HOME | INFO | LIBRARY | JOURNEY | NIKE | WEEKEND | UPDATE | BBS | BLOG | LINK
LIBRARY / REVIEW | COLUMN | ESSAY | WORDS | NOTES  UPDATING | DOMESTIC | OVERSEAS | CLASS | INDEX
Home > Library > Review > 52

 2007/4/21 『ドガ ダンス デッサン』 ポール・ヴァレリー 筑摩書房

学生時代、古書店を彷徨きながら、将来自分で金を稼ぐことができるようになったらいつかは買おうと思っていた書物にヴァレリー全集があった。しかし、勤め人となり、生活に追われるようになると、当然のようにそれらは後回しにされ、全集はおろか、ヴァレリーその人の文章に触れることもなくなってしまっていた。

久しぶりにヴァレリーの名を冠したこの本は、吉田健一の名訳誉れ高い『ドガに就て』の新訳である。今回の清水徹訳は、よりヴァレリーの原文に忠実な訳を目指したとあとがきにある通り、明晰かつ格調高い日本語になっている。抽象論を述べるときの硬質な文体とドガの逸話を語る場合のくだけた語り口が絶妙に綯い交ぜにされた文体は、親しい者だけが集まった晩餐の席上でヴァレリーその人の謦咳に触れているような気にさせてくれる。

ヴァレリーは、若い頃に知遇を得たドガについての本格的な「肖像」を書こうとしていたが、結果的には果たせず、いろいろな機会に、ドガの横顔やデッサン論、風景画論など長短様々な文章を雑誌に発表した。それら三十二編の文章を断章形式でまとめたのが『ドガ ダンス デッサン』である。本人が言うようにどこから読んでもいい、気儘なスタイルを装っているが、書かれていることの本質は、意外なまでに大上段に振りかぶった「大芸術論」に収斂されていく。

レオナルド論をはじめ、多くの芸術論を表したヴァレリーだが、本人が最も価値あるものとして考えていたのが≪大芸術≫であることは、論をまたない。「一人の人間の全能力がそこで用いられることを要請し、その結果である作品を理解するために、もう一人の人間の全能力が援用され、関心を向けねばならぬような芸術」というのがそれである。

人間的には、狷介で傍若無人、才気煥発ではあるが毒舌家という側面を持つドガ。若い頃から、彼のアトリエに出入りすることを許されたヴァレリーは、伝記作者としてそうした人間的魅力溢れるドガの横顔を書くこともできた。事実、いくつかの文章はドガのポルトレとしても上々の出来である。しかし、共通の知人として登場するマラルメと関連させながら追究を深めていく画家の相貌は、自己の納得できるデッサンをものにするため、晩年に至るまで歩を緩めない直向きな芸術家の肖像である。

「レオナルドがみずからの価値の証明として作品を創造し、その数をふやしてゆこうとしないで、反対に無限の探究と好奇心のなかへと淫している」ことをミケランジェロが激烈に非難したという興味ある逸話が語られる。二人の偉大な芸術家を引き合いに出して、ヴァレリーは自らの芸術論を語っている。ヴァレリーが高い価値を置いていた芸術とは、作品を結果ではなく、手段であると考える類のものである。

ドガはすでに完成され、他人の部屋の壁を飾っている自分のデッサンについても、何度も描き直しを望んだという。そして、求めに応じて画家に返された作品の多くは戻ってこなかったとも。こうしたドガのデッサンについての姿勢こそが、ヴァレリーが考えていた真正の芸術家の姿に重なって見えていたのではないか。あの有名な「テスト氏」の造型にしてからが、こうしたドガ像の影響があったという。

絵画に限らず、文芸の世界でも、刺激に慣れ、より新しい刺激を求め、苦労を厭い、安易に快楽を求める風潮をヴァレリーは嘆いているが、それは彼の時代に限らず、現代の問題でもある。「風景画その他についての考察」の中で、文学における「描写」、絵画における「風景」の濫用が芸術における知的部分の減少をもたらす、と嘆じて「ここで、ひとりならずのひとたちが、そんなこと構わないじゃないか!と叫ぶだろう。しかし、わたしとしては、芸術作品とは一人の完全なる人間の行為であることが重要なのだと思っている。」と、言い切る。

知の人、ヴァレリーが21世紀の今の世界の有り様を見たら、なんと言うだろうか。否が応でも時代というものを感じさせられる一冊である。

pagetop >

 2007/4/14 『私のハードボイルド』 小鷹信光 早川書房

「固茹で玉子の戦後史」の副題を持つ小鷹信光氏の新刊書である。「ハードボイルド」という言葉が、この国にどのように受容されるようになったか、を自分の半生とからめながら書ききった労作と言えるだろう。

ハメットの翻訳家としても知られる氏は資料収集マニアとしても知られ、ハメットやチャンドラーを輩出した伝説の雑誌「ブラックマスク」をはじめとする推理小説関連の資料や映画関係の資料、アメリカ語についての資料などを多く所有している。それらの資料の山の中から、これと思った記述を豊富に引用しながら、ハードボイルドと呼ばれる小説の変遷を物語るのだから、面白くない訳がない。

片岡義男や田中小実昌との交遊や大先輩である双葉十三郎のインタビューもまじえ、日本の推理小説の中に新しく入ってきたハードボイルドの波が、江戸川乱歩などからは疎んじられながら(チャンドラーの文章力は認めていたが)、次第にひとつの流派を形成するようになりながらも、ハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドをついに越えられず、やがて衰退していった歴史が、その渦中にいた者だけが持つことのできる熱い視線で語り尽くされている。

小鷹氏自身が命名者であったネオ・ハードボイルドと呼ばれる流派がネオであるが故に(マーガリンと同じで)本物とは及びもつかない出来と評されたり、およそこの国ではひとつの流派が登場すると、変化を求める者と頑なにそれを信奉する人々との間に軋轢が生じる。その間の事情も客観的に論評している様子に好感が持てる。

村上春樹が、かなり以前から『長いお別れ』を読み返しており、単なるハードボイルド小説としてではなく、都市小説としてとらえているという指摘は新鮮だった。そういう視点からの今回のや翻訳であったのかと合点がいった次第だ。清水訳の欠落箇所についての指摘は随分以前からなされていたこともよく分かった。

マーロウの名科白である「さよならを言うのはわずかの間死ぬことだ(清水訳)」を、村上春樹は「さよならを言うのは少しだけ死ぬことだ」と訳しており、こちらの方が正解だと小鷹氏は言う。本書が書かれた時点では村上訳はまだ世に出ていないが、氏がそれにかなり期待していたことがよく分かる。

大沢在昌や矢作俊彦の名前も出てくるが日本のハードボイルドについてはあっさりと触れている感じがする。同期であった大藪春彦の学生としてのデビューについては、かなり刺激を受けたようだが。

ハードボイルドがアメリカのスラングなどではなく、標準英語としてちゃんと辞書に出ていたことをはじめて知った。また、実に様々な意味を持っていることも。ヘミングウェイ自身がハードボイルドという言葉を文中に使用していることも、様々な訳者の競作で採り上げられている。一翻訳者の自伝でもあり、ハードボイルド小説論としても読める。ハードボイルドファン必携の一冊。


pagetop >
Copyright©2007.Abraxas.All rights reserved. since 2000.9.10