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 2007/7/31 『アレクサンドリア四重奏Wクレア』 ロレンス・ダレル 河出書房新社

「こうして、都会はふたたびぼくを取り戻した――同じ都会ではあるが、それは時間のなかで生じた新しい転移のせいで、いまはなぜかむかしほど痛切でもなく、恐ろしくもない都会だ。古い織物のどこかが擦り切れたとすれば、また別な部分が修復されたのである。」

主人公のダーリーは、都会の生活に疲れ、恋愛沙汰に明け暮れた日々を顧みるため一時的に避難していた島から、アレクサンドリアへ帰還する。養育している少女の父親である旧友ネッシムからの招待を受けたからだが、ようやくあの都会に対峙することができるだけの成熟を遂げたからでもある。

最終巻の基調色は思いの外明るい。それはクレアの故郷であるギリシアから来るエーゲ海的明るさにほかならない。もともと美しかった彼女は成熟し、より輝きを増している。季節に喩えるならば夏、時なら真昼。祝祭的な明るさに溢れた第二次世界大戦末期のアレクサンドリアで、このロマネスクは円環を閉じようとしている。

それぞれの巻にひときわ印象的な場面が用意されている『アレクサンドリア四重奏』だが、第1巻の未明の鴨猟の緊迫感に優るとも劣らないのが、アレクサンドリアの夏の初めの一日、海面からほんのわずか突き出た花崗岩の島で起きる不可思議な事件の顛末。祝祭的な場面が一気に悲劇的な様相に転落し、やがて穏やかな恢復を見せる結末に至る。全巻を通して白眉ともいえるその展開に息を呑んだ。

第4部は、最終巻である。すべての謎がここで解かれなければならない。宙ぶらりんになっている恋の顛末や、掛け違ったボタンのような人々の思いが、それぞれところを得て落ち着くところに落ち着くことで大団円を迎えることができる。松岡正剛がこの作品を歌舞伎に喩えていたが、たしかに、因果応報、御都合主義まるだしで強引に決着をつけながら祝祭的雰囲気のなかで幕が引かれるあのバロック的演劇の終末になんと似通っていることだろう。

全巻を読み終えてあらためて思うのは、政治的陰謀や変死事件等様々な要素が介在し、つねにあらゆる方向に逸脱し続けるように見えながらも、この小説はひとりの作家志望の青年が、挫折を乗り越え人格的に成熟を遂げる人格形成小説(ビルドゥングスロマン)として描かれている。その視点から見るとき、自殺したパースウォーデンをはじめ、彼を取り巻く女性や友人たちの繰り返す恋愛沙汰や事件のすべてが、彼の成長を促すためにあったような気がしてくる。

そういう意味では、若い頃に出会いたかった。未来への不安と期待に胸がひりつくような焦燥感のなかで読むことができたら、きっと今とはちがった読後感を得ることができたただろう。特に、全編に撒き散らされた詩的な、否ほとんど詩そのものと言っていい文章は青春の真っ只中にある者だけがひたすら酔いつつ飲み干すことのできる美酒であろう。

美しい絵というものがある。美しい音楽というものもある。あなたにとって何が世界一美しい絵かと問われたら少し迷う。音楽も然り。しかし、世界一美しい小説は、と問われたなら、少し考えたあげく、おずおずと『アレクサンドリア四重奏』と答えることだろう。


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 2007/7/24 『ロリータ』 ウラジーミル・ナボコフ 新潮文庫

何度読み返しても終わらない。実際何度読んだことだろう。読めば読むほど、まだ読み終えていないという気にさせられる。前に読んだときはここを読み飛ばしていたな、とか、こんな言葉があることに今まで気がつかなかった、などという気にさせられるのである。ナボコフはその『ヨーロッパ文学講義』の中で「読書とは再読のことである」と語っているが、読者を再読に誘い込む手ぎわにおいて、ナボコフをこえる物書きはいないのではないだろうか。

なるほど、「ナボコフにはまる」とはこういうことなのか。名うての読み巧者が、次々と餌食になるナボコフの小説。何が他の作家の書くものとちがうのか。怖いもの見たさで『ロリータ』を読み終えたときは、ふうん、これが、という感じだった。文章、特に細部を忽せにしない描写の緻密さには感心したが、ストーリー展開も自然で、むしろその分かりやすさに違和感を覚えたくらいだ。

