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 2005/8/11  『僕が批評家になったわけ』 加藤典洋 岩波書店

「批評が何か、そんなことは知らない。しかし、お前にとっては、批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ。たとえばある新作の小説が現れる。これがよいか、悪いか。その判断に百冊の読書は無関係だ。ある小説が読まれる。ある美しい絵が出現する。そういうできごとは、それ以前の百冊の読書、勉強なんていうものを無化するものだからだ。だからすばらしい。」

小林秀雄が現代風の話し方で書いたような威勢のいい啖呵だ。こうした断言口調には何かしら人を納得させてしまおうとする書き手の熱っぽさを感じてしまう。だから、書かれていることの検証などそっちのけで、うん。そうだ。そうだ。などと相づちを打ってしまいそうになる。ところが、書き手が加藤典洋だと、そうは簡単にいかない。なぜか、この人の書くものには、いつも判断停止を誘うようなところがあるのだ。

それはどういうことかというと、加藤には加藤の言いたいことがある。それは、よく分かる。よく分かるのだが、そのために説明しだすと、うん、ちょっと待てよ、話はそう簡単にはいかないだろうと思わされることがよくある。自分ではよく分かっていることを説明するときにおきがちな誤解だ。

知らない人に道を教えるときは、曲がり角や分かれ道に特に注意する。それと同じように論理がそこで新たな展開に入るときにはあらかじめいろんな道のあることを説明してくれるとありがたい。人によっては書いている人と同じように思わない人だっている。だから、あなたはこう思うかも知れない。でもね、これはこういうことでしょ、という一言がほしいのだ。たとえば、こういうところ。ここで網に喩えられているのは「批評」である。

「その魚をとるのに、どんな深海までもぐらなければならなかったとしても、どんなに高度な網が必要だったとしても、魚は魚。誰もが食べたら、おいしいか、まずいか分かる。子供が食べても、おじいさんが食べても。」

ちょっと、待ってほしい。子どもの時はおいしくなかったものが、大人になってから食べてみるとおいしかった、などという経験は誰にだってある。まして、年寄りになったらなおのことだ。年齢によって、おいしいと思うものはちがうだろう。また、ところが変われば、おいしいと思う食べ物はちがうこともある。イカやタコを食べない文化圏に育った人には、あの味は分からない。

その魚がうまいか、まずいか、うまいとしたら、なぜうまいのか、味わう側の味覚の方も問題にしてもらわないと話が見えてこない。現に加藤自身、別のところで、同じ批評でも読まれる世代によって受けとめ方にちがいが出ることを書いている。「ことばのために」というシリーズ中の一冊である。初学者のために敷居を低くしておきたいという気持ちがあるのはよくわかるが、簡単に書くことがかえってわかりにくくするということもある。裾野を広げたはいいが、山頂に行き着けないようでは困るのだ。

随筆の代表選手のように考えられている『徒然草』を批評の原型として持ち出し、批評というものの範囲や、評論とのちがいについて考えさせている点、やさしい言葉と難しいことばで書かれる批評のちがいはなぜ起きるのか、インターネットが内田樹のように難しいことをやさしい言葉で書ける批評家を生んだという指摘等々、考えさせられるものを多く含んだ本である。比喩の用い方にはもう一工夫ほしいと思うが、「批評とは何か」を考える上で読んで損はないと思う。


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 2005/8/8  『風景と記憶』 サイモン・シャーマ 河出書房新社

日本語版の表紙に使われている絵は、カスパール・ダヴィッド・フリードリヒの「山の十字架と教会」。針葉樹林を背に、岩の上に立つ木の十字架、そしてその背後に樹影と相似形をなすようにして建つゴシック寺院。いかにもドイツ浪漫派の色濃い神韻縹渺たる名品だが、サイモン・シャーマの衒学的博覧強記の筆にかかると、この北ドイツの針葉樹林が、大西洋を間にはさんだカリフォルニア州ヨセミテ渓谷のアメリカ杉と重なって見えてくるから不思議だ。

