古市

「大安旅館」展
平成30年度 特別企画展
2018/07/10

平成30年度 特別企画展「大安旅館」展

大安旅館   伊勢市は、神宮のお膝元として江戸時代からお伊勢参りの人々が訪れ、外宮と古市周辺に 多くの旅館がありました。特に古市周辺は、参拝後の「精進落とし」の場として、江戸の吉原、 京の島原と並ぶ日本三大遊郭の一つに数えられる賑わいでした。 今でも名所・旧跡を多く見ることができます。 今回は、明治、大正、昭和初期に古市で活躍した大安旅館をテーマにした企画展です。




目的

  伊勢市、特に山田は全国から集まる伊勢神宮への参拝者を対象として様々な産業や商業が生まれ 早くから都市的性格を持っていた。その産業には浅沓司など神宮に直接関係したものと提灯屋・玩具 ・箸屋・桶屋など参拝者、及びそれをもてなす宿泊施設などが消費する品を扱う産業の二通りがあった。 いずれも「お伊勢さんの御膝元」という歴史と風土の中で独自の発展を遂げてきました。そうして生まれ た伝統工芸品ですが、時代の変遷とともに既に消えてしまったもの、或は衰微(すいび)しているものなど、 その大半が危機に直面しています。
  今回、時代を超えて受け継がれてきた匠の技、こだわりの品々を企画展示することで、伊勢の伝統工芸品 の良さを、職人の手仕事の素晴しさを実感していただくと共に、これらの伝統工芸品を身近で親しみのある ものとして受け入れて戴ければ幸いです。

場所

  伊勢古市参宮街道資料館 [MAP ]


期間及び開館時間

  平成30年7月10日(火)~8月12日(日)9:00~16:30
  月曜日休館日(祝日のときは、その翌日)
  祝日の翌日(ただしその日が日曜日は除く)


主な展示物

  看板・調度品・写真パネルなど


開催にあたって

  はじめに、今回の企画展「大安旅館」によせて、伊勢市文化振興課及び修道まちづくり会の 方々をはじめ関係者の皆様方には、全面的にご支援、ご協賛を得ることが出来、第15回企画展 を開催することが出来ました。開催に当たり、ここに深く感謝しお礼申し上げます。

伊勢古市参宮街道資料館長 世古富保 

展示パネル内容

*伊勢の旅館の歴史 江戸期 明治・大正期 大正・昭和期
*山田駅前と古市の旅館の紹介
*大安旅館の女将・井村かね
*井村かねの「伊勢古市こぼれ話」

伊勢の旅館の歴史

大安旅館 大安旅館

・ 江戸期

  江戸時代には、すでに伊勢講などを通じて年間400万人以上もの人々が訪れた記録があります。 特に50~60年を周期に訪れた「お陰参り」と呼ばれる参宮ラッシュの時には、当時の人口の1割を 超える人々(約500万人)が、御師(おんし)の世話により参宮していました。
  御師は、全国各地を巡り布教活動に務め信者を獲得し、しだいに伊勢講という信者集団を構成 するようになりました。そして遠隔地の信者が参宮を希望する場合は、宿の便宜を図ったり、或 いは、自ら宿を経営し、信者を宿泊させるなど、商業的な活動も盛んにおこないました。 明治4年、明治政府によって御師制度が廃止されるまでは、宇治と山田の町に合わせて900軒余りの 御師邸がありました。中でも三日市太夫は、東北地方を中心に檀家を持ち、御札35万枚余りを配布 していました。また龍太夫は一日に100人近くの旅客を収容する大きな建物を構えていました。

・ 明治・大正期

  こうして御師が勢力を誇って神宮参拝客を吸収し、正式な旅館業が許可されていなかったため、 一般の町屋宿が発展する基礎はできていませんでした。
  しかし明治4年、制度の廃止にともなって自由に旅館業を営むことが可能になると、町が整備され 木造3階建ての旅館がいくつか建設されるようになり、新たな賑わいを見せるようになりました。
  明治・大正期には、すでに多くの旅館が建ち並び、当時の代表的な宿泊施設としては、大安旅館、 五二会ホテル、油屋旅館、宇仁館などがありました。大正14年には、市内に118軒もの旅館が建ち、 年間で45万人以上の宿泊客を迎え入れていました。

