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 2011/5/28 『ナボコフ 訳すのは「私」』 秋草俊一郎 東京大学出版会

外国語で書かれた小説が好きだから、翻訳という仕事にはふだんから世話になっている。もし、翻訳家という人たちがいなかったら、文学の世界は語学に堪能な一部の人をのぞき、ずいぶん狭いものになっていたにちがいない。しかし、その一方で、他国語に翻訳された作品はオリジナルと比べた場合、どこまで本物に近いのだろうか、という素朴な疑問が頭から離れない。

一度発表されてしまえば、作品は作者の手を離れて独り歩きを始める。現実問題として、どんなふうに訳されてしまっても作者が死んでしまえば文句は言えない。紫式部はアーサー・ウェイリーの訳した『源氏物語』の存在はおろか、英国という国もイギリス人も知らないのだ。

ここに自国語だけでなく何種類もの外国語を自在に操り、自分の文章に並々ならぬこだわりを持つ小説家がいるとしよう。果たして彼は自身が苦労して書いた小説が、無惨なまでに変貌した姿をさらして他国語に訳されているのを座視できるだろうか。問うも愚かなこと、黙っていられるはずがない。では、どうするか。もちろん自分の作品を自分で翻訳するにちがいない。いわゆる自己翻訳である。

先に挙げた小説家とは『ロリータ』の作者として知られるウラジーミル・ナボコフ。有能な政治家であったロシア貴族の長男として生まれた彼は、当時のロシア貴族のたしなみとして小さい頃からフランス語の教育を受けて育つ。ところが、革命勃発により国を追われ、一家はドイツに移住する。ベルリンの亡命ロシア人社会の中でシーリンという筆名で小説や詩を発表するようになるが、ナチスが台頭してくると難を避けてアメリカに移住。それ以降の作品は、英語で書かれることになる。

著者は、沼野充義、柴田元幸、若島正の三氏に師事しているというから畏れ入る。東欧文学研究家として著名な沼野充義氏はナボコフの『賜物』の訳者でもあるし、英文学者でナボコフ研究者として知られる若島正氏は『ロリータ』や『ディフェンス』の訳者である。柴田元幸氏については多言を要しない。ナボコフを語るにこれ以上のキャリアはないというべきか。東京大学総長賞をはじめ幾つかの賞をとった博士論文を改稿したものだが、さほど論文臭は強くなく面白く読める。

ナボコフについては、作品内に謎を仕込んだり、アクロスティックやアナグラムを多用したりする作家というイメージが強い。著者は、従来のそうした解釈が英語で書かれた後期ナボコフの作品を中心に採り上げざるを得なかった英文学者の影響を受けているのではないかと指摘する。ナボコフ自身は、ロシア語に対する並々ならぬ愛を語っているし、自分の英語は二流であるということも漏らしている。

著者が着目したのは、他人の訳を嫌がったナボコフが自身のロシア語作品を英訳した文章と、英語で書かれた『ロリータ』等のナボコフ訳のロシア版を読み比べ、ロシア語で書かれたナボコフと英語で書かれたナボコフを比較するという試みである。

どの国の言葉でもそうだろうが、言葉の背後にはその国ならではの文物がついて回る。早い話が現代の日本で「花」と言えば「桜」を思い浮かべる人が多いだろうが、中国文学の影響下にあったかつての日本で「花」と言えば「梅」であった。ナボコフも、ロシア文学によく登場する「チェリョームハ」(エゾノウワミズザクラ)の訳をめぐって、何度も訳語を変更している。ロシア語の「チェリョームハ」には河畔のハンノキに交じって咲くその花の姿や香りから青春の詩的な感動が伝わってくる。だが、英語の訳語「バード・チェリー」は、漠然としていて意味をなさないといい、ついには、「ミモザ」とも韻を踏むその音の響きの良さから「総状花序」の花を意味する“racemosa”(ラセモサ)という耳慣れない言葉を採用するに至る。

これは一つの例にすぎないが、自分のもとから喪われ、二度と取り戻すことができない故国を、言語によって仮構された世界に再構築しようと腐心するナイーブなナボコフの顔が立ち現れてくるではないか。物語性よりもパズルめいた言語遊戯を得意とするポストモダンな作家という従来の理解とは異なるナボコフ像が提出されていると言えよう。

