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 2005/11/22 『オランダ絵画の黄金時代』 兵庫県立美術館

会場入り口付近に人集りがしていた。人の背中越しにそっとのぞいてみると、見馴れたもじゃもじゃ頭の下から黒い瞳がこちらの方に、何やら物言いたげな眼差しを向けている。七三に構えた頭部を画面の中心に据えた画家の若き日の自画像である。皮膚の色こそ若々しいものの、大事な顔のほとんどを陰の中に没し去り、曖昧な表情を浮かべた若者の内部に宿る傲岸なまでの自負心、気負いが見る者に伝わってくる。まぎれもなくレンブラントの顔である。

大きな作品ではない(22.6×18.7cm)。画家が技法の習得のために自己に課した一連の習作のひとつだろう。しかし、レンブラントほど多くの自画像を遺した画家がいるだろうか。油彩だけではない、銅版画や素描を含めると膨大な数になろう。しかもその多くは、衣裳といえば帽子を被るくらいで、ほとんどが普段着を着た頭部を中心にした物ばかりだ。

光と陰の秘密を自分のものにするため画家は幾度でも繰り返し自画像を描いたのだろう。鏡を凝視する画家の眼は過剰な感情を表すこともなく一見冷ややかである。放心したかのように微かに開いた口許には画面左側から差し込む光が憩らっている。後れ毛が白い襟にかかる辺りに強い光が当たっている。筆の痕が残る無雑作な筆致で右頬から耳、うなじにかけて明るい絵の具が塗られている。白から褐色、そして温かみを帯びたオーカー色へと頬骨の辺りをピークにして変化していく光の階調が見事である。

独自の技法を開拓しつつあった若き日のレンブラント。その工夫が光るのは、エッチングの技術を応用したものでもあろうか、まだ乾ききらない油絵の具の上を筆の尻で引っ掻いて巻き毛の一本一本を描き出しているところだ。暗褐色の絵の具の下に塗られた地色のオーカーが、繊細な曲線で浮かび上がり逆光に照らし出された巻き毛を現出させている。

静物画、細密な花の絵、農民を描いた風俗画、勃興する富裕な市民層の肖像画とテーマ別にオランダ絵画の持つ特質を明らかにする意欲的な展示である。特に興味深く思ったのは、絵の中に描かれた銀器や磁器タイルの実物を並べて展示する大胆な発想である。それ自体が美術品である精巧な銀細工の塩入れや、子どもの遊ぶ姿をモチーフにしたデルフト焼きのタイル壁などは、二次元作品であるべき絵画が三次元空間に飛び出してくるような不思議な感覚に見舞われた。

会場の奥深く、右手は出口という辺りにまたしても人集り。フェルメールである。パンフレットに書かれたコピーが「フェルメールからの恋文」だった。現存する作品が30点ほどという寡作な作家で、しかもそのほとんどがオランダにある。滅多なことでは海外に出ることがない。見たければオランダに行くしかないのだから、向こうから海を渡って来てくれるとなれば、何をおいても駆けつけたくなるのがファン心理というものだ。

今回はアムステルダム国立美術館が修復のため、特別に海外で見る機会を得た。日本では神戸だけの公開である。展示されているのは『恋文』。部屋でリュートを練習中の娘に家政婦が手紙を持ってきたところという、風俗画によくある図柄である。しかし、そこはフェルメール。たくし上げられたカーテン越し、半ば開いた扉から他人の部屋を覗き見るような視線の誘導といい、画面左上部から差し込んでくる光線を受けて白く輝く家政婦の被り物や白壁、裕福な娘の白貂の毛皮で縁取られた上衣、洗濯籠の中の洗い物、そして、藍地に白の市松模様の床板と、眼は部屋の隅々まで彷徨わないではいられない。

娘の手にする紙片が恋文である所以は、壁に掛かった絵が海を航海する船の絵であることから分かるのだという。船は恋人を、海は愛を暗示するらしい。そうなると何気なく立てかけられたモップや脱ぎ捨てられた上履きは何を意味しているのだろうかと気になって、また視線を遊ばせることになる。娘の耳に光る真珠の耳飾りに、青いターバンの娘を思い出し、他の絵に登場する人物がひょっこり今にも入ってきそうな錯覚が起きる。いつまでも立ち去りがたい余韻を残すフェルメール独特の不思議な世界である。