(山田駅前編)

  伊勢市の様相は、明治後期から大正期にかけて大きく変わりました。まず鉄道を利用する参宮客は、 山田駅へ降り立ちます。山田駅は伊勢市の表玄関であり、年々参宮客の乗客は、激増の一途を辿ります。 やがて山田駅、外宮前間に直線道路(外宮参道)が出来ると必然的にそこに高楼の旅館が建ち並び、一大 駅前旅館街を形成することになります。
  交通の便は一般参宮者の外に修学旅行の団体も呼び、駅にも外宮にも近い駅前旅館が好まれました。 駅前は日夜参宮客で膨れ上がり、一時は参宮者の半数以上を収容する勢いでした。この駅前旅館街のうち 有名なのは宇仁館本店で、もと岡本町にありましたが、いち早くここに移転し高楼を構えました。 「東海道中膝栗毛」で有名な藤屋を別館に持ち、且つ東京に支店を出す程の豪勢振りでありました。 他に高千穂館、松島館、旅館油屋支店など高級旅館がひしめき建ち並び、駅前旅館街はおびただしい数の 人力車が行き交いました。 残念なことに昭和20年の大空襲で駅と共に焼失してしまいました。

(古市編)

  この古市(古市参宮街道)においても、多くの泊まり客がありました。明治・大正初期はまだまだ盛況で、 旅館だけでも14軒あり、ほかに妓楼30軒余り、料理屋6軒、寿司屋6軒と記録にあります。 また古市は、格式の高い旅館も多く存在していました。尾上町では、五二会ホテルが明治32年、外国人や貴賓 を迎える旅館として営業を始め、大正4年には、京都都ホテル山田支店となっています。古市の妓楼・油屋は 明治22年に旅館に転職し、格式高い宿として昭和20年に戦災で焼失するまで繁栄し続けました。戦後においては、 油屋に変わり大安旅館が活躍したのもこの中之町でした。また同町の麻吉旅館は、江戸時代に20~30人の芸妓を 抱えた県下一流の料理旅館として創業しました。「東海道中膝栗毛」にも名がでてくる有名旅館で今尚営業を続 けています。:明治36年冬の火災で武蔵屋旅館、大安旅館が焼失。



・ 大正・昭和期(古市編)

  大正期の古市は、交通の発達等の変遷に堪えながらも、まだ昔の趣を町全体に漂わせていました。麻吉、 矢津屋、大安、油屋、芳虎、桂木屋、武蔵屋、津の国屋、両口屋等は、春3月~4月頃にはどこも満員の盛況 振りでした。物価は安く、人情は厚く、実に住みよい大正時代でした。
  明治・大正と活躍してきた古市の旅館も時代の波には勝てず、昭和初期(4~5年)頃からは、急速に衰え を見せ始め、旅館数も8軒を数えるだけになり、昭和8~10年頃になると一挙に下降線を辿ることになりました。
  終戦後の古市は、住宅街として生まれ変わりましたが、唯一麻吉だけが現在も旅館業を営み空襲で焼かれた 古市にあっては、昔を語る貴重な存在となっています。

参考文献

伊勢古市考・野村可通著
:三重県郷土資料刊行会
目でみる伊勢・志摩の100年
:郷土出版社
伊勢・志摩の今昔
:郷土出版社
今昔写真集 三重県絵はがき集成
:樹林舎
ふるさとの想い出 写真集 伊勢二見小俣
:国書刊行会


三重の女の一生

女将 井村 かねの世界

「三重の女の一生」から引用し、大安旅館の女将かねの誕生から86歳の大往生 に至るまでをご紹介します。

井村かね 井村かね

第一部 大安に「新人」登場


「へんば屋の箱入り娘」

  かねは明治20年10月25日、安永年間(1772〜1781)に明野で創業した餅の老舗 「へんば屋」で生まれました。父親は奥野丁之助。3男3女の2女として成長。 20人のお手伝いを抱える大店であり、専属のお手伝い2人が四六時中つききりの 裕福な家庭で育ちました。

