古市

「御師・神職による書画」展
令和3年度 前期特別企画展
2021/04/06

令和3年度 前期特別企画展「御師・神職による書画」展

目的

 伊勢は神宮と共に発達した都市であり、伊勢信仰が全国的規模で普及するに従い、参宮客が各地より集まり活況を呈するに至りました。その原動力となったのが御師と呼ばれる人々でした。
 御師は地方の檀家を巡りお札や伊勢暦などを配って布教活動に努め、檀家の参宮に当たっては、御師邸に宿泊させ食事の世話などもしていました。
 御師たちは全国からの参宮客に対して恥じない「もてなし」をするために、礼儀作法から諸芸(茶道・俳諧・書・絵画など)や学問(神宮学・国学など)に至るまで高い学識を必要としました。各御師家では子弟の教育に力を入れ、互いに切磋琢磨する努力を惜しみませんでした。また全国に張り巡らされた師檀の情報網を通して著名な学者や芸術家の存在を知り、その門人となったり、それらの人々が伊勢参宮をするときには、御師邸に迎え、教えを乞いました。こうして伊勢の町は京・大坂・江戸に並ぶ多くの文化人(俳諧の荒木田守武、絵画の磯部百鱗、国学の足代弘訓など)を輩出したのです。
 今回の特別企画展においては御師と、その起源といわれる神職も含めた文化人が残した書画を中心に展示します。


場所

 伊勢古市参宮街道資料館 [ 地図 ]
 〒516-0034 三重県伊勢市中之町69
 TEL/FAX 0596-22-8410 TEL


期間及び開館時間

 令和3年4月6日(火)〜5月9日(日)
 9:00〜16:30 最終日は15:00まで
 月曜日及び祝日の翌日は休館


主な展示物

 書・画などの軸・パネルによる解説

Ⅰ 伊勢御師(おんし)の本文

御師の成り立ち

 御師の起源は明らかではありませんが、平安時代後半頃には存在していたようです。本来神宮では私幣禁断(しへいきんだん)といって、天皇以外の人が私のために祈るということは禁止されていましたが、この頃になると下級神職の中に、私の祈祷を受け付ける人々(御師)が現れ特に鎌倉時代以降、源頼朝(よりとも)を初めとする武士階級にも、御師として関わる人々が現れ、伊勢信仰が広がりました。また、室町時代には足利義満以下多くの将軍が御師の世話を受け、たびたび伊勢参宮を行い織田信長ほか多くの戦国大名もこぞって参拝し、御師の屋敷に宿泊しています。江戸時代には徳川将軍家を初め多くの大名や貴族も檀家となり庶民の伊勢参宮も盛んとなりました。


御師の回檀

 回檀とは御師が自分に所属する檀家を、年に一度年末に近い頃回ることです。回檀は御師の当主が行うのではなく、代官・手代・先達(せんたつ)と呼ばれる御師の家来がお供を連れて(2〜3人)北は北海道の南部から南は鹿児島に至る全国津々浦々の各地を分担して回りました。当主そのものは、代替わりの時に有力な檀家を中心にあいさつ回りをしたものです。
 回檀の折りに、御師(代官など)が宿泊するところを、御伊勢宿と呼び、それは各地に設けられていました。そこには伊勢信仰を徹底するため、神木や神灰(神木はご神体として、神灰は不信心者にそれをかけて、天罰が降ることを述べて戒める)を安置していました。
 御師が回檀の折り、持って行ったのは神宮の御札だけでなく、伊勢暦や万金丹(薬)その他伊勢の名産(伊勢白粉・茶・ふのり・熨斗鮑・鰹節・帯・櫛・扇・箸・紙・墨など)も配っていました。檀家はそれに対して応分の初穂料(金納のほか、馬・漆・麻などの土地の産物をもってする者もおり、産物の場合はその地で換金する)を納め、もらった御礼は神棚に納め一年間の天下泰平・家内安全・五穀豊穣・大漁などを祈っていました。伊勢信仰を伝えるため交通の不便な各地へ雪の降り始める頃に一年に一度、必ず檀家を回った御師の苦労がしのばれます。今でも伊勢に残るかつての御師家にお願いし神官より購入して頂いたお礼を送ってもらう旧檀家の方もいるようです。


