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 2010/7/29 『ハワーズ・エンド』 E・M・フォースター 河出書房新社

少し前に文庫で出た吉田健一の『文学の楽しみ』を読み返していたら、フォースターの『ハワーズ・エンド』をまだ読んでいなかったのを思い出した。この人の文章には中毒性があるらしく一度はまると他の人の文章ではものたりなくなるのだ。そういえば、イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』もこの人の訳で、その翻訳の文章にすっかりまいってしまったのだった。『ブライヅヘッドふたたび』は、読者のリクエストに応えての復刊だった。『ハワーズ・エンド』は文学全集に入っている。今頃この人の文章が新刊本で読めるのはありがたい。この訳者の文章には熱心なファンがついているようだ。

さて、『ハワーズ・エンド』だが、ジェイムズ・アイヴォリー監督、エマ・トンプソン、アンソニー・ホプキンス主演で映画にもなっていて、小説を読む前に映画の方を見てしまった人も多いかと思う。それでも、そんなことはちっともかまわない。「見てから読むか、読む前に見るか」というようなことがよく言われるが、いい小説というものは話の筋を知ってから読んでもおもしろく読めるものなのであって、それが証拠に、おもしろい本は再読を妨げない。それと同じように、いい映画というのも何度でも繰り返し見たくなるもので、一度見たらそれでおしまい。一度読んだら二度と手にとることがない本などというのはそれだけの映画であり、本なのである。

まず、これはイギリスの小説であるということ。イギリス人というのは概して田舎が好きで、昔から変わらない田園風景を何よりも愛し、父祖伝来の家や敷地内にそびえる古木を愛でてやまない。そういえば、先にも書いた「ブライヅヘッド」も貴族の邸宅のことであったが、何も豪壮な家だからというのではない。「ハワーズ・エンド」というのは、作品冒頭に引用される手紙の中で「古くて小さくてなんとも感じがいい、赤煉瓦の家」と紹介されるように小さな家である。代々の家族がそこで暮らしてきた、そのことが大事なので、いわばその家の人々の「魂の容れ物」が、家なのである。

小説はマーガレットとヘレンという二人姉妹の結婚話を中心軸にして進められる。妹のヘレンは美しく、姉のマーガレットは思慮深い。二人には資産があり、文学や音楽を楽しみながらロンドンで何不自由なく暮らすアッパー・ミドル(上流中産階級)に属している。この二人の生活に飛びこんでくるのが、資産はあるが教養を身につける余裕もまたその気もない実業家のウィルコックス家の人々であり、薄給生活を送りながらも教養のある生活に憧れるレオナードである。つまり、歴然とした階級社会の中で人と人は階級差をこえて理解し合えるのかという、これもまたいかにもイギリスならではの問題を扱っているわけだ。

話は旅先で知り合ったウィルコックス家に招待されたヘレンからの手紙で始まる。彼女は、その手紙でロンドン近郊ハートフォード州にあるハワーズ・エンドの素晴らしさにふれ、そこに暮らすウィルコックス家の人々への愛、中でも出会ったばかりのポールとの恋愛関係を知らせてくる。結局その恋は成就することなく、気まずさから両家は疎遠になるのだが、ロンドンに戻ったウィルコックス家が通りの反対側の屋敷に引っ越してくることで小説は新しい局面を迎える。

挨拶の返礼にウィルコックス家を訪れたマーガレットはルース夫人と親しくなる。ウィルコックス家の中でただひとりマーガレットの持つ思慮深さや判断力が理解できる夫人は、自分に似た資質を持つマーガレットをハワーズ・エンドの後継者にと考える。容れ物に相応しい魂が見つかったわけだが、俗物たちに理解できるはずもなく夫人の遺志は握りつぶされてしまう。一方妻を亡くしたヘンリーはマーガレットに求婚する。文学や芸術を好む教養人のマーガレットと実務家で現実派のヘンリーというどう考えても相容れない二人が心の深いところで、互いに敬愛の念を深めていくくだりが実によく書けていて、これが三十才の若さで書かれたとは信じがたい。イギリスには風俗小説の伝統というものがあって、それに則って書かれたのだというのが池澤夏樹の説。なるほど。

ヘレンは偶然知り合ったレオナードの境涯に同情し何かと世話を焼く。善意ではあるが世間知らずのお節介はかえってレオナードの失職という事態を呼ぶ。義憤に駆られたヘレンはレオナードとその妻を連れ、娘の結婚式のため田舎の館に滞在中のウィルコックス氏に会いに行く。メロドラマ的なすれちがいが一組の男女の過去を暴き出し、喜劇的な筆触で描かれていた小説に悲劇的な影が落ちる。弱者を見たら放っておけないヘレンと、立場のちがう相手を受け容れるためには妥協も辞さないマーガレットの対比もまた、この小説の主題のひとつになっていて、主義主張の異なる者同士が理解し合うことの難しさと、それ故にこそ立場の異なる相手を否定せず共に生きてゆこうとする人生が如何に美しいかをフォースターは力を込めて描いている。