「自伝に言う政略結婚」

  かねは、山田女子高等学校を卒業した翌年、17歳の時に縁談が持ち込まれました。 相手は宇治山田・古市の「大安旅館」の3男・勇でした。勇はかねより8つ年上。 3男とはいえ「大安」の跡取り息子。嫁げば当然、気苦労の多い女あるじ。だがかねの 気持ちには一切お構いなしで、親同志で話がまとまったようです。 この時の話を、かねは後に自伝「わが生涯の記」に「あれは政略結婚だ」と記しています。

「客の接待を一手に」

 「大安」は明治の初め頃、しゅうとの井村大安(志摩市出身の宮大工)が開いた旅館で、 「男は客の前には出ない」が家訓だったため、客の接待一切はかねの仕事でした。

「部屋廻りあいさつ」

  大安は当時250人を収客できる大旅館で、古市にあった14軒の旅館の中では、規模、格式 共にトップクラスでした。「泊まり客の部屋を一つ一つ女あるじが訪れ、丁寧なあいさつを する旅館は珍しい・・・」と、かねの献身的な姿は、泊まり客の評判になりました。



第二部 「世話好き」が性分 ―きっぷ良い女将に変身―

  かねの1日は午前5時の起床から始まります。お手伝いたちを起こし、朝食の指図、早立ちの客の 見送りと馬車ウマのような日課で、客の出入りが途絶える日中でも、うたた寝一つ許されませんでした。

「やたら増える従業員」

  かねは、随分ときっぷの良い人で「○○さん、うちにおいでな」と、かねの一言で板場にはいった人も。 そのため従業員がやたら増えました。頼み事は引き受けるし、頼まれなくとも相手の意中を速やかに読み取る 世話好きな性分でした。

「市議立候補で口論」

  かねは、このころから「女将」に変身していました。勇が反対してもちゃんと自分の思う通りに実行して しまうし、力んでみせても、柳に風。自然、表立った正面衝突にはなりませんでした。 そのかねが、勇が市会議員に立候補するといい出した時には大声でかみつきました。金がかかり過ぎることが 理由でした。かねの長女、岡村美代子の記憶にある生涯でただ一度の夫婦の言い争いであったと言います。

「仕事縫い盲児、教育」

  かねは、毎朝、魚の仕入れに働く勇との間には長男安雄をはじめ、2男2女がありました。忙しい仕事を 縫っての育児、教育で4人ともすくすく成長し、円満な家庭生活でした。が、勇が悪性腫瘍にかかり、左腕を 肩から切断、これが原因で昭和9年に当年55歳で亡くなりました。



第三部 肝っ玉に火魔退散 ―泣かされた日米軍人-


「おなごは扱いにくい」

  大安は、最盛期、従業員が40人を超えていました。大半がお手伝いで、そのほとんどは、今の度会郡南勢町 (現南伊勢町)五ケ所浦と切原の出身者でした。 14、5歳になると行儀見習いを兼ねて奉公にあがります。いさかいの種は何かと尽きなかったため、仲裁役の かねは極度に神経をすり減らし「おなごは扱いにくい」と後々まで漏らしていました。

  経営者にとって頭の痛い問題は、今も昔も変わらぬ労務管理。旅館のような接客業では、従業員の人柄、態度 が直接、経営内容に影響します。特に女性の多い職場では管理者の気苦労はひととおりではありませんでした。

「徹底した労務管理」

  かねは、お手伝いの教育は徹底していました。厳しく言っても恨みを残さない。これがかねの信条でした。 お手伝いたちには仕事の合間に踊り、生け花、茶を習わせ、師匠を招き専用のけいこ場までありました。 「大安のおなご衆はもらい手が多い」。当時そんな評判になりました。 お手伝いの嫁入りには、着物やこまごました所帯道具まで面倒を見てやりました。 太平洋戦争が激しくなってくると、当然のことながら粋客の足も途絶え、灯もすっかりさびれました。 「大安」も空き部屋が多くなり、開店休業。 今でいう従業員の合理化の話も出たが、かねは、「苦楽はみんなが一緒に」が心情でした。