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 2005/10/29 『雨の日はソファで散歩』 種村季弘 筑摩書房

昨日の上天気とうって変わって今日は朝からの雨模様。こんな日に読もうと思ってとっておいた本がある。植草甚一に『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』というのがあったが、種村季弘の自選エッセイ集は『雨の日はソファで散歩』。徘徊老人を自称する著者も雨の日の散歩は億劫らしい。中身は聞き書きを含む四章に分類され、書名はその内の一章から採られている。晩年の作家自身が選び抜いたエッセイを知悉する編集者に任せて編んだものである。

東京近辺を歩き回って心に残る人や風景の記憶をたどる探訪記、グルメというのではないが、こだわりの食材について店や板前の評判記風のエッセイ、それに近世文学に係わる諸篇と、雑多なようでいて自分の関心事から発する興味の赴くところを、自由闊達に書き尽くした感がある。

種村季弘といえば、澁澤龍彦に連なる西洋悪魔学泰斗の一人として、我が家の貧しい書棚にも数冊の著作を数えることができる。『怪物の解剖学』『失楽園測量地図』『悪魔禮拝』『黒い錬金術』『吸血鬼幻想』、どれも禍々しい書名で、今となってはいささか苦笑を誘われるが、当時としては大真面目に読んだものだ。ドイツ語に堪能で東大の美学美術史学科出身というところからこれらの本が書かれたのだろうが、最晩年は真鶴に隠棲し、時に東京近辺に現れては気ままな徘徊を楽しんでいたことがエッセイ集から伝わってくる。

ここには江戸から明治、そして戦前戦後の東京で暮らしてきた人間の通時的な視点が貫かれている。自身が生まれる前のことは近世の文人の書いた物に語らせている。荷風散人を持ち出すまでもないが、この人にも低徊趣味があり、出てくる店や人物は、いずれも曲者揃い。特に大酒飲みの話が多いのは、いける口にはたまらない。一日三升を飲む寿司屋の話など、女性蔑視、酒飲み優遇という差別を売りにしている感がある。黙って飲んでいれば、ヒラメのエンガワやアワビのワタが出て来て勘定が嘘のように安いなんて、酒飲みには天国のような店である。

作家なんてみんな引きこもりと言ってのける口吻からのぞくのは、焼け跡の屋台でピーナツやライターを売って生活していた頃からのヴァイタルな気風である。老年を意識してからのエッセイが多いが、少しも老け込んだところがない。かといって世俗の垢は抜け、いい具合に風雨に晒された老舗の暖簾のような色合いが、どのエッセイにも漂っている。

馴染みの常連客である暗黒舞踏の土方巽を代表として、飲み仲間その他付き合いのあった絵描きや文士がたくさん登場する。サド裁判を通じて知り合った埴谷雄高や、三島由紀夫の意外な一面を垣間見ることができるのも楽しい。行きつけの店で一日中泡盛を手にねばる山之口獏やこっちに背中を向けて一人で飲んでいる梅崎春生、周囲に仲間を集めておかなければ安心できなかった牧野信一など、好きな作家や詩人が顔を出すと、愛読していた当時の記憶がまざまざと甦ってくる。

しかし、何より甦ってくるのは、煉瓦街を振り出しに東京の顔となって来つつあった当時の銀座であり、鴨池の埋め立て地跡に作られた新宿といった在りし日の東京の風景だろう。地方にいてその変貌ぶりについて無知な評者のような者であっても、吉田健一の次のような文章を読むと、物狂おしくなってくるほどだ。

例えば資生堂の一階の席でそこの細長い窓の前を通っている横丁を越して向うを見ると同じ化粧煉瓦を使った様式の資生堂の別な建物があってそれが大正期の日本でなければ建てられはしなかったものであることが解っていながらそれを背景に横丁の鈴懸けの並木が鋪道に影を落としている具合が必ずしも日本とは思えなくなることがあった。(『東京の昔』より)

晩年は、ソファで体を休めながら、書籍の中で在りし日の東京を歩いていたのだろう。意の儘にならぬ体のことを書かず、「雨の日は」と書いてみせるあたりに著者のダンディズムを感じる。


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 2005/10/15 『出生の秘密』 三浦雅士 講談社

