古市

「伊勢の伝統工芸」展
平成29年度 前期 特別企画展
2017/11/10

平成29年度 後期特別企画展「伊勢の伝統工芸」展 (浅沓・根付・玩具・一刀彫・伊勢和紙・提灯・和釘・神殿)

目的

 伊勢市、特に山田は全国から集まる伊勢神宮への参拝者を対象として様々な産業や商業が生まれ早くから都市的性格を持っていた。その産業には浅沓司など神宮に直接関係したものと提灯屋・玩具・箸屋・桶屋など参拝者、及びそれをもてなす宿泊施設などが消費する品を扱う産業の二通りがあった。いずれも「お伊勢さんの御膝元」という歴史と風土の中で独自の発展を遂げてきました。そうして生まれた伝統工芸品ですが、時代の変遷とともに既に消えてしまったもの、或は衰微(すいび)しているものなど、その大半が危機に直面しています。
 今回、時代を超えて受け継がれてきた匠の技、こだわりの品々を企画展示することで、伊勢の伝統工芸品の良さを、職人の手仕事の素晴しさを実感していただくと共に、これらの伝統工芸品を身近で親しみのあるものとして受け入れて戴ければ幸いです。

場所

 伊勢古市参宮街道資料館 [MAP ]

期間及び開館時間

 平成29年11月10日(金)~12月10日(日)9:00~16:30
 月曜日休館日(祝日のときは、その翌日)
 休日の翌日(ただしその日が日曜日は除く)

主な展示物

 工芸品・写真パネルなど

開催にあたって

 初めに、今回の平成29年度後期企画展「伊勢の伝統工芸」について伊勢市、㈶伊勢伝統保存協会並びに伊勢市産業支援センターの方々を初め、関係者の皆様方には全面的ご支援、ご協賛を得ることが出来開催することが出来ました。開催にあたりここに深く感謝しお礼申し上げます。

伊勢古市参宮街道資料館長 世古富保 

伊勢の伝統工芸

 伊勢市、特に山田は全国から集まる伊勢神宮への参拝者を対象として色々な産業や商業が生まれ早くから都市的性格を持っていた。その産業には浅沓司など神宮に直接関係したものと玩具・提灯屋・箸屋・桶屋など参拝者及びそれをもてなす宿泊施設などが消費する品を扱う産業の二通りありました。いずれも「お伊勢さんの御膝元」という歴史と風土の中で独自の発展を遂げてきました。そうして生まれた伝統工芸品ですが、時代の変遷とともに既に消えてしまったもの、或は衰退しているものなど、その大半が危機に直面しています。
*三重県ではこれらのうち産地規模が小さいために国の指定を受けることのできない工芸品33品目を「三重県の伝統工芸品」に指定し、県民の財産としてその維持・発展に努めております。
*伊勢の伝統工芸品は、現在伊勢春慶・根付・伊勢玩具(刳物・練物)・和釘・神殿・一刀彫・矢箸・提灯・伊勢和紙の10品目であります。
(この内下線のある工芸品は、三重県の伝統工芸品に指定されています。)

*㈶伊勢伝統工芸保存協会におきましても時代を超えて受け継がれてきた匠の技、こだわりの品をひとりでも多くの愛好者が増え、継承されることを願っています。

いまはなき伊勢の伝統工芸品

 *・浅沓(あさくつ)・番傘(ばんがさ)・団扇(うちわ)は現在、伊勢には生産者がいなくなりました。

浅沓(あさくつ)