悲惨な破局を迎えるかのように見えた小説は、ハワーズ・エンドの管理人でウィルコックス夫人の旧友でもあるエーヴェリーさんというトリックスター的人物の登場によってなんとも見事な幕引きを見せる。その予言が成就される様は予定調和的に過ぎると見えるかもしれぬが、終幕部がそのまま冒頭部にオーバーラップして緩やかに環を閉じる構造は、二十世紀イギリス小説の完成度の高さを体現していると言ってもいいだろう。吉田健一は『文学の楽しみ』の中でこの作品に触れ、「確かにこの小説では人間が生きていて、生きているからその存在を通して人生の姿が明かにされ、ただそれが美しいという印象を伴うことも免れなくて、立派な、或は真実の行為は美しいという関係がそこでも成立する」と述べている。「小説を読むのは単に楽しむため。人生だの道徳だのというのはご免こうむりたい」などとうそぶいている貴方にこそお薦めしたい一冊。

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 2010/7/11 『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』 J・マーサー 河出

カナダで新聞記者をしていた「僕」は、筆禍に遭い、命の危険を感じ、とるものもとりあえずパリに逃げた。たくわえも尽き、冬のパリを彷徨ううち雨に降られ、雨宿りにとある書店に飛びこんだ。ノートルダムにあるその書店こそシェイクスピア・アンド・カンパニー書店だった。

こ の名前にぴんと来た人があるかもしれない。ジョイスの『ユリシーズ』がどこの出版社からも相手にされずにいた時、出版費用を出したのがシルヴィア・ビー チ、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店の店主である。フィッツジェラルドやヘミングウェイが立ち寄る有名な英語書籍店だったが、ドイツ占領時に店を 閉め、パリ解放後も店を開けることはなかった。

そう、この本に出てくるシェイクスピア・アンド・カンパニー書店はその本家の名前をいただ いたいわば二代目の書店である。店主はジョージ・ホイットマン。まぎらわしい名だが、父親は教科書こそ書いたが、詩人のホイットマンではない。このジョー ジという人物が実に魅力的に描かれている。まるで小説のようなノリとテンポで読ませるが、歴としたノンフィクションである。

雨宿りしたの が運よく週に一度だけ開かれているティー・パーティーの日だった。パーティーに誘われた「僕」は、この特異な書店に圧倒される。なにしろ、本でいっぱいの 広い店の中にはキッチン(ゴキブリがうろついている)があり、誰かがスープを作っているかと思うと、別の部屋には数台のベッドが置かれているというありさ ま。

実は、この書店は作家志望の若者に寝るところを提供していたのだ。店の前身は「ミストラル」という名で、ヘンリー・ミラーやアナイ ス・ニンは常連だったし、バロウズやギンズバーグもやってきた。パリに行けば、無料で泊まれる本屋があるという噂は広く知れ渡っていて、この店を訪れるも のは引きもきらなかった。ただ、長逗留できる者は限られていて、それにはジョージに自伝を読んでもらわなければならなかった。

「僕」は、 みごとその試験に通り、シェイクスピア・アンド・カンパニーで暮らしはじめることになる。個性的な同宿人との日々の暮らしやその日の糧を得るための涙ぐま しい苦労。パリで安い飯を食べる方法と、興味深い話題には事欠かない。何しろ、新聞記者と言ってもかけだしでまだ若い。恋もすれば、嫉妬もする。

ア ルコールと薬物から手が切れず、あぶない橋を渡りながらもシェイクスピア・アンド・カンパニー書店での生活がしだいになくてはならないものとなってゆく。 特に八十六才という高齢でありながら、二十才のイヴに恋をし、結婚を申し込むジョージの姿に心を動かされる。精力的に書店を運営していくジョージだった が、店には買収の手がのびてきていた。

舞台になっているのはミレニアム問題に揺れるパリである。ところが、筋金入りのコミュニストである ジョージの来る者拒まずというコンミューン作りには、なにやら60年代のにおいが漂っている。鍵もかからぬレジや、そこいら中に置き忘れられている金は、 泥棒の餌食になっているが、ジョージは本の万引きも、盗難事件にもひるむことがない。

