浅沓(あさくつ)
丁寧な手仕事が生む漆黒(しっこく)の艶(つや)
いまはなき伊勢の伝統工芸品
その1「概要」
伊勢は神宮の鳥居前町として栄えて来たため、神職の身近な調度品の製作、補修の仕事はかなりあったようです。また、伊勢春慶で代表されるように漆を扱う土壌も十分にあった。
この様な土地柄を背景に、神宮の浅沓製作を一手に引き受けていたのが桜木町の久田家です。久田家は初代孫右衛門が文政5年(1822)創業、以来、孫蔵、清吉、僚三氏(明治37年生)に至る4代、160年間余り受け継がれてきました。
古くから公家や神官の正装には欠かせぬ履物です。また寺院においても法会の時に僧侶が履くので、現在でも全国の神社仏閣での需要は多い。しかし、この浅沓を作る職人(浅沓師)は少なく現在は京都に一軒あるだけです。京都は昔ながらの分業による生産で、生産量も多いと思われるが、久田氏は一人で全行程をやっていました。
浅沓は黒漆の一見、木製の木彫りのように見えるが、木の部分は底板だけで、周辺の部分は全て和紙をわらび粉の「糊」と「柿渋」で張り重ねた上を漆で*蠟色塗(ろいろぬり)仕上げしたものです。
古くは革製であったかもしれないが、日本にはその記録が無い。
久田氏によると底板を桐板にすると軽いが、すぐにすり減ってしまい、逆にすり減らないようにゴム、皮、プラスチック、金鋲などを打ち付けても砂利の上をサクサクと莊厳な音を響かすことは出来ない。また一時期全体がプラスチック製のものも出現したが、夏は蒸せるし、冬は堅く、はき心地が悪くて、不評の内に無くなったそうです。
その2「製造工程について」
① 木地の作成
張り込み:久田家に代々伝わる浅沓木型に、わらび粉で煮た「糊」を柿渋で薄めたもので、3回程(四国の和紙を十数枚)張っては乾燥して、また張ることを繰り返す。
乾燥後、木型よりはずす。(脱型)
② 底張り付け
底張り付け:脱型した和紙型(木地)の底に桐板・杉板などの底を麦漆(現在はボンド)等で貼り付ける。
③ 布着せ(ぬのきせ)
布着せ:木地固めの後、麻布を木地の表面にあて、糊と生漆と混ぜ合わせた「糊漆」を塗り込んで貼ります。(補強すべき箇所を麻布等で貼る)
④ 下・中塗り
地の粉と呼ばれる粗目の下地材と生漆を混ぜて練ります。これを地の粉漆と呼び、
ヘラで布着せの済んだ木地表面に平らに付けます。乾燥後、砥石(といし)で軽く磨きます。室(むろ)で乾燥させて硬化したならば、地の粉を細かくしながら、漆を塗って研ぐことを繰り返すこと約20回以上。
⑤ 上塗り
仕上げに黒漆で上塗りを施します。
⑥ 蝋色(ろいろ)仕上げ
上塗り後、油分を含まない蝋色漆(ろいろうるし)を塗って乾かし、磨き上げます。
この作業を数回繰り返すと漆独特の吸い込まれるような深い光沢が出ます。
最後に底敷と枕をつけて完成となる。
*約一か月の時間を要する。廉価なFRP製もあるが、本物はその歩く時の音も異なるそうです。
参考
*蝋色塗(ろいろぬり):漆器の塗りの一技法で、油分を含まない蝋色漆(うるし)を塗って乾かし、研磨して光沢を出す塗り方
*じのこ【地の粉】:生漆(きうるし)とまぜて使う、漆器の下地用の粉。粘土・火山灰などを焼いて砕いたもの
その3「使用材料について」
*合成樹脂では和紙にもなじまず、使用中のひび割れや補修がしにくい等問題があるため蝋色漆(中国産の天然もの)を使用する。
*柿渋は昔から度会郡度会町棚橋あたりの農家から入手していた。
その4「4代目久田僚三氏について」
久田氏は明治37年に桜木町に生まれ、大正8年、宇治山田市立高等小学校卒業と同時に、家業(髹漆業)(きゅうしつぎょう)に従事する。
3代目清吉さんが昭和23年に死亡してからは「久田浅沓調進所」を継承する。「子供の時から父の仕事を見てはいたが、実際に手がけてみると紙一枚を張るにも問題が多く、何とか一通り出来る様になるのに10年はかかると言う。
本当に気に入った浅沓が作れるようになるまでに30年ほどかかったという。特に漆の上塗りが一番難しく、満足のできるものは1割程度である」とその道67年も精通してきた久田僚三氏の言葉です。
浅沓は毎日履けば砂利の上のため、すぐ底が減るので早めに底板の張り替えをして使用する方が長持ちするため、底板張り替え、修理の仕事が沢山あった。特に神宮は参道が長く、歩く距離が長いため、早く傷(いた)む。神宮での耐用年数は約二年である。若い頃は月30足くらい作って、修理も沢山やっていたが、晩年は高齢のため10足程度のペースで全国の神社からの注文にすべて応じられない状態であった。「年間400〜500足の注文があったが、とても応じられないので丁寧にお断りをしていたという。
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「しかし昭和20年代は伊勢神宮はもとより、全国の神社仏閣は敗戦直後の混乱期で、日常生活に追われ信仰もすたれ経営に困難をきたし、新しい浅沓や調度品の新調どころではなかった。このため、久田氏の処への注文も全く皆無であった。春慶塗りの仕事や修理仕事で髹漆業を続けていた時代もあったが、昭和28年の御遷宮で一挙に約300足の注文を受け、浅沓生産が復興し全国からの注文が来るようになった。」
その5「まとめ」
神宮の鳥居前町として栄えた伊勢には神職の調度類の制作、補修の仕事が数多くありました。
その一つ、浅沓は代々神宮の浅沓師として仕えた伊勢市桜木町の久田家が担っており、後継の西澤氏が伊勢でただ一人の浅沓師としてその伝統を守っておられましたが、後続者がいない現在、伊勢でその伝統を守る生産者はいなくなってしまいました。