丁寧な手仕事が生む漆黒(しっこく)の艶(つや)
 いまはなき伊勢の伝統工芸品  

その1「概要」

 伊勢は神宮の鳥居前町として栄えて来たため、神職の身近な調度品の製作、補修の仕事はかなりあったようです。また、伊勢春慶で代表されるように漆を扱う土壌も十分にあった。
 この様な土地柄を背景に、神宮の浅沓製作を一手に引き受けていたのが桜木町の久田家です。久田家は初代孫右衛門が文政5年(1822)創業、以来、孫蔵、清吉、僚三氏(明治37年生)に至る4代、160年間余り受け継がれてきました。
 古くから公家や神官の正装には欠かせぬ履物です。また寺院においても法会の時に僧侶が履くので、現在でも全国の神社仏閣での需要は多い。しかし、この浅沓を作る職人(浅沓師)は少なく現在は京都に一軒あるだけです。京都は昔ながらの分業による生産で、生産量も多いと思われるが、久田氏は一人で全行程をやっていました。
 浅沓は黒漆の一見、木製の木彫りのように見えるが、木の部分は底板だけで、周辺の部分は全て和紙をわらび粉の「糊」と「柿渋」で張り重ねた上を漆で*蠟色塗(ろいろぬり)仕上げしたものです。
 古くは革製であったかもしれないが、日本にはその記録が無い。
 久田氏によると底板を桐板にすると軽いが、すぐにすり減ってしまい、逆にすり減らないようにゴム、皮、プラスチック、金鋲などを打ち付けても砂利の上をサクサクと莊厳な音を響かすことは出来ない。また一時期全体がプラスチック製のものも出現したが、夏は蒸せるし、冬は堅く、はき心地が悪くて、不評の内に無くなったそうです。


その2「製造工程について」

① 木地の作成

 張り込み:久田家に代々伝わる浅沓木型に、わらび粉で煮た「糊」を柿渋で薄めたもので、3回程(四国の和紙を十数枚)張っては乾燥して、また張ることを繰り返す。 乾燥後、木型よりはずす。(脱型)

② 底張り付け

 底張り付け:脱型した和紙型(木地)の底に桐板・杉板などの底を麦漆(現在はボンド)等で貼り付ける。

③ 布着せ(ぬのきせ)

 布着せ:木地固めの後、麻布を木地の表面にあて、糊と生漆と混ぜ合わせた「糊漆」を塗り込んで貼ります。(補強すべき箇所を麻布等で貼る)

④ 下・中塗り

 地の粉と呼ばれる粗目の下地材と生漆を混ぜて練ります。これを地の粉漆と呼び、 ヘラで布着せの済んだ木地表面に平らに付けます。乾燥後、砥石(といし)で軽く磨きます。室(むろ)で乾燥させて硬化したならば、地の粉を細かくしながら、漆を塗って研ぐことを繰り返すこと約20回以上。

⑤ 上塗り

 仕上げに黒漆で上塗りを施します。

⑥ 蝋色(ろいろ)仕上げ

 上塗り後、油分を含まない蝋色漆(ろいろうるし)を塗って乾かし、磨き上げます。 この作業を数回繰り返すと漆独特の吸い込まれるような深い光沢が出ます。 最後に底敷と枕をつけて完成となる。
 *約一か月の時間を要する。廉価なFRP製もあるが、本物はその歩く時の音も異なるそうです。

参考

 *蝋色塗(ろいろぬり):漆器の塗りの一技法で、油分を含まない蝋色漆(うるし)を塗って乾かし、研磨して光沢を出す塗り方
 *じのこ【地の粉】:生漆(きうるし)とまぜて使う、漆器の下地用の粉。粘土・火山灰などを焼いて砕いたもの


その3「使用材料について」

 *合成樹脂では和紙にもなじまず、使用中のひび割れや補修がしにくい等問題があるため蝋色漆(中国産の天然もの)を使用する。
 *柿渋は昔から度会郡度会町棚橋あたりの農家から入手していた。


