画の影響を受けたソフィスティケ―ション

 戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持ち物を愛好するモダンボーイで、1930年代半ばまではアメリカ映画の影響を強く受け、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っています。例えば「非常線の女」(1933年)は画面に映るものはダンスホールやビリヤードなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品でした。また「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)はハロルド・ロイド主演の喜劇映画の影響を受けています。


評価

 多くの作品が高評価を受けキネマ旬報ベスト10では、20本の作品が10位以内に選出され、その内6本が1位になっています。
 1950年代前半から海外で日本映画が注目され、特に黒澤明、溝口健二の作品が海外の映画祭で高評価を受けるようになりましたが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたために、中々海外で紹介されることがありませんでした。小津作品が最初に海外で評価されたのは1958年にイギリスのロンドン映画祭で「東京物語」が上演されたときで、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られるサザーランド杯を受賞しました。その後アメリカやヨーロッパでも上映されるようになり海外での小津作品の評価も高まりました。中でも「東京物語」は2012年に英国映画協会の映画雑誌サイト・アンド・サウンドが発表した「史上最高の映画トップ100」で監督投票部門の1位に選ばれました。


伊勢で上映された小津作品

 伊勢の映画館で上演された小津作品で確認できるのは「早春」(昭和31年公開)、「彼岸花」(昭和33年公開)、「お早よう」(昭和34年公開)等です。
 これらすべての上映映画館は、小津とは宇治山田中学校当時の同級生であった井阪栄一が経営する「白鳥座」でありました。




協力 ・公益社団法人 伊勢志摩フイルムコミッション
   ・中野本一
   ・伊勢市役所 文化政策課
   ・鳥羽市教育委員会 野村史隆


参考・引用文献
   日本映画史100年 集英社新書
   日本映画の歴史 全3巻
   伊勢の映画館と銀幕チラシの世界 伊勢市立郷土資料館
   日本映画 ウィキペディア