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 2007/5/19 『アレクサンドリア四重奏T』 ロレンス・ダレル 河出書房新社

時々訪ねる古本屋の奧の方の棚に、すっかり黄ばんでしまった表紙を見せながら、それでもかつては燦然と輝いていたであろう書名を誇らしげに見せて、その四巻本は紙で束ねられ、いつ行っても同じ場所に並んでいた。ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』。ずっと前から気になっていながら、手を出しかねていた。

それが、折からの新訳ブームに乗っかってか、それとも別の理由によるのか、同じ訳者による新訳改訂版として出版される運びになったことをまずもって言祝ぎたい。言葉は生物である。いくら名訳と言っても時間がたてば古びてくる。古色を喜ぶ向きもあろうが、ミケランジェロの『最後の審判』の例もある。原作の彩りを伝えるためには、時の浸食による汚れやくすみは取り除く必要があるだろう。

『アレクサンドリア四重奏』は、四巻の小説で構成された単一の作品として読まれることを意図している。その第一巻「ジュスティーヌ」は、「ぼく」という語り手の一人称視点で描かれる。教師をしながら小説を書こうとしている「ぼく」が、アレクサンドリアの街で出会った人々の間で揺れ動く様子を、時間の順序を無視した断章スタイルで描き出したものである。

その文体はペダントリーに満ち、形容過剰とも思えるほどに比喩や警句を多用した華麗なもの。畳みかけるように繰り出される言葉の氾濫は、現実のアレクサンドリアの街を描写しているはずなのに、いつの間にか熱病に浮かされた病人が見る白昼夢のように、類い稀な美しさと醜悪さが入れ替わり立ち替わり現れる非現実の街の様相を呈してくる。それもそのはず、ここで描かれる街は語り手の回想の中のアレクサンドリアなのだ。

「ぼく」は一緒にくらしていたメリッサが産んだ女の子を連れて、地中海に面した岬の町に逃れてきている。何から逃れているのか。愛を求めて傷つけ合うことしか知らなかった二組の男女の記憶から。彼ら、彼女らを操ってそうしむけたアレクサンドリアという都会から、逃げてきたのだ。

「ぼく」はふとしたきっかけで知り合った踊り子のメリッサと暮らしながら、コプト人の銀行家ネッシムの妻でユダヤ系の美女ジュスティーヌに引かれていく。嫉妬に苦しめられ半病人のようになりながらも、妻への愛ゆえに二人の関係を見て見ぬふりをするネッシムだが、妻の不倫を告げ口に来たメリッサを愛することで、立ち直りかける。その危うい均衡が破られるのは、鴨猟で出た死者にネッシムの狂気を感じたジュスティーヌの失踪であった。

同性愛、異性愛の区別のない錯綜した人間関係。毎晩のように繰り広げられる外交官や王族も集まる華麗な夜会。不審な死者を出す払暁の鴨猟。ユダヤ教のカバラを研究する結社。自殺した小説家から贈られた大金。スパイらしき床屋に集まる女好きの道楽者たち。どんな事件が起きようともそれを支える背景や道具立てには事欠かないアレクサンドリアという街。

二つの大戦に挟まれた時代の倦怠に満ちた空気の中、伝説の「世界の結び目」アレクサンドリアの街を舞台に、運命の女(ファム・ファタル)としてのジュスティーヌに振り回される男や女たちが巻き起こす恋愛沙汰を描いた小説である。断片化され、時間を前後して挿入される回想や地の文の中に他のテクストを頻繁に引用する手法は、当時としては斬新でもあったろうが、今となってはモダニズム小説で見馴れたものである。

その分、フェミニズムもポスト・コロニアリズムも知ったことか、オリエンタリズム色濃厚なアレクサンドリアの描写や大時代的な恋愛至上主義が何の遠慮もなく思う存分披瀝されている点が印象に残る。つまり、ヌーベル・キュイジーヌが主流になってからは、すっかり影をひそめたかつての仏蘭西料理のようなもので、今となっては味わおうと思ってもどこでも味わうことのできない豪華料理が異国情緒溢れるシャンデリアのともった大晩餐会場で供されているようなものである。時代がかった味付けをどうとるかは貴方次第。評者は大満足。首を長くして第二巻を待っているところだ。

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 2007/5/5 『モナリザの秘密』 ダニエル・アラス 白水社