「ヤミ米で警察に御用」

  戦況が悪化し、伊勢市倉田山に伊勢神宮警護が任務の護京師団司令部が設置されました。 師団の将校2人と兵隊20人が「大安」に泊まり込んだため、旅館にとっては救世主の出現でした。 食料統制下だが軍人は、食料持参。軍の配給品をもらって食事を作り、曲がりなりの営業。しかし 相手は天下の軍人。救世主と見えたのはつかの間、無理難題に随分泣かされました。法外な食事の 要求を断り切れず、実家へ食料調達を依頼。兄の宗之助がヤミでかき集めた米、カボチャを伊勢へ 運ぶ途中に、警察に捕まるということもありました。

「空襲で古市も炎上」

  昭和20年7月28日午後11時、伊勢市上空に米軍のB29が飛来、焼夷弾による爆撃があり、古市でも あちこちから火の手があがるも、「大安」は奇跡的に火魔を免れました。その夜、板前の米田勝三は 伊勢市宮後1丁目の自宅に居ました。爆発音とともに火の手に包まれた古市へ一目散。そこには何事も 無かったように働くかねの姿がありました。「女将さんの肝っ玉には驚きましたね。火がそこまで来て いるのに家財道具一つ運び出したふうもない。死なば「大安」もろともの覚悟だったんでしょう、と語りました。

「シシ料理にびっくり」

  戦後は進駐軍兵士の宿舎になりました。「大安」の歴史の中で、青い目の客は始めて。日本料理しか作った ことのない板前さんが、一番びっくりした注文は、シシ料理の要求でした。米兵は神宮林で狩猟するのが日課で、 仕留めたシシを板場に持ち込みました。此の時、シシについていたダニが飼い犬に移り、従業員一同が頭を抱えた というおまけ付き。かねは丁寧にこれを断りました。



第四部「古市の里」後世に ―運命に開き直り「廃業」―


「おなごは扱いにくい」

  終戦後、客足はなかなか元に戻りませんでした。遊郭で遊ぶ時代ではなく、それにも増して足を引っ張ったのは、 古いものが見放され、なんとなくお伊勢参りがしにくくなっていた戦後の新しい雰囲気のためでした。 昭和28年の第59回伊勢神宮式年遷宮を機会に参拝客も増え、かつての盛況が古市の旅館街に戻るかに見えたが、 昭和33年「赤線廃止」で古市は決定的に、時代から見捨てられました。

「時代先読みの進出」

  かねは、時代を先読みし、昭和28年に一つの計画を描きました。二見、鳥羽への進出です。昭和28年の10月、 二見支店を開店。30年に鳥羽支店開設準備にかかろうとした矢先、長男安雄が死亡。計画を断念しました。 当時、現在の国際観光都市・鳥羽を予言した人は少なく、その時、現地調査に行った娘の主人岡村武郎は、 「あの計画が実現しておれば大安も違った歴史を歩んだでしょうね。鳥羽の中でも一等地で、素人の私が見ても ここしかないと思いました」と語りました。 その土地は今、鳥羽国際観光ホテルが建っています。

「跡取り相次ぐ死」

  かねは、昭和40年に二見支店を任していた2男誠良を亡くしました。残るは2人の娘だけ。相次ぐ息子の死に、 それほど大きな動揺を見せませんでした。脳軟化症気味でしたが、運命に対して一種の開き直りがありました。 この時、頭をかすめたのは、「廃業」の2文字。昔ながらの旅館に、好んで仕事を求める若い人はなく、従業員は 老齢化していました。「やめられん。誰か親類が後を引き受けてくれんじゃろか」。弟の八木賀蔵や岡村に頼みました。 しかしホテル全盛を迎えようとする時代、純日本式の旅館経営は並み大抵ではなく、いずれも二の足を踏みました。 そんな中で、かねの人柄にほれ込んだ紀宝町の浦島観光から、経営権を譲ってくれるよう申し入れがありました。 決断は早く、「ホテルにすればやってゆけるが、それではお客さんに満足なサービスは出来ん。私の考えている理想の 旅館は、もう出来ん」。 こうして「大安」を浦島観光に譲り、昭和47年、かねは実家の「へんば屋」へ移ることに しました。

