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 2005/7/27  『批評という鏡』 渡辺 保 マガジンハウス

当代きっての歌舞伎批評家、渡辺保の歯に衣着せぬ劇評の数々。誉めるべきところはべた褒め、そのかわりだめなものはいくら相手が人気役者であろうが容赦なく批判する。これで面白くないわけがない。これだけ思い切って本音が書けたのは、中央公論社が読売新聞社に吸収合併されて発表の場を失ったのが原因だというから、読者にとっては何が幸いするか分からない。

もともと、舌鋒鋭い渡辺の批評には苦り切った者もいて、出版社に波状攻撃で執拗に圧力をかけた役者もいたらしい。メディアは、それでも執筆者を守ろうとするから、本当の圧力は筆者の知る何倍もあったことだろう。批評家がメディアに守られていてはだめだと、インターネットによる劇評をはじめるに至ったわけだ。基本的に無料で読めるネット批評だからといって、手を抜いたりしないところが流石。

批評家とて人の子。贔屓の役者があっても当然だろう。まして、インターネットという媒体であれば責任は自分がとればいいことである。いきおい、毎回絶賛される役者と、その逆に毎回注文をつけられる役者が出てくるのは致し方ない。若手や脇役は別として前者の代表に、吉右衛門、仁佐衛門、雀右衛門、富十郎、三津五郎が、後者には團十郎、幸四郎が挙げられる。

吉右衛門は義太夫狂言ができ、歌舞伎を人間ドラマとして演じることのできる柄の大きさがある。仁佐衛門には形の良さ、富十郎なら調子の良さ。雀右衛門は、型を知った上で型を通り抜けた自在の境地に入っているようだ。踊りの巧い三津五郎はそれが芝居にも生きる。逆に幸四郎は調子もよく上手いのに、歌舞伎からはなれてしまうところが惜しい。團十郎は見た目はまことに立派だが、小細工ができない。人によって見方は違うだろうが、納得できる分析だ。

歌舞伎と一口に言っても、時代物や世話物、それに丸本歌舞伎、義太夫狂言と、それぞれに持ち味がちがう。それに名優達が作った型がある。歌舞伎は型があってはじめて生きる。どの型でいくか、役者は、一時も気を抜くことができない。今の役者のお祖父さんの頃から生で舞台を見てきた渡辺である。一つ一つの所作に光らせる目の鋭いことといったらない。しかも、いちいち具体的な所作、科白を例に引いての批評だから、説得力がある。

直言は苦いかも知れないが、歌舞伎の将来を思っての言葉である。批評があってこそ、役者もはげみがいがあろうというもの。圧力をかけたという役者も、思い当たるところがあったからこそ無視できなかったのだろう。『批評という鏡』に自分の芸を写してじっくり見てみるといいのだ。総じて、よく研究している役者は応援し、自分の芸に満足し、精進を忘れた者、客に媚びる役者には厳しい。

それが歌舞伎であるかどうか、が批評の観点となっている。吉右衛門と幸四郎の評価が二分するのは、そこだ。歌舞伎は一人ではできない。欠点を指摘される役者でも、いい芝居をする役者と同じ舞台に上がったときには豹変する。イキの合った役者同士なら、なおさら。誰のどの役のどんな点がいいのか。顔合わせはどうか、と実際に歌舞伎を見るときの手引き書としてこれ以上のものはない。2000年の1月から2004年の6月までの劇評を収めるが、ネット上のサイト「渡辺保の歌舞伎劇評」は現在も進行中。読んでから観るか、観てから読むか、そこはご随に。


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 2005/7/23  『アースダイバー』 中沢新一 講談社

政治家のスキャンダルやピンナップヌードの間に混じって男性週刊誌に連載した文章をまともめたものである。これほど知的刺激にみちた内容を通勤電車や昼食時の食堂の座席で読ませるにはそれなりの芸が必要とされる。絶妙な息づかいでエロス的感覚を漂わせる話題を提供し、読者の関心をつなぎとめながら、東京について自分の発見した新事実を披瀝してゆく。中沢新一らしい語り口の巧さが発揮された近著は、文句なしに面白い。

ルイ・アラゴンの『パリの農夫』は、パリという都市を主人公にした実験的な小説である。そこでは、田舎から出てきた農夫の目で凝視されることによって、合理的な都市であるはずのパリが、無意識の奇妙な運動に通底する魔術的な異空間に変貌する。それを読んだヴァルター・ベンヤミンが書いたのが有名な『パサージュ論』である。同じように田舎から出てきた中沢が、東京を主人公にした「意識と無意識がループ状につながった」詩的な作品を夢想するのは当然だった。

著者は、散歩の途中で偶然目にした縄文遺跡から、「東京の家の裏庭を掘れば五千年以上も前の縄文時代の遺跡が出てくる」という旅先で口にした冗談が、真実であったことを知る。早速、考古学資料にあたってみると、縄文海進期と呼ばれる時期に、現在の東京の奥深くまで海が侵入していたことが分かった。その「沖積層」の跡を現在の地図上にトレースしてみると、それまで町並みについて漠然と感じていたものが、一目瞭然、地図上に現れ出てきたのである。

