古市

「神都画人・中村左洲」展
平成30年度 後期特別企画展
2018/01/08

平成30年度 後期特別企画展「神都画人・中村左洲」展

神都画人中村左洲

目的

 私たちのふるさと伊勢は、古くから神宮の門前町として特異な文化的発展を遂げてきました。特に神都伊勢の画檀については、狩野派・南画派・円山四条派などの画派が育まれ、その多様性は京や江戸にも匹敵しました。その中でも広く受け入れられ後代まで受け継がれたのは円山四条派です。
 さて今回の企画展では、伊勢円山四条派に代表される画人・中村左洲をご紹介します。左洲は、明治6年(1873)二見町今一色に生まれ、昭和28年(1953)に80歳で亡くなるまで、花鳥・歴史・風景・人物画などあらゆる題材の作品を数多く残しました。中でも漁師の家に育った左洲は、魚やエビ、海辺の景色などを好んで描き、鯛を得意としたところから「鯛の左洲」として知られています。
 展示については、左洲に関する書簡や鯛をはじめとした色々なモチーフ作品を観て戴き、神都画人・中村左洲の心情風景を汲み取っていただければ、嬉しいものです。

場所

  伊勢古市参宮街道資料館 [ 地図 ]
 〒516-0034 三重県伊勢市中之町69
 TEL/FAX 0596-22-8410 TEL

期間及び開館時間

  平成31年1月8日(火)〜 2月10日(日)9:00~16:30
  ※最終日は 15:00 終了
  月曜日休館日(祝日のときは、その翌日)
  祝日の翌日(ただしその日が日曜日は除く)

主な展示物

  掛軸・書簡・パネルほか

開催にあたって

 今回の特別企画展「神都画人・中村左洲 展」開催にあたり、伊勢市文化振興課の方々を初め、 郷土史研究家の田中好太郎氏、息子さんの里史氏ほか関係者の皆様方から全面的なご支援、ご協賛を得ることができました。 ここに深く感謝しお礼申し上げます。

伊勢古市参宮街道資料館長 世古富保 

中村左洲

伊勢の画壇

近世伊勢の画壇


 近世においては、京都や江戸のような画壇の中核都市が固有の画派を生み自律的な伸展を示したのに対して、多くの地方都市は中核都市から種々の画派を移植することに努め、その結果、いわば他律的にいくつかの画派が併存するかたちをとることが多くありました。
 近世の代表的な画派は、狩野(かのう)派・南画派・円山四条(まるやましじょう)派・長崎派などですが、これら近世画壇を構成する主だった画派は、伊勢においても移植され、多くの画人を育てました。その多様振りは、一地方都市としては他に例をみないほどでありますが、これこそが、近世伊勢の画壇の特徴をなしています。これは、神宮の門前町としての性質が、各地から来訪する多種多様な人々の交流を促したことに起因すると思われます。
 こうして、多くの画派を生んだ近世伊勢の画壇でしたが、中でも広く受け入れられ後代まで受け継がれたのは、円山四条派でありました。

伊勢の円山四条派の画人たち


 円山四条派は、写生的画風の円山応挙を祖とする円山派と、与謝蕪村の文人画(南画)を基礎とした呉春を祖とする四条派を併せたものをいいます。長く命脈を保ち、近代日本画の確立に大きな役割を果たしたことで知られます。
 伊勢円山四条派の画人としては、岡村鳳水(ほうすい)(1770〜1845)がいます。鳳水は、丹波亀山(現京都府亀岡市)に生まれ、京都に出て円山応挙に学び、応挙の有力な弟子の一人で、伊勢では応門十哲になりました。後に伊勢の岡村又太夫の養子となり、円山派の画風を伊勢に伝えました。その門下からは多数の画人を輩出しましたが、上部茁斎(うわべせっさい)(1781〜1862)、榎倉杉斎(えのくらさんさい)(1798〜1867)、荘門為斎(しょうもんいさい)(1778〜1842)、水溜米室(みずためべいしつ)(1817〜1882)が知られています。
 特に上部茁斎の門からは、林棕林(そうりん)(1814〜1898)が出ています。棕林は江戸に出て谷文晁や渡辺崋山らと交遊しました。門人に磯部百鱗(ひゃくりん)(1836〜1906)がおり、百鱗の門からは伊藤小坡(しょうは)(1877〜1967)、田南岳璋(たなみがくしょう)、中村左洲(さしゅう)(1873〜1953)らを輩出し、左洲の門からは、後に宇田荻邨(てきそん)(1896〜1980)をはじめとして嶋谷自然(しまやしぜん)、鈴木三朝(さんちょう)などが出ておりその系譜は現代に続いています。応挙の系統は、岡村鳳水の他にも、月僊(げっせん)によってより広範に伝えられています。

神都画人 中村左洲(1873〜1953)

