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 2007/2/25 『生きる希望』 イバン・イリイチ 藤原書店

イバン・イリイチが登場するまで、「学校」や「病院」は、世界の中でごく自然に自明のものとして存在することを許されていた。しかし、『脱学校の社会』が出版されて以来、学校という制度を見るとき、イリイチの視点を無視してかかることはできなくなってしまった。それほどまでにイリイチの視線は透徹して学校制度の持つ本質的な欺瞞、倒錯を暴き立てていたのだ。

イリイチがそれに気づくことができたのは、プエルトリコ大学にカトリックの司祭として赴任したことによる。そこで彼は、学校が教会とあまりにもよく似たシステムであることや、不平等をなくすためという学校化のシステムが、逆によりいっそう不平等を蔓延させていることに気づく。その認識が彼に『脱学校の社会』を書かせる。それ以来、学校や病院等の持つ一見善意に見えるケアは、本来人間が持っている能力を奪い、貧しくするものであるという理論の提唱者として、イリイチはあまねく知られることになる。

社会的な意味における性を表す用語として知られる「ジェンダー」の発見もまた、イリイチを待たねばならなかった。ただ、遺憾なことに「ジェンダー・フリー」などという、イリイチが考えたのとは正反対の使われ方によってだが。両性の平等の権利を主張するリベラルな人々にとって、イリイチの言う男性と女性とが異なりながらも対立しない相補性原理を持つことで成り立つ社会が時代錯誤的なものに受けとられたからだ。

そんなこともあってか、2002年にイリイチが亡くなったとき、メディアの扱いは過去の人というものであったように記憶する。しかし、現代を覆う不安や無気力な空気は、世界がイリイチが警鐘を鳴らした黙示録的な時代にますます近づきつつあることを実感させられる。この本はラジオ番組向けに録音された内容を文章化したものである。友人を相手に話すイリイチの言葉は親密さに満ちており、語の選び方や例の挙げ方が丁寧で、後期のイリイチがどのような思索を展開させていたかを窺うことのできる貴重な一冊になっている。

主題は、「最善の堕落は最大の悪である」という一語に尽きる。聖書の中に、イエスが隣人としたい人はと訊かれてその名を挙げる「善きサマリア人」の話がある。追い剥ぎに襲われ溝に倒れていたユダヤ人を同胞が見て過ぎる中、偶然来合わせたサマリア人が介抱し宿賃まで払ってやるという話だが、サマリア人は今ならパレスチナ人に比される外部の人であり、ユダヤ人を助ける行為は同胞を裏切るものである。

この話が教会でどのように語られるかを調べていくと、人として行わなければならない「規範」として語られてきたことが分かる。イリイチによれば、サマリア人が偶然出会ったユダヤ人を介抱したのは「当為」としてしたのである。それは敵対的な関係にある二人の間に起きた新しい世界の顕現であった。我と汝という関係の中で自発的に起きたものが、教会という制度にかかると、人として守るべき規範という形に世俗化されてしまう。

イリイチは、信仰の本来の姿が教会制度によって堕落させられたことを「最善の堕落は最大の悪である」という言葉で語る。そして、このキリスト教という制度がいかにして現代社会を生み出したのかを豊富な例を挙げて論証していく。たとえば、本来は善の不在を意味する「罪」が、規範化された社会で法のルールの下に「犯罪」と化していくことで「裁き」が行われるようになる。デモクラシーが尊重されない社会への介入は、こうした論理で行われるようになるというわけだ。

後期のイリイチは、恩寵としての人生を実り多く生きてきたにちがいない。穏やかな語り口に友と語り合う喜びが溢れ、知的な中にも信仰者としての揺るぎない自覚が見て取れる。現代を読み解く手がかりとして読むことも可能だが、老司祭の信仰告白として座右に置き日々繙くことで、この黙示録的な現代を生きるための希望を見出すよすがとするにふさわしい書物である。


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 2007/2/10 『マネの絵画』 ミシェル・フーコー 筑摩書房

