古市

「神都画人(磯部百鱗とその弟子たち)」展
伊勢市制施行10周年記念
平成27年度 前期 特別企画展
2015/04/08

伊勢市制施行10周年記念
平成27年度 前期 特別企画展
「神都画人(磯部百鱗とその弟子たち)」展

期間  4月8日(水)~ 5月6日(振休)午前9時~午後4時30分
    (毎週月曜日と4月30日(木)は休館、ただし5月4日は開館)
内容  掛け軸・錦絵などの展示

 伊勢は、古くから神宮の門前町として全国各地から参拝者が訪れ、さまざまな文化が生まれました。 そのため、画壇(画家たちの社会)においても、狩野派・四条円山派・浮世絵派・南画派など多種多様な画人が育ちました。 その中でも、広く受け入れられ、後代まで受け継がれたのが四条円山派です。
 今回は、伊勢市制施行10周年を記念し、四条円山派の神都画人・磯部百鱗とその弟子たち(伊藤小坡・中村左洲・橋本鳴泉ら)を取り上げた特別企画展を開催します。


近世の伊勢画壇について

 近世においては、京都や江戸のような画壇の中核都市が固有の画派を生み自律的な伸展を示したのに対して、多くの地方都市は中核都市から種々の画派を移植することに努め、その結果、いわば他律的にいくつかの画派が併存するかたちをとることが多かった。近世の代表的な画派は、狩野派・南画派・円山四条派・長崎派などであるが、これら近世画壇を構成する主だった画派は、伊勢においても移植され、多くの画人を育てた。
 その多様ぶりは、一地方都市としては他に例をみないほどであるが、この多様性こそが、近世伊勢の画壇の特徴を成しているといえよう。これは、神宮の門前町としての性質が、各地から来訪する多種多様なひとびとの交流を促したことと無関係ではないであろう。
 本項では、狩野派・南画派・円山四条派・長崎派など伊勢に育った各画派の画人を、京都や江戸など画壇の中核都市との関連性の中で再認識するという視点で記述することとしたい。

狩野派(かのうは)

 まず、狩野派の画人としては、小川地竹園(おがわちちくえん)(1808〜72)の名が知られる。 狩野派は、江戸時代を通じて、将軍家あるいは大名家の御用絵師として画壇の主流をなした。
 そのため、社寺関係者や参拝客を相手にする商工業者を中心として発展した商業都市であった伊勢においては、武家を鑑賞者とする狩野派の画人は多くないが、竹園はそのひとりとして挙げることができる。
 竹園は、内宮の神主を務めていたが、江戸に出て、幕府に表絵師(おもてえし)として仕えた駿河台狩野家の当主狩野洞益春信(とうえきはるのぶ)(?〜1841)に師事し、伊勢に狩野派の画風を伝えた画人として知られる。

南画派(なんがは)

 南画は、中国南宗画の影響を受けて、江戸時代中期から描かれるようになった中国趣味の強い絵を総称して呼ぶ。中国由来の画風に池大雅(いけのたいが)や与謝蕪村(よさぶそん)らが創意を加え、中国にはない日本独自の様式を創りだした。そのため、中国本来の南宗画と区別して「南画」の語が用いられる。
 南画派の画人としては、尾張出身で京都でも活躍した山本梅逸(ばいいつ)(1783〜1856)に師事した笠松梅西(ばいせい)(1798〜1871)、華岡青洲(はなおかせいしゅう)について医術を修め、幕末の尊攘派志士として知られる藤本鉄石(てっせき)(1815〜63)と交遊のあった奥山金陵(きんりょう)(1807〜66)などが知られている。
 また、近江水口(みなくち)の神主でのちに伊勢に移った山口五水(ごすい)(?〜1831)の門からは、久志本博石(くしもとはくせき)(1864〜?)、奥村耕烟(こういん)(1852〜1923)、秋田九水(きゅうすい)(1860〜1924)、森岡顕道(けんどう)(1852〜1925)、松葉鶴荘(かくそう(1861〜1916)などが、伊勢における南画の普及に大きく寄与した。
 また、谷口靄山(あいざん)(1815〜99)は、江戸で谷文晁(たにぶんちょう)に師事し、南宗画と北宗画を折衷(せっちゅう)した南北合法、いわゆる諸派兼学を旨とした江戸南画の画風を伊勢に伝えた。
 女流画人東佩芳(ひがしばいほう)(1799〜1879)は、鉄翁祖門(てつおうそもん)に師事して長崎派の南画を描いたことで知られる。
 鉄翁は、臨済宗の僧で、長崎春徳寺で住持を務めていたが、唐絵目利(からえめきき)(江戸時代中期に設けられた長崎奉行所の職種で、清国船載の書画器物の鑑定、交易品や外来の鳥獣類などの図写を職務とする)として漢画・洋風画を折衷した写実的画風で知られる石崎融思(ゆうし)に学び、さらに来舶清人の江稼圃(こうかほ)に師事して南画を学んだ長崎派の画人として知られる。
 佩芳は、美濃の女流画人であり詩人としても著名な江馬細香(えまさいこう)(1787〜1861)とも交遊をもったことで知られる。
 「このように、近世の伊勢は、画壇としての多様性という点で、京都や江戸に比肩(ひけん):肩を並べることするが、なかでも広く受け入れられ、後代まで受け継がれたのは、円山四条派である。」

