古市

「伊勢春慶」展
平成29年度 前期 特別企画展
2017/07/11

平成29年度 前期特別企画展「伊勢春慶」(いせしゅんけい)

 「伊勢春慶」それはかつて、伊勢を中心として大量に作られた漆器である。昭和20年代までの我々の生活の中で運動会の弁当、祝の赤飯などを近所に配るのに使った入れ物として日々の暮らしの中で使われた重宝な雑器だった。

 春慶塗は天然の木目の美しさをそのまま生かした透明塗の一種で、和泉(いずみ)国堺の漆工春慶が創始した技法であることからその名がついたといわれている。

 昭和4年発行の「宇治山田市史」ではその始まりは室町時代であるとし、神宮の工匠が御造営の余材をもって内職として始めたとしている。参宮客が増加する江戸時代になると伊勢土産として漆器が特産品としてあげられている。また明治期には全国的にも有名な漆器として紹介され、その後も盛んに製造されていた。

 しかし、昭和から戦後にかけては需要が激減し昭和30年代になると軽くて便利なプラスチック容器が普及したため長く続いた伝統産業は終止符を打つことに成った。

 製造されなくなって40年近くなった平成16年地元の有志が「伊勢春慶の会」と称して保存会を立ち上げ、伊勢河崎商人館を中心に伝統技術の伝承と新しい活用の道を求め活動し今に至っている。

 今回の企画展は伊勢春慶の製造工程を写真やパネルなどで紹介することで漆器のもつ奥深さを感じて戴き、シンプルな中にも温もりのある生活雑貨として新鮮な魅力をもつ漆器の美しさを旅館などで使用していた膳や入れ子などで紹介したい。

開催場所:伊勢古市参宮街道資料館
開催期間:平成29年7月11日(火)~8月6日(日)
開催時間:9:00~16:30
  月曜日休館日(祝日のときは、その翌日)
  休日の翌日(ただしその日が日曜日は除く)
主な展示物:調度品・写真パネルなど

 伊勢春慶の歴史。製作工程:「漆の木・漆原材料・檜板・白木の木箱・弁柄による着色目止め下ぬり・ 中塗り・春慶漆塗(完成)」各工程の品々と写真パネル、説明パネルなど総合的な展示でご紹介します。

開催にあたって

 はじめに、今回の29年度前期企画展「伊勢春慶」によせて角仙合同(株)社長の村田典子氏をはじめ 伊勢文化舎の中村賢一氏、伊勢春慶の会の神戸和幸氏ほか関係者の皆様方の全面的なご支援、 ご協賛を得て開催することが出来ました。ここに深く感謝し御礼申し上げます。

伊勢古市参宮街道資料館長 世古富保 

その1「概要」

 「伊勢春慶」それはかって、伊勢を中心として大量に作られた漆器である。 昭和20年代までの我々の生活の中で運動会の弁当、祝の赤飯などを近所に配るのに使った入れ物として 日々の暮らしの中で使われた重宝な雑器だった。
今、漆器といえば黒や朱の漆に蒔絵や螺鈿(らでん)を施した輪島塗や、赤い漆の下から黒漆がのぞく 根来塗りなどが思い浮かぶ。しかし「伊勢春慶」はそれらの漆器のように大事に扱われる美術工芸的な器ではなく、 あくまでも普段着の雑器として広まった。

その2「特色と定義」

特色

 木地はヒノキの一枚板を使用し、下塗りにベンガラや柿渋を多く用い、仕上げに透明の漆を一回だけ塗る。 そのため、赤褐色の木目が透けて見える。箱物の底の隅には「こくそ」と呼ばれる黒い目止めが施されている。 漆の量や、作業工程が少ないため安価で作成できる。裏底には製造元の焼印が押される。
 伊勢の漆器産業は、木地屋、塗師屋、両者を仲介する問屋の三者によって成り立っている。 今日では長野県木曽郡上松町の業者から木地を取り寄せており、伊勢では塗りの工程を行っている。