代表作『言葉と物』を、ベラスケスの『ラス・メニーナス』の精緻な分析から始めているように、フーコーは、しばしば絵画について語っている。その中でもマネは特別で、一度は書かれながら、どういう理由か後に廃棄された『黒と色彩』という幻のテクストが話題になっていたほどである。ところが、書かれたものではないが、フーコー自身が、マネの絵画について語った講演の記録が残されていた。『マネの絵画』は、その記録を起こした文章に、シンポジウムに参加した八人の文章を添えて一冊にまとめたものである。

画家エドゥアール・マネの名は、サロンに出品されるやいなや、どちらも猛烈なスキャンダルの嵐を巻き起こした『草上の昼食』、『オランピア』という二枚の絵によって有名である。どちらも裸婦を描いてはいるが、女性のヌードそのものは、西洋絵画ではありふれている。しかも、その主題たるや、ジョルジョーネやティツィアーノの作品から取られたものである。それがなぜスキャンダル視されるような事態に至ったのだろうか。

フーコーによれば、15世紀以来の西洋絵画は、キャンバスや紙のように二次元平面に位置しているにもかかわらず、画面を構成する斜線や螺旋を特権化させることで長方形の平面に描かれている事実を覆い隠そうとするものだった。また、絵の内部の照明や左右から来る外部の照明を表象することで、タブローの置かれた場所や太陽光線によって照明というものは変化するという事実を否定しようとし、さらには、クワトロチェント以来、絵画はそこからのみ絵を見ることができる鑑賞位置を定めることにより、タブローは空間の一断片であり、鑑賞者は移動したり、その周りを回ったりすることもできるということを覆い隠してきたのである。

フーコーは言う。「マネは、西洋美術において、少なくともルネサンス以来あるいはクワトロチェント以来、タブロー自体の内部、それが表象するものの内部で、自分が描いているまさにその空間的な性質を用い、またいわば機能させることをあえて行った最初の画家だった」と。

講演の中でフーコーは、十数枚に及ぶマネの絵をスライドで投影しながら、それぞれの絵が、どのようにしてそれまでの絵画的表象の技法と様式を変えていったのかを解説していく。巻頭にカラー写真が置かれているので、読者はそれを参照しながらフーコーの解説を読むことができる。

『チュイルリー公園の音楽会』や『オペラ座の舞踏会』を始めとする数枚の絵では、垂直線や水平線を強調するとともに、画面は極端に狭い奥行きをもたされている。水平、垂直線で囲まれた長方形の厚みを持たない平面というのは、キャンバスそのものを暗示している。

また『給仕する女』、『鉄道』という二枚の絵を例に、画面の中の人物の視線の指すところが描かれていないことに注目し、画家がキャンバスには表と裏があるということに鑑賞者をして気づかせ、裏に回り込みたいという欲求を持たせていると論じる。

さらには、有名な『笛を吹く少年』、『草上の昼食』、『オランピア』を照明の視点から分析している。『オランピア』を例に取れば、照明は鑑賞者の立つ位置からあてられている。そこにはカラバッジョにはじまる明暗法は跡形もなく消え去り、平板で陰というものがない。もともと西洋の裸体画は王侯貴族や富裕層が女性の裸体を秘かに愉しむという目的で描かれている。鑑賞者はタブローという閉じられた世界を安全な位置から鑑賞していたのだ。ところが、マネの絵の前に立つとき、鑑賞者は裸体に照明をあてる立場に引き出される。照明とはつまるところ視線であり、彼女は鑑賞者のために裸になっていることが明らかにされるのである。

最後に『フォリー・ベルジェールのバー』が登場する。ここでフーコーが分析しようとしているのは鑑賞者の位置の問題である。画面中央に描かれているバーメイドの背後には、それまでの壁に替わって大きな鏡が置かれている。多数の客やシャンデリアは実は鏡に映った像でしかなく、ここでも画面の平面性は確保されている。問題になるのは、バーメイドの後ろ姿が捩れた位置にあることである。それまでの絵画技法からすれば、画家の位置はバーメイドの正面である。ところが、鏡に映った後ろ姿はその位置からは見ることができない。つまり、鑑賞者は絵を見るための定められた位置を与えられていないのだ。