画家として歩き出すまで


 通称は佐十、明治6年(1873)7月12日、度会郡二見町字今一色(いまいしき)の漁師の家に生まれました。11歳の時、父が病死。生活に困窮した一家は離散、母は他家の女中となり、佐十は祖母と姉妹らと共に、親戚に居候する身となりました。苦しい境遇のなか、彼は画を支えとし、わずかな暇を見つけては筆を取り、魚鳥草花を写生して楽しみました。
 15歳の時には母も亡くなり、生計を助けるため漁師となりますが、絵筆を捨てることはできませんでした。沖に出ても寸暇を盗んで描き続ける姿に、親戚たちは漁を怠っていると危惧し、画を諦めさせようとしました。すると、密かに近隣に一間を借り、隠れて筆を取り続ける始末でした。
 一途な姿に打たれた親戚たちは佐十の写生画を携え、神都随一といわれた宇治の画家・磯部百鱗の門を叩きました。百鱗はその画才の尋常でないことを見抜き、苦学の様子を哀れみ、弟子入りを許します。百鱗の懇篤な指導を受け、みるみる佐十は同門中の高弟となりますが、暮らし向きは苦しいままで、親戚たちの心配は続いたといいます。
 左洲18歳、こうして画家としての第一歩が始まりました。

 *磯部百鱗(いそべひゃくりん)(天保7年〜明治39年):四条円山派の流麗な画法を樹立し歴史画家として有名になる。

画歴の概要


 明治28年(1895)、左洲が22歳の時、第4回内国勧業博覧会が開かれました。師に勧められて出品した「製塩図」が賞を獲得。明治天皇の皇后の目にとまり、同一画を描き献納する栄誉に浴しました。さらにこのことは同年8月、避暑で二見浦の賓日館に滞在中の伯爵松方正義(明治24年に松方内閣を結成)の耳にも入りました。伯爵に伴われた左洲は、京阪神の諸大家に紹介され、有名な絵画を見て歩く機会を得ました。こうして左洲は技術を磨くとともに、名声を一躍世に広めました。
 以後毎年、展覧会や共進会に出品して賞を受け、明治32年の全国絵画共進会では「志海泊船図」が一等賞を受賞、宮内省の買上げとなりました。同年と同34年には日本画会の百画中に入選。中でも「むらがる鯛」は特に好評を得ました。
 大正6年(1917)の第11回文展では、入選した「群がれる鯛」が御木本幸吉の目にとまり買上げとなるなど、日本画家として大成しました。

略年譜


1873   7月12日二見町字今一色の漁師の家に生まれる。本名佐十。
1882  9歳家計を助けるために小学校中退。
1884 11歳父死去のため、母を助けて漁業に従事。一家の生計を助けるかたわら、少しの時間も惜しんで絵画に没頭する。このころ、郷土の三村亘から南画の絵手本が貸与される。
1891 18歳三村亘の紹介で宇治の磯部百鱗に師事。同門に伊藤小坡、川口呉川、井村方外らがいた。
1895 22歳7月、百鱗の勧めにより、第4回内国勧業博覧会に「製塩図」を出展、受賞。明治天皇の皇后が同博覧会会場へ来られた際、売却済となっていた「製塩図」をご覧になり御所望されたので、同じ絵をもう一枚描いて献上する。8月、松方正義伯爵(明治24年に松方内閣結成)が、二見浦の賓日館に避暑滞在中、県知事を介して招かれ、また、伯爵と共に京都・大阪におもむき、川合玉堂ら諸大家に接しその教えを受けた。時期は短かったが大いに得るところがあり、その後の作品に一段の変化をみる。
1897 24歳第1回全国絵画共進会へ「鳥羽港ノ図」を出展、3等入賞。
1899 26歳全国絵画共進会へ「志海泊船図」を出展し1等入賞、宮内省買上げとなる。日本画会へ「美人納涼図」を出展し百画中に入選。
1901 28歳日本画会へ「志海々人図」を出展し百画中に入選。二見浦若松徳平の四女「小さい」と結婚。
1902 29歳長男「百松」誕生。
1905 32歳神宮祭主の官舎に招待される。長女「みつ」誕生。
1908 35歳次女「千代」誕生。
1910 37歳三女「かな」誕生。
1913 40歳次男「正二」誕生。
1914 41歳四女「ふみ」誕生。
1915 42歳大正天皇神宮ご親謁(しんえつ)に際し「二見浦ノ図」を献上。
1917 44歳文部省美術展へ「群がれる鯛」を出展し入選。
1924 51歳三條西神宮大宮司の命により屏風一双描く。
1926 53歳スウェーデン皇太子殿下ご来勢に際し、「内宮の春景」「外宮の秋色」を描く。
1928 55歳神宮司庁の命により明治天皇明治2年伊勢行幸の模様を絵巻物に描く。
1931 58歳宇治山田市制25年祭に際し記念として、神宮祭主へ献上すべき屏風を依頼され「五十鈴川の春景」を描く。
1938 65歳イタリア使節団神宮参拝の際「内宮謹写図」を献納。
1953 80歳11月26日逝去。今一色の墓地に眠る。
1956   今一色の高城(たかしろ)神社に門下生等により「左洲翁筆塚」が建立される。