まとめ

 伊勢地方で製作されることを前提に次の4点を満たしたものをいう。
  ① 木地はヒノキ材を使用する。
  ② ベンガラなどで着色する。
  ③ 柿渋をぬる。
  ④ 透明な春慶塗または朱合漆を施して仕上げる。

その3「歴史」

起源

 伊勢春慶の始まりについて「宇治山田市史」には、室町時代に神宮の工匠が御造営の余材をもって内職として作り初め、 そのため刳りものや曲げ物は少なく板物が主であると述べている。 また伝承として、戦国時代の武将・蒲生氏郷(がもううじさと)が町坂に赴任した時、近江日野から連れてきた漆職人たち によって伝わったという話もあるが、いずれも確証はない。 しかし1400年代後半の古文書には「大漆師屋」「塗屋館」といった屋号がみられることから、それが春慶塗だったかは 確定できないが、すでにこの頃伊勢には塗師屋が存在していたことが推察される。


江戸時代
 江戸時代になると御師の活躍によって伊勢参りが盛んになり、参宮客が増加するとお土産品として漆器の需要も多くなり、 安永2年(1773)の「宮川夜話草」には伊勢土産として漆器が特産品としてあげられている。 漆器店の老舗としてあげられる岡村町の若井源助家が延享2年(1745)創業、片岡善兵衛家が寛永元年(1748)創業、 橋本佐兵衛家が寛政元年(1789)創業していることからも、この頃から伊勢春慶が盛んに製造され、一つの産業として 成立していたことがわかる。
 「江戸時代から伊勢は漆器の産地で、その流通を担ったのが、勢田川沿いに開けた河崎の問屋街です。当初、岡村地区で 製造されていた伊勢春慶は、勢田川の水運を利用する河崎の商人によって伊勢湾沿岸の各地を初め、全国へと販売されました。 幕末の頃になると河崎でも作られる様に成り、大勢の指物師や塗師などの職人が勢田川沿いに住むようになった。」
 幕末から明治初年当時の伊勢春慶について「伊勢参宮春之賑」横地長重著・明治元年(1868)の記述によると 次の3つの重要なことが確認できる。

1:岡村町が生産の中心だったこと。
2:船で関東や大坂、京都に出荷していたこと。
3:絵から製造していた商品の種類は、重箱・めっぱ(弁当)おひつ・角切り膳・よろず(高枕・盆・炒り子など)を製造していたことがわかる。


明治時代
 舟での東西への出荷は伊勢春慶の名を広め、明治初年には伊勢春慶は全国に知られた漆器となり、伊勢山田は江戸にも 知られた漆器産地となっていた。そして明治4年(1871)には、伊勢春慶は全国的にも有名な漆器として紹介されるようになった。
明治時代に入り、多くの博覧会や共進会が各地で開催されたが、こうした博覧会(内国勧業博覧会)に伊勢春慶も幾度となく 出品し、数々の賞を受賞した。しかしその評価は絶賛するものではなく「粗ナリト謂ヘドモ廉価ニテ堅固」という言葉が示す ように、上品さはないが安くて丈夫であるというものであった。
明治30年代になると伊勢春慶の需要は大きく拡大し業者が乱立するようになり、品質維持のため明治35年(1902)山田漆器同業者 が結成された。


大正時代
 大正期は日清・日露戦争や第一次世界大戦などの戦勝による好景気も手伝って需要が増加し、伊勢春慶が最も盛んに作られた 時代であった。 製造業者、職人共に急増はしたが、粗悪品を生む結果となった。


昭和時代(戦前)
 昭和になり、戦争が始まると派手な祭りや祝い事は自粛され、ハレな食事を作ることも少なくなり、配りものに使う重箱や ハレの時に用いる高膳の使用度は落ちていった。更に戦争は伊勢春慶に追い打ちをかけた。徴兵による職人不足、軍からの 弾薬箱製造命令などで伊勢春慶の生産体制は崩れ休止状態となってしまった。