「最後までそろばん」

  かねは、「大安」での最後の日—---昭和47年3月31日に黒光りする帳場で小さな背を丸め、最後のそろばんを はじき板場へ足を向けました。しゅうとに額をこすり当てられた板の間は、春の日を鈍く照り返します。 「別れじゃの」20人の御手伝いや板前に見送られて迎えの車に乗り込みました。未練はなく、従業員の叫びかけも 背で跳ね返しました。「大安」はその後も経営がなりゆかず、昭和47年2月に閉店。本館は取り壊されて住宅地となり、 別館はそのまま赤福の社員寮に変わりました。



第五部「わが生涯の記」出版

  かねは、昭和43年に本を出版しました。本は自分の一生を綴った「わが生涯の記」と古市遊郭の全盛期を再現した 「伊勢古市こぼれ話」が収められています。
  生来、筆まめではあったが、戦後、古市が昔の面影を失ってゆくにつれ筆を執る時間が長くなりました。 「昔の古市を後世に伝えるのが、私のこれからの仕事や」。多くの原稿が今でも岡村方に残っています。
  かねの歌があります。「世の中のうつりかわりと知りつつもむかしなつかしき古市の里」。

「童女に返り大往生」

  かねは、実家に戻ってからも、昔話は尽きませんでした。だが、体の衰えは目に見えて進み、2か月後には車いす の生活となりました。脳軟化症の追い打ち。車いすで、まどろむかねは人力車の上で躍る童女に戻りました。 やがて意識が無くなり10日間、夢の中で遊んだ後、昭和49年9月11日、静かに息をひきとりました。 86歳の大往生でした。



文献

「三重の女の一生」
:光書房 中日新聞三重総局編集 引用


・・晩年の女将かねの想い・・

「昔の古市を後世に伝えるのが、私のこれからの仕事や」
「世の中のうつりかわりと知りつつもむかしなつかしき古市の里」
「井村かねの世界」は、かねの古市への懐旧の情と大正〜昭和への時代の移り変わりを記したものです。 これを機に、古市華やかなりし頃、そこで懸命に生きた市井の人々の姿を、かねの古市への強い想いを、 後世へと伝えてゆきたいです。

伊勢古市参宮街道資料館 世古富保



「伊勢古市こぼれ話」

世の中のうつりかわりと知りつつもむかしなつかし古市の里・かね 「伊勢古市こぼれ話」は、かね七十七歳(昭和37年)の10月より書きおこし、 古市の全盛時代の昔をしのび、書き留めたものです。

Ⅰ 明治の古市の廓(くるわ)