その4「4代目久田僚三氏について」



 久田氏は明治37年に桜木町に生まれ、大正8年、宇治山田市立高等小学校卒業と同時に、家業(髹漆業)(きゅうしつぎょう)に従事する。
 3代目清吉さんが昭和23年に死亡してからは「久田浅沓調進所」を継承する。「子供の時から父の仕事を見てはいたが、実際に手がけてみると紙一枚を張るにも問題が多く、何とか一通り出来る様になるのに10年はかかると言う。
 本当に気に入った浅沓が作れるようになるまでに30年ほどかかったという。特に漆の上塗りが一番難しく、満足のできるものは1割程度である」とその道67年も精通してきた久田僚三氏の言葉です。
 浅沓は毎日履けば砂利の上のため、すぐ底が減るので早めに底板の張り替えをして使用する方が長持ちするため、底板張り替え、修理の仕事が沢山あった。特に神宮は参道が長く、歩く距離が長いため、早く傷(いた)む。神宮での耐用年数は約二年である。若い頃は月30足くらい作って、修理も沢山やっていたが、晩年は高齢のため10足程度のペースで全国の神社からの注文にすべて応じられない状態であった。「年間400〜500足の注文があったが、とても応じられないので丁寧にお断りをしていたという。

・・・

 「しかし昭和20年代は伊勢神宮はもとより、全国の神社仏閣は敗戦直後の混乱期で、日常生活に追われ信仰もすたれ経営に困難をきたし、新しい浅沓や調度品の新調どころではなかった。このため、久田氏の処への注文も全く皆無であった。春慶塗りの仕事や修理仕事で髹漆業を続けていた時代もあったが、昭和28年の御遷宮で一挙に約300足の注文を受け、浅沓生産が復興し全国からの注文が来るようになった。」


その5「まとめ」

 神宮の鳥居前町として栄えた伊勢には神職の調度類の制作、補修の仕事が数多くありました。
 その一つ、浅沓は代々神宮の浅沓師として仕えた伊勢市桜木町の久田家が担っており、後継の西澤氏が伊勢でただ一人の浅沓師としてその伝統を守っておられましたが、後続者がいない現在、伊勢でその伝統を守る生産者はいなくなってしまいました。

根付(ねつけ)

 最堅の朝熊黄楊(あさまつげ)を使った彫刻芸術  


その1「概要」

 根付とはポケットのなかった江戸時代において、印籠(いんろう)や煙草入れを帯に提(さ)げる留め具として用いられていました(上図参照)。根付は江戸時代から近代にかけての古根付と昭和、平成の現代根付に大別される。装飾美術品の域にまで発達した日本独自の小さな細密彫刻の事です。
 大きさは数センチから小さいものは1センチ位のものもある。材質は桜・ツゲ・黒柿・黒檀など堅い木や象牙、角などを材料にしました。


その2「歴史」

 安土桃山時代が終わり、徳川家康の天下が始まるのに合わせて、相当な薬愛用家だった家康は自分のみならず、高級武士や公家等にその大切さを説き、太平の世になっても外出時に、切り傷・腹痛・頭痛薬等常備薬を持ち歩くことを武士たちに奨励した。彼らは常備薬を携帯するに当たって、その入れ物として、印鑑と朱肉を入れた小さな携帯用印籠に目をつけ、これを更に小型化し、印鑑や朱肉の代わりに薬を入れ携帯用薬籠とした。これを武士やその奥方が使用する場合、帯からぶら提げる時に「留め具」の役目を果たしたのが「根付」である。
 帯の上の目立つところに根付は身につけられました。そのため彫刻に贅を尽くした細工物の装飾品として、江戸時代の着物文化とともに根付は発達しました。ポケットを持たない和服を着るときは、根付は欠かせない必需品でした。
 古根付(こねつけ)と呼ばれる江戸時代の古い根付は、だいたい17〜18世紀頃に初期の根付が形作られ、18世紀後半から19世紀前半の約1世紀に渡り発達を遂げました。文化・文政時代(1804〜1830)から江戸時代の末期までが最盛期といえます。


その3「分類」

 根付けの分類は、形状と作成地域による2種類が多く用いられる。形状として形彫根付(かたぼり)・鏡蓋根付(かがみぶた)・差根付(さし)・饅頭根付(まんじゅう)・柳左根付(りゅうさ)・面根付(めん)印章根付(いんしょう)などがある。
 作成地域は江戸、京都、中京(名古屋、伊勢、岐阜)石見国(いわみのくに島根県西部地方)がある。