よく黒々と聳える深い森を指して「伽藍、聖堂のような森」というが、何気なく使われるその常套句の下には「異郷の原始林、その樹木崇拝とはっきり森を思わせるゴシック聖堂とを繋ぐ、長く豊かな重要な歴史が横たわっている。北欧の樹木信仰から『生命の木』、木の十字架といったキリスト教図像を経て、常緑の針葉樹と復活の建築をはっきり同じものと見るカスパー・ダーフィット・フリードリッヒに至る線」があることを、豊富な図版、文献資料をもとに、証明してみせる。

リトアニアから始まりゲルマンの森、シャーウッドの森と、連想ゲームさながら、森に係わる偉人、奇人、歴史から忘れ去られてしまった者まで掘り起こしては、その逸話の中に埋もれている記憶の古層を手繰り寄せる。証拠品のように持ち出される絵画もフリードリヒやターナーのようなよく知られた名作ばかりではない。古拙な木版画から古い写真まで、よくも探し集めたと感心させられる、そうした絵や写真を眺めながら、作者の話を聞いていくと、いつの間にかそこに浮かび上がるのは紛れもない一本の線である。

森の中に八百万の神を見る多神教の民であるわれわれ日本人とはちがい、西洋では文化と自然は一が立てば他は立たずという関係にある、というのが前提だ。このままでいけば、多くの自然が失われていくであろう今、文化と自然が縒り合わさった紐帯の力を示すことによって、「ひとつのものを見る見方を、われわれが既に持っていながらどういうわけかそれと認められず、それとして賞味することもできないでいるものをいかにして再発見できるかを示そう」というのが、この書が書かれた動機である。

森だけではない。2部では水、3部では岩山を採り上げ、「日常的な目線から遙か下に掘り下げていって、表面の下に広がる神話と記憶の鉱脈を再び掘り起こす」という方法論によって、ヨーロッパの国々から新大陸アメリカまで、縦横無尽に「神話と記憶の鉱脈」探索の旅に出る。ウォルター・ローリー卿の悲運のエルドラド探索行や、ラモン・ド・カルボニエールという稀代の山師の成り上がり物語といった、綺人、夢想の数々が惜しげもなく開陳される椀飯振舞い。百科全書や博物学的知識に目がない向きには垂涎の的という代物である。

風景というのは自分の外にあるのではない。自分の中にある記憶をもとに外に投影されたものをわれわれが風景と再認しているに過ぎない。となれば、その記憶の元になったものは何か。例えば、パリはフォンテーヌ・ブローの森を歩くロマンティックな散策の喜びを発明したのはクロード・フランソワ・ドゥヌクール。兵役で傷めた足を引きずりながら物盗りの出没する物騒な森を歩いては、特徴のある木や洞窟に名を付け、矢印で道を示し、幾つもの散策路を拵えた。

こうした奇癖奇行の人々があって風景の記憶が伝播する。彼らはなぜ、生涯を賭け、余人には計りがたい情熱を持って風景の記憶の守護者たらんとしたのだろうか。作者は、「彼らが情熱的になるのは、それらが時代の生のうつろさを癒してくれるものなのだと観じていたればこそであった」という。振り返ってみれば、現代のわれわれの関心の的になるものは、誰の手になるものか。「帝国が、国家が、自由が、企業が、独裁が―その支配的概念に何か自然の形式を与えようとして地誌を召喚、呪呼してきた」ものではなかったか。

であればこそ、作者は歴史の闇の中に埋もれながらもぐらのように風景の記憶の鉱脈を掘り進んできた数多の先達を言祝がずにはいられない。声高に環境保全を言い立てるのもいいだろう。それもひとつのやり方だ。だが、風景の過去の伝統を知ることは、未来に向けての知恵を我がものとすることではないか。「美学史」を論じたものである。しかも大著。なのに、読後心に温かなものが宿る。二段組み738頁という大冊。読むのに覚悟はいるが、ペースをつかめば、あとはぐいぐいと読んでいける。


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 2005/8/6  『はじめたばかりの浄土真宗』 内田 樹/釈 徹宗 本願寺出版社