  嘉永6年頃の古市は、茶屋の数、40戸位、茶汲女、780人位でした。 寛政8年5月4日の油屋刃傷事件の時は、遊廓の数78戸、娼妓の数約1000人位は居たと思います。 明治5年頃は、遊郭の数32戸、娼妓の数は640人位と思います。この頃はもう茶汲女はなかった そうですが、遊廓の中には、料理屋、お寿司屋、うなぎ屋など随分沢山軒をならべており、中 々全盛なことでございました。
  料理屋さん※1は、6軒(吉むら、荒木屋、久米種、中村屋、すし兵、浜屋)、お寿司屋さんも6軒 (朝日ずし、大黒屋、松寿し、みづや、阪本屋、中西屋)、うなぎ屋は、4軒(久米種、あらきや、 島田屋、いなば屋)でした。 旅館は、全部で14軒(油屋、大安、麻吉、矢津屋、吉野屋、浦北屋、 むさし屋、鳥羽屋、桂木屋、芳席、両興屋、松屋、津の国屋、一志屋)でした。その他、老舗の店 山形屋さんは、伊勢市生姜糖の本舗あり、ほかに大きな菓子屋さんがありました。それに古市(現中之町) には、有名な伊勢の 紙煙草入れのお店※2が2軒(井村屋三忠支店と明星村三忠の支店)あり、 宇治には、つぼやがありました。大安より南、内宮様の方面、桜木町へ行きますと、見世物(のぞきで 当時大流行していた)が4、5軒あり、鉄砲打(遊戯場の射的のこと)のお店が矢張り4、5軒はありました。
  このように古市は繁華でとても面白い処で、色々と道草し遊びがら内宮までいくにも半日位かかりました。 その他伊勢街道には何軒も大きな店があり、旅館も繁盛していましたが、明治26年参宮鉄道※3 が只今の宮川駅まで延長されてからは、間の宿になってしまい、日に日に衰徴してしまいました。
  明治31年頃には只今の伊勢駅まで延長され、明治40年には参宮鉄道が国有になってしまいました。 そのころ麻吉料理店(只今の麻吉旅館)※4は宇治山田町第一の料理店にて、芸妓さんの数は、 常時20人余りも居りました。只今の麻吉旅館の角に中座という大きな芝居小屋※5があり、千両役者 が入替わり立替わり麻吉旅館に宿泊し年中休みなしに公演していました。古市は、山田中の旦那衆が毎日の ように芝居見物に来られ、芝居通の人々が沢山いました。その上三重県下の中でも千両役者が来演するのは、 この古市の芝居小屋だけでした。

※1 この数値は明治後期〜大正初期の記録です。野村可通・伊勢古市考より。
※2 紙煙草入れ:擬革紙のことで、古来神宮参拝に獣革製ものを携帯することが許されなかったため参宮道者のために紙製の煙草入れを制作したことが始まりとされている。
※3 参宮鉄道:伊勢神宮の参拝客を見込んで設立された路線で、現在のJR東海 紀勢本線・参宮線(津〜伊勢)間を建設運営した三重県の私設鉄道。
※4 江戸時代の作家十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にその名が見えるので、この頃概に著名であった。県下でも指折りの料理店で、伊勢音頭の舞台もそなえ浮世絵にも描いる。後に旅館業に転業し、昔の面影を失った古市にあって独り麻吉のみが今なお、のれんを守って営業を続けている。
※5「奥の芝居」といわれ寛政の頃〜明治初期頃のこととおもわれる。千両役者が相次いで来演し、遠く、四日市、津、亀山、松阪あたりからも泊まり込みで見に来る大変人気のあった小屋。


敬神家の父

 明治30年頃私が⒒、2歳の頃位で、小学校に通っていた時位のこと、実家の父奥野丁之助は大変な敬神家で、 毎月1日には、必ず両大神宮様へご参拝をさしていただいておりました。父は山田町に行く途中に抜け参りの 子供さんたちに逢うと、1組か2組は、いつも連れて帰る人でした。その時代は汽車も津か宮川まで通っていま したが、抜け参りの子供たちは大方郷里より歩いてくるようでした。子供たちを大きな離れの長屋に宿泊させ 食事も与え、翌日はお弁当を持たせ、その上餅などを持たせて帰らしておりました。神宮ご参拝にきた子供を 大変かわいがっていました。

Ⅱ 各地からの御参拝の様子

三重県下の方々の御参拝

  3月末、25日になると一般の学校が休みになり、お子様なりご婦人連れにて御講参があり、50〜100人位の大勢 にて幾組も県下に講ができており、一晩泊りで伊勢神宮参拝をするのが第一の楽しみでした。4月15日頃までに大 方御越しでございましたので、毎日が大賑わいでございました。
  この県下の方々は矢張り古市ばかりお泊りでございました。滅多に駅前へも宇治へも二見方面へもお泊りにな らず、おおかた古市の旅館ばかりでございました。男は古市遊郭へいくし、ご婦人なりお子様は、お芝居を見に行 きますし、御参拝は、一年中のお楽しみでございました。大正の終わり頃から昭和の初め頃、三重県下の御講参の 宿料は2円より2円50銭、3円と申しますと、なかなか上等の宿料でございました。