それによると、まるで人間の脳のような複雑に入り組んだフィヨルド状の地図にマッピングされた古代の遺跡や墓場、神社は、洪積層の台地が沖積層の海に突き出した先端部分に集中していることが分かった。つまり「さきっぽ」である。人間の知らない領域との境界から、境界を越えて重大な意味や価値のあるものが現れてくるというのが古代人の愛した思考法である。「サッ」という音がそれを現す。「サカイ」「ミサキ」に含まれる音だ。

中沢は資本主義社会の先端を行く東京という街に、水というメタファーを持ち込むことで、古代的な死と官能に満ち溢れた精神世界をやすやすと引き寄せることに成功した。その論法でいけば、「乾いた土地」と「湿った土地」の二面性の引き起こすダイナミズムが新宿の隆盛を呼んだと言われても、芝の古墳群の上に立つ東京タワーが、天ならぬ死の世界へ架けられた「橋」であると言われてもなんとなく納得してしまうのである。

網野善彦を『僕の叔父さん』と呼ぶ著者である。慶応や早稲田という新時代を開く大学が揃いも揃ってなぜ埋葬地跡に建てられたのかという謎を、人々がそこを「アジール(聖域、逃げ込み場)」として、人家や畑にすることを避けていた土地であったから、政府が民間に払い下げやすかったと、説き明かしてみせる。それだけではない。学問や知性は、あえて「アジール」にあることで、権力や資本から自由であることが保証されるのだという。

著者の夢想する「アジール」は、最後は天皇制に行き着く。太田道灌築城当時の江戸城は中世の城らしく「ミサキ」に位置していた。その江戸前の海を埋め新橋や銀座の基礎を作った徳川氏には、城を都市の中心にするという近代的な発想があった。ところが、近代天皇制は、そこをまたもとの森にしてしまった。都市の真ん中にある森が象徴するものは、単一文化と経済主義を特徴とするグローバリズムに対する「アジール」であると中沢は言う。

北方ツングース系の民族と、それを受け入れてきた縄文人という異なる文化が混じり合い、それぞれの長所を出し合って造り上げてきたのがわれわれの文明だと著者は言う。明治に始まる男系原理の強い近代天皇制が、著者の考える縄文的な双系原理に基づく新しい天皇制に変わる保証はどこにもない。しかし、ここには近代天皇制に始まる硬い殻のようなものをもってこの国の「伝統」とする強張った愛国心にはない、しなやかな「知性」が感じられる。

ふだんあまり手に取ることのない男性週刊誌だが、こういうものを連載しているとは不勉強にして知らなかった。写真も多く、読みやすい。単行本化されたことで女性にも読みやすくなったことを著者のために喜びたい。


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 2005/7/17  『シェイクスピアの密使』 ゲアリー・ブラックウッド 白水社

速記術が得意な少年役者ウィッジを主人公に据えた『シェイクスピアの密使』は、『シェイクスピアを盗め!』『シェイクスピアを代筆せよ!』に続く三作目。ここまで続くとシリーズものとして、作品の評価も定まってくる。前二作は全米図書館協会ヤングアダルト部門最優秀賞に輝いている。最新作も前二作に劣らず、面白い読み物となっている。

前二作は、ストレートな物語の展開が印象的であったが、さすがに三作目ともなると、作者も趣向を変えてくる。それまでの登場人物に加え、新しく物語に入ってきた人物、帰ってきた人物と、多数の人物が織りなす複雑なサイドストーリーを同時進行させ、物語はポリフォニックな展開を見せる。ウィッジはもちろん、彼の友人であるサムやサル・ペイヴィの人間像もより鮮やかな輪郭を持って描かれることで物語の厚みが増したと言えよう。

1602年のロンドン。女王エリザベスも年をとり、余命が危ぶまれている。芝居に対して寛容な女王の治世が終わることは、役者たちの生活を脅かす。政情不安は王室の猜疑心を強め、芝居小屋の中にもカトリック信者に対する弾圧が忍び寄ってくる。ウィッジ自身について言えば、女役を演じるには不利な第二次性徴がはじまっていた。ひげが生え、声変わりしては女役は無理。それは、せっかく恵まれた居場所をなくし、もとの孤児に戻ることを意味する。そんな中へ、シェイクスピアの娘ジュディスが田舎から出てくる。

一目で恋に落ちたウィッジは、いいところを見せようとして、芝居を書いていると嘘をついてしまう。話を聞いたシェイクスピアが、好きなように使えといって書きかけの作品をくれる。はじめは無理と思われたが、フランスで女優をしていた親友ジュリアに危機が迫る。帰国費用を捻出するため悪戦苦闘しながら台本を仕上げるウィッジ。その間にも、宮内大臣一座がカトリックに関する芝居をすると、監視役が現れたり、衣裳が次々と消えたりする。どうやらライバル劇団のスパイがいるにちがいない。疑われたウィッジは劇団を辞めライバル劇団に雇われるのだったが。