『いきなりはじめる浄土真宗』の後編である。前編を読んでいなくとも充分に面白い。もちろん、1・2と続けて読めば、話の展開はなおよく分かる。ただ、浄土真宗の僧侶である釈氏と、レヴィナシアン内田樹の対話による浄土真宗講義を期待すると、裏切られるかも知れない。本来は、そういう展開を考えてのインターネット持仏堂開設だったようだが、二人の立ち位置の微妙なちがいが、浄土真宗の宗教的ポジションなどという狭い領域を飛び越えさせ、宗教とは何か、倫理とは何かという命題を考えさせる思いもかけない対話を生んだ。

少し前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いに、どう答えればよいのかという話題がマスコミを賑わしたことがあった。教育学者や哲学者と呼ばれる人たちが真面目に論議し、何冊か本も書かれたように覚えている。その当時、不遜にも「そんなこと当たり前だろう」と、はなから相手しないのがいちばんだと思っていた。世の中には訊くべきこと(訊いていいこと)と、そうでないことがあるのだ。

常識の分からない人間に常識を説くことのむなしさを知っている者から見れば当たり前なのだが、そういう輩に限って「なぜそれが常識って言えるのサ」と食い下がってきたりするから始末が悪い。そのあたりのややこしい事情を、いつものことだが明晰に解説してくれるのが内田センセである。その15「さらに宗教と倫理」の一章だけでも読んで損はしない。

内田は「世界の成り立ちに遅れて到着した感覚」が「宗教性」の根源にある体験だという。私たちは、自分がなぜ生まれてきたのか、どうして「いま・ここ」にいるのか満足に説明することができない。このおのれの無知と被投性の自覚が宗教の始点だ。しかし、そこから、「だからどんなふうに生きたって誰にも文句は言わせない」という道徳的アナーキズム、つまりニヒリズムまでは、あと一歩だ。

「神様に会ったことがある」という狂信者と「神なんていない」というニヒリストの「中間」に倫理の立場がある。してはいけないこと、しなければならないことの根拠は「ないようだけど、ありそう」という「決然たるあいまいさ」の中に倫理が存在する、というのが内田の考え。「倫理」は「常識」のようなものだ、と内田は言う。ただ、「常識」という言葉はとらえどころがない。時代や場所が変われば理解不能のものに過ぎない。

「常識」は普遍的な原理にはなれない。共同体の中でこそ命脈を保つが、その外では通用しない。「私にとっての『当たり前』はあなたにとっての『当たり前』ではない」。それが、「あらゆる集団がそれぞれの『当たり前』を持つのは『当たり前』のことだ」という認識を呼び寄せる。倫理というのは、身内には強制的だが、「他者」には宥和的に機能するものなのだ。だから倫理は本質的に「反−原理的」なものである。

世の中には「すべての人間は……しなければならない」と説く社会理論や政治思想が存在する。それら「原理主義的言説」は、内田によれば「節度を知らない理説」「非倫理的な思考」に区分される。その理説の論理的整合性は問わない。「正しいけれど倫理的でないこと」は、常に存在するからだ。その場合、どちらの判断枠組みに軸足を置くかは、その人間の実存的な決断に委ねるしかない、というのが内田の立場である。

こう言われてみると、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して、「そんなの常識だろ」と応えることの意味がよく分かる。子どもがそういう問いを発するときは、おのれの無知と被投性をおぼろげながら自覚しつつあるのだ。ニヒリズムに走らせるか、節度ある常識という「あいまいさ」の裡に決然と立たせるのか、答える大人の側の「倫理」観が問われているのだ。心してこたえねばなるまい。

あえて宗教とは言うまい。政治的であれ、思想的であれ、自分の正しいと考える立場を相手に押しつける原理主義が、多くの命を奪う悲惨な状況を生み、国と国との友好的な外交関係を危うくしている。アメリカ流「民主主義」の押しつけや首相の靖国参拝がそれだ。「常識」や「節度」という言葉には原理主義者の使う言説の勇ましさはない。せめては、決然と「あいまいさ」の中に立つことで、倫理的な立場というものをまっとうしたいと思うのである。