岐阜方面からの御参拝の様子

  昔岐阜県という土地は、子供が12、3歳になりますと多分農村の子供だったと思いますが、4、5人連れで、俗に 抜け参りと申しまして子供ばかり伊勢神宮にお参りに来させました。 菅笠(すげかさ)をかぶせ、腰に白木の杓をさし同行何人とか書き、春になりますと、幾組もありました。

関東方面より御参拝の方々

  毎年2月中旬より3、4月にかけて津までは、汽車で来られ、そこから全て人力車にて60〜70台も連ねて御越しに なりました。

近畿地方より御参拝(5畿内)の方々

  余り人力車を使わず、おおかたは馬車に乗られて来られました。 春になると、毎日15台も16台も連ねて大きな声で伊勢音頭を唄われ面白い参拝でした。 この方々が山田に入りますと、お土産特に伊勢の紙煙草入れをよく買われました。 そのころの外宮・内宮の途中は色々な見世物があり、間の山にはお杉お玉として有名になっていましたし、 古市に来ると遊廓が30軒余りも軒を並べていました。随分沢山の芸者ですから朝も10時頃になると三味線の 音は聞こえるし、昼か夜かわからない土地でした。

滋賀・京都地方の青年の御参拝

  19歳になるとみんな揃って伊勢神宮にお参りをさせられました。その町村によりまして15、6人様とか20人様 とか、親御より相当沢山なお小遣いを持たされ、御参拝に御越しでございました。お国の親御様より、私方へお 手紙が参りまして、参拝が済んだら必ず古市で遊ばしてください。初めて一人前の男になりますから大店にて遊 ばしてください。(備前屋、杉本屋のこと)との依頼状で、いわば公認でした。

愛知・静岡の方々、昔のお船で御参拝

  昭和12年頃までは、農家の方々は7月に入りますと、野上りの御祝の神宮ご参拝にて7月8日に愛知、静岡方面 より御船にて御越しでした。御船にのられて二軒茶屋についた方々を、山田ではどんどこさんと申していました。 船の中にて太鼓をたたいて、どんどこさわいで御越しでしたので、その名がつきました。 小さな船で相当数乗ってみえても一度も事故もなく、大神宮様のお陰だと申しておりました。早朝に着きますので、 そこから歩いて私方(大安)の隣にあった大きな「とふ六」※6といううどん屋のうどんを食 べるのが恒例で、お値段は2銭でよく流行りました。交通の便も良くないし、自動車などもまだない時節ですから、 お伊勢さまに御参りした後に、古市で遊ぶのが本当に楽しみだったようです。

※6 「とふ六」:明治36年、大安と共に焼失するまで、荒格子づくりの大きな店構えを誇り、 日夜客が立てこんで繁盛していた。現在の伊勢うどんである。

Ⅲ 古市のお女郎さん

品のよい大楼のお女郎

  明治38年9月頃(あまり記憶がないのですが)内宮、二見間に電車が通じましたので、自然に古市もいけなく なってきまして、遊廓も一軒ヘり2軒へり、それにつれて料理屋、お寿司屋その他の店も次々と減っていき日に 日に寂しくなっていきましたが、まだまだ大正の終りより昭和の10年頃までは、古市もまだ相当に繁盛していま した。それに御成街道(御幸通り)も、明治42年頃には、バスも通うようになり古市はとても条件も悪くなりま すが、古市で遊ぶのは面白く、戦争前にてまだ世の中も相当にゆったりとしていたところもあり、内などへお泊 りになられました。
  お客様が夕食を終えると、番頭さんに今夜遊びに行きたいから案内をと申されますと、備前屋、杉本屋へご 案内しました。この2店は古市でも一番の大店でございました。大店の備前屋、杉本屋のお女郎さんたちは、 とても品がよく育てられていたので、上々の方々がお遊びになりましても、少しも恥ずかしくない様に育ててあ りました。将棋、碁もお相手でき、三味線も少しぐらいは出来ました。
  その料金は朝までだと、一人当たり2円50銭でございました。その当時の2円50銭は、只今の2,500円ぐらいで しょうが、昭和15年位まではこの料金でございました。伊勢音頭は一座が5円で観覧料が50銭でございました。