ただ心配なのは、自分に何かがあれば、書店は別れた 妻の名義となり、自分を恨んでいる妻はさっさとホテル王に売り渡してしまうだろうということだ。そうなれば店の公式ソングにある「見知らぬ人に冷たくする な、変装した天使かもしれないから」というモットーに基づく書店運営はできなくなる。ジョージにはその先妻との間に、その名もビーチからとったシルヴィア という子がある。娘が店を継いでくれれば、という願いはあるものの仕事一途できた男にそんなことを言い出せるはずもない。

シェイクスピ ア・アンド・カンパニー書店の運命やいかに。また「僕」の恋の顛末は…。今風と言うよりはビートニクやフラワーチルドレン、ヒッピームーブメントの雰囲気 が濃厚な気配だが、金なし宿無しの異邦人がパリのど真ん中で生き生きと暮らしていくその日々のなんとも言えない開放感がたまらない。ロレンス・ダレルが 『アレクサンドリア四重奏』を書いていたという、その部屋が今も残っているなら、今度パリを訪れたときにはぜひ足を伸ばしてみたいものだと思う。


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 2010/7/4 『絆と権力』 アンヘル・エステバン他 新潮社

ガルシア=マルケスとフィデル・カストロ。コロンビア出身のノーベル賞作家とキューバの最高指導者。それぞれの分野でラテンアメリカを代表する二人だが、この二人の間に特別な関係があることを、恥ずかしながらこの本を読むまで知らなかった。

言われてみれば、『族長の秋』をはじめとして、マルケスの作品に権力者を主人公にしたものは少なくない。独裁的権力を奮う軍事的指導者の姿を、頭には「マジック」と着くもののあそこまでリアルに描くには、身近にそのモデルになるような人物がいないと考える方が難しいだろう。

しかし、今でこそ熱い友情で結ばれている二人だが、初めのころはそうではなかった。ガボ(友人の間でマルケスは、こう呼ばれている)が、キューバ革命支持を明らかにしてからも、カストロの方は距離を置いていたらしい。

その二人が、どのようにして近づいていったのか、その間にどのような事件があったのかを、かなり克明にレポートした内容となっている。筆者の立場は、独裁的権力者であるカストロに対して批判的であり、そのカストロに対して非常に近い立場にあるガボに対して距離を置いたものとなっている。しかし、単なる批判の書ではない。

ノーベル賞作家とキューバ指導者という立場をこえた二人の男の間にある友情に対しては、それなりの敬意を払っているようだ。ガボのノーベル賞受賞に際し、その祝賀会場にカストロから栓抜きつきのキューバ産ラム酒千五百本が送られてきた話には、つい口許がゆるんでしまった。

北欧はアルコール類には厳しい。十時をまわったら酒を提供することは禁じられているから、というカストロの口上が皮肉混じりで愉快である。これに対し、大量の酒類の不法輸送にスウェーデン蔵相はキューバ大使館に厳重抗議したというおまけまでついているのがまた笑わせるではないか。

カストロの秘密の外交官として各国の元首や大使とやりとりをするようになってからは、ガボはハバナの景勝地に豪邸をあてがわれ、キューバにいるときはそこによくカストロが深夜にひょっこり現れ、朝まで話しこんでいくという。権力者は気を許すときがない。そこでやっと孤独を癒すのだろう。

独裁政権の思想弾圧に対し、かつてキューバ革命を支持した作家たちも、次々とカストロ批判の側に立つようになり、ガボの周囲から文学者仲間が消えていく。それに替わって、ガボを取り巻くのは、元フランス大統領ミッテランやレジス・ドブレのような左翼政治家たちだ。クリントン元アメリカ大統領もガボと親しくしていたというから驚きである。

クリントンがハバナを訪れたときのこと。話が文学論議におよんだとき、元アメリカ大統領は、フォークナーが好きだと語り、『響きと怒り』の一節を暗誦してみせた。彼が退席した後、ガボとカストロがさっそく本を取り出して確かめてみたところ、たしかにほぼ同じ文章が書かれていたという。そのせいかどうかは知らないが、ガボのクリントンに対する評価は高い。

カストロとの友情も文学をぬきにしては語れない。あまり知られていないが、カストロはかなりの精読者らしく、ガボの小説の矛盾点を何度も指摘したという。それ以後、このノーベル文学賞作家は、カストロに目を通してもらってからでないと、原稿を出版社に送らないことにしたという。

たしかに、革命当初と比べればカストロ長期政権の評判はあまりかんばしいものではない。何人もの政治犯の釈放や国外脱出に手を貸すことで、ガボは自分の存在意義を証明しようとするが、それがカストロのアリバイになっているという指摘もある。キューバ島の外から見る限り、ガボの立ち位置は危ういものに見える。

