画僧 月僊(げっせん)
(1741〜1809)江戸後期の画僧
伝 記
月僊は寛保元年(1741)、尾張国名古屋に味噌を商う丹家七左衛門(たんけしちざえもん)の二男として生まれました。7歳で仏門に入り、浄土宗の僧となります。10代で江戸の増上寺(ぞうじょうじ)に入り、二見町出身の定月(さだつき)*大僧正(だいそうじょう)から月仙の号を賜りました。生まれつき絵が好きで、仏門修行の傍ら、雪舟の流れを汲む画家桜井雪館(さくらいせっかん) (1715〜1790)に画を学びました。その後、京都に上り浄土宗総本山知恩院にて修行することとなり、円山応挙(まるやまおうきょ) に師事して写実的画風の感化を受けました。また与謝蕪村(よさぶそん) (南画)の影響を受け、両者の画調を融合して個性的な画風を確立しました。
安永3年(1774)34歳の時、知恩院の大僧正に懇願され、当時荒れ果てていた伊勢国宇治山田(現・三重県伊勢市)の浄土宗鎮西派(ちんぜいは)知恩院末寺の寂照寺(じゃくしょうじ)の住職となります。寂照寺は古市の歓楽街に近く、そのため*破戒(はかい)僧が続き当時無住となり衰徴(すいび)を極めていたといいます。月僊派遣の目的は寺の再興にあったといわれますが、月僊もそれに応えました。当初は、画料をむさぼるために、世人より「乞食(こじき)月僊」と称されましたが、晩年には画料をもとに、1500両を山田奉行に納め、その利息でながく貧民を救うなど社会事業に尽くしました。これは「月僊金」と呼ばれ、明治時代まで活用されたといわれます。
また画料を資として、寂照寺を再興(寺の*伽藍(がらん)、山門、*庫裡(くり)の改修再建など)もおこないました。没年は文化6年(1809)69歳の生涯でした。
翌年文化7年(1810)9月12日、寂照寺に*顕彰碑(けんしょうひ)「月仙上人之碑」が建立。題は「寂照寺画僧月仙上人*碑銘(ひめい)」で、弟子の定僊(じょうせん)による文章です。月僊の生涯は、伝記、小説等様々に語られていますが、最も基礎的な資料は、この碑文です。「碑銘」自体は、画人としての月僊ではなく、寂照寺再興と貧民救済に尽くした人として顕彰する目的で建立されたもので、画人としての月僊について言及する記述はほとんど含まれていません。
著作として「列仙図賛」 (3巻、天明4年(1784)刊)・「耕織図」・「月僊画譜」などの作品があります。
*大僧正(だいそうじょう)僧の最高の位
*破戒僧(はかいそう)戒律を破った僧。なまぐさ坊主
*伽藍(がらん)寺院または寺院の主要建物群
*庫裡(くり)住職や家族の居間
*顕彰碑(けんしょうひ)個人の著名でない功績や善行などを称えて、広く世間に知らしめるために建てられる石碑などのこと
*碑銘(ひめい)石碑に刻みつけた文章
桜井雪館(さくらいせっかん)(1715〜1790)
茨城県水戸市出身。祖父及び父共に絵師。雲谷派の画人甫雪等禅(ほせつとうぜん)に就いて学び、その後江戸に出て雪舟12代を自称したといいます。このことから雪館は雪舟を慕(した)い伝統回帰を強く主張したことが知られます。その門には200人を超える弟子が集まるという盛況ぶりでありました。師弟関係では「古今諸家人物志」(1769年)などで月僊を最も有力な高弟の一人に掲げています。
円山応挙(まるやまおうきょ)(1733〜1793)日本写生画の祖
自らの目を通して風景や人物・動植物を写生し、リアリテイのある絵画を描こうと工夫を重ねて、わかり易い写生画法を築き上げた画家で、この流れ円山派は明治期の近代日本画の成立にあたって最も重要な役割を果たしました。
円山応挙との関連性について