その4「根付がたどった運命」

 根付は江戸時代に最も発達し、数多くの素晴しい作品が残されました。しかし、明治の文明開化とともに導入された洋服のボタンとポケットの文化が原因となり明治以降、根付けは無用なものになりました。そのため根付制作は激減し、以降は観賞用や海外輸出用として制作され続けました。しかし根付制作が完全に途絶えたわけではありません。明治より後の大正・昭和・平成の20世紀に製作された根付は「現代根付」と呼ばれており今なお、数少ない根付師により作品が細々と作り続けられています。最近では日本人だけでなく外国人のアーティストも現代根付を制作するようになってきています。残念なことに、江戸時代に作られた根付は、明治時代以降にその多くが海外に流出しました。根付のトップコレクターと呼ばれる蒐集家(しゅうしゅう)たちは大半が欧米人です。日本では一部の博物館とコレクターにかろうじて所有され、国内に留められています。国内での根付を鑑賞できる博物館としては、東京国立博物館、大阪市立美術館などが有名です。
 日本人には評価されなかった美術工芸が外国人によって評価され、蒐集され、研究される。浮世絵版画と同じ運命を根付もたどりました。現在でも海外の有名オークションなどを通じて、沢山の根付が売買されており、美術品としての流通性は確保されているが日本人より外国人のコレクター人口のほうが断然多いのが実情です。
 根付の持つ高い芸術性は現在、制作国の日本以上に国外では日本独特の精密的文化として高く評価されています。


その5「伊勢根付」

 伊勢根付は、関東地方で象牙(ぞうげ)が多く使われてきたのとは対照に伊勢根付は黄楊(つげ)の木、それも「木の宝石」と呼ばれる組成が密で堅い朝熊山の黄楊を5〜10年間寝かせたものを使うことが特徴です。栗、ネズミ、キノコ、昆虫など自然の動植物を彫ったもので、特に参宮者には無事帰るという縁起からカエルの彫り物に人気があった。
 擬革紙で作った伊勢煙草入れの産地ということもあって、幕末から明治時代に全盛期を迎える。
 幕末から明治初期にかけてこの地で作を成した名人・鈴木正直(すずきまさなお)(文化12〜明治23)により根付は彫刻芸術へと高められ、現在この地で活躍する根付作家もその作風を受け継いでいます。一説では伊勢神宮の残材を利用した一刀彫の伝統が下地にあったともいわれています。


その6「形状による分類」

 

一刀彫(いっとうぼり)

 (刃痕そのままに、木目をいかした縁起物)  
 宮大工が伊勢神宮の御残材を使って恵比寿大黒などを彫り始めたのが一刀彫の起源といわれています。もともと伊勢には根付師が多く存在しており、彫り物の技術に優れていました。今は主に楠材が用いられており、美しい木目を生かした素材が目を引きます。また、磨きや彩色はせず刀痕をそのまま生かすため、素朴の中にも力強さと温かみを併せ持つのが大きな特徴。現在は伊勢にゆかりのある神鶏やカエルなどを形取ったものや、その年の干支を彫ったものが縁起物として根強い人気を誇っています。
 一刀彫の干支には、世界平和、家内安全、商売繁盛など人々の一年のスタートに当たりそれぞれの思いや祈りが込められています。
 伊勢神宮ではその年の干支をかたどったお守り「干支守」が授与されます。授与は12月1日頃から開始しています。

伊勢玩具

その1「伊勢玩具 刳物(いせがんぐ くりもの)」

  鮮やかな色彩が目を引く

 「宇治山田市史」によると伊勢の刳物技術は明治の初めに信州からやってきた職人より伝わったといわれています。材料であるチシャの木や百日紅(さるすべり)が神路山(神宮林)や大杉谷で容易に入手できたことや参宮客に土産物としてもてはやされたことから大いに発展し、戦前は日常品が作られ人気を集めました。戦後は玩具が中心になり、プラスチック製品におされつつも今なお作られています。

