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 2010/11/14 『逆光』 トマス・ピンチョン 新潮社

前作『メイスン&ディクスン』に継いで2006年に刊行されたピンチョンの二番目に新しい小説である。原題は“Against the Day”。昼(の光)に逆らってという意味で『逆光』と訳されたのだろうが、時代に「逆行」しての意味も含まれている。というのも、テーマがテロなのだ。9.11以来、国を挙げて「テロとの戦い」を標榜する国の作家としては、ダイナマイトによるテロを行う人物を共感を持って描くには、それなりの覚悟がいったはず。その心意気が表明されたタイトルである。

時代背景は1893年から第一次世界大戦直後まで。アメリカでいえば西部の辺境(フロンティア)が消滅していく時代。映画『明日に向かって撃て』の中でブッチ・キャシディとサンダンス・キッドがアメリカでは稼業ができなくなり、稼ぎの場を南米に求めたように、一つの時代が終わり、新しい時代が始まりかけていた時代である。都会では失業者が群れをなし、探鉱では劣悪な環境で抗夫たちが働かされていた。

ウェブ・トラヴァースは抗夫として炭坑で働く姿とは別に、労働運動を弾圧する資本家に対抗するため、ダイナマイトで橋梁を爆破するテロを行う「珪藻土キッド」と呼ばれる裏の顔を持っていた。神出鬼没の「珪藻土キッド」に業を煮やした資本家スカーズデール・ヴァイブは、二人の殺し屋を雇いウェブを惨殺する。残された子どもたちは父の後を継ぎ「珪藻土キッド」となるとともに、直接間接に手を下した殺人者たちへの復讐を誓う。この長大な小説を貫く基本的なストーリーは、三人の兄弟による復讐譚である。

たしかに、そのストーリーを追うだけなら、この長篇小説は難解であることで知られるピンチョンの小説の中では読みやすいといえる。ただし、そこはピンチョン。そう簡単に主筋を追えるようには書いていない。『メイスン&ディクスン』もそうだったが、この作家は同時代の世界の歴史上に残る出来事をすべて網羅し尽くさないと、小説を描いた気がしないのだろうか、ありとあらゆる事件を兄弟の行く先々に仕掛けるからたまらない。オーストリア皇太子暗殺事件や、ブラヴァツキー夫人、リュミエール兄弟の映画のようによく知られたものから、奇術、降霊術、タロットカードのように妖しげなもの、ウェルズの『タイムマシン』やジュール・ヴェルヌの『地底探検』、『気球に乗って五週間』にインスパイアされた時間旅行や地底探検、気球旅行はてはマヨネーズの歴史的登場まで枚挙の暇がない。

当然舞台はアメリカだけに留まっていない。第一次世界大戦を前にして各国の緊張感が高まる中、ヴェニス、イスタンブール、トリエステといった情報が集まってくる街を中心に敵味方入り乱れてのスパイ活動が行われる。犯人を追う兄弟はまた、相手から追われる身でもある。長兄リーフと末弟キットは、主にヨーロッパで、次兄フランクは革命時のメキシコにと、それぞれが時代の波に呑みこまれるように動き回る。その動きに連れ様々な人物が芋蔓式に表舞台に登場してはやがて消えてゆく。かと思うととんでもないところで再登場する。一応時系列に沿ってはいるが、場面が変わるとまったく別の場所、別の人物の物語になる。しかも、それらがすべてどこかで関連しているという同時多発テロならぬ同時多発物語なのだ。

スパイ小説でもあり冒険小説でもあり、数学理論を駆使した知的SFともいえる多面的な顔を見せる作品だが、家族や男女の愛憎を描いた物語でもある。狂言回し的役割を果たす気球に乗った少年たちの冒険を描いた小説を作中の人物が読むというメタフィクション的な仕掛けも持つ。一つの小説の中に次元も趣向も異なる小説を並置した異種格闘技めいた力業の作品である。

舞台背景となるヨーロッパ諸都市や森林地帯、中央アジアの沙獏、アメリカ西部やメキシコの山岳地帯の描写とともに心に残るのが数多の登場人物の描き分けである。同性愛異性愛を問わず奔放な性愛描写もさることながら、復讐譚でありながら逡巡し迂回や逸脱を繰り返す男たちと対照的に自由奔放に行動する女性たちの魅力に溢れた姿が特に印象的だ。

好むと好まざるにかかわらずグローバル資本主義が世界を覆ってしまっている現代。そんな時代に逆らって無政府主義者の見果てぬ夢を謳うような本作がかえって色鮮やかに見えてくるから不思議である。博覧強記に満ちた厖大な物語世界を軽妙な会話とスピーディーな場面転換に乗せられて一気に読み終わった後に残る一抹の哀感。小説を読む醍醐味を堪能させてくれるトマス・ピンチョン渾身の力作長篇である。


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