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 2006/10/22 『テヘランでロリータを読む』 アーザル・ナフィーシー 白水社

挑発的なタイトルだ。イスラム共和国イランの首都テヘランで、あの『ロリータ』を読むとは。外出時、女性は男性を誘惑しないように、髪をスカーフで隠し、足首も見せてはならない。異性との握手はもちろん、バスでも席を分けられ、人前で笑うことさえ禁じられた女性たちが、頽廃した西洋の悪しき見本のような『ロリータ』を読む。そこにどんな意味があるのだろう。

著者はイランの名門の出。父は元テヘラン市長。母は国会議員。13歳から欧米で教育を受け、1979年のイラン革命直後に帰国、テヘラン大学で教鞭を執る。その後、急進的なイスラム勢力の力が強まり、1981年、ヴェールの着用を拒否したことから著者は大学を追われることになる。

この本は、著者がかつての教え子たち数人と、週に一度、自宅でナボコフやオースティンを読む活動を中心に、アメリカ時代、帰国後のイラン・イラク戦争時代を経て、大学に戻った後、再びアメリカに移住するまでのテヘランでの生活を回想した記録である。同時に、すぐれた英文学批評でもあり、イスラム共和国下における女性の生活や心理を記録した貴重な報告でもある。

9.11以来、イスラムについての議論は喧しいくらいだが、当のイスラム国家で生活する当事者、それも欧米からの帰国子女で、知識人階級に属する女性の視点からの論議というのはあまり目にする機会がなかった。それだけでも貴重だが、彼女のもとに集まってくる女性たちが、様々な問題を抱えていることから、議論は文学論を超え、イスラム国家における女性論にまで及ぶ。といっても、スカーフを外し、焼き菓子やトルコ・コーヒーを囲んでの会話は堅苦しいものではない。むしろ、チャドルの下にこんな生き生きとした表情が隠されていたのかと思うほど「娘たち」の素顔は輝いている。

彼女たちは、少女陵辱や不倫を描いた『ロリータ』や『ボヴァリー夫人』が、なぜ自分たちの心をつかんで離さないのか、それは小説自体に問題があるのか、読者である自分たちに問題があるのかと考える。国家が退廃的と目の敵にする小説を読むことの意味を求めているのだが、それに対して指導者である著者は、ナボコフの「すべてのすぐれた小説はお伽噺である」という言葉を使ってその意義を語る。おとぎ話である小説に人生の意義を探ったり、作中人物の心理分析をしたりするのは愚かなことだ、というのがナボコフの意とするところなのだが、それを著者はあえて、こう読みかえてみせる。

「あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。」

ナボコフは、小説の中に人生の意味を探ったり、主人公に感情移入して読んだりすることを忌み嫌った作家である。しかし、著者やその「娘たち」にとって、文学を読むということは、自分と自分の置かれた現実の世界の中に、ほんとうの自分や世界を取り戻すために必要な作業だった。小説の中に描かれた人物に自己を投影し、とことん感情移入し、その中で生きなければ、どこに彼女たちの生きられる「生」があっただろうか。

髪を見せたり、化粧したりするという、女性が女性として当然要求できる当たり前のくらしが、国家の指導者と彼を信奉する集団によって奪われてしまった国では、娘たちは愛することと性を自然に結びつけることすらできないで育つ。それでいて、革命以来、結婚可能年齢は九才にまで引き下げられる。かくして、『ロリータ』は、他者を自己の意識の産物としか見ない男によって、徹底的に自己を奪われた女性が自己を取り戻す物語として読みかえられていく。

検閲の目を意識して、娘たちの名前はもちろん容貌や家族関係その他、かなり手を加えられているという。しかし、それだけではないはず。娘たちの仕種や口ぶりを書き分ける著者の筆は単なる回想録作者のものではない。著者の指導者として、いつも正しい道を教えてくれる「私の魔術師」ことR氏をはじめ、人物造型の力はなかなかのもので、回想録を読んでいるつもりが、いつの間にかすっかり作中世界に入りこんでしまっていた。これこそ、すぐれた小説家の持つ力でなくてなんだろう。

