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 2010/9/20 『劇的な人生こそ真実』 萩原朔美 新潮社

萩原朔美という名前をはじめて目にしたとき、なんというたいそれたことするものだ、と正直驚いた。萩原朔太郎といえば口語自由詩の完成者としてあま りにも有名。その大詩人から三字を勝手に拝借するなんて、あまりにも畏れ多いと感じたのだ。高校の教科書に載っていた「青樹の梢をあふぎて」に出会って以 来、詩が好きになり、作品はもちろんのこと評伝なども片端から読み漁っていた愛読者としては、してやられたという気持ちもひとつにはあった。そんなことが 許されるなら自分だって筆名にしたい、というような気持ちだ。

後に、朔美が朔太郎の長女である萩原葉子の実子であることを知り、 自分の早合点に苦笑することになる。朔太郎という人は詩人としての名声はゆるぎないが、実生活者としてはあまり幸せとはいえなかったようだ。その辺のこと は葉子の小説『蕁麻の家』にしっかり描かれている。葉子も早くに離婚し、作家活動に入っている。家でひたすら物を書きつづける母と母ひとり子ひとりの生活 を続けるうちに朔美は内向的な少年に育っていった。

その少年が寺山修司率いる演劇実験室・天井桟敷に入ったことで変貌する。そこ で演出を任されるうちに、当時の日本を席巻していた錚々たる顔ぶれに引き合わされることになる。土方巽、澁澤龍彦、三島由紀夫、美輪明宏、さらには母の友 人でもある森茉莉、パルコの創始者増田通二、美術評論家東野芳明、変わったところでは『家畜人ヤプー』の作者沼正三。

これは一人 の青年が、昭和の異才たちの風貌、人となりを捉えたポルトレであり、彼等との個人的な出逢いを披瀝するエッセイ集である。また萩原朔美という人間がそれら の人々によって形づくられていく記録ともいえる。絵描きを目指していた青年が劇団員となって役者修業に励むうち、座付き演出家(後に東京キッドブラザース を起こす東由多加)の退団によって図らずも演出家を任される。それだけでもすごいことだが、この青年の演出に寺山はいっさい口をはさむことがなかったとい うから畏れ入る。

美輪明宏と対等に口を利き、三島由紀夫には役者時代に演技指導までされている。「君のおじいさんの詩、若い時 よく読んだよ」と三島が言ったというから朔太郎の孫だということは周囲の人にはよく知られていたのだろう。本人にその気があろうとなかろうと、朔太郎の孫 というのはすごいネームバリューであったろう。それに加えてその美貌である。朔太郎ゆずりの大きな瞳と憂いを秘めた顔立ちは、後に美大の教授となってから 女学生に、不倫してみたい先生ナンバーワンの称号を奉られているほどだ。

全裸の土方巽と少年航空兵の上衣と帽子だけを纏った朔美 が白馬に跨る写真は澁澤が編集長をつとめていた雑誌『血と薔薇』創刊号の頁を飾ったもので、朔美にモデルの依頼があったという。酔った東由多加が、「あな たはは寺山さんに可愛がられていたからな」とからむところや、個展会場で土方に何でもいいから選べと言われ、池田満寿夫の版画をプレゼントされるところな ど、名だたる異才たちにかなり愛されていたことが分かる。もっとも当時の朔美はそんなことに気づくはずもなく当たり前のようにそれを受け容れていたという から、そのノンシャランなところが貴種というものだろう。

森茉莉の家には小学校時代からお使いに行っていたが、人見知りの少年時 代は、話すこともできなかったという。ある日夕飯時になっても母と話し続ける茉莉に「人の迷惑も考えてよ」と言ったことがあり、その時の茉莉の困った様子 を見て傷つけたことを後悔する少年でもあった。大人になってからは部屋に入ることもあって、森茉莉の部屋の様子をスケッチしてみせる。殆ど物のない部屋 で、森茉莉の書くものとの落差に驚かされるが、生活臭のなさというのは分かる気がする。洗濯が苦手で、下着は近くを流れる川に捨てては新しいのを買ったと いうから半端ではない。

朔美は森茉莉をいくつになっても大人になりきれない「子供大人」と評している。子どもの頃は、それにいら ついていたのに、今大人になって思うのは、自分も本当はああいう子供大人になりたかったのだ、という思いである。「1660年代のヒッピーのように、放浪 し、愛し、作り、味わい尽くす。そんなような生活を理想として思い描いていたのに、いつのまにか日常の些末な出来事に囚われて、凡百の世俗の殻に自ら閉じ 込もってしまった。」この後悔を我がことのように感じない同世代はいないのではないか。多摩美術大学の教授となった今の自分を「芝居を捨て凡庸を選んだ 者。かたぎに堕した男。それが熱中するものの無い人間を支える、甘い故郷のような自己憐憫である」と自嘲するその口吻に祖父朔太郎の面影が重なる。