『ヴェイン姉妹』、『ディフェンス』、『ロリータ』などの作品はあらかじめ読んでおいた方がいいが、この本を手にするような読者ならすでに読んでいるはず。そういう意味では読者を選ぶかもしれないが、文学にとって翻訳が意味するものを考えるという観点で読むなら、別にナボコフファンでなくても充分に刺激的な読書体験になろう。

作者自らが自己翻訳した訳文でさえ、オリジナルの文章とは、かなりの部分で異なる。むしろ改変することで、その言語を日常使用する者にとっては、かえって作者の伝えたいことが分かりやすくなっていることが分かる。そうなると、翻訳に比べてオリジナルが優れていると、簡単には言えないのではないか。よく成された翻訳の持つ有り難さが改めてしみじみと伝わってくる。世界文学は翻訳によって生まれる、ということが理解できる時宜を得た出版である。

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 2011/5/8 『ロード・ジム』 ジョゼフ・コンラッド 河出書房新社

一度汚してしまった自分の名を、生涯をかけて償うことで取り戻すことができるのか、というきわめてシンプルな主題を持つ小説である。

二年の養成期間を経て、晴れて憧れの船乗りになったジムは、航海中倒れてきた円柱の下敷きになり怪我をし、とある東の港に下ろされ病院に入る。怪我も癒え、仕事に戻る際、ジムは本国に戻らず、地元船の一等航海士の職を選ぶ。「パトナ」号と呼ばれる老朽船は、マレー周辺から集まった800人の巡礼を載せてメッカを目指すが、紅海近辺で何かに乗り上げ、船首近くが浸水する。

ドイツ系の船長はじめ四人の白人船員たちは乗客を見捨て、ボートに乗って逃げようとする。ジムは、はじめ船に残ることを選ぶが、ジョージという航海士が逃げる途中過って頭を打ち即死する。そのジョージにボートから「飛び下りるんだ。」と、声がかかる。気がついたときジムは、ボートの中にいた。

すぐに壊れると思われた船首隔壁が持ちこたえたため、パトナ号は沈没を免れ他船に救助される。乗客を見捨てて船員が逃げるということは許されるものではない。海事裁判が開かれ、白人船員たちは船員資格を剥奪される。船に乗れなくなったジムは、港々で停泊中の船に必要な物資を提供する船長番という仕事に就き、名船長番として評判になるが、パトナ号の事件が人の噂を呼び、逃げるように職を辞しては別の港を探すという日々を続けていた。

この話の大半の語り手は、ジムから事件当夜の話を聞いたマーロウという船長だが、そのマーロウの友人スタインの世話で、ジムは、パトゥザンという、商人にも名ばかり知られているが、誰も訪れた者のいないジャングルの奥地に赴任することになる。ジムは、そこでの活躍が認められ、現地人にトゥアン・ジム(ジム閣下=ロード・ジム)と呼ばれることになる。美しい娘とも結ばれ幸せなジムだったが、悪名高いブラウン船長の出現がジムを窮地に追い込むことになる。

筋立てだけを見れば、典型的な娯楽小説のそれだ。ところが、読んでみれば分かるが、それほどすっきりした味わいは得られない。この小説が発表されたのは、1900年。あと何ヶ月で二十世紀に入ろうかという時だ。世界には意味があり、そこでは総てが統御されていると信じられる人ばかりではなくなっていた。つまり、現代に近くなってきていたといえる。

ジムの話を聞いて、読者に伝えるマーロウという語り手の内心の声がそこには加わるので、読者はジムの行為をどうとっていいやら悩まなければならない。逆に、そこにこそこの小説の面白さが存するといっていい。乗客を見捨てて、海に飛びこむジムの弱さを責めることのできる人がいるだろうか。窮地に陥ったとき、多くの人が心の中で一度や二度、海に飛び込んだ経験を持っているにちがいない。マーロウやスタインは、それを知っているから、自分のしたことを許せないジムが好きで、彼を助けようと世話をするのだ。