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 2005/8/5  『エドマンド・ウィルソン批評集1 社会・文明』 みすず書房

エドマンド・ウィルソンはモダニズム文学と象徴主義について論じた『アクセルの城』、レーニンによる社会主義革命に至るまでの革命家群像を描いた『フィンランド駅へ』で夙に有名なアメリカの批評家である。また、アメリカに亡命したナボコフを支援し、その著書の出版に尽力したこともよく知られている。後に考え方の違いから論争になるが、家族ぐるみの親密な交際の様子は先に出版されている往復書簡集で読むことができる。

百科全書的批評家と言われるウィルソンだが、大学に進んだときから「人文学のすべての主要部門についてのある程度のことを知」りたいというのが、彼の野望であった。プリンストン大学で文学を専攻し、コロンビア大学の夏期講座で社会学と労働問題について学んだ後、軍に入隊するまでの期間、ワシントンに出て政治ジャーナリズムの世界に身を置く。

ジャーナリズムの世界は現場第一である。まず現場に立ち、自分の眼で状況や人々の様子を観察する。その上で自分の考えを述べる。その経験が以後彼の書くものを特徴づけることになる。ウィルソンの批評は、何を読んでもまるで、その時、その場にいるような臨場感が際立つのだ。特にその場の情景や人物を活き活きと表現する筆力は、まるで小説を読んでいるかのように思うほどである。それでいながら書かれた物には、冷静な批評眼と社会正義を信じる熱い感情が共存している。

1920年代から60年代にかけて書かれた物の中から、主に社会に目を向けたルポルタージュ風のエッセイを集めて時代順に編んだものである。当時のアメリカは、1929年10月のニューヨーク株式市場大暴落に始まる世界恐慌の真っ最中。ユナイテッド・ステーツ銀行の倒産、ナショナル・シティ銀行頭取で投機のスーパーマンともて囃された〈サンシャイン・チャーリー〉の不正取引疑惑、不況下で顕わになった神話的人物ヘンリー・フォードの素顔と、その実態を暴いていく切り口の辛辣さと言ったらない。

一方では、移民や低賃金労働者、アメリカ・インディアンといった社会的弱者の置かれた劣悪な労働環境、住宅事情に対する憤りに溢れた告発がある。御用組合や共産党、最終的には大統領にまで至る権力を敵に回しての炭鉱労働者の孤立無援のストライキに対するウィルソンの眼差しは終始温かい。

民主党支持の本人はリベラルを自称するが、どう見てもバリバリの社会主義者の張る論陣である。当時のアメリカのリベラル派というものの寄って立つ位置がよく分かる。ソヴィエト連邦崩壊以降、雪崩を打つような社会主義の退潮で、すっかり元気をなくしてしまった左翼であるが、平和主義、マイノリティに向ける視線、拝金主義への批判と、この陣営の力によって社会がかろうじて均衡を保っていたことがあらためて思い出される。

半世紀も前に書かれたものだが、戦争について、アメリカ合衆国について、ロシアという国の文化や国民性について、今読んでも啓蒙されることの多い刺激的な論考が多い。映画嫌いだと自分でも書いているウィルソンが、チャップリンやエイゼンシュテインの映画についてかなりの紙幅を割いて述べているのも興味深い。現代社会について疑問を持つ人、リベラル派の旗色の悪さにじれったい思いを抱いている人にお薦め。なし崩し的にすべてが崩壊していくような時代の気分に負けて目を瞑るのでなく、酷い時代だからこそ、現場に足を運び、冷静に事実を見極める必要のあることをあらためて思い知らされる一冊。

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 2005/8/1 ギュスターヴ・モロー展 兵庫県立美術館

ギュスターヴ・モローの名を記憶にとどめたのは、澁澤龍彦の訳によるジョリ・カルル・ユイスマンスの『さかしま』によってであった。デカダンスの聖書と謳われるこの作品の中には、自宅をお気に入りの書籍や美術品、その他様々な珍奇なコレクションで飾り立て、幻想と耽美の世界に浸るデ・ゼッサントという主人公が登場するのだが、彼の部屋に掛かっているのが、ギュスターブ・モロー描くサロメだった。デ・ゼッサントがモローについて語っているところを次に引く。

