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 2006/9/18 秋季特別展『青山二郎の眼』 MIHO MUSEUM

美術館に展示され一般に公開される美術品は、手で触れたり、それで茶を飲んだりすることができない。それに比べると骨董は、売り買いの対象となり、所有することができる。いつでも目に触れるところに置き、手で撫でたり、唇をあてたりすることによって器物に対する愛着はいっそう深まるにちがいない。

日頃、手許に置いて賞翫するのなら、自分が良いと思うものが一番良いのだろうが、「欲望とは他人の欲望である」という言葉もあるように、他者の眼がそれを良い物だと認めないと落ち着かないのが人間の性というものだ。そこに目利きという者が登場することになる。

数多ある陶器や磁器の中からこれぞと思える一品を選び抜いて箱書きを与える。それによって、ただの古茶碗が銘品となるわけだ。利休が認めた棗なら、国一つ分の値打ちがあった時代もある。それだけに誰もがなれるものでもない。

青山二郎が若い頃から飛び抜けた眼を持っていたことは、日本橋の一流店でその頃はまだ無名であった宗時代の鈞窯を買い求めた逸話で知られている。その後、中国古陶の収集家であった横河博士のコレクションの図譜を作る仕事を任され、数千点にも上る作品の中から先ず数百点を選び更にその中から60点を選び抜き「甌香譜」を完成させた。今回の特別展の会場にも鮮やかな色と意匠が印象的な赤絵の銘品が数点展示されている。

しかし、青山は完成された中国古陶の世界にはこれ以上付け足すものがないと感じていた。まだ誰も発見していない自分だけが見つけることのできる「美」というものを求めていたのだろう。朝鮮物にであったのはその頃だった。今でこそ、骨董の世界は李朝にはじまり李朝に終わると言われるが、柳宗悦が発見するまでは、李朝白磁の美というものは存在していなかった。

「分け柳」というあだ名まで奉られた青山である。柳によって開かれた李朝の世界を思う様渉猟し尽くすと、展覧会の作品を選ぶため京城に渡り、貨車一台分にも上る李朝工芸品を買い占め「もうこれで京城は半年、一年は草も生えない」と豪語したという。日本民藝館蔵の李朝白磁の大壺は今回の展示品の中でもその迫力は他を圧している。しかし、青山が「白袴」と銘をつけた白磁の丸壺の形と色の調和はそれに優るとも劣らない美しさで、青山が「俺の臍だ」と愛おしそうに抱いていたというのもよく分かる。

小林秀雄旧蔵「白磁面取瓶」、白州正子旧蔵「紅志野香炉」と、いわゆる「青山学院」に集まった人々の愛蔵品も集められている。李朝の面取の柔らかな白さや、薄紅色の地に白い秋草が浮き出す志野の風合いは言いようもないが、それ以外では「青花むぎわら手向付け」の色と線が心に残った。むぎわら手というのは、細い線が並んだだけの意匠だが、それだけに、生き生きとした線ののびとくっきりした青い色が何とも好ましい。これで茶が飲めたらな、と思った。

加藤唐九郎が「やろうと思えば何でもやれた天才なのにわざと何もしなかった男」と呼んだ青山二郎だが、友人から頼まれた本の装幀だけでもかなりの数に上っている。当然ながら自著も自装だ。どちらの場合も、美しいと思われるものを集めてきて、自分の思うように配置する、気随気儘なところにあくまでも余技という余裕が感じられ、風通しを良くしている。

「我国の伝統芸術を見ると、諸芸十八般の天才達は多くの場合、何れも素人の出であった。玄人は、素人の下で寧ろ職人の取扱ひを受けてゐたのである。」と後に語っているところから考えれば、青山はわざと素人でいようとしていたにちがいない。「俺は日本の文化を生きているのだ。」というのが、青山の口癖だったという。単なる骨董の目利きではないという自恃を感じる言葉だが、その懐の深さを知るには絶好の機会である。秋から冬にかけての信楽の里はただでさえ情趣が深い。ぜひ足を運ばれることをお薦めする。


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