世界は言葉によって構成されている。物心ついて以来、目の前にある現実、たとえば、あれが雲、これが花と言葉によって言い換えることで自分の周りに定着させてきた。長じるに及び言葉に言い表しようのない胸苦しさを覚え、どうやらそれが人を恋することなのだと分かったのは、文学があったからだ。自己憐憫の甘さも、自尊心の苦さも言葉として知ることで落ち着き所を得た。もし言葉がなければ、あれらの物狂おしい精神の惑乱は人をして狂気に追いやっていたかもしれない。

言葉のない世界はカオスである。意味を持たない現実だけが断片的に現れては消える。この世界に人間は正気でとどまることができない。しかし、人間は身体を通じ現実に触れることでイメージというものを生みだす。快不快がそこに生じる。感覚が人間に言葉を発することを命じ、言語が生まれる。同じ言語を共有することで共同体や社会、国家が成立する。

出生以来、人間が自我を得るまでの精神的葛藤をアルチュセールは戦争に喩えている。我々がさほどに苦痛や恐怖を覚えていないのは無意識の中に繰り込まれてしまっているからだ。作家の場合、通常は表面に出ることのない無意識が表面化される。明晰な意識の下で書かれたにせよ、無意識はその裏側にべったり貼りついているからだ。

特に自分の出生について何ほどかの葛藤を覚えている作家にしてみれば、作品にそれが反映しないはずがない。安定した自我を得るまでにさらされていた環境が、作家をしてどのような作品を生み出させたか。「作品は、その現れがどのようなものであれ、作者による作者自身の探究にほかならない」という考えを持つ三浦のことだ、出生の秘密を手がかりに日本近代文学を読み解いてみようと考えたのはよく分かる。

それが、出生の秘密を探るための資料を渉猟するうちに西欧近代思想史の総ざらえともいえるような大風呂敷を広げる羽目に陥ったというのが本当のところだろう。事実、ここに登場するのは、フロイト、ラカン、ドゥルーズとガタリ、パース、ヘーゲル、ハイデガー、ルカーチという錚々たる顔ぶれである。

中村光夫が中島敦の『北方行』や『光と風と夢』を評価できなかったのは、「豊かに見ることを知らないからだ」と言ってのける三浦である。ラカンやパースの理論を用いての中島敦論はカフカと同時代に生きた中島の今まで語られてこなかった側面を活写して興味深い。また、芥川が人間心理の観察者にとどまり遂に内奧にまで達しないのは、精神を病んでいた実母の記憶がラカンのいう想像界と象徴界の継ぎ目に接触することを恐れさせたのだという指摘も新鮮である。

しかし、最も力の入っているのは、その芥川の文学上の「父」であった漱石の分析である。実家と養家の間で何度もやりとりされるという過去を持つ漱石の「出生の秘密」は、この大文豪をして追跡妄想に悩まされる神経症患者にし果せる。その根にあるのは「僻み」であった。しかも、その僻みをヘーゲルの『精神現象学』の読解によって分析してみせるその手際の鮮やかなこと。

そして、遂に「僻みの精神がもたらす孤独は、社会を否定し、新しい社会を構想する。なにもルソーに限ったことではない。それこそ人間のつねではないか。そう考えたとき、ヘーゲルには、感覚から知覚、科学的思考へと展開してゆく人間の精神の秘密、出生の秘密が、そのまま、社会の、共同体の、国家の秘密へと延長されてゆくことは自明だっただろう。自己意識の運動は個から類までを貫いているのだ。共同体もまた僻みの構造をもっているのだ。宗教も芸術も哲学も例外ではない。」という認識に至る。

「出生の秘密」を主題に据えた丸谷才一の『樹影譚』をきっかけに、中島敦、芥川龍之介、夏目漱石といった日本近代文学を代表する作家が作品の中に封印した自己の出生の秘密を読み取っていくという刺激的な論考であるだけではない。その隠蔽された事実を暴くための証人として、押しも押されもせぬ思想界の巨人たちを召喚し、あわせて彼らの理論を総ざらいしていくという欲張った企画である。最後に丸谷の『エホバの顔を避けて』という国家観を問う作品でしめくくるという憎い離れ業をやって見せている。近頃これほど気合いの入った評論を読んだことがない。



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