御師のもてなし

 新年を迎えた檀家の多くは、田植えまでの農閑期(12月〜4月)に、伊勢参宮をしていました。
 参宮者は、旅費を為替で御師に納め御師の手代(てだい=使用人)などから道中の世話を受け、御師の契約する「講宿」に泊まり、伊勢の町では、師檀関係にある御師邸に宿泊し神楽や祈祷を受け御札をいただき両宮を参拝していました。参拝後は古市で遊んだり近隣の神社仏閣、志摩や二見などの名所の案内を受けていました。また、参宮者の多くは、伊勢までの道中各地の神社仏閣・名所旧跡などを回り、さらに東国の人々は参宮後も熊野や奈良・京都・大阪、中には四国まで足を延ばす者もいました。これらの旅の多くも全国に張り巡らせていた御師の組織が活用されて、可能になったものと考えられます。その期間は、2〜3ケ月に及ぶものもありました。伊勢までは精進修行の旅で伊勢以降は宿泊数も増え慰安、観光的な参詣となっていました。買ったお土産は、宅配するというシステムが伊勢の町から全国に通じていました。


御師の施行

 この他、御師は「抜け参り」と呼ばれる親や店の主人に許しを得ないできた銭を持たない参宮者に対しても「施行所」(せぎょうしょ)を設けて飯や湯茶・菓子・銭・手拭・草履などを与え、無料の宿泊を世話したりしました。また、宮川の渡しや海の渡しの船賃も御師が出して無料とするなど、伊勢音頭に「せめて一生に一度でも」と謡われるあこがれの地となるよう大変努力をしていました。


Ⅱ 伊勢御師と文化

 御師は、宇治(内宮304軒)山田(外宮615軒)の町に併せて900軒余りありました。御師は全国総戸数の8割近くを檀家としており、「お陰参り」の時には、当時の人口の約1割(約500万人)を超える人々が、御師の世話により参宮していました。
 全国からの参宮客に対して恥じない「もてなし」をするためには、礼儀作法から諸芸(茶道・華道・和歌・絵画等)や学問(神官学・国学等)に至るまで高い学識を必要とし、各御師家では子弟の教育(家学)に力を入れ、互いに研磨を積んでいました。宇治の林崎文庫や山田の豊宮崎文庫を創設したのもその一つです。また、全国に張り巡らされた情報網(師檀関係)を通して著名な学者や多才な文化人の存在を知り、その人の門に入ったり、それらの人々が伊勢参宮するときには、御師邸に迎え教えを受けました。伊勢の町は京都、大坂、江戸に並ぶような多くの文化人(茶道の杉木晋斎、俳諧の荒木田守武、三浦樗良、絵画の磯部百鱗、国学の足代弘訓など)を輩出しています。御師は伊勢の町に花開いた文化も支えていたのです。


旧豊宮崎文庫(国指定史跡)

 慶安元年(1648)外宮禰宜・出口延佳の主唱により、創設されました。図書館と一種の学校の性格をもち文庫内には書庫、講堂等がありました。


旧林崎文庫(国指定史跡)

 貞享3年(1686)宇治会合所の大年寄らが山田奉行・岡部俊河守に請うて幕府の下賜金を得て、翌4年丸山に文庫が創設されました。しかし湿潤地であり書庫の保管に適さなかったため元禄3年(1690)に北隣の林崎に移され内宮祠官子弟の修学道場として発達しました。


Ⅲ 御師の廃止以降について

 明治維新は日本国中あらゆる方面にわたり大革命をもたらしましたが、この伊勢の町においてこれほど大きな社会革命はありませんでした。
 明治政府は、明治4年(1871)7月22日神宮制度の改革に伴い、御師の営業を断然として停止しました。これにより神宮の仲介を果たしてきた御師と、これまでに築いてきた檀家との関係に終止符を打つことになりました。
 このことから、御師の転職が相次ぎました。転職先としては料理関係貸席関係20例、傘、紙、指物(手工業関係)26例、商業13例、小道具屋5例、他に鍛冶屋、質屋、医師等がありました。
 しかしながら御師と檀家との関係の中で御札の配布は停止となりましたが、それ以外の師檀関係については厳格に禁じられていませんでした。昔気質の参宮客は従来通り旧御師宅を宿所としている者もあったようですし、また単に止宿のみにとどまらず、旧御師家からお神酒などを受け取り、郷里の祠に供える者もいました。この様な状態が昭和後半まで続いていた旧御師もあったようです。
 市内にある残る御師邸は、丸岡宗大夫(宮町1丁目)・東大夫(一志町)のものを除いて、現地に残るものはほとんどなく、門の幾つかが市内あるいは市外(多気郡五桂珊瑚寺)に移築されています。


