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 2010/5/31 『闇の奧』 辻原 登 文藝春秋

「ポルトガル語にsaudade(サウダーデ)という美しい言葉がある。この言葉は他国語には訳せない。心象の中に、風景の中に、誰か大切な人が、物がない。不在が、淋しさと憧れ、悲しみをかきたてる。と同時に、それが喜びともなる。えもいわれぬ虚の感情……。」

かつて三上隆という気鋭の民族学者がいた。蝶と矮人族(ネグリト)を追い続け、敗戦の年、ボルネオのジャングルで消息を絶った。語り手の父は三上の旧友として捜索団を組織し自らボルネオに渡るも、目的を果たすことなく病没する。息子である語り手は、父の意志を継ぐべく、父の遺した手紙、捜索団の一員だった出水(和歌山カレー毒物事件の被害者)の遺したノート、その他の資料をもとに、北ボルネオ最奧部における三上隆捜索団の旅、和歌山大塔山系における小人村探しの探検をレポートに書く。最後には語り手自身がチベットに潜入し、三上隆の影を追う。熊野、ボルネオ、チベットを舞台に、異世界と現実世界を往還する秘境小説である。

実在の人物、史実を素材に創作された架空の物語。それも、どこまでが真実で、どこまでが創作なのか、虚実の境界が限りなくぼかされ、つかみがたい。それでいながら、とびっきり面白い。作者は辻原登。その語り口の巧さには定評がある。今回作家がその素材としたのは、伝説のナチュラリスト鹿野忠雄。巻末に参考文献が揚げられているのだから、ネタバレの誹りを受ける心配はないだろう。この若くして北ボルネオで消息を絶った稀有な探検家のその後の消息を追い求める探索行が、小説の主題である。

題名が『闇の奧』となっていることからも分かるように、先行する文学作品を幾重にも織り込んだ間テクスト性の強い作品となっている。題名は、もちろんコンラッドの同名小説(の邦題)から拝借している。ジャングルの奧に君臨する白人の独裁者を追って、アフリカの奥地に向かう男の話は、オーソン・ウェルズが映画化を試みて果たせず、フランシス・フォード・コッポラによって、舞台をベルギー領コンゴから戦時下のヴェトナムに移すことで映画化された。言わずと知れた『地獄の黙示録』である。強大な軍事力を持つ覇権国家側の人間が、圧政下にある現地の部族民に同化しつつ生きるという主題を共有する点でこの二作はつながる。

さらに、ナボコフの『賜物』との関係がある。ナチュラリストで探検家でもある蝶の蒐集家が、蝶を追って中央アジアに出かけ消息を絶つというのが、『賜物』の第二章で語られる主人公の父の話だ。作家志望の息子は、父の遺した資料をもとにその伝記を執筆することで、父の生涯に迫ろうとするのだが、書き進めるうちに息子はまるで父になりきって書くようになる。これはそのまま『闇の奧』の設定に重なる。一つのテクストの中に文体もジャンルも異にする複数のテクストが展開する『賜物』という複雑な構成を持つ小説を下敷きに、辻原はこれを書いたにちがいない。第五章「沈黙交易」のエピグラフにナボコフ『賜物』の一節が引用されている。作者からの挨拶であろう。

題材によって、自在に文体を使い分けるのが、この作家の持ち味だが、今回のそれは、久生十蘭や小栗虫太郎の魔境小説を想い出させる男性的な文体である。小栗虫太郎の『人外魔境』シリーズは、日本人探検家が人跡未踏の地を探検し、有尾人やら水棲人を追うという荒唐無稽を絵で描いたようなストーリーを、独特の衒学趣味(ペダントリー)をちらつかせながらぐいぐいと読者を引っぱっていく躰のものだったが、辻原のこれも矮人族(ネグリト)が棲むという幻の集落を探して、熊野やボルネオ、チベットの秘境に男たちが次々と挑む話である。何が男たちをそうまでかきたてるのか。それが冒頭に引いたサウダーデ。作家の言葉を借りるなら、「胸がひりつくようななつかしさ、いてもたってもいられなくなるようなノスタルジア」とでもいうべき「何か鋭い情緒に突き動かされて」のことなのだろう。