画 風

 題材は花鳥、歴史、風景、人物画などあらゆる題材の作品を数多く残しました。
中でも、漁師の家に育った左洲は、魚、エビ,漁の様子、海辺の風景などを好んで描き、鯛を得意としたところから「鯛の左洲さん」として広く親しまれています。これは左洲が漁師出身で、魚が一番身近なモチーフであったことと、2つ目に、魚類は円山四条派の重要な写生対象であったこと。3つ目には、鯛の絵は縁起物(めでたい)として多くの需要があったことなどがあげられます。鯛を描いた作品には、伊勢志摩の自然と一体化したかのような雰囲気が漂ってきます。
 また、大正天皇神宮参拝時の「二見浦ノ図」や神宮司庁の命により手掛けた「明治2年伊勢行幸絵巻」など、神宮に関係深い作品も描きました。内宮、外宮、山岳風景を主題とした作品は、しみじみとした趣のある画風のため、技の素朴さの中に上品さを感じさせます。

その他

 生まれ故郷二見町の地を離れることなく、神宮の御膝元で好きな絵を描きつづけた左洲は伊勢神宮が近くにあり、皇族や宮司からの依頼や招待も多く作品を献上することもありました。
 左洲の画業は、大正11年と昭和25年に刊行した左洲画譜上下2冊に収められその全貌を知ることが出来ます。
 左洲門下で著名な人は、宇田荻邨、嶋谷自然、鈴木三朝、出口対石、奥田正治良、小川孤舟、中井左琴、井村岳陽、中村百松等甚だ多い。百松は子息で宇治山田中学や倉田山中学で教鞭をとった。
 昭和28年(1953)11月、81歳の高齢で死去しますが、その高弟子として文化勲章受章した宇田荻邨がいます。二見町今一色の高城神社境内には、彼の偉業をたたえて、左洲の筆塚が建てられています。

 参考文献 伊勢市史 第3巻 近世編 ・二見町史

絵心燃やし続けた少年の画才開花(左洲翁筆塚)

所在地 伊勢市二見町今一色・高城神社内

 碑 文 

左洲翁筆塚 中村左洲先生、名は佐十、明治6年7月12日、二見町今一色の一漁家に生る。性温厚にして又洒脱、慈父の如く世人に敬愛せらる。幼にして画を好み、明治24年磯部百鱗先生の門に入り、只管画業に精通し花鳥山水を能くす。明治38年師の奨めにより、第4回内国勧業博覧会に製塩図を出品褒賞を受く。台命により照憲皇太后に同図を献ず。又群鯛の図を文展に出品入選、其他各種展覧会に於て褒状賞牌を受くる事幾多、伊勢神宮皇室関係の下命による謹作数多なり。昭和28年11月81歳を以て逝去せらる。同31年11月師の偉業を慕いて之を建立す。

昭和31年11月
書 三重県知事 青木 理
碑陰 宇田荻邨等20名の門下生の氏名・世話人12名の氏名あり


解 説


 碑主中村左洲は、二見町今一色に生まれ、家は代々漁業を営んでいた。 12歳の時父に先立たれ、家の生計は母と少年左十(幼名)の肩にかかっていた。 左洲は生まれつき絵を好み、漁業という過重な生活の中、暇をみては絵筆を離さなかった。 漁業をおろそかにしないかと心配する親戚の苦言をよそに、密かに近隣の家の一間を借りて、絵の道を捨てなかった。その一途な姿に感動した家主が、有名な宇治の画家磯部百鱗に引き合わせた。左洲の絵を見た百鱗は、その画才の尋常でないことを見て取り、懇篤な指導を与えたので一段とその才能は輝き、同門中の高弟となった。左洲の名声は次の事で一躍天下に広まることになった。その一つは明治28年第4回内国勧業博覧会出品の作「塩浜の図」が照憲皇太后のお目に留まり、献納の栄誉に浴したこと。もう一つはたまたま避暑で二見浦に来遊中の伯爵松方正義の耳に入り、伯爵が彼の技の素朴さの中に誠実さを感じ、彼を阪神地区に誘い、大家たちに紹介したこと、こうして彼の画壇における地位は不動のものになった。
 この碑は生地の伊勢市二見町今一色の高城神社境内にあり、 碑主が綱を繰りながら絵心を燃やしていた少年の頃、さながらに変わらぬ潮騒の響きに包まれている。門下生が謝恩の心を込めて建立した筆塚である。碑の前に立った時、碑主の手厚い指導の姿が彷彿と浮かんで来たことを思い出す。 すで20数年も前のことだが、夏の最中、町内の碑をくまなく案内して下さった郷土史家河端義夫翁に感謝してここに掲載させていただく。


三重県の碑(いしぶみ)百選 三ツ村健吉 著より引用