ところが、である。いつものようにあらすじをまとめ、主題と思われるものや、主人公ハンバートの行状について何事かを述べてみても、いっこうに『ロリータ』という小説について語っているという気がしてこない。旨い魚を食べたのに、それを紹介しようと筆をとったら紙の上に現れたのは骨ばかりという具合だ。

そこで、もう一度読んでみた。訳注は再読時に読むことという「ただし書き」がついていたが、まさにその通りで、通常なら初読時の理解を助けるためにあるはずの注が、再読時のために書かれているではないか。実は、『ロリータ』については既に研究者によって詳細な解説書が出ている。訳者による注は、それと重ならないように独自に設けられたものである。訳注を頼りに何度もページを繰りながら読み進めるうちに、次から次へと気になる箇所が現れてくる。

伏線というか、ほのめかしというか、ストーリー展開上、重要と思える事件に関する情報が此処や彼処にまき散らされているのに、初めて読むときに、ほとんど読み飛ばしていたのは驚いた。話者で主人公のハンバート・ハンバートは、自身や他の登場人物について言及するときも、フランス語の慣用句を濫用するなど極度に自意識過剰で、饒舌であるばかりでなく、度々人物の呼称を替えたり、余分な注釈を加えたりと、逸脱を繰り返す。はじめての読者は、いちいちつきあっていられず、主筋に関わると思われる箇所以外は読み飛ばしてしまうからだ。

それだけではない。本来ナボコフが持つ明晰、直截、論理的な文体にまじって、ポオを下敷きにした幼年時を回想する感傷的でロマンティックな文体、雑誌や新聞の広告、観光パンフレット等様々な非小説形式のもじり、ポピュラー音楽の歌詞のパロディ、フロイト学派を揶揄するような精神分析学特有の用語を用いた論文風文体と、速度や強度の異なるありとある文体が繰り出される文体見本のような小説に読者は眩惑されてしまうのだ。

全編にばらまかれた謎や仕掛け、言葉遊びに唆されるようにして、何度も本文に立ち戻るうち、読者はそうした知的な快楽とは別に、ナボコフが周到に用意した何気ない情景が、忘れられなくなるという経験を持つ。たとえば、断崖の下、谷間の小さな村から響いてくる子どもたちの遊び声を聞きながら自分のそばにロリータがいないことではなく、その中に彼女の声が混じっていないことを悲しむハンバートの姿。

本当のドロレス(ロリータ)ではなく、自分の幻想のロリータを愛していたはずの主人公が、幻想を愛していたつもりで、いつの間にか真実のロリータ(ドロレス)を愛していたことに気づく、主題に深く関わるこの重要な場面が谷間の小さな炭坑町から響いてくる音で表象されるこの場面だけでなく、全編を通じて、ささやかな何気ない場面が鮮明で詩情に溢れ、深く印象に残る。読者はそうした細部をためつすがめつ味わうことを愉しみながら読み進めていく。

数えられないほどに分かれたパズルのピースを正しく組んでいくことで成立するのが『ロリータ』という小説なのだ。それは、他では滅多に味わえない種類の快楽を経験することである。『ロリータ』によって小説を読む愉しさを知らされた読者は、何度でも何度でも小説の中に立ち戻るだろう。もし、それを中毒と呼ぶなら、『ロリータ』には、他の凡百の小説にはない、猛烈な毒が含まれているといえるだろう。しかし、なんと甘美な毒であることか。「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ」。


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 2007/7/15 『漫画映画の志』 高畑 勲 岩波書店

高畑勲、宮崎駿ら日本の漫画映画の創生期を担った人たちが、自分たちの原点とまで言い切るのが、監督ポール・グリモー、脚本ジャック・プレヴェールのコンビが作り上げたフランス製長編漫画映画『やぶにらみの暴君』。そして、30年後、二人はそれを、『王と鳥』という作品に作り直して発表する。日本では公開当時、非常に高い評価を受けた前作を、何故作り直さなければならなかったのか。そして、それに要した30年という歳月は何を物語るのか、という謎を多くの文献、資料をもとに高畑勲が読み解く。