昭和時代(戦後)
 戦後伊勢春慶は復活を図るが、職人不足と中国との国交断絶から漆の入手が困難になったこと、また主要生産地であった 岡村地区の戦災もあって復活には困難を要した。こうした漆不足は代用漆が使われる様に成り解決の方向が見え始めたものの、 昭和30年代になるとプラスチック容器が登場し、軽くてどのような形にも加工できる新容器は伊勢春慶を追いやり、長く続いた 伝統産業は終止符を打つようになった。


平成時代〜
 製造されなくなって40年近くたった平成16年(2004)地元の有志が「伊勢春慶の会」と称して保存会を立ち上げ、伊勢河崎商人館 を中心に伝統技術の伝承と新しい活用の道を求め活動している。
平成6年(1994)伊勢市で開催された世界祝祭博覧会に伊勢春慶が出品された。
同10月には三重県の伝統工芸品に指定されている。
平成16年(2004)1月には伊勢春慶を愛する有志が伊勢河崎商人館で「里帰り伊勢春慶展」を開始。
同5月には伊勢春慶の保存と再生を目的に伊勢春慶の会が発足。商品化をめざし生産が開催される。復活にあたり伊勢文化舎が 雑誌「伊勢人」で取り上げるなどして貢献した。
平成17年(2005)伊勢春慶の会と京都工芸繊維大学が共同で新感覚の「カジュアル春慶」を開発。
平成20年(2008)空き家となった米蔵を借り受け伊勢春慶デザイン工房開設。
平成22年(2010)伝統の技を受け継ぐ塗師の後継者養成を始める。
平成28年(2016)第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)で、伊勢春慶の二重弁当箱が首脳陣の食事の器として使用された。

その4「業者数の推移と販路」

業者数の推移

 江戸時代から明治初期までの伊勢春慶の主産地は岡村が中心で、明治17年(1884)には「産栄社」という漆器組合が創設されていた。
特に片岡家にはカンナ目と呼ぶ細い線を施した製品を開発し、明治6年(1873)ウィーンで開催された万国博覧会にも出品して褒状を受けている。
 この様に岡村中心であった伊勢漆器業であったが、明治10年代を境に出荷に舟を使うことから物流の利便性もあって、 次第に岡村長四郎家や「角仙」の屋号を持つ村田仙右衛門家が店を構える河崎地区へ移っていった。 河崎は勢田川沿いに位置するが、上流に向かって右岸に様々な物資を扱う問屋が立ち並んでいて、漆器を商う店も右岸に店舗を構え、 それを作る職人たちが川を挟んだ対岸に多く住むという図式(分布地図参照)を形成していた。

河崎における伊勢春慶の問屋・職人・運送店の分布
河崎における伊勢春慶の問屋・職人・運送店の分布

(伊勢春慶の会作図から作成)

 伊勢春慶の製造地が岡村から河崎に移動しつつあった明治10年代、それを物語る様に明治18年(1885)に開催された内国博覧会には 河崎から岡村長四郎、村田仙右衛門の両者が出品している。
 明治30年代になると伊勢春慶の需要が増大し多くの業者が製造するようになるが、粗悪品を生む結果となり、品質維持を図る為 明治35年「山田漆器同業者組合」が結成され信用回復とその優良性の宣伝に努めた。
 大正期は日清・日露戦争の戦勝景気から庶民の購買力も需要もました事から伊勢春慶が最も盛んに作られた時代でそれまで数10戸だった 製作所は一気に200戸以上にも増えた。だがそれは長続きせず、昭和に入ると次第に下降線をたどり一時的なものであった。