しかし、マーロウが登場するまでの冒頭部分には、ジムの心のうちを直截に語る話者がいる。養成船時代のエピソードからは、チャンスを物にできなかった自分の瞬時の躊躇を知りながら、同僚を妬み事実を自分に都合のいいように解釈するジムを見つけることができる。また、怪我が治った後、本国に帰らなかった理由として、安逸な生活を送りながら幸運を夢みている仲間に魅力を感じていたことも明らかにしている。これらのことから分かるのは、ジムという人物は退屈な現実よりも想像力が描き出す事態の方に魅力を感じるタイプの人間だということである。

だとすれば、船長たちが逃げ出した裁判に出廷して証言してみせたことも、その後の船長番としての活躍も、パトゥザンでの戦いで指揮をとったことも、みな彼の中にあるイデアリストの仕業ではなかったのか。パトナ号の事件を知る者が現れると、その港を逃げ出してしまうのは、自分の想像が創り上げたイマジネーションとしての自己の像が、現実の自分の像の前に色褪せて見えるのを恐れる心の為せる業であった。そう考えることができる。名誉とはそれを重んじる者にとっては大事なものかもしれないが、他人にとってどれほどの価値があろうか。

スタインは、ジムのことをロマンチストと呼んでいる。マーロウは、それだけではないと思いながらもジムを自分とはちがう人間として見ている。果たして、ジムはどんな人間だったのか、というのが作者コンラッドの提示した謎だろう。解釈は読者に委ねられている。冒頭部に示されたジムの姿がそれを解く鍵ではないだろうか。


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 2011/5/2 『V.』[上・下] トマス・ピンチョン 新潮社

ピンチョン=難解というイメージが先行しているようだけれど、そんなことはない。一つ一つの章で区切りをつけて読みすすんでいけば特に理解し難いところはない。登場人物の多さと錯綜する二つの時間軸の存在が単に理解を妨げているだけだ。一度読んだだけで分かったつもりになるのは確かに難しかろうが、再読すればあらかた分かる。三読すればピンチョン・ワールドにはまること請け合い。批評家でない単なる読者のありがたいことは、すべてが分かる必要などないってこと。そう開き直ってしまえば、ケネディ登場以前のアメリカを背景にしたこの小説が21世紀の今読んでもとんでもなく面白いことにびっくりするはず。

登場人物の多さと二つの時間軸についてはすでに述べたが、そもそも二つのレベルのちがう物語が一冊の本の形式に綴じられているのがこの作品だ。その一つは、1955年のクリスマス・イヴに始まるベニー・プロフェインというヨーヨー男の物語。ヨーヨーに自分の意志がないように、自分というものを持たず、行き当たりばったりな生活を続けている。ある時は一日中地下鉄に乗り続け、そうでなければ酔っぱらって他人の家に転がり込むという生活。どう贔屓目に見てもヒーローにはなれないタイプだが、この男やたらもてる。ビリヤードの球のように転がっていくプロフェインがぶつかる何人もの男女、NYを拠点に活躍するレコード会社の社長や小説家、画家、ジャズマンといった一癖も二癖もある連中との酒とパーティーとセックスだらけの生活。デカダンスに満ちた日々をクールに、けれど優しく描いたパートは、どう考えても愛し合っている二人の男女が自意識に絡めとられて身動きできずに傷つけ合うラブ・ストーリー。スラップスティック的色調で描かれているが、その裏にしみじみとした哀感がにじむ。

もう一つは、ハーバート・ステンシルという男が収集した「V.」についての物語群である。ステンシルの父は二つの大戦時をスパイとして生きた。彼が残した手記に書かれていたのが、「V.」という謎の存在である。父の残した「V.」を追跡するのがオブセッションとなったステンシルは、手記に残された手がかりを頼りに「V.」に纏わる情報を集めるのだった。このパートは、もう一つの物語とは色調が全く異なる。ある時はスパイ活劇調であり、またある時はグラン・ギニョールめいた残酷さを帯びるといった具合に。「V.」とは何か、というのがヒッチコックがいう「マクガフィン」である。真面目な読者は、ついついそれにひっかかるが、話を引っぱっていくための道具に過ぎない。ヴィクトリアやヴェロニカといったヒロインたちや物語の鍵を握るマルタ島の首都ヴァレッタの頭文字。歴史を動かす大きな陰謀の陰に暗躍する危険な魅力を持つ「女」を象徴する文字である。

