神都画人 中村左洲(1873〜1953)
画家として歩き出すまで
通称は佐十、明治6年(1873)7月12日、度会郡二見町字今一色(いまいしき)の漁師の家に生まれました。11歳の時、父が病死。生活に困窮した一家は離散、母は他家の女中となり、佐十は祖母と姉妹らと共に、親戚に居候する身となりました。苦しい境遇のなか、彼は画を支えとし、わずかな暇を見つけては筆を取り、魚鳥草花を写生して楽しみました。
15歳の時には母も亡くなり、生計を助けるため漁師となりますが、絵筆を捨てることはできませんでした。沖に出ても寸暇を盗んで描き続ける姿に、親戚たちは漁を怠っていると危惧し、画を諦めさせようとしました。すると、密かに近隣に一間を借り、隠れて筆を取り続ける始末でした。
一途な姿に打たれた親戚たちは佐十の写生画を携え、神都随一といわれた宇治の画家・磯部百鱗の門を叩きました。百鱗はその画才の尋常でないことを見抜き、苦学の様子を哀れみ、弟子入りを許します。百鱗の懇篤な指導を受け、みるみる佐十は同門中の高弟となりますが、暮らし向きは苦しいままで、親戚たちの心配は続いたといいます。
左洲18歳、こうして画家としての第一歩が始まりました。
*磯部百鱗(いそべひゃくりん)(天保7年〜明治39年):四条円山派の流麗な画法を樹立し歴史画家として有名になる。
画歴の概要
明治28年(1895)、左洲が22歳の時、第4回内国勧業博覧会が開かれました。師に勧められて出品した「製塩図」が賞を獲得。明治天皇の皇后の目にとまり、同一画を描き献納する栄誉に浴しました。さらにこのことは同年8月、避暑で二見浦の賓日館に滞在中の伯爵松方正義(明治24年に松方内閣を結成)の耳にも入りました。伯爵に伴われた左洲は、京阪神の諸大家に紹介され、有名な絵画を見て歩く機会を得ました。こうして左洲は技術を磨くとともに、名声を一躍世に広めました。
以後毎年、展覧会や共進会に出品して賞を受け、明治32年の全国絵画共進会では「志海泊船図」が一等賞を受賞、宮内省の買上げとなりました。同年と同34年には日本画会の百画中に入選。中でも「むらがる鯛」は特に好評を得ました。
大正6年(1917)の第11回文展では、入選した「群がれる鯛」が御木本幸吉の目にとまり買上げとなるなど、日本画家として大成しました。
略年譜
1873 | 7月12日二見町字今一色の漁師の家に生まれる。本名佐十。 |
1882 9歳 | 家計を助けるために小学校中退。 |
1884 11歳 | 父死去のため、母を助けて漁業に従事。一家の生計を助けるかたわら、少しの時間も惜しんで絵画に没頭する。このころ、郷土の三村亘から南画の絵手本が貸与される。 |
1891 18歳 | 三村亘の紹介で宇治の磯部百鱗に師事。同門に伊藤小坡、川口呉川、井村方外らがいた。 |
1895 22歳 | 7月、百鱗の勧めにより、第4回内国勧業博覧会に「製塩図」を出展、受賞。明治天皇の皇后が同博覧会会場へ来られた際、売却済となっていた「製塩図」をご覧になり御所望されたので、同じ絵をもう一枚描いて献上する。8月、松方正義伯爵(明治24年に松方内閣結成)が、二見浦の賓日館に避暑滞在中、県知事を介して招かれ、また、伯爵と共に京都・大阪におもむき、川合玉堂ら諸大家に接しその教えを受けた。時期は短かったが大いに得るところがあり、その後の作品に一段の変化をみる。 |
1897 24歳 | 第1回全国絵画共進会へ「鳥羽港ノ図」を出展、3等入賞。 |
1899 26歳 | 全国絵画共進会へ「志海泊船図」を出展し1等入賞、宮内省買上げとなる。日本画会へ「美人納涼図」を出展し百画中に入選。 |
1901 28歳 | 日本画会へ「志海々人図」を出展し百画中に入選。二見浦若松徳平の四女「小さい」と結婚。 |
1902 29歳 | 長男「百松」誕生。 |
1905 32歳 | 神宮祭主の官舎に招待される。長女「みつ」誕生。 |
1908 35歳 | 次女「千代」誕生。 |
1910 37歳 | 三女「かな」誕生。 |
1913 40歳 | 次男「正二」誕生。 |
1914 41歳 | 四女「ふみ」誕生。 |
1915 42歳 | 大正天皇神宮ご親謁(しんえつ)に際し「二見浦ノ図」を献上。 |
1917 44歳 | 文部省美術展へ「群がれる鯛」を出展し入選。 |
1924 51歳 | 三條西神宮大宮司の命により屏風一双描く。 |
1926 53歳 | スウェーデン皇太子殿下ご来勢に際し、「内宮の春景」「外宮の秋色」を描く。 |
1928 55歳 | 神宮司庁の命により明治天皇明治2年伊勢行幸の模様を絵巻物に描く。 |
1931 58歳 | 宇治山田市制25年祭に際し記念として、神宮祭主へ献上すべき屏風を依頼され「五十鈴川の春景」を描く。 |
1938 65歳 | イタリア使節団神宮参拝の際「内宮謹写図」を献納。 |
1953 80歳 | 11月26日逝去。今一色の墓地に眠る。 |
1956 | 今一色の高城(たかしろ)神社に門下生等により「左洲翁筆塚」が建立される。 |
画 風
題材は花鳥、歴史、風景、人物画などあらゆる題材の作品を数多く残しました。
中でも、漁師の家に育った左洲は、魚、エビ,漁の様子、海辺の風景などを好んで描き、鯛を得意としたところから「鯛の左洲さん」として広く親しまれています。これは左洲が漁師出身で、魚が一番身近なモチーフであったことと、2つ目に、魚類は円山四条派の重要な写生対象であったこと。3つ目には、鯛の絵は縁起物(めでたい)として多くの需要があったことなどがあげられます。鯛を描いた作品には、伊勢志摩の自然と一体化したかのような雰囲気が漂ってきます。
また、大正天皇神宮参拝時の「二見浦ノ図」や神宮司庁の命により手掛けた「明治2年伊勢行幸絵巻」など、神宮に関係深い作品も描きました。内宮、外宮、山岳風景を主題とした作品は、しみじみとした趣のある画風のため、技の素朴さの中に上品さを感じさせます。
その他
生まれ故郷二見町の地を離れることなく、神宮の御膝元で好きな絵を描きつづけた左洲は伊勢神宮が近くにあり、皇族や宮司からの依頼や招待も多く作品を献上することもありました。
左洲の画業は、大正11年と昭和25年に刊行した左洲画譜上下2冊に収められその全貌を知ることが出来ます。
左洲門下で著名な人は、宇田荻邨、嶋谷自然、鈴木三朝、出口対石、奥田正治良、小川孤舟、中井左琴、井村岳陽、中村百松等甚だ多い。百松は子息で宇治山田中学や倉田山中学で教鞭をとった。
昭和28年(1953)11月、81歳の高齢で死去しますが、その高弟子として文化勲章受章した宇田荻邨がいます。二見町今一色の高城神社境内には、彼の偉業をたたえて、左洲の筆塚が建てられています。
参考文献 伊勢市史 第3巻 近世編 ・二見町史