円山四条派(しじょうまるやまは)

 円山四条派は、円山応挙(おうきょ)によって創始された円山派と、与謝蕪村の南画に学んでのちに応挙の影響を受けて、蕪村の詩情を残しつつ応挙の写実を融合させた新様式を確立した呉春(ごじゅん)にはじまる四条派を併せていうが、円山四条派は長く命脈(めいみゃく):生命の続くことを保ち、近代日本画の確立に大きな役割を果たしたことで知られる。
 岡村鳳水(ほうすい)(1770〜1845)は、丹波亀山に生まれ、京都に出て円山応挙に学び、応挙の有力な弟子のひとりになった。後に伊勢の岡村又大夫の養子となり、円山派の画風を伊勢に伝えた。門下からは多数の画人を輩出したが、上部茁斎(うわべせっさい)(1781〜1862)、榎倉杉斎(えのくらさんさい)(1798〜1867)、荘門為斎(しょうもんいさい)(1778〜1842)、水溜米室(みづためべいしつ)(1817〜82)が知られる。特に上部茁斎の門からは、林棕林(はやしそうりん)(1814〜98)が出ている。
 棕林は、江戸に出て谷文晁や渡辺崋山らと交遊した。門人に磯部百鱗(いそべひゃくりん)(1836〜1906)がおり、百鱗の門からは、近代京都画壇を代表する女流画家伊藤小坡(しょうは)(1877〜1968)、田南岳璋(たなみがくしょう)(1876〜1926)、中村左洲(さしゅう)(1873〜1953)らを輩出し、左洲の門からは、後に近代京都画壇の重鎮(じゅうちん)となる宇田荻邨(てきそん)(1896〜1980)をはじめとして、嶋谷自然(しやましぜん)(1904〜93)、鈴木三朝(さんちょう)(1899〜1997)などが出ており、その系譜は現代に続いている。

*応挙の画風は岡村鳳水のほかにも、月僊(げっせん)(1741〜1809)によってより広範(こうはん)に伝えられている。月僊は、近世伊勢の画人のなかでも、今日、とりわけ高い評価を得ている画人であるので、また別の機会でその事績・画風について詳述したい。

伊勢市史 第三巻近世編より引用

磯部百鱗(いそベ ひゃくりん)作品

「内宮風音の風景」絹本・彩色・軸装(縦127cm 横56.5cm)
天保7年(1836)宇治今在家町に生れ、八羽光聴、 鷹羽龍年らに漢学を、為田只青に俳諧を学んだ。画は初 め林宗林に学び、後京都の長谷川玉峰に就いた。帰来し て神宮に奉職し旁ら画技を研き、各種の展覧会でしばし ば優賞を受けて名声を高めた。明治十年頃、旧師職の一 部を士族に編入を求める出願運動があった際、宇治の惣 代らがたびたび百鱗に面会して連署を強請したが、百鱗 は、「五十鈴川辺の画室にて、一管の画筆を侶とし、天然 の美を愛するが本領なり。」として族籍に関心を示めき ず拒絶して顧みなかったと云う。
 中村左州、田南岳璋、川口呉川等々多くの秀れた門人 を養成した。明治39年(1906)71才にて歿。(川合東皐)