21世紀のこの時代に小人の話か、と思われるむきもあるかも知れないが、そこは、辻原。2004年にインドネシア東部で発見された新種の人類「ホモ・フロシエンシス」の骨という物証を提示する。この骨の持ち主は大人なのに身長1メートル。つまり小人。これに「和歌山毒物カレー事件」、ダライ・ラマのチベット脱出という実際の出来事を絡ませてストーリーを紡いでいく手腕はお見事としか言いようがない。

その他にも、ニールス・ルーネベルクの『秘密の救世主』という異端神学書や、数年前発見され話題を集めた『ユダの福音書』、サリンジャーの『笑い男』といった、読者をして立ち止まらせ、考え込ませる鍵がさり気なく鏤められ、本好きにはたまらない仕掛けに満ちている。いろいろ調べて「『秘密の救世主』という本について言及しているもの」というのが、ボルヘスの『伝奇集』の中の一篇であることは分かった。ただ、その「ユダについての三つの解釈」の中に「イエスは妻マリアの肉体の中心部を、イタリアの秋の水仙と呼んだ」という記述は、どこにもなく、どうやら作家の悪戯に引っかかったらしい。それとも、また別のテクストの中に隠されているのだろうか。どこまでも読者を闇ならぬテクストの奧に迷い込ませるたくらみに満ちた一冊である。


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 2010/5/23 『突飛なるものの歴史』 ロミ 平凡社

押し入れの中を整理していたら、古ぼけた革の旅行鞄の中から、すっかり忘れていた古い絵やら何かの標本箱、奇妙なオブジェが見つかった。懐かしい気持ちで一つ一つ手にとる裡、当時の熱に浮かされたような思いが甦って来た――読み終えて、そんな印象を受けた。

というのも、この本、六〇年代にフランスで刊行されたものの完訳である。何故、そんな古い本が今頃、装いも新たに「完全版」と銘打って出版されたのだろうか。実は、当時日本でも「突飛なるもの」について書かれた本が相継いで刊行されていたのである。その中心人物が澁澤龍彦であり、種村季弘であった。彼等が当時その著書の中で紹介していた西欧の異端者の系譜、たとえば、バヴァリアの狂王ルートヴィヒ二世やカリオストロといった面々は、どうやらこの本が種本であったようなのだ。

それだけではない。訳者の後書きによれば、澁澤の『異端の肖像』所収「バヴァリアの狂王」の中のリンダーホーフ城について触れた文章(ある批評家が澁澤を悼む文の中で、その名文の見本として引用した部分)が、そっくりそのままロミのこの本にあるという。評者も本棚の澁澤コレクションの中から『異端の肖像』を取り出して読み比べてみたが、たしかにロミの文章に想を得ているというより、そのまま引き写したと言った方が近いと感じた。

もちろん、訳者の高遠氏もそれを咎め立てているわけではない。むしろ、文章に殊の外うるさいあの澁澤に、あえて引き写してまで使いたいと思わせたロミの才能の方を称揚していると考えた方がいい。「解説にかえて」の中で、種村季弘も書いているように、当時ロミのこの本に触発されて、自分の進む方向を見出した人は少なからずいたのだろう。第六章「突飛なるものの巨匠たち」に登場するレーモン・ルーセルの訳者として知られる岡谷公二氏が、後にやはり「巨匠たち」の一人であるシュバルを採りあげ、『郵便配達夫シュバルの理想宮』を書いたりしているのが、その一例である。

それでは、そのロミとは何者なのか。本名はロベール・ミケル。文筆業はもとよりパリ六区で、その名も「ロミ」という骨董屋兼画廊を営んでみたり、ホテル兼居酒屋を経営を経営する傍ら、その数二万五千点を超える風俗ポスターを収集し、テレビやラジオの番組製作にも関わるなど、マルチタレントぶりを発揮している。自分の描いたルソー風の絵を将来有望な画家の絵としてアメリカ人に売ったりもするかなり胡散臭い人物だが、後には短編小説で高名な賞を受賞するなど、文筆の才はたしかだったようだ。

本の内容だが、種村曰く「本の体裁をとったサーカス、でなければ奇妙な演目をぎっしり詰め込んだ寄席(ヴァリエテ)かキャバレ」、「ドサ回りの見世物小屋のあくまでも破廉恥に興味本位、悪びれずに極彩色の看板絵めいた見出しがぎっしり」。そう言われては身も蓋もない気がする。中には、キリスト教の悪魔がギリシァ神話の牧神パーン(ファウヌス)の山羊に似た相貌を採り入れたとか、有翼の天使は、勝利の女神ニケのイメージであるとか、実際には存在しないはずの「突飛なるもの」が、何故作られねばならなかったかという考古学的記述もあり、なかなか読ませてくれたりもするのだが、如何せん、それらの考察は、この本からアイデアを頂戴した澁澤や種村その他の著作の方が、より豊かな思索の広がりを見せてくれているわけで、この本の眼目は種村の呼び込みめいた口上通り、古今東西から寄せ集めた「突飛なるものの」蒐集にある。