丸岡宗大夫邸

 御師・丸岡宗大夫は慶長年間(400年前)に伊勢山田下中之郷町鳥帽子世古(当地)に移住し、明治4年(1872)7月に師職制度が廃止されるまで、代々御師を営むと共に下中之郷町の町年寄の一員として山田の自治を但いました。
 また、外宮高官御塩焼物忌職を勤めました。御師は全国の檀家に神宮の御札(大麻)を配って初穂料を集め彼らが参宮に来る際の宿泊、飲食、名所案内、神楽の奉納を手配しました。18世紀中頃には、伊勢市内に750人(山田480、宇治270)の御師がおり、全国から多くの参宮客を山田と宇治に招き入れていました。
 丸岡宗大夫は大坂や信州などに併せて8,000軒ほどの檀家を持ち中規模程度の御師でした。邸内に残る古文書の他には檀家を接待した際の献立帳や初穂料を集めた記録などがあります。また神楽を奉納した額や朱塗りの食器類なども残っていて当時の御師邸の様子を伺い知ることが出来ます。この建物は、現在伊勢市内に現存する唯一の御師邸であり、慶長年間からこの地に御師丸岡宗大夫が存在し続けた貴重な歴史遺産です。建物は記録によると慶応2年(1866)に700両余りをかけて長屋門、玄関、台所、母屋を立て替えたもので幸いにも昭和20年の戦災による焼失を免れ、その後南側の屋敷部分は、無くなりましたが、約230㎡(70坪)の家屋が残っています。神宮文庫に移設された福島御塩焼大夫邸(通称黒門)や徴古館東側にある葉山大夫の門のように、市内に残る御師邸の門はすべて薬医門であり長屋門が残るのはこの丸岡宗大夫邸のみです。


丸岡宗大夫邸長屋門

丸岡宗太夫邸内

「伊勢古市参宮街道資料館の歩み」より


伊勢御師の余技

 当地伊勢には、明治時代初期まで「御師」と呼ばれた職業があった。御師は「御祈祷(いのり)師」あるいは「御 師匠」に由来すると言われ、他の有力社寺に置かれたものを「オシ」と呼ぶのに対し、伊勢では「オンシ」と呼ぶの が通例である。また御師が「大夫」を称するのは、御師となる神職の多くが権禰宜であり、権禰宜になると五位の 位である「大夫」を授かったことに由来している。その仕事は現在で言う伊勢神宮参宮のための旅行業者である。 全国の担当地域の檀家を廻ってお札や伊勢暦などを配って参宮を勧誘し、伊勢講として伊勢を訪れた人達の願 いを伊勢神宮に届けるために神楽を奏し、さらに宿泊や観光の世話を行ったが、その結果、経済的に大いに潤 った。
 旅行業者兼旅館の主人である「御師」は、重要な檀家に対して自ら出向いて挨拶をするなども行ったが、多く は配下の代官や手代がその名代として活動していた。そのため、TV ドラマに出てくる商家大店の主人のように時 間に余裕ができ、余技を楽しみとしたに違いない。余技の特殊なものとしては、金魚や朝顔の品種改良や、微分 積分を使うような難解な数学の解法などもあったようだけれど、伊勢の御師はどのような余技を楽しんでいたのだ ろうか?
 「伊勢度会人物誌」には、掲載人物の余技について比較的多く記述はされているものの、その人物が「御師」 であったかどうか明確に記載されていないので、御師に限った内訳を推測するのが難しい。そこで、明治4年に 御師が廃止され、その保証金申請のための記録「明治12年7月調 旧師職現員調書(外宮編)」(略称)に記載さ れている御師名と「伊勢度会人物誌」とで合致する「御師」79人を選択することができたので、その余技を集計す ることにした。この調書に記載されている御師達は江戸末期に生まれ、明治、大正、さらに昭和まで生存した人た ちでもあるので、特別展に展示された画人と年代的にも合致し、御師で画人である彼等の生活を想像し易いこと も利点であろう。結果は以下のグラフのようになった。

 江戸時代には一般素養として「漢学」を学ぶことは普通のことであったろうし、伊勢神宮の神職として「国学」を 学ぶのも自然な成り行きであっただろう。その関係から和歌・俳諧・漢詩が多くを占めるのも当然であったに違い ない。そういうことから考えると、書・画・篆刻・鉄筆 27%が伊勢御師の余技としての特徴を表しているように考え られる。その内訳はおおむね、書16%、画8%、篆刻・鉄筆4%、である。
 書に関しては蒔田 器から始まり松田雪柯や橋村橘陰が、篆刻・鉄筆には小俣栗齋(蠖庵)や福井端隠などが いる。画人としては、四条丸山派の上部茁斎、水溜米室が、南画派としては小俣蠖庵や小森痴雲などがいるが いずれも伊勢御師である。このように、御師の余技としての書法、画法であったとは言え、その質は高く、趣味程 度には留まっていないことを今回の特別展で再認識していただければ幸いである。