販路

 明治14年の資料によれば販路として東京、大坂、四国、九州筋、東海道筋が上げられている。 また大正12年の「漆器輸出帳」からその範囲は、伊勢湾を挟んだ対岸の愛知県を中心に岐阜、静岡、 滋賀、福井、神奈川、千葉県に及び、遠く北海道や九州にも分布していることがわかった。
 こうした伊勢春慶の全国的な広がりは、慶応元年(1865)片岡善兵衛が愛知県の廻舟業者に漆器の膳を販売していたり、 明治2年に岡村の若井源助、片岡善兵衛、橋本佐兵衛ら三業者が河崎の村田廻漕店・辻村廻漕店を通して名古屋方面に出荷 していることから、愛知県を主とした県外へは船を使って河崎から積み出されていたことがわかる。
 昭和前期まで製造元ごとに固定した販売先を持っていて、若井商店(若井源助)は福井方面、久保田商店(久保田五兵衛)は 東京を含め関東一円、橋佐商店(橋本佐兵衛)は東京方面だった。

その5「作業工程」

第1回:木地調整(木地の切り分けと木地組)

 材料となる檜板を、重箱、膳など製品に合わせて寸法取りし、鋸で切り出す。 この時蓋や底は一枚板を用いるので十分乾燥させたものでないと反ってくるため注意が必要であった。 板の接合は組子と呼ばれる凹凸の組み合わせで行い、古くから2枚組、3枚組の手法が行われた。 こうして作った部材を組み、木釘(卯木・桜)を打ち込むと外側に仕上げカンナをかけ仕上げる。 春慶塗は完成時に木目が見えるため、ここでの作業が出来栄えに影響するので丁寧に仕上げる。

*木地(きじ) :  漆を塗る前の白木のままの器物のことを指す。
*木地師 :  木地を作る人のこと。
*塗師(ぬし) :  漆を塗る人・伊勢春慶は分業にて生産されていた。
*卯木(うつぎ)⁼空木:  落葉低木で材は堅く木釘を作る材料。


第2回:隅コクソ(すみこくそ)

 生漆(きうるし)・糊(のり)・木屑(ケヤキ・ツゲのおがくず)を煉り合せた隙間止材(すきまどめざい)を コクソといい、竹ベラで箱の隅に詰める。これは水分が漏れないように、また食べ物が隅に残らない様に行った。 コクソは、伊勢春慶の特徴の一つで、空気中の湿気と反応して、短時間のうちに黒く変色する。

晩年は下塗りを行った後にコクソ詰めを行うようになった。
生漆(きうるし):精製(脱塵、脱水、均質化すること)途中で採取したばかりのものに近い状態の漆汁をいう。


第3回:下地塗り(目止めと着色)

 目留めとは、生地の表面の細かな穴をふさぐことで、次回以降の塗装が木地に浸透しないようにするためのものです。 紅色の顔料である弁柄とトノコを水で溶いたものを塗り、しっかりふき取って目止めと色付けを同時に行う。 着色は次の柿渋塗りの工程でベンガラを混ぜることもあった。

 砥(とのこ)の粉は、粒子の細かい石の粉であるため、これにより木地表面の極微小な凹凸も平滑になる。
 ベンガラ(弁柄)は、各種塗料に使われる酸化鉄を使った褐色の顔料で、伊勢春慶の特徴である赤色はこの弁柄によるものである。


第4回:渋引き(しぶびき)

 茶褐色をした柿渋の原液を刷毛で塗布し、ガーゼで拭き取る。少し時間をおいて、この作業をもう一度繰り返す。 渋引きは、次回以降の「拭き漆」の回数を減らし、漆の使用料を減らすことで、安価に生産するための工程である。これは伊勢春慶の大きな特徴の一つで、かって日常の雑貨として使われたため、この方法がとられたと考えられる。


第5回:拭き漆(ふきうるし)

 1度目の拭き漆は、木地に漆をしみこませて木地固めをすることで、上塗りの吸い込みを留めるための工程である。 1度目の拭き漆は、漆の濃度を薄くし漆が木地に浸透して黒く変色しない様にする。 下地漆(生漆)を薄めて刷毛で塗布し、ガーゼで拭き取る。 拭き終えた木地は木製箱の漆風呂(むろ)にいれて次回まで乾燥を待つ。