学者でも何でもない一人のディレッタントが、独力で資料を渉猟し、よくもこれだけの写真や図版を蒐集し紹介することができた、そのことこそが功績だろう。特にフランスを中心としたロマン派以前からダダ・シュルレアリスムに至る美術・文学界の動向を手際よくまとめた手腕はなかなかのものである。

澁澤や種村の愛読者なら、何をおいても一読したい。彼等がこの本にどれだけのものを負い、そして、そこから何を摘み、何を捨てたか。そしてその素材をどのように料理して自分の世界を築き上げていったか。たとえ、その後の歩みは離れていったにせよ、六〇年代のある時期、たしかに澁澤や種村はロミと出会い、距離は保ちながらも併走していた。『突飛なるものの歴史』は、そうした六〇年精神史を垣間見せてくれる得難い本であると言える。


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 2010/5/15 『火山の下』 マルカム・ラウリー 白水社

読んだことはないのに、著者と題名が記憶に残っている本というものがある。誰かの本の中で言及されて興味を持ったものの手近なところに見つからないので、気になったまま放置されている本。マルカム・ラウリーの『火山の下』も、そういう本である。ずいぶん前に翻訳されてはいるのだが、絶版で古書価格が高騰し、読むに読めない状態が続いていた。それが今回白水社から新訳で出た。

小説の概要は、カバー裏にある文章が簡潔で要を得ている。「ポポカテペトルとイスタクシワトル。二つの火山を臨むメキシコ、クワウナワクの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。一九三八年十一月の(死者の日)の朝、イヴォンヌが突然彼のもとに舞い戻ってくる。ぎこちなく再会した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけることに。しかし領事は心の底で妻を許すことができず、ますます酒に溺れていき、ドン・キホーテさながらに破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく。」

章ごとに視点人物が交代するところや、長篇小説であるのにたった一日の出来事を描いたものである点、中心となる人物が二人の男性と一人の女性である点、舞台となる町を人物が移動することで物語が展開している点、ダンテの『神曲』「地獄篇」やセルバンテスの『ドン・キホーテ』ほか古典や先行するテクストに依拠した構成等々、ジョイスの『ユリシーズ』の影響下にあることは誰の目にも明らかである。

三人称限定視点で語り出されながら、会話の最中に話者の目に映る眼前の光景の描写やそこから引き起こされる連想、追想が次々と挿入され、時空を跨ぎ越えてどこまでも延々と続いていく文体は「意識の流れ」の手法をグロテスクなまでに誇張したもので、特筆すべきは、アルコール中毒患者である領事の視点で描かれる章の叙述である。視点人物が酒浸りという設定は、調べればほかにもあるのだろうが、ここまで精緻に記述された作品を他に知らない。突然の意識の断絶。さらにまた突然の覚醒。時間感覚の麻痺。幻聴や幻視のリアルな描写。中でも、壁の染みや傷跡が昆虫や芋虫に変化し蠢く様子の描写は読んでいて本当に怖くなる。評者も酒は好きな方だが、少し酒量をひかえようかと考えたくらいだ。

領事の鬱屈は、どうやら戦争中のドイツ軍捕虜の扱いをめぐる毀誉褒貶にあるらしいが、コンラッドの『ロード・ジム』の自己懲罰を真似たのか、人の行きたがらない任地を経巡った最後が国交の途絶したメキシコであった。帰国要請に従わず任地に留まった後は、異端神学やら錬金術関連の書籍を集め、本を書くと言いながら酒浸りの毎日である。屈折しているのは領事ばかりではない。弟のヒューもスペイン内戦の義勇軍に共感を抱きながら、それを余所目に兄の妻と一緒にいることに幸福感を感じている自分を内心で恥じている。