伊藤小坡(いとう しょうは)作品

 明治11年猿田彦神社の宮司宇治士公貞幹の長女とし て生まれ、幼名を二見佐登。(二見は宇治土公氏の前姓) 画を最初磯部百鱗に就いて学び、明治37年(1898)頃京都に 山て森川曽文に就いた。曽文の死後谷口香嶠に就き小坡の 号を受けた。同門の伊藤鶯城と結婚し、伊藤の姓となる。 大正4年第9回文展に「制作の前」を出品三等賞を受け、 一躍女流画家として注目を浴びた。
 その後文展や帝展に屢々入選を重ね、昭和11年に招待 作家となる。猶大正7年に反官展の日本自由画壇に加入 し作品を発表したこともある。大正10年(1921) パリで開催の日仏交換展に出品の「琵琶記」は、特に選 ばれてフランス政府の買上げを受け、リュサンプール 美術館に収蔵されている。昭和30年に帝展に復帰、無 鑑査作家となる。昭和43年90才で歿した。
 さて小坡は京揃に在って四條派の画統を伝えた人で、 三重県が生んだ画家として宇田荻邨と共に双璧をなす画 家というべきである。 県立美術館には多くの名品が収蔵されており、我々は鑑 賞の機会に恵まれている。 (参考文献 日展史・郷土の画家三人展図録・県立美術 館蔵品日録・三重郷土の華百人展図録・其他)(川合東皐)



橋本鳴泉作品

「四季美人図三種」(縦27.1cm 横24cm 色紙)  鳴泉、名は直左衡門。明治19年1月19日四郷村朝熊(現 伊勢市朝熊町)に生まれました。木彫作家として有名な橋本平 八、詩壇で特異な地位を占める北園克衛(橋本健吉)の二人と は共にいとこ同士で三人とも優れた芸術家であることは郷土の 誇りといえます。
 鳴泉画伯の死去は、昭和24年という戦禍まだ去らぬ時で、 平和が甦りこれから日本が文化国家として生まれ変わろうとい う時でした。国境円熟、気力充実という健康状感でこの日も画 室にこもり制作中、突然画筆を落としそのま、絶息。家人も看 護するいとまもなかったという。享年72。まことに惜しみ ても余りある生涯でした。
 画伯の経歴は、幼時より画才があり、磯部百燐画伯の薫陶の 下に育ち、歿後は京都に出て四条派の名手菊池芳文に師事し修 業したという。芳文歿後更に新しい境地を求め東京へ出て行く。 令息のお詰によると、同門に小林古径が居て共に励んだとの事、 師匠の名は聞いていないとの事ですが、恐らく梶田半古画伯で しょう。半古は四条派の画家で日本青年絵画協会の設立に参加 し、日本美術鹿とも関係ある著名な作家です。鳴泉は東京在っ て勧業博覧会や青年絵画協会展などに出品したかどうか、記録 が残っていません。
 関東大震災を機に故郷へ帰り、倉田山上に画塾を開く。そし て後退の指導育成に努めました。名づけて方水社という。昭和 3年のことです。名声を慕って門に集まる人多く、塾展を年2 回開く。始め3、4回は五富利文具店の2階で開き、その後は 省線山田駅前の県立商品陳列所で開いた。この「商陳」と愛称 された鉄筋コンクリートの建物は戦災にも耐え、廃墟の中に屹 立した建物として種々利用されたのでまだ記憶にとどめている 人も多いことでしょう。
 さて、筆者東皐が山田中学に入学したのが昭和5年の春、五 富利文具店で開かれた方水社展を観る奇縁に恵まれた。放課後 道草をくい五富利の店へ入ったら日本画展の掲示があり、「観 覧自由」の掲示に釣られ会場へ入り、展示された沢山の絵を見 た感動は、今も鮮やかに思い出されます。70年も前のことです。
 橋本家は資産家で、鳴泉は弟乍ら山林や農地の一部を引き継 いだというから、裕福でもあり、気前もよかったにちがいない と見え、集まった多くの門人から、月謝など一切受取らず、却っ て時折り一同にご馳走してくれたこともあったとは背水翁の懐 旧談。珍しい師弟関係の社中でした。
 鳴泉の画風は、その師百鱗・芳丈ともやや異にし、色彩は新 鮮華麗であり、艶があり、時には大和絵風の趣も取り入れてい ます。その画風を最も伝えているのが山本鳴波画伯であり、鳴 波の画風に更に清韻を加えているのが鳴泉の真面目であろうと 思います。まことに鳴泉は歴史画、人物画に独特のよさがあり ました。
 家人の話に依りますと、鳴泉の画の大部分は神宮徴古館に納 まっているとの事ですが、この徴古館が戦災で一部焼失してい て、この中に鳴泉の画も含まれていたとの事で、詳細は判然と しないのは残念です。唯一例を挙げると、浦田町の交通広場か ら内宮に向かう地下道の中央部に写真複製された巨大な額のー つに鳴泉の「参宮風景」が飾ってあり、いつでも観ることが出 来ます。画題の掲示がないので気付かずに行き過ぎる人もある でしょうから伝え残していきたいことの一つです。
 門人たちについて述べてみます。 大西青水翁の手控えにより、古い順から挙げますと、先ず①は、 伊勢寺村の小林碧水。大正5年に入門している。②は浦口町の 村川白水。③が倭町の浅井光月。④は浦口町の井村華泉。⑤は 八日市場町の山本鳴波(信夫)。この人は大正10年8月の入門。 晩年は津へ移りました。この人がもっとも鳴泉の画風を伝えて おり、「宮川の渡し」や「参宮風景」など密画で華麗ですが、 鳴泉の気韻には欠けています。⑥は十文字松泉(名は重威)大 正11年の入門。松泉は京都へ出て山本春學に就き、帝展へも 出したと聞いているが、惜しく昭和23年戦士。行年41才。⑦が 大西青水(名は春蔵)浦口町の呉服店の御曹子。大正 13年の入門。四日市市で現在、猶健筆を揮っている。この外 に、天水八郎・北村鳴水・加藤小まん・杉山如泉・沢好柳坡・ 榊原澄泉・西田春水(邦男)服部令子、昭和5年入門。この 外、米山香芸(秀子)・津田桂園(後森永姓)角谷海万・今在 家の逵朝民この人昭和10年上京、十文字松泉と同居。画家とし て立つ。岩渕町の日比清泉、京町の上村理水(正治)・山本奎 二、この三人いずれも昭和10年の入門。石上すゝへ昭和11年 入門。西井紫水(宗太郎)昭和11年入門。20年戦死行年37才。 鈴木映泉(長五郎)、坂井秀山(秀三)、光月の兄。昭 和11年の入門。以上が門人略譜です。(川合末皐)