面白いのは、この二つの相容れない物語が、ステンシル親子を蝶番にして繋がっていることだ。一例を挙げれば、プロフェインのつきあっているパオラは、マルタ島の詩人でステンシルの父シドニーに情報を流す二重スパイ、ファウスト・マイストラルであったという具合に。パオラがステンシルに読ませる父の手記が、まるまる十一章「マルタ詩人ファウストの告解」に充てられている。戦争を契機に一人の青年詩人が人間性を喪失し「非人間性」ではなく「無人間性」を持つにいたる経緯を綴った文学性の濃い自伝は、全く別の異なった一篇の小説を読んでいるような気にさせる。

次々と繰り出される挿話のバリエーションの豊富さに圧倒される。フィレンツェ、ヴェネチア、パリと旧世界の華やかな都市を経巡る舞台の意匠もさることながら、それぞれの物語を語る語り口の変化も見逃せない。オペラ座における暗殺事件の顛末を描いた第三章「早変わり芸人ステンシル、八つの人格憑依を行うの巻」ではヴァージニア・ウルフばりの話者の素速い転換で目眩く舞台転換を軽々とさばいてみせる。第九章「モンダウゲンの物語」では、歯科医アイゲンヴァリューが若き日の独領南西アフリカでの残酷と頽廃の日々をたっぷりと語り尽くすのだが、ここでも夢うつつの裡に語られる物語の話者が果たして誰だったのか判別し難くなる曖昧なナラティヴが駆使され、読者は眩惑される。

定職や定住を厭うプロフェインは何らかの理由でアイデンティティーの確立を放棄している。彼の仲間である「病ンデル連」と称する知的スノブたちも自分は何をなすでもなく出来合いの言葉を投げ合っているだけ。ステンシルという名が暗示するのは大量の複製品である。ユダヤ系のエスターが自分の出自を示す鉤鼻を削りとるために通う整形外科医は、かつて戦争で傷つけられた上官の面貌の修復を期して形成外科医を目指した男のなれの果てだ。現代に生きる登場人物たちに蔓延するのはアイデンティティーの喪失という主題である。

それに対して、豪華な舞台や配役を総動員してゴテゴテと造りあげているのが二つの大戦をはさむ時代。「V.」が象徴する世界である。絶世の美女や各国のスパイが諜報活動を行い、世界に起きる事件を操っているかのように見える世界。得も言われぬ色彩の乱舞する無可有郷や南極の極点にある世界を閉じ込めた球体の存在が信じられる魅惑的な時代。暴力や殺戮が支配する者とされるものを截然と分かつ世界。何か大きな装置が混沌とした世界を一つに纏め上げていて、人間はその中で決められた役割を果たしているような劇的な時代であり、世界である。

プロフェインがいつまでもぐずぐずしているのは、混沌とした世界を割り切ることのできる大きな装置などありえないということを言いたいのかもしれない。しかし、恋人レイチェルは、そんなプロフェインや「病ンデル連」を認めない。ステンシルのように大きな世界を束ねる一つの解決策を求めるのではない別の道を探しているのだろう。アルトサックス奏者スフィアが呟く次の科白にそのヒントがある。

「クールとクレイジーのフリップ=フロップ回路から抜け出るには、明らかに、スローでしんどいハードワークが必要だと。黙ったまま人を愛する。やけを起こさず、自己宣伝をせず、他人をヘルプする。クールに、されどケアを忘れず。Keep cool but care.常識で分かることだ。天啓が閃いたというわけじゃない。自分で言うのも恥ずかしいほど当たり前の認識に至っただけのことである。」この生き方、いつの時代であっても通じるのではないか。今のこの国の状態ならなおさらに。

百科全書ばりの蘊蓄やら、挿入された歌曲(ジャズあり、ロックあり、モーツァルトのオペラあり)やら、多彩な才能を発揮するトマス・ピンチョンだが、1937年生まれで本作が発表されたのが1963年。若干26歳のこれがデビュー作だというから呆れてしまう。溢れるばかりの才気の輝きに、今更ながら脱帽である。

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