自分自身に対して自分自身が「諾」と言えない、流行りの言葉で言うなら自己肯定感を持てない兄弟の造型は、作家自身をモデルにしたものであろう。若い頃の自分をヒューに、現在の自分を領事に投影していると見ることもできる。そういう意味ではアルコール中毒患者であった作家の自伝的小説とも言える。ナチスの台頭、スペイン内戦という時代を背景に、理想を胸に抱きながら挫折してしまったインテリの自己韜晦を、異国情緒溢れるメキシコの風景の中に、酔いどれの見た夢幻劇として描いた作品と括ることができよう。

「意識の流れ」や間テクスト性といった技法、構造もさることながら、読後に感じるのは、濃厚かつ芳醇な文学性である。遠くから聞こえる祭のざわめき、突然の雷雨、谷間から吹き上がる雨上がりの爽やかな風、といった叙情味を帯びた筆触。死者の日の骸骨、尻に7という数字の焼き印のある馬、ドミノを啄む鶏を連れた老婆、という宿命を暗示させる表象の多用。領事の演じる道化ぶりが醸し出すバロックの祝祭劇にも通じるグロテスクなユーモア。渇を癒すという言葉どおり、近頃、これほどまでに小説を読む喜びを感じたことがない。表紙カバーを飾るディエゴ・リベラの絵さながらに、目眩くような読書体験が読者を待っている。


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 2010/5/04 『鳥を探しに』 平出 隆 双葉社

詩人の平出隆の二作目の小説。二冊目にしてこれか、と思えるほどの堂々たる大作。厚さ約5センチ。二段組み659頁という造本は、まるで辞典サイズ。詩人のこの作品にかける思いが伝わってくる。もともとは「小説推理」に2004年の暮れから2008年の夏まで連載していたものである。

表紙では、Ich Romanと、一人称小説をうたってはいるが、なかなかどうして、そんなひと言で括ってしまえるようなしろものではない。簡単に言えば、用意した数冊の本を一度ばらばらに解体し、二、三ページずつ、きりのいいところでまとめ、それらを時系列にそって、トランプの7ならべでもするように数段に並べておいて、はじめは一段目と二段目を交互に紙取りし、次には、三段目と四段目を交互に、その次は二段目と五段目というように紙を取っていったものを最後にもう一度全部綴じるとできあがる、そんな本なのだ。

話者である「私」は、左手堅という名の詩人で、編集者でもある。といえば分かるように、これは作者平出隆に限りなく近い人物として創造されている。小説は、その「私」が、祖父である左手種作の遺した原稿を頼りに、実はそれまであまり深く知ろうとはしてこなかった祖父や父の姿に迫ろうとする探索行を描いている。

問題は、複数の時系列に沿って、断章形式でぽつりぽつりと提示される探索行の間に挿入される、祖父種作の遺稿にある。在野のエスペランチストで、中西悟道とも親しかった鳥類研究者。独学で学んだ外国語を駆使し、極地探検の記録や金鉱堀りの手記等、少なからずの文章を翻訳している。作者は、祖父の行状を探ったり、祖父の遺稿に登場する人物を調べたりする探索行を記した文章にそれら複数の祖父の遺稿を、やはり断章形式で挿入していく。

読者としては複数の物語が同時進行していくのを追うだけでも大変なのに、その間に、鳥やら樹木やらに関する図鑑の解説ふうの文章まで読まされるわけで、趣味を同じくする人には楽しいのかも知れないが、一般の読者には正直、抵抗のあるところだろう。ただ、弁護するわけではないが、左手種作の手になるとされる文章、平易である上に格調さえ漂うもので、現代日本語の書き手として定評ある作者の文章と交互に並べられても、なんら遜色のない達意の名文である。であるからか、たしかに膨大な量の文章なのだが、終わりに近づくにつれ、この続きが読めなくなる寂しさが襲ってくるから不思議である。

自装の表紙に惹句めいた短文が書かれている。「孤独な自然観察者にして翻訳者でもあった男の/遺画稿と遺品の中から/大いなる誘いの声を聴き取りながら育った私は/いつからか、多くの《祖父たち》と出会う探索の旅程にあることに気づく。/絶滅したとされる幻の鳥を求めるように/朝鮮海峡からベルリンへ、南北極地圏の自然へ、そして未知なる故郷へ。/はるかな地平とささやかな呼吸を組み合わせ、/死者たちの語りと連携しながら、数々の時空の断層を踏破する/類ない手法―コラージュによる長篇 Ich-Roman」

すべてはここに語り尽くされている。これはそのような作品である。


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