中村左洲作品

日本画家 作品 夜討曽我 紙本半切、彩色
 中村左洲画伯は、当地でもつとも人気のある作家である。その 主な画歴といえば文展(文部省美術展覧会)一回入選だけである が、審査員並みに評価されている。矢張り世間の眼は高いと言わ ざるを得ない。
 左洲は通称は左十。明治6年(1873)7月12日に代々漁 師をしている家に生れる。12才の時父が亡くなって 一家離散の憂き目に遭う。画をかくことが無性に好き で所かまわず落書きしたという。幸い郷土の三村亘斎 翁に見出され南画の手本を興えられ、更に磯部首鱗画 伯の門に入るお世話まで受け、これで本格的な修業が 始まる。24才の時である。とはいえ漁師を続けね ば生計は立たず苦しい日が続く。この生活が10年以上 も続いた。暮らしの方がよくならないので、親戚は相談 して画をやめさせようとした。しかし左洲の画道への 志は堅かった。
 明治38年、師の奨めで第四回内園勧業博覧会に出品した製 塩図が、昭憲皇太后の御目にとまり、同図製作の御下命、奉献と いうことになり、前途が開けたのである。そして大正6年の文展 に「群がれる鯛」が入選。
 左洲の画業は、大正11年と昭和25年に刊行した左洲画譜 上下2冊に収められているが、近年各地で作品展が開かれるので 鑑賞の機会は多い。左洲門下で著名な人は、宇田荻邨、島谷自然、 鈴木三朝、出口対石、奥田正治良、小川孤舟、中井左琴、井村岳 陽、中村首松等甚だ多い。百松画伯はその子息で、永い間宇治山 田中学や倉田山中学で教鞭を取った。左洲は昭和28年11月 に81才の高齢で死去するが、現在今一色の高城神社の境内に その画業をたたえた筆橡が建てられている。(川合末皐)