いつもながらフーコーの分析は明晰である。西洋世界において、誰もが見ていながら見えてないなかったものを、マネの絵画を素材にしながら鮮やかに浮かび上がらせる。『言葉と物』にも通じるフーコー一流の系譜学の手業。独特の流麗な文体でなく平易な語り口調であるため初心者にも理解しやすくなっている。八人の発言者と二人の解説者の文章も併せて読むことで、バタイユ他のマネについての言説も知ることができるよう配慮されている。


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 2007/2/4 『最後のウィネベーゴ』 コニー・ウィリス 河出書房新社

最近デジタル一眼を手に入れた。さっそくニケをモデルに撮影してみて驚いた。いや、正確に言うとパソコンのモニタに現れたその画像の大きさに驚いたのだ。背景でしかない本棚に並んだ本の名前まで正確に読みとれる。これで望遠レンズでも装着して、あたりかまわず撮影したりしたら、ひょっとして何かの事件の証拠写真になるような写真が撮れているかもしれない。

ヒッチコックの『裏窓』に限らず、カメラが動かぬ証拠をとらえるという設定はミステリには欠かせない。しかも、そのカメラがブリーフケースと見紛う形状をしていて、水平方向に置けば自動起動し、トリガーがついていて人間の顔、全身ショット、乗りものにプリセットされているとしたら。たしかに今のカメラはよくできていて、それくらいはできそうな気がするが、これは近未来の話。

作者のコニー・ウィリスは、『犬は勘定に入れません』で大ブレイクした現代SF界きっての人気作家。『航路』も、『ドゥームズデイ・ブック』も分厚い本で、つい長編作家と思いたくなるが、もともとは短編も得意な作家である。その力量は、この中短篇を集めた一冊でよく分かる。どれもそれぞれに面白いのだが、巻末に置かれた表題作「最後のウィネベーゴ」を読むと、それまでの作品の印象が薄れてしまう。それほど、この一作の完成度は高い。

SFとはいっても、いつでも宇宙船が出たり、タイムマシンが登場するわけではない。むしろ、この作品などミステリと言っても通用する仕上がりになっている。ただ、舞台は個人情報が監視されている社会で、ウィルスによって動物種が全滅しかけている。都市に水を運ぶタンクローリーが、数珠つながりで道路を走り、キャンピング・カーなどは規制する都市も多い近未来のアメリカ。

主人公はこれも自動起動カメラの普及によって絶滅危惧種の扱いを受けつつあるフォトジャーナリスト。全米最後の生き残りRV車であるウィネベーゴの取材に行く途中、ジャッカルが轢き殺されるのを目撃する。動物が稀少な社会で動物殺しは重罪。当局に電話で通報するが、かえって当事者と疑われる始末。個人情報はすべて「協会」の知るところとなっており、彼が、最後の犬の所有者であったことも知られている。そして、その愛犬の死が車による轢死であったことも。

ペットと暮らしている者なら誰でも、不意に訪れる愛する者との別れを、恐れつつ思い描かない者はいない。まして、それが現実と化し、誰かの過失によって引き起こされたりしたのなら、相手を赦すことは難しいと思う。たとえ、それが家族であったとしても。

ジャッカルが轢かれるのを目撃した主人公は、愛犬アバヴァンが事故にあった日のことを思い出す。それは、今の出来事を物語る叙述に続いてフラッシュバックのように唐突に挿入される。一見無雑作なようでいて、頻出するSFらしい見知らぬ造語と同じくなんの説明も抜きで語られることによって、巧妙な伏線と化し、最後のクライマックスの効果を盛り上げている。

情報化社会の行き着く果ての監視社会を背景に、滅びゆくものへの哀惜を主調音に、愛する者を突然奪われた者の心の動揺、喪失感、罪悪感、奪った相手に対する非難、そして葛藤の果ての赦しを、ジャッカルを轢いた犯人探しの謎解きと絡めてミステリタッチで描いた心に残る一作。読んだ後、思いっきりニケを抱きしめてしまった。

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