『やぶにらみの暴君』は、公開当時、クレジットタイトルに続いて、この映画は、監督ポール・グリモー、脚本ジャック・プレヴェールによって作成されたが、彼らの承認しない改変をこうむっている、つまり作者が認めていない版であることを示す文章がついたまま公開された。映画制作に対する意見の食い違いから会社の共同経営者でプロデューサーでもあるアンドレ・サリュと対立した二人が、レ・ジュモー社を去った後、サリュは残ったスタッフとイギリスに渡り映画を完成させる。あわてた二人は裁判を起こすが、映画は、クレジットの下に先の文章をつけ加えることで上映を認められる。そしてそれが、ヴェネティア映画祭で審査員特別大賞を取ってしまう。

グリモーは、長期に渉る裁判を戦い抜き、最後に勝訴する。その結果、それまでの権利の期限が切れた後に作品のネガプリントを取り戻す。そして、プレヴェールやその他のスタッフと作品が改編される前のオリジナルのアイデアを生かした形に戻そうと編集をしはじめるのだったが…。オリジナルヴァージョンに戻すために必要な原画動画、セル、背景画、編集でカットされたショット等の構成素材は行方不明になっていた。つまり、『やぶにらみの暴君』を、納得行く形に回復させることは到底不可能であることが明らかになる。

しかし、グリモーはあきらめなかった。回復させる試みが無理と分かると、かつてのスタッフを呼び集め、同じ作品を新しく作り直す。ただ、本人にとっては大事な作品も、周りにとっては過去の作品でしかない。資金集めに時間がかかり、最終的には一本の映画に30年もかかってしまうことになったのだ。

ところで、二つの作品は、いったいどれほどちがうのだろうか。実は、高畑をはじめ、多くの人が『王と鳥』を見てショックを受けている。芸術的には、『やぶにらみの暴君』の方がすぐれていると感じられたからだ。特に新しく加えられたカットの絵の拙さが目につくと高畑は感じた。何故作り直す必要があったのだろう、という疑問がそこに生じた。

しかし、2006年、スタジオ・ジブリは『王と鳥』を日本で公開する。その事実は、高畑の『王と鳥』に対する評価が変わったことを意味している。実は、裁判沙汰も影響してか、『やぶにらみの暴君』は、日本でこそ評価されたものの興行的には本国フランスではあまり評価されなかった。アメリカに至っては公開すらされていない。グリモーは、70年代に入って、『王と鳥』を発表することで、50年代の映画のテーマが、そのまま70年代にも、そして今日に至っても古びない普遍的なものであったことを証明したと、高畑は考えたのだ。

しかも、詳細に見比べてみれば、『やぶにらみの暴君』では、未消化で観客に伝わりづらかった作品の持つメッセージが、『王と鳥』では、語り口を変えることで、より直截に観客に届くことも分かってくる。特に今、日本をはじめとして、現代の漫画映画作者は、9.11以後の世界に与えるメッセージの力を持ち得ているかという点を考えたとき、グリモー、プレヴェールの『王と鳥』の今日性に驚かざるを得ない。『漫画映画の志』という題名は、ひとりの映画作者として、高畑がグリモーから受け継ごうとしているものを意味している。

世界を席巻しつつあるような日本の漫画映画であるが、高畑は一つの問題点を提起する。日本の漫画映画は、たしかに「泣け」たり、「勇気をもらえた」気になったりできるが、それは「自分の感受力を対象に向かって全開した結果ではなく、巧みな作者によって仕組まれたレールの上に乗って受け身で得たもの」ではないのか、それでは「癒し」には役立つが、「現実の世の中で、状況を判断しながら強く賢く生きていく上でのイメージトレーニングにはほとんど役立たない」と。

映画は娯楽なのだから、「堅いことは言いっこなし」という考え方もあるだろう。ただ、評者はこういう高畑の生真面目さを好感を持って受けとめた。そこで、あらためて『王と鳥』を見てみたいと思う。さらには、残ったフィルムをグリモーが回収し、封印されてしまった『やぶにらみの暴君』も、公開されることを希望する。この本を読んで、ますます見たくなった。

