HOME | INFO | LIBRARY | JOURNEY | NIKE | WEEKEND | UPDATE | BBS | BLOG | LINK
LIBRARY / REVIEW | COLUMN | ESSAY | WORDS | NOTES  UPDATING | DOMESTIC | OVERSEAS | CLASS | INDEX
Home > Library > Review > 41

 2006/5/28 『詩への小路』 古井由吉 書肆山田

流麗とは言えない。逡巡しつつ、行きつ戻りつするかのように、詩への小径をたどる足どりは、孤独な散歩者のようでいて、巡礼の路を行く老修業僧のようでもある。しかし、一歩一歩詩の核心へ躙り寄ろうという気迫は並々ならぬものがある。海彼の詩をこの邦の言葉に置き換える営みは労多くして報われることの少ない仕事である。異国の詩は、異国に咲く花のようなもの、気候もちがえば土壌も異なる外つ国に移しかえて何の花実が咲くものか、とは思うものの、自分の住まう地になくて、異邦の地にあるなら、何とか移しかえてみたいと思うのも人情。かくして翻訳家の悪戦苦闘が始まる。

著者は「内向の世代」と呼ばれる一群の作家を代表する小説家であるとともに、独文学者としてヘルマン・ブロッホの翻訳なども手がけている。不勉強で、小説をあまり読まぬので、作家としての著者を知らない。しかし、外国の詩を原書で繙きながら、一語一語、ギリシャ語、ラテン語の原義と照らし合わせ、詩人の言葉を自分の言葉に置き換える手並みは、生なかのものではない。

思索の人らしく、詩としての韻律に充分注意を払いながらも、その意をくみ取ることに、大半の力は振り向けられているようだ。選ばれている詩人は、リルケ、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーといった有名どころから、シラー、シュトルム、ヘルダーリンをはじめとするドイツの詩、アイスキュロスやソフォクレース、ダンテ、夏目漱石まで、さらには10世紀バクダッドの詩人フセイン・アル・ハラージーというあまり知られることのない詩人にまで、その眼は及んでいる。

生まれては死ぬ定めに置かれた人間という存在について、深く問いかける詩が多い。作家自身の年齢を反映してか、人生の晩年に差し掛かった詩人が、生を観想するといった主題のものが多く選ばれているようだ。一つの主題を手がかりに、一人の詩人の詩と別の詩人の詩とを並べて見せ、類似と相違を超え、普遍的な人間存在の深奧に迫ろうとする。そういうと、いかにも難解な感じを受けるかもしれないが、作家の筆はあくまでも謙虚に、これと思う解釈を求めて、あちらの小路こちらの辻と、気儘な足どりで辿るように見える。自分の心の儘に思うさま道草を食い、立ち止まりするのだから、その後を追うのは実に愉しい。

それに何より、その文章が何とも言えず見事である。硬質で揺るぎのない文体でありながら、時には独語のように、時にくだけて、ボードレールの散文詩にいう「内在律」を蔵したかのような微妙なリズム感を醸し出している。原詩からの翻訳は、もちろん作家自身の手になるが、いかにも手慣れた訳出ぶり。中でも、各章で何度も言及され、巻末には訳詩ならぬ訳文が置かれている『ドゥイノ・エレギー』が圧巻。

リルケが、十年かけて書いた十編の詩を、作家は四ヶ月に一編というペースで時間をかけて訳していく。雑誌連載中、年配の読者から自分の生きているうちに第十歌まで読むことができるのか、と問い合わせがあったという。リルケの歌の前後に付された作家自身の随想風文章が、詩への通い路となり、読者の手を引く仕掛け。有名な第一歌冒頭の訳文を次に掲げる。

誰が、私が叫んだとしてもその声を、天使たちの諸天から聞くだろうか。かりに天使の一人が私をその胸にいきなり抱き取ったとしたら、私はその超えた存在の力を受けて息絶えることになるだろう。美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄てて顧みぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。