・・・

 「明治36年の市内電車開通や明治43年の御幸道路開通までは、古市の通りが刳りものの中心で桜木町にも10軒余りの店が店先で製造小売りをし、その間に外宮や内宮のお土産物屋へ卸していました」

・・・

 伊勢刳物の内容は時代によって大きな変化があり、戦前は土産物においても盆、茶筒、肩たたきなど実用品が多かったが、戦後は修学旅行客の増加も原因して明らかに玩具が主流となっていった。
 戦前―盆・煙草入れ・箸立・肩たたき・湯のみ・(五色独楽・鳴独楽(こま))・連発銃
 戦後―玩具中心(ケン玉・ヨーヨー・鳴独楽(なりごま)・独楽・達磨落とし・連発銃


「特徴」

 ① 他の地方の玩具に比べ鮮やかな色彩が施されていると共に、木目を生かした木地の美しさがある。
 ② 単なる玩具でなく達磨など縁起物としての役割もある。押す、引く、回すなど、人とのふれ合いによって親しみと心の安らぎを与える。
 ③ 玩具の3要素(音・動き・色調の美)を備えたものが多い。なかでも鳴独楽(なりごま)と呼ばれる鳴る独楽は伊勢独特のもので、昔はチシャ材で作られたが大正頃より、今の竹材のものが見受けられるようになり、形状的にも「大らかな動き・音・色」と玩具の三要素を兼ね備えています。
 ④ 経年変化によって自然の「黒ずみ」があらわれ、参宮した過ぎし日のさまを思い出させる。
 こうした特色から伊勢玩具は少しずつ見直されてきているが、原材料の高騰、受注量や売上高の低迷に加え、職人の高齢化と後継者難が今大きな問題になっている。


「材料」

 ダルマ落とし・けん玉・ヨーヨー・コマなどはサルスベリ、チシャの木の他にリョウブの木、ふくらそうの木が主に使われた。
 昔は近場の炭焼きが伐る木の中から買い上げ使用していたが、炭焼きが無くなるに従い30年代後半を境にして現在は大台、大杉谷など宮川水系周辺から購入しているのが実状です。

チシャの木リョウブの木ふくらそうの木

その2「伊勢玩具 練物(いせがんぐ ねりもの)」

 (おが粉を使って形作る魔除けの置物)

 刳物と並び代表的な参宮土産であった練物。その起源や誰が始めたのかは定かではありませんが、獅子頭は魔除けの置物として戦前から作られていました。他の地方では張り子の手法を取ることが多いが、伊勢ではおが粉(木粉)に糊を合わせ粘土状にしたものを型に押し込んで作ります。大きなものを制作でき、明治時代には古市で四つ輪の台車に乗った馬の練物が売られていたと記録にあります。伝統工芸品として制作が続けられている獅子頭や弓獅子など色が鮮やかなうえ動きがあり、さらに音が鳴るといったおもちゃの要素が巧みに取り入れられています。勿論それだけでなく、神宮参拝に全国から集まってくる伊勢の特殊性も要因しています。


その3「まとめ」

 様々な伊勢玩具を見ていると、伊勢は「伊勢春慶・伊勢根付・一刀彫・神殿」なども含め、木を細工する地盤が昔からあったようです。それは神宮の御遷宮により、木に馴染む機会とそれを支える技術の下地があったからこそ木を加工する色々な産業が生まれたと考えられる。木に触れ遊ぶという気質が伊勢人にあって、そのあらわれの一つが伊勢玩具だったようです。
 また、神宮参拝に全国から人が集まってくる宇治・山田の特殊性も原因している。
 伊勢の刳物師は本来、盆、筒物など日常品の製造が主たる生業であったと思われる。その中で参宮土産(伊勢玩具)を生み出してきた伊勢は参宮客が日本各地から訪れるという恵まれた環境にあったといえます。