 2度目の拭き漆は、1度目より濃度を濃くすることで漆をしっかり染み込ませて木地固めをし、上塗り前の最終工程とする。 下地漆(生漆)を一度目と同様に刷毛で塗布し、ガーゼでしっかり拭き取る。 拭き終えた木地は木製箱の漆風呂(むろ)にいれて次回まで乾燥を待つ。


第6回:上塗り(本塗り)

 最終工程の上塗りは、伊勢春慶の特徴である深い紅色をもたせるため朱を混ぜた「朱合漆(しゅあいうるし)」で 仕上げる。 生漆を精製した飴色で透明な朱合漆とテレピン油を混ぜたものを、漉紙(こしがみ)で不純物をこしてから使用する。 上塗りには、人毛で作られた高価な漆刷毛を用いる。塗った後は表面に空気中のホコリが付着しないように速やかに 漆風呂(むろ)に入れて乾燥に移す。


第7回:完成

 上塗り後、乾燥させると完成となる。 手作りであるため同じ材料・道具を使用しても仕上がりがそれぞれ違うところが面白い。


乾燥について

 漆の乾燥は、衣類の乾燥物のように水分を蒸発させて乾燥させるものではなく、 逆に空気中の水分を漆が取り込んで硬化する。 そのためには、適度な湿度と温度が必要となり、また表面にホコリが付着しない様ホコリの少ない環境が大切となる。 一般に漆風呂(むろ)と呼ばれる木製の箱に入れて乾燥させる。

その6「製品の種類」

重箱 …

 祭、祝い事の赤飯など料理を配る時に用いられ、運動会などの家族の弁当箱としても使われた。 二段重、三段重、五段重があった。6寸〜8寸まで大きさの種類があったが6寸5分が多く使われた。

弁当箱 …

 外出先で食べる食事を入れていく容器で、長方形の箱型と何段もの引き出しを内蔵し手さげが付いた花見弁当がある。 小さいものを志摩の漁師は味噌汁箱として使った。

切留 …

 祭、婚礼などハレの料理を揃えるとき種類別に煮物を入れたり、寒天を流す容器として使われた。 寿司箱として使う地区も多かった。

膳 …

 主人や客用の高膳・女性が使用したベタ膳・クルミ足膳・平膳・使用人や奉公人が多く使った箱膳がある。

入れ子 …

 3つ入れ・5つ入れ・7つ入れの種類があり、中に納まるように作られた深い切留のような箱容器で、 これといった使用法はなかったが、片付けにべんりだった。ハレの時の赤飯や餅まきの餅入れ、 米入れに使ったが、食べ物の量に応じて大きさを選んで使った。 地元ではあまり使われず、志摩地方、三河、滋賀方面で良く使われた。

タジ(岡持ち)…

 食堂が丼物を配達するのに今も使われている。 また大きく商売する家では自家用のタジを持っていてそれで注文した食事を配達させた。 外食産業が成立する町ならではの容器である。

供物膳 …

 仏前に供える供物の器。

盆 …

 刳物製があり、茶盆・菓子盆などがある。

田楽箱 …

 田楽を何段も並べて入れる容器で、店や大家族の家庭で用いられた。

魚箱 …

 祝いの魚をのせて出す台で、刺身・尾頭付きの盛り台に使われ、汁が落ちるように下には簀の子が敷かれた。

フネ …

 酒屋や醤油・酢など量り売りをしていた商品が升の下にこぼれた液体を受けるのに使ったもの。


入れ子(いれこ)

入れ子(いれこ)



杓(しゃく)

杓(しゃく)



箱膳(はこぜん)

箱膳(はこぜん)

その7「製造業者」

 平成16年伊勢春慶の会が調査した伊勢春慶にみられる商標の印から次の様な製造所があった。 「伊勢参宮春之賑」にも紹介されている様に幕末から明治初期にかけての伊勢春慶の中心地は岡村町で、 若井源助・片岡善兵衛・橋本佐兵衛の三家が舗を構えていた。


伊勢春慶の製造所
伊勢春慶の製造所


引用文献 伊勢市史 第八巻 民俗遍
参考文献 伊勢人   伊勢文化舎