「彼は、現代の芸術界においてユニークな地位を保っていた。土俗学の源泉や神話学の起源にさかのぼって、彼はそれらを比較検討し、それによって血なまぐさい幾つもの謎を解き明かした。また、極東から由来した民俗の信仰と混淆して変化した、さまざまな伝説を集め、これを一つに融合した。そのようにして、彼はおのれの建築学的融合、織物の予期せざる豪華なアマルガム、真に近代的な神経衰弱の透徹せる不安によって研ぎ澄まされた、宗教的伝統の不吉な寓意を完成したのである。かくて彼は、邪悪や超人間的な愛や、信頼もなく希望もなしに遂行された聖なる姦淫の象徴などにつきまとわれて、永遠の苦悩のうちにとどまっているのであった。」

当を得た批評と言えよう。建築家の息子だったモローは、イタリア遊学によって初期ルネサンスの様式を自己のものとする。会場入り口近くに展示された『エウロペ』は、当時のサロン入賞作である。しかし、批評は概ね不評であり、以後モローはサロンへの出品をやめてしまう。彼の目指す歴史画というジャンル自体が時代に合わなかったこともある。マネやクールベの同世代でありながら、写実主義や印象主義に見向きもせず、自分の世界を追求したモローは、時代精神などには関心がなかったと言えよう。

ただ、歴史画といっても、ダヴィッドのような画家とはちがう。モチーフこそ神話や伝説に取材しているが、神話上の人物や英雄、神々に託して画家が描こうとしたものは、美の探求や詩人の孤独、己の使命を脅かす怪物との戦いといった、人間の裡に秘められた気高い感情である。こうした傾向はボードレールに相通ずるところがあり、詩人の没後その母親より『悪の華』一巻を寄贈されている。隠者のように自宅アトリエに引きこもった画家だが、象徴主義絵画の先駆として、多くの信奉者が彼のアトリエを訪ねている。

今回の展示中、白眉とも言えるのは、サロメを描いた『出現』だろう。モローは『サロメ』を題材とする絵を何枚も描いている。しかし、後光のような黄金の光輪を帯びて宙空に浮かび上がるヨハネの首を画面中央に配置した『出現』は、その中でも異色の作品である。ドラクロアをはじめヨハネの斬首を描いた絵は数多いが、今切られたばかりか、切り口から血の滴るヨハネの首が、かっと目を開いてサロメを睨みつける表現はそれまでに典拠がない。ファム・ファタルとして数多の文学、絵画、音楽のモチーフとして使われることになるサロメも、さすがにたじろいでいるように見える。

独創的なのは、それだけではない。ヨハネの首の発する眩いばかりの光が画面を圧し去り、イスラム教のモスクや宮殿を思わせるアーチ型の列柱や天蓋に施された動植物をモチーフとした精緻な文様は、油彩の表面に白描された線によってその異国情緒あふれる意匠を浮かび上がらせる。通常の油彩画の上にエスキスのように描かれた装飾模様は下にある絵の世界と別の世界の存在を予感させ、その乖離が神経衰弱的な不安を掻き立たせる。ギュスターヴ・モローならではの世界がそこに現出している。

象徴や幻想を主題とするというと、いかにも自由奔放な表現を思い浮かべるかもしれないが、もう一人のギュスターヴであるフローベール同様、モローにおいても先行する文献、資料の渉猟は半端ではない。インドや、ペルシャ、アラビア風の装飾図案の検討、ギリシア・ローマ神話を主題とするルネサンス絵画の引用と、残された素描や写真、資料の数の多さに圧倒される。自身の住まいに所蔵されていた膨大な作品をそのまま美術館にするのが晩年の画家の遺志であった。散逸を免れた数々の下絵から画家のアイデアの変遷を読み取ることができる。宝石を粉砕して描かれたと評される華麗な色彩画家の裏にある素描家の一面に触れることができたのも収穫であった。



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