和釘(わくぎ)

 (さびにくく木材を傷めにくい和釘)  
 神社・仏閣・城など古建築物の修理・復元には今でも和釘が使われます。
 飛鳥時代から明治20年頃までは和釘は様々な建築物に用いられていました。
 久住商店の親子はかって造船の町として栄えた大湊で昔ながらの火造りで和釘を作っています。


その1「和釘鍛冶屋(歴史)」

 大湊は古来より造船の町として有名であり、かって九鬼水軍の日本丸もここで建造されたといわれる。明治期の船建造は県外各地からの依頼も多く盛況は昭和30年代まで続いた。こうした造船業を支えてきたのが船釘、工具、船具を作る鍛冶屋であり安政5年(1858)水饗(みけ)神社に釘問屋が奉納した常夜灯に111戸の鍛冶屋が記名されていることからも大湊に大きな鍛冶集団が存在していたことがわかる。こうした鍛冶職の中に和釘を専門とする鍛冶屋があった。現在も一軒で操業する久住勇氏によれば近年まで倉田、中川の2名が同業者としていたが、今は久住家一軒になってしまったという。
 「明治中頃洋丸釘が登場するまでは和釘が主流の時代だったが、それ以降需要が減り初め、注文が減少していった。現在は文化財保存や古風様式の建築用として需要があるに過ぎない」


その2「和釘の種類」

 制作する製品には、折れ釘・カイオレ・マキガシラ・メカス・イナゴ・カスガイ・瓦釘などがあった。


その3「和釘の製作法」

 1:材料は番線を使い製品によって太さを変え3尺程度に切断し制作にかかる。
 2:番線の先をフイゴの風で燃えさかるコークスの火で熱し*金床(かなとこ)の上で尖(とが)らせる。
 3:その後金床に取り付けられた寸法具に当て一定の長さに切り落としていく。(ボウズオトシ)
 4:こうして注文の寸法に切った直釘はまとめられ次の作業に入る。
 5:尖った釘先部を鋏具ではさみ、切り口の方をコークスの火で熱しナラシという金床の端を使って小金鎚で折り曲げアタマをつける。さらにその頭に滑り止めの傷をやすり状の金鎚でつけ仕上げる。
 6:釘が仕上がると「ぬか煎(い)り」といって*端反り鍋に米糠(こめぬか)と一緒に釘を入れ火にかけて煎り、その後米糠を落とし、熱した上からマシン油を注ぎ錆止めと着色をおこなう。
 *金床(かなとこ):作業台のこと*端反り鍋(はぞりなべ):鍋の縁が外に反っている形の鍋
 


提灯(ちょうちん)

(創業来160年余、伊勢唯一の老舗が作る和提灯)  
 提灯は昔から照明用器具の一つとして祭礼用、装飾用に生産されており、伊勢ではおもに御神燈(ごしんとう)類が多く作られました。神宮の御遷宮が長く行われてきたことを考えるとかなり古くからあったのではないかと推測されますが、由来は詳らかではありません。戦後、伊勢には十数軒の製造元がありましたが、現在は伊勢神宮御用達である岩田提灯店一軒のみ。同店の創業は嘉永5年(1852)工房では糸で竹ひごを結んだり、美濃紙を一枚ずつ丁寧に張り合わせていく作業が間近で見られます。提灯には円筒型、丸型、棗型(なつめ)、長型、柿の実型、盆用提灯などの種類があります。

神殿(しんでん)