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 2006/10/1 『尖塔−ザ・スパイア−』 ウィリアム・ゴールディング 開文社出版

イギリス南部の町ソールズベリーには、壮麗な尖塔を戴いたイギリスゴシック建築を代表する大聖堂がある。この小説は、ソールズベリー大聖堂をモデルに、尖塔建設に取り憑かれたひとりの司祭の数奇な人生を描いたものである。

キリスト教会はイエスの磔刑像をもとにして建てられている。東にある聖母礼拝堂が頭部、西の身廊が両足、胴部にあたる聖歌隊席に南北の袖廊が交差する形になっている。教会の主席司祭であり参事会長を務めるジョスリンは、ある日、祈りの最中、その交差部の上に当時は存在していない尖塔が聳え立つのを幻視した。それ以来、神は、尖塔建設のために自分をお使わしになったのだ。自分は選ばれた者なのだという使命感を抱くようになる。

しかし、交差部を支える四本の柱は、現在の屋根を支える基礎しか持っていない。予め計画されていない尖塔を支えることはできないというのが職人たちを束ねる親方ロジャーの意見である。試みに掘られた竪抗からは果たして脆弱な基盤が見られたが、信仰に裏打ちされたジョスリンの信念は揺るがない。彼の背中には時折天使が訪れるのを知っているからだ。

教会の雑用係パンガルには美しい妻グッディがいた。足の悪いパンガルは職人たちに道化扱いされていたが、ある日の騒ぎを境にふっつりと消息を絶つ。それと踵を接するようにロジャーとグッディが接近しはじめる。自身もグッディを愛するジョスリンは、苦しみながらも尖塔建設のために二人の秘密を利用する。

塔に石が一つ積まれるたびに四本の柱はたわみ、きしみ音をたてる。それは、四人の男女の捩れた関係が立てるきしみ音でもあった。しかし、ジョスリンはどんどん高くなる塔の建築現場に上ることで、地上の厄介ごとから逃避し、塔の高みから地上の人々を見下ろす快感に耽ることを覚えるようになる。やがて、グッディは妊娠し、ロジャーの妻の知るところとなる。罪への恐怖の裡にグッディは産褥で死に、ロジャーは酒浸りになる。完成間近に親方を失った尖塔は、嵐の夜わずかに傾く。塔の崩壊を防ごうと躍起になるジョスリンを待ち受けるのは常軌を逸した参事会長の行動を糾すために教会を訪れた審問官達であった。

ゴシック建築の持つ天を希求する意匠に一人の司祭の野心と傲慢を重ねて見せ、風に揺れる尖塔に人間の不安や弱さを、交差部の地下に穿たれた穴に隠された罪を暗示させる暗喩や寓意に充ちた構成。頻出する典礼用語や聖書の事跡、詩句の引用、教会独特の建築用語。翼を持つ天使や悪魔の跳梁、繁茂する植物に仮託された官能的なイメージの氾濫。交差部の鋪床から伸びる螺旋階段、梁から渡された歩み板、そこから下層楼室、上層楼室に至る梯子、燕の巣のように空中に架けられた資材小屋、梁材や石材を上げ下ろしするための無数の縄と、ピラネージの『牢獄』を思い浮かばせるゴシック・ロマンス風の建築意匠。

一人ひとりの人物の性格、行動を、体格や身につける衣裳、その仕種、身振り、肌の色、髪の色、声音から、いかにも現実に存在する人間のように描き出す技術に支えられた個性的な人物造型。尖塔の窓から見える中世イギリスの町の人々の暮らしぶりや移り変わる季節ごとに変わる雲の色、風の音の描写と、緊密なプロットの上にそれらすべてが絡み合い、一挙にクライマックスに移る展開の妙味。

極上の小説のみが持つ深い味わいがあるとともに、突然姿を消したパンガルの行方は、ジョスリンの背中を訪れる天使とは、というゴシック・ロマンスやその後継者でもある探偵小説風の謎解き興味も満足させてくれるのは、さすがにイギリス小説。ひとりの男の野心の成就とその挫折を、宗教的熱狂の幻視の中に描いたウィリアム・ゴールディングの傑作。本邦初訳である。

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