平明でいながら、詩の持つ力動感を失わない見事な訳である。手塚富雄の名訳で有名な『ドゥイノの悲歌』が、新しい謳い手を得て、新たな息吹を伝えてくるではないか。頁を繰る度に、沈潜する思念、翔けりゆく追想、絢爛たる比喩を味わうことができる。菊地信義による装幀はフランス装を模した瀟洒なもの。紙質、活字ともに、詩を愉しむにたる造本である。手許に置かれ、賞翫玩味されんことを。

pagetop >

 2006/5/27 『憲法とは何か』 長谷部恭男 岩波新書

筆者は、立憲主義は人間の本性にそぐわないと考えている。誰もが共通の真理や正義を信じ、それにしたがって生きることができる、「正義の味方」が悪を斬る時代劇のような分かりやすい世界に比べ、自分の思うように考えたり行動したりできる「私的空間」と、異なる考え方や利害を異にする立場の者と生活を共にしなければならない「公共空間」を区別し、法によって利害を調整しつつ生きることを選ぶ立憲主義に基づく近代以降の世界は、たしかに中途半端で、すっきりしないかもしれない。

しかし、二度の大戦とそれに続く冷戦の時代を経て、世界の多くの国がリベラル・デモクラシーの世界を選択していることはまちがいのないところだ。憲法が明記されている日本のような国も、明記されていないイギリスのような国も、立憲主義に基づくリベラル・デモクラシーを維持し続けようとしている。特定団体間の利害調整に明け暮れる現代の議会制民主主義は、本来のデモクラシーから見れば頽落した体制であると考えるカール・シュミットのような人もいるが、ファシズムや共産主義のその後の運命を考えれば、現実問題として、今の世界に立憲主義に替わるものを提示することは難しかろう。

しかし、憲法は、ただ我々の生活や安全を保証する有り難いものではない。憲法さえ変えればすべてうまくいくというような風潮が今の日本にはあるようだが、立憲主義の世界で、守るべき「国」というのは、現実に我々が暮らす土地や自分たちの生命を意味していない。「国」とは、その憲法に基づく法秩序の体制である。その意味では、先の戦争は旧憲法下の「国体」を護持するために戦われ、人々の暮らしそのものが成り立たなくなった時点で、旧憲法に代わって新しい憲法を得たのである。

憲法改正問題で最も大きな問題と考えられるのが、九条をどうするか、という点である。日本国憲法の中心とは、言うまでもなく立憲主義と平和主義である。それを大事だと思うなら、憲法はいたずらにいじらない方がいい、というのが筆者の考えだ。法学者らしく、論理的に導き出された結論が、日本国憲法は「準則」ではなく、「原理」であるというものだ。長くなるが大事なところなので原文を引用する。

自衛のための実力の保持を全面的に禁止する主張は、特定の価値観・世界観で公共空間を占拠しようとするものであり、日本国憲法を支えているはずの立憲主義と両立しない。したがって、立憲主義と両立するように日本国憲法を理解しようとすれば、九条は、この問題について、特定の答えを一義的に与えようとする「準則(rule)」としてではなく、特定の方向に答えを方向づけようとする「原理(principle)」にとどまるものとして受け取る必要がある。こうした方向づけは、「軍」の存在から正当性を剥奪し、立憲主義が確立を目指す公共空間が、「軍」によって脅かされないようにするという憲法制定権者の意図を示している。

憲法が主権者の暴走に歯止めをかける役割を果たしているという点から考える時、もし、九条を字義通りにとらえ、自衛権も認めないとするなら、国家に帰属することによって自己の生命や財産を保全しようと考える多くの国民にとって、その解釈はデモクラシーの原則を踏みにじった決定を押しつけるものととらえられるだろう。その一方で、「軍」を明文化し、その存在を明確化しようとする提案は、公共空間の保全を目指す憲法の機能を揺るがしかねないものとなろう。

目下のところ、教育基本法「改正」が国会論議の中心であるが、それが成った暁には改憲論議が高まるに相違ない。思ったよりも過激ではなく見える政府自民党案だが、改正手続きの段階で国会議員の「三分の二の賛成」が必要というところを単純過半数に改訂しようという動きがある。国民投票のあり方も含め、現実に論議されるべき問題は多い。