ただ、キューバという国の持つ魅力には抗いがたいものがある。作家仲間からの集中砲火を浴びるノーベル賞作家にとって、今やこの国だけが唯一くつろげる場所である。権力者の孤独を一身に引き受ける軍事指導者にとっても世界に誇れるノーベル賞作家が常時傍らにいることは公私ともに喜ばしいことだろう。両者にとって、この晩年の友情はかけがえのないものなのだろう。さしものカストロも昨今はその健康状態が憂慮されている。弟のラウルがいるものの、この巨星が墜ちたとき、キューバは、そしてガボはどうなるのか。一読後そんなことを考えさせられた。族長の秋は足早に近づいているようだ。

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 2010/7/4 『アブサロム、アブサロム!』 フォークナー 河出書房新社

「フォークナーは手強い」と、池澤夏樹が書いていたが、その言葉にうそはない。はじめて読んだときは最初の数ページで本を置き、あとが続かなかった。まだ、準備ができていなかったのだ。池澤は言う。「普通の小説を読むことはちょっとした小旅行に似ている。読者は数日だけ自分の家を離れて他の地に行く。他人の人生を生きてすぐに戻ってくる。(中略)しかし、フォークナーを読むことはそのままヨクナパトーファ郡に移住することである」と。

ヨクナパトーファ郡とは、南部にある架空の地である。フォークナーのすべての作品は、そこを舞台としている。そればかりではない。一つの作品に登場する人物は、同じ人格を備えたままで、別の作品に登場したり、同じ事件が別の角度から語られたりもする。まるで、実在の土地があり、そこに暮らす人々を、そこに暮らす作家が長い時間をかけて取材し、それらの人々の人生を物語っているかのようだ。フォークナーの小説世界というのは、すべての作品が寄り集まってとてつもなく大きな一つの作品を構成していると言える。ヨクナパトーファ・サーガと呼ばれる所以である。

それだけに、一つの作品を一度読んで、ああ面白かったというわけにはいかない。もちろん、一つの作品は一つの作品で独立した作品として成立している。しかし、この作品の後半に突然語り手の対話の相手としてシュリーブというカナダ人が闖入してくる。ヨクナパトーファ郡に長く住んでいる読者にとっては顔見知りなのかもしれないが、行きずりの読者にとって唐突な感は否めない。しかし、裏を返せば移住期間が長くなればなるほど、顔なじみもでき、住み心地もよくなる仕掛けになっている。

『アブサロム、アブサロム!』で描かれるのは、トマス・サトペンという男の一代記である。生まれ育ちのよくない男が幼い頃に受けた屈辱的な仕打ちに発奮し、世間を見返すために豪邸を建て家族を作ろうとする。上流の家から妻をめとり、一男一女をもうけるが、妻は若くして死に、娘は結婚を前にして未来の夫に死なれ、息子は家を出て行方不明となる。男はそれでも懲りずに自分の子孫を残そうとするのだが…。親と子の葛藤、男女の愛憎に加えて、兄妹愛、人種問題、奴隷制、よくもまあこれだけ詰め込んだものだと思うほどのどろどろの人間模様。それらが行き着く先は因果応報といえばいいのか、宿命的な悲劇といえばいいのか。

あらすじだけを書けば近頃流行りの昼メロのようで、なんとも通俗的に思えるかもしれないが、なかなかどうしてそんなものではない。まず、サトペンという人物が尋常でない。よく言えば神話的、悪く言えば怪物的な人物として造型されている。この小説では、多くの人物の口を借りてサトペンの行状が語られるが、語り手は自分の眼が捕らえたサトペンの姿を語るだけで、それらをどう重ねてみてもくっきりとした人物像は浮かび上がってこない。サトペンという謎を追いかけて読者は最後まで引きずられていかざるを得ない。

最後に、題名の「アブサロム、アブサロム!」だが、これは旧約聖書の『サムエル記』にあるダビデ王の言葉だそうだ。ダビデの数ある息子の一人、アムノンは妹のタマルを愛するようになる。近親相姦の禁忌を怒って同じく息子のアブサロムがアムノンを殺す。しかし、アブサロムは王の部下によって殺されてしまう。愛する息子を失ったダビデ王の嘆きが題名の由来である。

出自や家系、血のつながりというものに強いこだわりを見せるのは、作者が南部の出身であるからか。フォークナーは戦後来日した際、自分も敗戦国の人間ですと自己紹介したという。栄華を誇ったいくつもの有力な家系が、南北戦争の敗北を境にして、没落、頽廃してゆく、作家の目はそれを見てきた。フォークナーの小説が、人間の業のようなものを深くえぐり出してみせるのは、決してそれと無縁ではないだろう。


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