きれいな古市のお女郎さん

  その昔の古市のお女郎さんは何故そんなに綺麗で、また品もよく育っていたのかと申しますと、そのころは 只今のように女の方のお金儲けというところは一寸もありませんでした。都においても昔は、学校より紹介して いただくような大会社はとてもなく、各商店においても女の方の事務員さんをご使用になるようなところもあり ませんでした。
  一寸農村にしても漁村においても、世の中の悪い年が来ますと、じきに女の子は父親が連れまして古市に出世 奉公と申して身売りに来たそうです。いくら位の代金かと申しますと、大抵15、6才になりますと父親が連れてき て、10年間でよほどよい顔の子供ですと、300〜500円位で、只今の価値にしますと、家一軒建つほどでございました。
  大店(備前屋、杉本屋の大楼のこと)には子供の顔を見立てる人がいて、一寸顔のまずいのは中店や小店へ下げてい たそうです。子供も楼主によくなつき遊芸も仕込んでもらい行儀よく育ててもらって、18〜20才になるとお店に出ま すので、宇治山田町の相当の良家へ身請けされることもあり、出世奉公といっていました。

古市全盛時の芸妓、お女郎さん

  子供は、妓楼にて日々相当に芸の練習をしまして少し大きくなると舞子さんになり、さらに大きくなると一人前の 芸妓さんになります。そんな子供が一軒に8〜10人位いました。芸妓さんの花代は、たしか一時間あたり75銭位で正月 三が日はそれに一時間につき75銭増しでした。舞子さんは1組(2人まで)1人前の花代でした。赤いコッポリ下駄に てとても可愛いらしき姿でございました。
 お女郎さんの生活のことですが、古市に女紅場※7という家があり週に一度検査があり、結果が 悪いと南勢病院(今の岩渕町にありました)に入院させられました。長期入院しますと収入に影響がでますので、楼主 も本人も、常に衛生には気を付けていてとても清潔やったそうです。大店の備前屋は芸妓さん30人位と舞子さんが5組10人 で40人位揃うていました。杉本屋にしても舞子さん含めて30人余りおりました。

※7長盛座の二階は古市廓の事務所になっており、週一回月曜日に「女紅場」となった。

お女郎さんの正月詣り

  毎年お正月になりますと元旦より3日位まで、お女郎さんの神宮参拝がございまして、皆々人力車にて50台も60台もの 行列が出来ました。この行事は明治の中期より始まったそうで昭和10年頃まで続いていたように思います。御参りが済む とお土産は山形屋の羊羹と福引がありました。こうしたお女郎さんの参拝は、人力車の行列ができ綺麗でしたが、ご時世 も違ってきましたので、二度と再び見られぬことと思います。

  世の中の移り変わりと知りつつも昔なつかしき古市の里。
  昔を懐かしく思いまして、思うことを書かせていただきました。

春の桃山のお花見

  古市のまだ相当に盛かりしおり本館の裏座敷より見ると、桃山という小高い丘がありました。春4月にお花が盛りに なってきますと、とても綺麗でした。そのころは古市の芸妓さんが50人位もおりましたので、桜満開の頃には宇治河崎方面 また山田の方よりもお金持ちのご主人様達が、皆々古市の芸妓さんをあげられまして10時ごろになりますともう三味線の音 が聞こえてきました。お山は紅白の幕が張られまして、茶店も出ますし、随分賑やかなことでした。只今の徴古館が綺麗や とか、宮川堤の桜がよろしいとか申しましても桃山のように良い場所はとてもありませんでした。