伊勢神宮の「唯一神明造(しんめいづくり)」を忠実に模した茅葺(かやぶき)神殿    お伊勢参りが流行した江戸時代、御師が諸国を巡り歩いた際に神殿の注文を受け、神宮の宮大工が仕事の合間に作る様になったのが始まりとされています。
 特徴は神宮の神殿を忠実に模していること。「唯一神明造」と呼ばれる建築様式にのっとり木曽桧を使った茅葺神殿は、ここ伊勢の神棚にしか見られません。昭和初期以前は全ての工程が職人の手でなされていましたが現在は部材が規格化され量産できるようになり、全国の崇敬者の間で喜ばれています。
 平成28年伊勢の神殿が三重県指定伝統工芸品に指定された日に由来して、10月19日が「伊勢の神棚の日」として記念日に指定されました。

伊勢和紙(いせわし)

(清浄な神の紙)    伊勢和紙はかっての「御師龍太夫邸」の跡地という歴史ある場所で生産されています。
 百年以上にわたり神宮御用紙として神宮大麻(御神札)の*奉製(ほうせい)に使用されて来ました。


その1「歴史」

 「製紙法」は飛鳥時代に朝鮮半島から伝えられた。やがて、律令の整備や仏教の布教活動のため製紙所が設けられ、日本各地で発展してきた。伊勢和紙の歴史は明治からで参拝者をもてなしていた御師に関係している。明治政府により御師制度が廃止となったため、神宮が奉製する御神札の紙を供給しようと、有志で土佐や美濃から紙漉き職人を招きその技術を習得して製紙工業をおこしたのが伊勢和紙の始まりで明治5(1872)年頃のことである。
 御神札用紙奉製の特権を得て、明治32(1899)年には、有力な3つの製紙会社が統合して神都製紙株式会社となり、戦後(1947年)に大豊和紙工業株式会社と改名。現在に至る。こうして100年以上にわたり、神宮の御膝元で神宮御用紙を中心に各地の神社の御神札、御守りとなる紙を丹念に奉製してきた。平成6(1994)年三重県指定伝統工芸品の指定を受けました。


その2「材料・製法」

 和紙は、コウゾ・ミツマタ・ガンピなどの植物の*靭皮繊維(じんぴせんい)を煮詰めて、叩(たたき)きほぐし不純物を除き、しなやかで強く美しい繊維を取り出して漉(す)く。竹簀(すのこ)を木枠に挟み込み、水中に分散させた繊維をすくい上げる。強さ・優美さ・艶(つや)・繊細さなど、それぞれの原料植物の繊維が持つ特徴を生かし、必要に応じて各種原料を配合して目的の適正を編み出すことにより、洋紙と違う和紙の味わいが生まれる。
 伊勢和紙には他にも伊勢の風土を生かして杉皮や海藻などを漉き込んだ手漉(てす)き工芸紙があります。


その3「美術用紙としても」

 伊勢和紙は近年、日本画やインクジェットプリンタによる作品制作など美術用紙としても注目されている。神宮御用紙として育まれていた伊勢和紙は、基礎体力として美術用紙の特徴をも具えており、特殊な加工を施すことなく作品制作に使用出来る。写真、ポスター、書画など作家とのコラボレーションを数多く実現し、便せん、封筒などの小物造りを通して「和紙のあるくらし」を提案してきた。平成17年(2005)には工場敷地内に「伊勢和紙館」「伊勢和紙ギャラリー」を開設し、伊勢和紙の歴史や製法の展示・使い方提案作・作品制作・発表・鑑賞の場として多くの来場者に親しまれています。
 *奉製(ほうせい):丁寧に作ること。
 *靭皮繊維(じんぴせんい):植物の篩部(しぶ)および皮層の繊維。強靭で抵抗性が強い。

 これらの植物から繊維をとり和紙の原材料になる。

コウゾミツマタガンピ


その4「和紙の特色」

 一本一本の繊維を大切にして、素材の持つ特徴を引き出して漉くのが和紙の特色です。


参考文献

 ・ 「伊勢市の民俗」 伊勢文化会議所
 ・ 「伊勢モノ語り」 伊勢伝統工芸保存協会
 ・ 「伊勢根付・伊勢玩具調査報告書」 三重県教育委員会