角田九華(つのだきゅうか)「近世叢語」(1823)が掲げる月僊伝には、応挙に入門して学んだ可能性を示唆しています。また清宮秀堅(せいみやひでかた)の著「雲烟所見略伝」(1859)では弟子中最もすぐれた画人の一人に加えられています。
その他、後年出版された諸書にも月僊が応挙に師事したという説が掲げられています。
絵画資料についても多くの作品に応挙の影響が伺われます。
与謝蕪村(よさぶそん)(1716〜1783)俳諧の世界を表現した文人画(南画)の大成者
与謝蕪村との関連性について
白井華陽(しらいかよう)「画乗要略」(1831)は、京都時代の月僊が応挙に師事する一方で、文人画家与謝蕪村に私淑することがあったと記しています。山水画の分野に、応挙から借用したモチーフを与謝蕪村風の柔らかい淡彩山水で包み込んだ、写生と南画の折衷の上に立脚する固有の様式を造ったこと、あるいは、月僊様式とも呼ぶべき人物画の基本表現に蕪村の画法を基盤にしたと考えられる疎荒な表現が現れていることから判断して、蕪村画学習が月僊の画風展開に与えた影響の大きさは計り知れません。
列仙図賛(げっせんずさん) 天明4年(1784)に刊行
仙人の図像集「列仙図賛」は中国で出版された同種の画譜「有象列仙全伝」万暦28年(1600)刊の構成を踏襲しながらも、挿絵を一新して個性的な図様に改めている点が注目されます。密度の高い写実的描写、背景を廃止し多様な姿勢で像主の性格を表現しようとする志向や図様の数々は中国絵画を参考に生み出されたと考えられます。
耕織図 (こうしょくず)水稲耕作と蚕織作業を描いたもの。
月僊画譜 (げっせんがふ)制作年不詳
画 風
寂照寺に移った34歳から*示寂(じじゃく)する69歳まで30数年におよぶ後半生を伊勢で送ることになりますが、この間月僊は、人物画、山水画を中心にきわめて多数の画を描きました。そうした画の中には、堂の再建や貧民救済という名目ゆえの多作であったことは差し引いたとしても、ぞんざいで美術的にはいささか評価をためらわせるようなものも少なくなく、それゆえに画人としての評価に深刻な影響を及ぼしていることは否定できません。
しかし、この多作こそが月僊様式の成立と深く関わっているという論評があります。
江戸時代後期の文人画家で画論家としても評価の高い*田能村竹田(たのむらちくでん)が江戸画壇で最もすぐれた画家谷文晁(1763〜1840)と比較するかたちで月僊を評しています。その内容は、次の通りです。「たっぷりと惜しげもなく墨を注ぐように描く文晁に対して、まるで墨を惜しむかのように痩筆乾擦で描いた後、淡墨(あわずみ)を用いて草々とした画面を整えるところに月僊画の特徴がある」。竹田の指摘は、現在目にする多くの月僊画、特に山水画の典型的画風を端的に衝いています。
また、竹田は月僊の描く人物画をも特筆しています。人物画にこそ月僊の特徴が顕著に表れているのは事実で、「人物簡にして疎朗、迫塞する処無し」(簡明でおおらか、せせこましいところがない)という評言が、いかにも月僊の人物画の様式的特質を鋭く衝いています。
山水画にしても人物画にしても、様式成立後の月僊画は、一種素描的な画風を示しているところに大きな特色があります。しかしこのような様式獲得の要因として竹田は「多作に因る」と判断しています。たしかに多作を可能にする簡素で分かりやすい素描であることは疑いない。しかし着目すべきは、この素描的で簡疎な表現に「新裁」つまり真意を盛り込んだもの、という言葉を当てて評しているところにあります。
対立軸として置かれた文晁の画風が、古来の伝統的画法を受け継いだのに対して、伝統にこだわらずに新しい表現の創出に取り組んだ結果、同時代の画壇とは大きく異なる独自の画風を創り上げたということです。