美術展に行くと売店などで図録というものを売っている。その美術展で展示されている絵についての解説と複製写真で構成された画集のようなものだ。せっかく実物を見ているのに何故そんなものが必要かと言えば、一枚の絵の前に立ち止まっている時間が限られているからだろう。レンブラントやフェルメールといっためったに見られない企画展に至っては、館内アナウンスで立ち止まることを禁止されることもしばしばだ。そこで図録を買って帰り、家で心ゆくまで好きな絵と対話するということになる。

素人が趣味で絵を見るからそういうことになるので、著者のような美術史家ともなれば、いつでも好きなだけ絵に接していられるのかと思ったらそうでもなさそうで、オリンパス片手に自分でスライド写真を撮影し、書斎でゆっくり見るという方法を採用していると知って親しみを覚えた。そうして無心に撮った写真の中に、実物の絵を見ていたときには気づかなかった謎を解く鍵が隠されていることが多いと著者は言う。

著者はイタリア・ルネサンスを専門とするフランスの美術史家で、新しい美術史学の旗手として期待されていたが惜しくも2003年に亡くなった。この本は、彼が生前放送したラジオ番組を編集したもので、です・ます調の口語体で書かれており、読みやすい。しかし、語られている内容はというと遠近法が何故ほかでもないフィレンツェで発明されたのかという理由や、遠近法と受胎告知画の間にある言われてみればなるほどと唸らせられる関係等々、かなり専門的な見識が披露されている。さすがは芸術の国フランスと感心した。

絵に理屈はいらない。美しければいいのだという方もおられるだろうが、著者はそうは考えない。そうでなくても、よく見れば見るほど説明がつかないことが数多く見えてくる絵というものがある。アラスはそのとっかかりに、ラファエッロをもってくる。ドレスデンにある「サン・シストの聖母」である。この絵を知らなくても天使グッズの絵葉書やワインのラベルなどでふくれっ面をした二人の天使像を見た人は多いにちがいない。評者も何度も見てよく知っている。

愛らしいとはとても言えない上目遣いの二人の天使の表情が、何故?という気にさせるので覚えているのだ。アラスの研究によれば、この二人の小さな天使は「ユダヤ教において神殿のヴェールを守っていた智天使(ケルビム)たちのキリスト教における形」であるという。この絵は「まさに生きた神が顕現する瞬間をきわめて正確に提示している」絵で、彼らは自分たちが秘密の番人の位階からリストラされる瞬間に立ち会っているところなのだ。神が見える姿をとるということは、死ぬ運命にあることを意味している。二人のさえない表情にはそんな気持ちが込められていたのだ。

タイトルとなっているモナリザの秘密についてはあまりに多くの言説が巷間に流布しているので、アラスの解釈もとりわけ目新しさを感じないが、次の遠近法の発明に至ると、あのパノフスキーの有名な『<象徴形式>としての遠近法』を向こうに回し、それが象徴形式などではなく完全な知的操作であることを豊富な裏付けを用意して論証している。

パノフスキーによれば、遠近法とは「神がいなくなった世界、デカルト的な無限の物質の世界を象徴する形式である」。アラスはそれを哲学的には面白いが、美術史学の立場から歴史的には不適当だという。遠近法を普及させるにあたって力のあった『絵画論』を著したアルベルティにとって場所とは演劇の舞台のように閉じられた世界でしかなく、彼には無限の彼方で消える「消失点」という概念はなかったという。このように当時の世界観でその時代の絵画を見るというのが、アラスの方法論であり、同じやり方で、ベラスケスの『ラス・メニーナス』を批評したフーコーに対しても、やんわりとではあるが、その解釈が当時としては有り得なかった理由を述べている。

遠近法と「受胎告知」を結びつける理由を述べているところはこの文章の一つの山場である。ミステリではないので、許されるだろうからそのわけを明らかにすると、こうなる。「遠近法は人間が計測することのできる世界の像を構築するのに対して、『受胎告知』とは、無限が有限の中に、測定不可能なものが尺度の中に、やってくる瞬間」を表したものだからである。15世紀の人々は、遠近法の特性を利用してキリスト教の神秘である「受肉」を絵画に表現している。フラ・アンジェリコの二つの「受胎告知」やアンブロージョ・ロレンツェッティの「受胎告知」をもとに、絵画の思考を読み解いていくプロセスは知的快楽の極みと言える。このあたりは、ぜひ本編を読んでいただきたい。絵の好きな方、特にイタリア・ルネサンスに興味のある向きには必読の書。


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