改憲派にも護憲派にも、自分たちの考え方こそが正しいのだから、という「分かりやすい世界」観の上に立った物言いが目立つ。価値観を共有できない者たちが共に暮らす社会なのだからこそ、難しい問題を易しく解説してくれる、このような本が多くの目にふれることを望む。あまり手にすることのない新書版だが、このような重要な問題であるからこそ、誰にでも気軽に手にとることのできる新書という形態が望ましいのかもしれない。

pagetop >

 2006/5/7 『芸術人類学』 中沢新一 みすず書房

「人類がまだ、自分の心の奥に野生の野を抱えていて、今ではすでに失われてしまったように思われている、その野を開く鍵を再発見することがじつは今でも可能であることを、確実な仕方であきらかにしてみせたい」と、中沢は言う。何と気宇壮大な試みだろうか。

人間以外の動物は妄想を知らない。ひとり人間だけが事物と相関関係を持たないイメージを思い描くことができる。それは、言いかえれば狂気につながる心のはたらきである。人間の脳は、旧人類から新人類へと飛躍的な変化を遂げた。何らかの爆発的な変化が起こり、それまでは個別に仕切られ、目的別に使用されていた脳に、それらを横断するはたらきが持ち込まれたのである。それを「流動する心」と呼ぼう。

事物を離れて暴走する心の動きは、やがて芸術や宗教を生むことになる。しかし、現実と対応しない幻想界の発生は、人の心に妄想を発生させる。現実的に社会関係を営むためにはそれらを抑圧する必要が生じる。他者と自己とが同じものを見ていることを互いに分かり合うために人間は言葉を必要とした。言葉の持つ論理的な構造によって、われわれは個人的な妄想を秩序立て、「流動する心」を無意識下に押し込めることで日常生活を過たずに送れるようになった。

言語の論理に基づいた「非対称性論理」はヨーロッパを中心に科学や経済を発展させることになるが、その一方で、それ以外の価値観や倫理観を認めないという弊害も生んだ。そんな中、自分たちの生きている社会の外に出て、「外からの視点」で見ることで人間を理解しようとしたのが人類学であった。言語の持つ論理的な構造に基礎を置くレヴィ=ストロースの構造人類学は画期的なシステムであったが、人間には言語の構造に従わない無意識の世界がある。この言語の論理を飛び越え、時間の壁も超え、多次元にはたらく「もう一つの」知性を「対称性論理」もしくは「対称性思考」と中沢は呼ぶ。

中沢によれば、人間とは、外の環境世界に対応できる言語モジュールに従った論理で動く層と、人類の「野生」の思考が「対称性論理」で働く層という、二つのロジックを併用する「バイロジック」な生き物であるらしい。言うならば「芸術人類学」とは、人間を「外からの視線」で見ようとしながら、言語学的方法論に拠っていたために行き詰まってしまった構造人類学を、「流動する心」に基礎を置いた視点で超克しようという試みである。

若い頃チベット仏教の修行をした中沢ならではの仏教と構造主義の意外に近い関係の発見。また西田幾多郎や田邊元に見出した西洋哲学とは異なる「ヤポニカ種の哲学」。あるいは、考古学的遺跡の渉猟を通して東京の古層が見えてくる『アースダイバー』。最近の「カイエ・ソバージュ」シリーズで試みられている神話論理的思考等、著者が今まで歩いてきた道が、「対称性の論理」をもとにした「芸術人類学」の創成に有機的に結びついている。

全体は四部構成。大学で行われた講演をもとに「芸術人類学」について分かりやすく解説してみせる第一部。数式を使ったレヴィ=ストロースの『神話論理』の解説と、その論理を応用しながらヨーロッパの広場と教会の位置から公共性について分析を試みる第二部。民俗学や考古学的知見を駆使して、山伏の発生や、二種の道祖神の分布についての考察を進める第三部。壺に描かれた蛙と神話の関連性を探る第四部など。