沼 正三にマゾヒズムの神髄を教えられる一章から東野芳明によって多摩美に呼ばれることになる最終章まで、一人の青年が60年代、70年代を無我夢中に駈け抜 け、ふと気づくと妻子も家もある大学教授になっている。振り返ってみれば、贅沢なメンターたちに囲まれていた、あの「劇的な人生こそ真実」であったのだと 気づく。この人でなければ書けなかった貴重な体験記。全共闘世代と括られることが多いけれど、アングラの時代でもあったのだ、とあらためて気づかされた一 冊であった。

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 2010/9/11 『メイスン&ディクスン』上下 トマス・ピンチョン 新潮社

メイスン&ディクスン。脚韻を踏んで調子のいい響き。ロミオ&ジュリエット、ジキル&ハイド、フラニー&ゾーイ。二人の名前の組み合わせを表題にした作品は数多ある。丸谷才一は『文学のレッスン』の中で、作品を評価する点における登場人物の魅力をもっと評価するべきだというようなことを言っていたが、人物の名前がタイトルになっているということだけ採りあげてみても、この作品の魅力が人物の創造にあることが分かるというもの。もっとも、この二人、実在の人物。メイスン=ディクスンと口に出せばその後には(線)ラインとくる。後に南北戦争で敵味方の領地を分かつことになる自由州と奴隷州を分断する境界線を引いたのがこの両名。今でもその境界線のことをメイスン=ディクスン・ラインと呼ぶのだそうだ。

そのメイスンが書き残した日誌を下敷きにしながらも、史実がどれくらい残っていることやら。フランクリンやワシントンといった有名人から耶蘇(イエズス)会の密偵、王立協会の面々その他胡散臭い酒場の客まで数え上げたら切りのない野放図なまでに大量の登場人物。その中には人語をしゃべる英国博学犬や人間に恋する鋼鉄製機械仕掛けの鴨、果ては幽霊さえ出てくる始末。厖大な資料を駆使して、同時代の歴史的事件から天文気象の話題まで網羅しつつも脱線、逸脱の繰り返し。千一夜物語よろしく語り手の話す物語の中の登場人物が次の物語の話者になる入れ子構造になった小説で展開されるのは全くの法螺話、与太話、SF的な地底国探検譚、あっけにとられるほどの荒唐無稽な話をでっち上げた、これは二十世紀最後の稀書であるとともに、紛う事なき傑作。

一つ一つのエピソードを煮詰め、それに相応しく手を入れたら綺想の短篇、手に汗にぎる冒険譚がそれこそいくらでもできるだろう。こんなに簡単に繰り出して見せてもいいのかと思うほど贅沢なネタ満載の文学ショー。前作『ヴァインランド』で、その語り口の巧さに舌を巻いたものだが、今回の作品は、構想の規模、想像力の奔放さ、表象の華麗さで、その上を行く。

主題は勿論題名に象徴されているように奴隷制にある。黒人奴隷は言うに及ばず、米蕃(インディアン)対策に見られるアメリカの負の歴史。またアメリカ独立以前の英国その他植民地を持つ国家なら避けて通ることのできない人間の自由に対する迫害、圧迫の歴史。これほど超重量級の作品にしては珍しいほどストレートな主張が小気味よい。下巻最後の方で、ディクスンが奴隷商人に見舞うパンチに快哉を叫びたくなるのは盟友メイスンだけではあるまい。生硬になりがちな主題を、珍妙な道具立てと喜劇的な意匠で演じて見せたところに面目があると見た。

弥次郎兵衛と喜多八、ボブ・ホープ&ビング・クロスビー、と洋の東西を問わず凸凹コンビ二人の珍道中を描いた物語が面白くないわけがない。王立天文台長助手のチャールズ・メイスンは、亡妻が忘れられない憂鬱気質の人物で、地味目の服に鬘を被った小太りの星見屋。それに対するダラムの田舎町の測量士で教友会(クエーカー)のジェレマイア・ディクソンは、派手な赤の軍服めいた服装に三角帽を被ったのっぽで酒と女好きの楽天家。ひょんなことからこの二人がコンビを組むことになり、王立協会の命でスマトラや聖ヘレナ、果ては新大陸まで観測、測量の旅に出る。

二人の性格が対比的に構成されているのは無論のこと。行く先々で対立し、喧嘩しては仲直りしながら、やがてどちらも相手がいなくては自分が自分でいられないような仲になってゆく。小説の中では、次々に登場する奇矯な人物達の奇想天外な振る舞いに目を奪われがちだが、その蔭で、二人の人物像とその関係性がゆるゆると変容し成長を遂げていく。そのためにこそ、この長大な長さが必要だったのだ。小説の終わりが近づく頃には、この二人の好人物に寄せる読者の愛情は確かなものに育っているはず。

翻訳は柴田元幸。大文字を多用した18世紀英語風の原文を黒岩涙香調の漢字にルビ振りという擬古文調で見事翻訳し果せている。頻出する漢字に閉口する向きもあろうかと思うが、慣れてくれば「費府」は、いつの間にかフィラデルフィアと読むし、「伊太利麺麭」はピザのことだな、と表意文字の解読に長けた日本人のこと、ルビなしでも読んでいる。それより、時代がかった言い回しで展開されるやりとりの中に浮かぶ今日的な笑いの妙味を味わっていただきたい。訳者渾身の訳業である。


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