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 2011/1/23 『チボの狂宴』 マリオ・バルガス=リョサ 作品社

2010年ノーベル文学賞受賞者マリオ・バルガス=リョサ著“La Fiesta Del Chivo”の本邦初訳。本国では2000年に発表されたこの作品、リョサの代表作という声も上がるほどで、すでに各国語に翻訳されている。直訳すれば『山羊の祭』だが、その繁殖力の旺盛なことから好色漢に喩えられる山羊を意味する「チボ」をあだ名にしていた男、ドミニカ共和国36代大統領、ラファエル・レオニダス・トゥルヒーリョ・モリナの暗殺の顛末を描いている。

原著、訳書とも表紙を飾るのはアンブロージョ・ロレンツェッティのフレスコ画『悪政の寓意』である。山羊の角を生やした黒衣の男が足下に従えているのは、布でぐるぐる巻きにされ、自由を奪われた「正義」である。禍々しい絵柄が仄めかすのは、トゥルヒーリョ政権下のドミニカ共和国の狂態であろう。一介の庶民から一代にして大統領にまで上りつめた男は経済的に破綻していたドミニカを立て直し、「祖国再建の父」とまで謳われた国家的英雄であった。しかしその一方で、不正な選挙、脅迫、暗殺を繰り返し、一国の経済を私物化し莫大な個人資産を作り上げ、個人崇拝に基づく恐怖政治を敷き、ドミニカ共和国を31年間の長きにわたって支配した独裁者である。

第一章は1996年。35年ぶりに帰国した主人公が、父を訪ねる場面から始まる。章が変わると場面は1961年。その日殺される運命のトゥルヒーリョがベッドから目覚めたところ。次の章に入ると時間は同じ日の夜に変わり、海岸沿いの道で標的の車を待ちわびる暗殺者たちの会話、と章が変わるたびに、女性・老人・若者という年齢も性も社会的階層も異なる複数の視点が目まぐるしく転換する。見る者の置かれた立場が変われば、トゥルヒーリョという伝説的な人物の死が意味するところもそれぞれ異なる相貌の下に立ち現れてくる。異なる語り手が異なる角度から事件が起きた現場に繰り返し登場し、トゥルヒーリョのやってきたことを証言してみせる。

第一の語り手はウラニア・カブラル。その父は、かつてはトゥルヒーリョ政権を支える大臣として周囲の尊敬を集めていたが、何故か政権末期に失脚し、今は見る影もない老人である。しかし、ウラニアは14歳の時に国を出て以来、35年間というもの父と一切連絡をとらなかった。いったい二人の間に何があったのか。小説はウラニアの独白ではじまり、独白で幕を閉じる。その間に独裁者暗殺の顛末が挿入され、話としてはそちらが抜群に面白いのだが、緻密な伏線が張られ、最後に驚くべき真相が明らかになる、というミステリ仕立てで、ウラニアが従姉妹や叔母たちに隠し通してきた秘密を語るのが、この小説の主筋である。

第二の語り手は独裁者その人。その日暗殺されることになる1961年5月30日の夜明け前から夜までを一人称視点で物語る。形の上では大統領職を退きながら、事実上精力的に政務をこなす独裁者の一日が独白と会話で克明に描き出される。モノローグで語られる強欲な妻や愚昧な息子たちに対する愚痴、男性的能力の衰えに対する不安には、無類の女好きで知られる男の等身大の姿がにじむ。また現大統領や秘密警察長官との会話からは、米国と対等に渡り合う軍事指導者としての力量と、恐怖によって部下を支配する独裁者としての実像が垣間見られる。頂点に立つ人物の万能感と孤独。リアル・ポリティクスの持つ迫力にピカレスクロマン風の味わいが重なり、陰影に富む。

第三の語り手は、暗殺を企てた将校たち。複数の人物が代わる代わる視点人物となり、それぞれが殺意を抱くことになった理由と暗殺後の経緯を物語る。他の二者の主観的な語りとちがい、複数の人物が比較的長い時間にわたる出来事を物語る。独裁者が殺害されたと同時に蜂起するはずの軍が動かないために英雄になるはずだった将校達は次々と捕らえられては残酷な拷問を受ける羽目に陥る。なぜトゥルヒーリョの娘婿にあたるロマン将軍は裏切ったのか。将軍の視点から事態を見ることで読者はその苦い事実を知ることになる。決行の夜の緊迫感から、腰砕けのような決行後の展開、そして逃亡。逃げ延びた犯人が暗殺犯から英雄に変化していく経過が感情を排したドキュメンタリータッチで淡々と叙述される。

三つの視点から描き出された一つの事件。芥川の『藪の中』や、その映画化作品『羅生門』を思い出させる。三人のうち一人が殺され、その死に至る真相を三人が物語るところまで同じだ。リョサの巧さは上に述べたように三者三様の語り口を用意したことだろう。独裁者の死という事実一つをとってみても、その事件に遭遇した者の住む世界によって、全く異なった物語になるということを証明して見せた。特にウラニアという女性の視点から、男たちが牛耳る世界を裏側から照射してみせる手際は、フロベールに私淑するリョサならではの円熟の小説作法である。

今の話かと思って読んでいると、突然35年前に連れ戻されるというフラッシュバック的な技法も、自分のことを二人称で呼ぶヌーヴォー・ロマン風の記述も慣れてしまえば、読むのに支障はない。それよりも、圧倒的な筆力で描き出される独裁政権の裏面が凄い。何かを聞き出すためでなく、ただ苦しめることだけを目的とした拷問の執拗な描写は、目を背けたくなるほど。イザベラ・ロッセリーニ主演で映画化されているというが、この拷問場面など、どのように処理されているのだろうか。3D流行りだが、文章でしか表現し得ないものもあるのだ。