岡田樗軒(おかだちょけん)は「近世逸人画史」(1824)で、*旧弊(きゅうへい)を脱して独自の様式を打ち立てた月僊は、名声を一気に高め、その画を求めるものが殺到したと記しています。
現存する月僊画の多くは、白文方印「寂照主人」に代表されるように寂照寺に関わる印文をもつ印章が頻繁に使用されていることから伊勢地方全般にわたって描かれ続けたと考えられます。竹田の月僊評もこの時代の画によって形成されています。
安永3年(1774)34歳で寂照寺に移ってから69歳で示寂する文化6年(1809)まで、月僊は伊勢で暮らしていました。結果としては30数年という、それ以前に比べて圧倒的に長い画歴を伊勢で展開することに成ったわけです。
30数年に及ぶ伊勢時代の画は、年紀や印章の状態比較などによってある程度の編年が可能となりますが、画風からみると、その展開の様子は著しく平たんで、決定的な変転はありません。つまり、簡疎な筆墨表現を特徴とする月僊様式は、一旦打ち出されるとその進歩あるいは展開の加速度を急速に落とし、ほぼ固定化された作風が月僊固有の様式として定着したのです。
江戸における桜井雪館、京都における円山応挙や与謝蕪村などとの師承(ししょう)関係は、月僊の様式形成に*輻輳(ふくそう)する様相を与えました。例えば雪館から学んだ古画や中国画への関心、応挙に接して得た写生、蕪村から学んだ南画の手法がそうです。また南ぴん派をはじめとする長崎派の摂取も月僊の作域や表現の振幅を広げることになりました。
この様な諸派兼学の姿勢は、江戸時代後期絵画を特徴づけるもので、谷文晁はその象徴的存在です。月僊にも同様の傾向が見られるのは先に述べたとおりです。
月僊の画歴の高揚期は、明和・安永のころで、寛政期の文晁にむしろ先んじている点からしますと、江戸時代後期絵画の特徴を文晁よりも早く具現していたことには、先行者として改めて月僊の位置づけを再認識できるという点で注目したいところです。
*田能村竹田(たのむらちくでん)から観た月僊の特徴
① 浄土宗の僧であった。
② 伊勢の国に定住した。
③ 山水画と人物画に秀でた。
④ 地方在住であったが、全国に名声と人望が上がった。
➄「簡而疎朗、無迫塞處」(簡明でおおらか、せせこましいところがない)という画風を特徴とする。
⑥ 多作であった。
⑦ 画料をもとに巨万の富を得て伽藍(がらん)を再興し教典を修復し、さらに貧民救済に充てた。
*示寂(じじゃく):徳の高い僧侶が死ぬこと
*田能村竹田(たのむらちくでん):江戸時代後期の南画家
*旧弊(きゅうへい):考え方などがとても古くさくて現状では問題を含む様
*輻輳(ふくそう):四方から寄り集まること
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月僊 の
落款 (らっかん)と
雅号 (がごう)は月僊の画歴、画風展開の経過を検討するうえで有用な資料となります。
「月僊」は、「月仙」、「月僲」、「月韆」とも書きます。落款・印章の使用例から推論しますと、画歴の初期、すなわち江戸在住時代から京都時代を経て伊勢転住後3年間ほど「月仙」を用い、転任後しばらくの間「月僊」を併用しました。「月僊」は「列仙図賛」を刊行した安永9年(1780)過ぎに使用を止めるがその少し前から併用し始めた「月僲」を伊勢時代の大部分、様式的には月僊様式のほぼ全てに使用したと現段階では結論づけられています。
参考文献
伊勢市史 第3巻 近世編
伊勢市立郷土資料館特別展 冊子「画僧 月僊」・「神都の書画人Ⅱ」
月僊上人像 月僊上人之碑
文化7年(1810)弟子定僊が寂照寺境内に建立。900字余字からなっており上人の伝記がわかります。
月僊の山水画と人物画作品