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 2005/9/25 『もののはずみ』 堀江敏幸 角川書店

真っ白な表紙に小さな活字。あまり小さいからか、書名と著者名が横に並んで記されている。相も変わらぬ素っ気なさの裏に、大げさなことをきらい、強く主張することを好まない著者のこだわりが透けて見えるようだ。本屋や図書館の棚に置かれると、これでもかと言わんばかりに眼を射る大きな活字や強烈な色合いの本にはさまれて、肩をすぼめ、息をひそめているように見える。

フランスを舞台にしたエッセイ風の小説で知られる著者のこれは紛れもないエッセイ集。それも一編が著者撮影によるモノクロ写真一葉をいれても4ページで収まるほどの掌編が集められている。もともとは東京新聞の夕刊に連載したもので、著者がフランスで買い集めたコレクションについてふれた軽いエッセイである。

世にコレクターと呼ばれる人種は多いが、著者のコレクションはほんの少し変わっている。文房具その他の日用品にこだわりを持っているのはそれまでの著作でうすうす感じてはいたが、ここでは、その趣味を思う存分披瀝している。彼が集めているのは、一般的にはがらくたと言ってもいいような「物」たちである。

しかし、そこにはひとつ、はっきりした好みがあった。自分と同時代に生まれたきらびやかなものではなく、また極端に古くて実用に耐えないものでもなく、以前はよく見かけたけれど、最近ではすっかり姿を消してしまった、「ほんのちょっとむかし」の製品のほうに関心があったのである。(多情「物」心)

なるほど、いかにもと思わせる。これまでの本の中にも、ちょっとした物に寄せる思いいれが人との間に小さな事件とも呼べないような波紋を描く話が数多く見られた。この人は、そういう「物」が自ら語る「物語」に静かに耳を傾けることができる人なのだ。古道具屋の棚の片隅でほこりをかぶったものたちは、誰かに物語を聞いてほしくてたまらない。店の主人の口を借りて、著者を引き止めるのだ。

琺瑯製の白いドアノブや蓋つきのブリキ缶のような何気ない日用品から、卓上に置ける小さな人形のようにアンティークと呼べそうな物まで、飛び抜けて高価な物はない。物それ自体の来歴よりも、小説では作品の背後にあって匿されている作家自身の性向や気質が、飾りも衒いもなく語られるのが好ましい。

題名は、ついつい買ってしまうコレクター心理を表す、もともとの語義に加えて、愛用の「もの」によってはずむ著者の心を表しているのかもしれない。静かな日曜の午後、日の当たる窓辺の椅子にでも腰かけてぱらぱらとページを繰るにふさわしい、肩の凝らない読み物である。


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 2005/9/20  『古池に蛙は飛びこんだか』 長谷川櫂 花神社

「古池や蛙飛こむ水のおと」。
俳句に詳しくない人でも一度くらいは耳にしたことがある句だろう。作者はもちろん松尾芭蕉。俳句の代名詞みたいなものだ。それほど有名なのだから、きっと名句なんだろうと、誰もしっかり中身について考えたことがない。いや、考える前に、名句にちがいないという先入観があって、思考停止に陥ってしまうのだ。

「荒海や佐渡によこたふ天河」、「閑さや岩にしみ入蝉の声」のように、その詠みぶりから誰にも名句だと分かる句が芭蕉にはいくつもある。それなのに、なぜ芭蕉といえば「古池」の句が持ち出されるのか。「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」というような句のどこがそんなにいいのか。この疑問はかなり古くから囁かれていたようだ。それだけに深読みをした解釈などもあったようだが、明治になり、正岡子規が表面に表れた意味しかないと喝破してこの方、先のような解釈が自明とされてきた。

その「古池」の句を再吟味して、この句は果たして古池に飛びこむ蛙を詠んだのか、ということを考えたのが著者の長谷川櫂である。自身俳人である著者は芭蕉ともあろうものが限られた十七音の中に「古池」と置きながら、もう一度「水の音」と繰り返すだろうか、という疑問を抱いた。調べていくと、この句、中下である「蛙飛こむ水の音」が先にできている。

中下に合う上五を考えているうちに弟子の其角は「山吹や」という上五を思いついた。和歌の世界では蛙の声を詠むとき山吹を取り合わせるのが定法だからだ。ところが、芭蕉はそれを採らず「古池や」とした。蛙といえば鳴き声を詠むものとされていたのに、飛びこんだ時の水音に着眼している芭蕉である。俳句という新しい革袋を作り上げようとしている芭蕉が、そこに古い酒を注ぐようなまねをするはずがない。結論を言うなら、蛙は古池に飛びこんでなどいない。蛙と古池は同じ位相にないからだ。著者の解説を次に引く。

「蛙飛こむ水のおと」は庵の外から聞こえてくる現実の音であるが「古池」は芭蕉の心に浮かんだどこにも存在しない古池である。どこにもない心の中の古池に現(うつつ)の蛙が飛びこむわけにはいかないだろう。

古池が先にあったのではなく、蛙の飛びこむ水音を聞いている芭蕉の心の中に、物寂びた古池のイメージが湧き起こってきたのだ。現実の情景に喚起され、作者の心の中に非現実の世界がまざまざと現出する。たった十七音の小宇宙の中で異なる二つの位相が出会う。蕉門俳句の新風を告げた句こそ「古池」の句であった。

そうと分かれば、これまで現実の情景を詠んだと考えられていた芭蕉の句が、次々と読みかえられてゆく。このあたりの展開のスリリングなことは、よくできたミステリで名探偵が謎解きをしている場面を読んでいるようなものだ。俳句には詳しくない読者でも面白いように分かる。

ものごとを自明のものとして見るのでなく、自分がおかしいと思ったことはとことん突きつめて考えてみる。そうすることで思っても見なかった事実が発見される。長谷川氏の見解が新しいものなのか、そうでもないのか門外漢には分かりかねる。ただ、ここには批評というものの持つ清新な思考の輝きが感じられることは確かだ。



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