さて、世界はチュニジアの政変をきっかけにエジプトやヨルダン、イエメンなどの独裁政権国家に民衆蜂起が飛び火しつつある。独裁政権が打倒され、民主政府が誕生するのは喜ばしいことだが、事の成就はそれほど簡単ではない。独裁者の一番の問題は政権を奪われることを恐れるあまり、次の政権を担当する人材を育てないということに尽きる。小説の中では傀儡であったはずの大統領バラゲールという人物が悪魔的ともいえるほどの変貌を見せて事態収拾に奔走する。その意味では、この人物を大統領に抜擢したトゥルヒーリョの眼力は大したものだったと改めて思うのだが、事実は小説よりも奇なりという。事態はどう推移してゆくのだろうか。思わぬ時宜を得たノーベル賞作家の本邦初訳である。これを読まぬという手はない、と思うのだが如何。

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 2011/1/6 『リトル・シスター』 レイモンド・チャンドラー 早川書房

村上訳チャンドラーとしては三作目になる『リトル・シスター』。旧訳では『かわいい女』だった。最近特に奇異とも思わなくなった英語原題片仮名書きタイトルだが、今回は兄弟関係がテーマになっていることからもこれが適当だろう。化粧っ気のない縁なし眼鏡をかけた田舎娘をつかまえて「かわいい女」はない。旧訳タイトルの「女」は誰を指しているのだろう。誰をヒロインにするか、訳者の好みでタイトルが変わることもある見本。七篇あるマーロウものの長篇第五作目。タフが売り物の探偵も三十八歳になり、少しくたびれかけている。

カンザスの田舎から音信不通の兄を探しに妹が出てきた。曰くありげな娘の様子が気になり、相場の半額で仕事を引き受けたマーロウだったが、行く先々で出会うのはアイスピックを頸椎に突き立てた死体。どうやら強請がからんだ事件らしい。現場で見つけた一枚の受領証を手がかりにマーロウは事件の解決をはかる。だが、そこには映画の都ハリウッドならではのスキャンダルが隠されていた。大量の注射針を隠し持つ医者やアル中のマリファナの売人、詐欺師、やくざ上がりのハンサムなレストラン経営者と、虚飾の都の裏通りは背徳と頽廃の棲処だった。推理する暇もあらばこそ、一気に大団円に向かって突き進む展開は息つぐ暇もない。たった二日間の出来事なのだ。その上最後の謎解きがどんでん返しにつぐどんでん返しで真相は藪の中。

正直いって、ミステリとしてあまりよくできた作品とはいえない。プロットが複雑すぎて一度読んだだけではよく分からず、何度も前の頁を繰る羽目になる。前に戻って読んで分かる場合はいいが、どれだけ読んでも分からない部分もある。会話の中で、すでに話されたこととして処理されている内容が、実はどこを探しても書いてなかったりする。

男性に比べると女性の人物造型が難とされるチャンドラーだが、今回も重要な役割をつとめる二人の映画女優の造型はいまひとつ。セクシー・シンボルを地でゆくドロレスはカリカチュアとして楽しむことができるが、マーロウが守ってやりたいと思う売り出し中の女優ミス・ウェルドの方は、映画の台詞をなぞっているようだ、と自分でも口にする。ヒロインが自分で類型化されたキャラクターだと証しているようなものだ。

それでは、面白くないのかと言われるとそれはちがう。さすがにチャンドラー。読者が何を期待して自作を読むのかよく知っている。たとえば、独特のキレがよくってテンポのいい会話はいつにも増して洒落ている。ちょっとメモしておいて使いたくなる決め科白も少なくない。ひねりが効きすぎて時に理解不能になる比喩の濫用。やたらに長い修飾部を持つ饒舌な文体。自己憐憫に陥る一歩手前のルサンチマン溢れる社会批評。タフでハードな探偵稼業をきびきびこなす男の裏側にあるセンチメントをこれでもかというくらい過剰に見せる演出は今回も絶好調である。チャンドラーを嫌う人なら目を背けたくなる。

女を描くときは類型的だが、男の場合は別だ。チャンドラーの筆はエキセントリックなまでに個性的な人物を描き出す。ガラスで囲まれたオフィスのパティオで三匹のボクサー犬に小便をさせる映画会社の社長オッペンハイマーの見せる迫力はどうだ。この手の大人物の前ではマーロウなんぞひよっこの青二才に見えてくる。昼間ピアノ練習をするために深夜の勤務を選んだ物静かな警官もいい。タフを売り物にする男たちには皮肉で相手するマーロウが唯一心を開いてみせる。出番はわずかだが、その存在感は大きい。それとは逆で、一生懸命やっているのに誰からも誉められず、批判され、嫌われるばかりという警官を代表するフレンチ。このロス市警警部補がマーロウに奮う長広舌もいい。凡庸な人物の心の裡に降り積もる日々の鬱屈。このスピーチに共感する読者も多いだろう。チャンドラーは、一作ごとに強烈な印象を残す脇役を創り出す。小説の魅力は人物にある。

最後まで読み終えても、何度でも読み返したくなるというのがチャンドラーの小説である。犯人が分かってしまえばそれで二度と読み返すことのない「ミステリ」の枠におとなしく収まっているような代物ではない。『リトル・シスター』には確かに瑕疵がある。それは作家自身承知していた。が、それを補ってあまりある読む愉しみを味わわせてくれるのも事実。評者は新訳を充分楽しんだ。さて次回は、何を訳してくれるのだろう。『大いなる眠り』あたりではないか、と思うのだが、それではあんまり本命過ぎるか。いずれにせよ、楽しみなことである。


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