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 2007/7/8 『アレクサンドリア四重奏V』 ロレンス・ダレル 河出書房新社

四重奏も、いよいよ第V部。文体や視点の移動は第U部からそのまま引き継いでいる。ただし、時代は逆上り、狂言回し役を務める英国人外交官マウントオリーブがアラビア語に磨きをかける目的で、アレクサンドリア近郊にあるホスナニ家の領地を訪れるところから始まる。

ホスナニ家には、病人の当主と年の離れた妻レイラ、それにオックスフォード在学中のネッシムとその弟ナルーズの兄弟が暮らしていた。若い頃その美貌からアレクサンドリア社交界で「黒い燕」と呼ばれたレイラは、カイロで勉学を積み、ヨーロッパで医者になる希望を持っていたが、当時のエジプト人社会の慣行に従い、親の決めた結婚を受け容れざるを得なかった。

かつて憧れたヨーロッパからの来訪者は、レイラの心に火をつけ、二人は道ならぬ恋に墜ちる。短い滞在期間が過ぎ、別れた後も二人は長い手紙を交換する仲となる。若い外交官は、レイラからの手紙でヨーロッパの芸術や知性に目を開かれ、教育される。エジプトを離れられないレイラは、外交官の目を通してヨーロッパ事情に精通するという理想的な関係が結ばれたのだ。

第V部は、外交官マウントオリーブを核として描かれるため、その舞台もアレクサンドリアを遠く離れ、ロシア、ベルリン、ロンドンと転々とする。物語も必然的に政治的な色彩が濃くなる。第T部では、作家として登場したパースウォーデンさえ、ここでは有能な外交官として、国際的な陰謀を調査する役目を負わされている。あれほど錯綜した恋愛関係の縺れを解きほぐそうとしていた『アレクサンドリア四重奏』が、ここにきてがらっとその印象を変えてみせる。男女間の恋愛感情は物語の背景に追いやられ、表舞台には国際的な緊張関係を孕んだ政治的陰謀が登場してくるのだ。

パースウォーデンがマウントオリーブに送った手紙で、自殺の真相がついに明らかになるが、驚いたことに第U部で、ジュスティーヌが本当に愛していたのはパースウォーデンで、ダーリー(「ぼく」の名前がここではじめて明かされる)は、ネッシムの嫉妬の目から彼を守るための囮だったというバルタザールの「行間解説」もまた、一つの解釈でしかなかったことを読者は知らされる。それどころか、ネッシムとジュスティーヌの夫婦は、ここでは二人の間に何の秘密もない共犯者として絶妙のコンビネーションを見せて動き回るのである。

男女間の恋愛も、男同士の友情も、親子兄弟間の愛情もすべてを呑み込んでしまうのが、政治的信条というものなのだろうか。かつての統治国イギリスと被統治国エジプトの持つ微妙な力関係、イスラム化したエジプトの中にあって、キリスト教世界との繋がりを持つコプト人社会の複雑な位置、それにパレスチナ問題までが絡んできて事態は複雑な様相を呈する。

時間は人を変える。ナイトの称号を授かり、エジプト大使して颯爽と着任したマウントオリーブだったが、新興実業家ネッシムの精力的な動きが陰謀の疑惑を生み、ともに友人であるパースウォーデンとマウントオリーブは、窮地に陥る。最後までレイラの力を頼みにするマウントオリーブだが、かつての恋人は天然痘による面貌の崩壊以上に人格面において変貌を遂げていた。トルコ帽と黒眼鏡で変装し、アレクサンドリアのアラブ人街を蹣跚と歩く失意のマウントオリーブの姿は哀切極まりない。

自殺するパースウォーデンはもとより、最愛の弟を死なせてしまうネッシム、あれほど愛したエジプトとともにレイラの思い出も喪ってしまうマウントオリーブと、人間の愛情など一顧だにしようとしない非情な国際政治に翻弄される男たちの姿を描いた第V部は挫折と徒労の色が濃く、読後を遅う喪失感は救いようがない。第W部においてダレルは、どんな結末を用意しているのだろうか。

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