新造語である「芸術人類学」を冠する割りには、雑多な論考をまとめたという印象が強い。著者の今の気分を忖度すれば、それまで特に意識されずに経巡ってきた事どもが、一つの環を描いていることに気づき、あらためて自分の使命に目覚めた、というようなところではあるまいか。クロード・レヴィ=ストロースの「構造人類学」と、ジョルジュ・バタイユの「非知」の思想を手がかりにしつつ、それらがたどり着けなかった地平を望見する序章とでも位置づければいいだろうか。

pagetop >

 2006/5/4 『僕はマゼランと旅した』 スチュアート・ダイベック 白水社

シカゴの下町を舞台にした連作短編小説。一つ一つをばらばらに読めば、タッチも登場人物も異なる独立した短編小説として読める。事実、すぐに読み終えてしまうのが惜しくて、上物のウィスキーを飲る時のように、毎夜毎夜ちびりちびりと愉しんで読んだ。

一つの短篇が終わるたびに時間も場所も異なる世界が立ち現れる。しかし、世界中の小説が各国を舞台にしていても地球からは離れられないように、ダイベックの小説はシカゴの下町から離れられない。この短編小説集は、ウンコ河と呼ばれる衛生運河に沿ったビールのゲップの臭いが漂うしょぼい町で生まれ育った少年のクロニクルでもある。

僕の名前はペリー、作家志望だ。弟はミック、役者を目指している。サー、というのは父さんのことだが、通りをのろのろ走りながら、吸盤で車の屋根に取り付けた手作りの荷物台の上に町で見つけたがらくたを拾い集めるのが趣味だった。ポーランド系移民の子孫ペリー・カツェクの目を通して少年の日々を回想した「歌」、「ドリームヴィルからライブで」それに「引き波」。乾いたユーモアとペーソスの入り混じった筆致が鼻腔をくすぐる感じがする。

「そういった人々を観察しながら僕は育った。浮浪者、バッグレディ、浜辺で漂流物を漁るように夏の裏道を漁る物乞い、衛生運河で釣りをしている老いた黒人の流れ者」。学生時代の静かな一日。窓から眺める町の風景に誘われるように、昔つきあっていた恋人を回想する「ロヨラアームズの昼食」。親から離れ、都会でひとり暮らしをする青年の慎ましくて、それでいてとびっきり豪奢な孤独感が伝わってくる。

僕の周りには一癖も二癖もある人物が集まってくる。母の弟で精神を病んだレフティ叔父さん。叔父さんの仲間で戦争で片腕を失ったジップは、バーをやっている。そこに毎日通ってくるルチャ(メキシコ流プロレス)のレスラーだったテオ、ジップからミカジメ料をせしめようと脅しに現れるジョー。これらの男たちが、それぞれの思いを胸に秘めながら静かな火花を散らす「胸」は、集中一番の傑作である。

詩人らしくリズミカルに畳みかけるように繰り出される陰影を帯びたフレーズ。古い映画やスタンダード・ジャズの名曲の引用。それに気の利いた警句や会話。よくできたアメリカ小説の持つ独特のフレーバーがある。アーウィン・ショーの都会を描いた小説が好きで、常盤心平訳するところの短篇を漁ったものだが、スチュワート・ダイベックには今が旬の翻訳家、柴田元幸がいた。

訳者あとがきで訳者は作者の持ち味についてこう記す。「叙情とユーモアの絶妙な共存、感傷に惰さない郷愁、社会の底辺に位置する人たちへの優しいが安易なロマン化を慎む共感、ポルカやロックンロールが行間から聞こえてくるような音楽性」。「読み進めていくうちに世界の細部はどんどん豊かにふくらんでいき、いろいろな人々、さまざまな時間、種々の記憶や夢が交差し、時には重なり合あい時には打ち消しあう。むろん一度読んだだけでもその見事さは十分伝わるとは思うが、できることならぜひ二度は読んでいただきたい」と。名うての訳者にこうまで言わせる傑作短編集である。一度手にとってみても損はしない。


pagetop >
Copyright©2006.Abraxas.All rights reserved. since 2000.9.10