ウラジミール・プロップが『魔法物語の歴史的根源』という著作の中で、「魔法物語の最も古い核は原始社会のならわしである入門儀式にある」ということを述べている。そのプロップが分類した民話の機能の一番目「留守」の機能で物語は幕を開ける。芝居小屋を出た三人は、場末の女占い師に予言を授かる。その予言は物語を導く運命の糸の働きをする。言葉の表面上の意味と裏に隠された意味の二重性が深い意味を持って少年たちの運命を操る。

「魔法の授与者に試される主人公」という機能がある。今回の「魔法」は、劇作家としての才能である。シェイクスピアの口述筆記をするうちに、ウィッジには作劇術に対する自身が育っていたのだ。そしてもう一つ「主人公の新しい変身」という機能。ウィッジは変装して劇団に潜入していたカトリックの司祭から実の父の死を知らされる。台本を完成したウィッジは、父の名と育ての親からもらったジェイムズ・ポープという名前を書きつける。劇作家ジェイムズの誕生である。少年は入門の儀式を無事通過したわけだ。

主人公のウィッジはもちろん創作だが、多くの登場人物は実在の人物である。このシリーズの面白さは、ペストの猖獗やエリザベスの死、スコットランド王ジェイムズの戴冠という史実を背景に、シェイクスピアの活躍した17世紀初頭の庶民の生活や劇場の有り様などが、まるで目の前で見ているように描写される愉しさにある。少年向けの読み物だから、登場人物は悪人であっても憎めないところを持つように描かれている。人生の入り口に立ち、その意味を問うたり、人を恋しはじめたりする年頃の少年はもちろんのこと、歴史好き、芝居好きの大人にも楽しめる一冊。

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 2005/7/16  『郷愁 nostalgia』 高野慎三 北冬書房

ページをめくると、懐かしい日本の風景が目の前に開けている。モノクローム写真で撮られた映像は、茅葺き屋根の家、道路の真ん中を通る用水路と、かつては日本のそこかしこで見られたものだが、近頃とんと目にすることのなくなった風景である。主に関東、中部、北陸地方の宿場町や街道を写したもので、60年代から70年代にかけて撮影されている。

撮影者はプロのカメラマンではない。もともと街道や古い宿場歩きを趣味にしていた高野氏は、マンガ家のつげ義春を知ることで、よりいっそう深みにはまることになる。「どこそこの宿がいいらしいよ」というつげの言葉を頼りに、車を持たない高野氏は鈍行とバスを乗り継ぎ、時には雪の峠道をラッセルしながら、山間の古びた宿場を探して一人旅を続けた。

当時のこととて、長髪にジーンズ、ジャンパー、足は運動靴という出で立ちで、堀辰雄や立原道造が常宿にしていた信濃追分の油屋を訪ね、「お生憎ですが満室でして」とやんわりと断られたりしながら、腹を立てることもなく、雪の中を次のバスを待ち、別の宿場町の木賃宿に泊まったりしている。まるで、つげ義春のマンガにでも出てきそうな旅のスタイルは適度な脱力感があって、なかなかに好ましいものがある。

地図を頼りに出かけた先には、いくら尋ね歩いてもお目当ての宿場が見あたらず、見当をつけたあたりでバスを降りると、何年か前に町名変更をされていて、今では誰も古い宿場の名前など覚えていなかった、というようなこともある。御代田の大谷地鉱泉を訪ねたときも、地元の人も誰も知らず、旧道を歩いて行き、炭焼きをしていた農夫に「ああ、お風呂屋さんね。あの森の後ろの藁屋根の家」と、教えてもらっている。鉱泉宿のおばあさんは「文政時代の建物だそうだよ。昔は軽井沢から川端先生も来て下さって」と語る。このさり気なさがいい。

1968年に筆者は福島の岩瀬湯本を、つげに教えられて訪ねている。その頃は、どこもかしこも茅葺き屋根ばかりであったそうだ。有名な会津の大内宿は70年代に宮本常一によって発見されマスコミによって大々的に報道された。当時の新聞に載った写真を覚えている。俯瞰写真がとらえた大内宿は、江戸時代の村がタイムスリップしてきたような異様な迫力があった。しかし、当時の湯本には80軒近くの茅葺き屋根が残っていたというから規模の上では大内宿より大きかったわけである。今では十軒ばかりが残っているだけだという。「やっぱり偉い人に推賞され、騒がれないとだめだね」と、つげが言ったとか。

モータリゼイションの普及で、全国の街道から道の中央を流れる用水路が消えた。その結果、車の行き来が少ないために、用水路が残った村落が脚光を浴びるようになった。けれど、「町並み保存」の指定を受けて文化財になると、黒ずんだ自然石だった石積みが改修され、つるべ井戸も新たにつけられ、いかにも今日的な江戸時代の村が登場するようになる。探し求めるのは、つげ義春の世界である。レトロ風の街灯をつけてみたり、土産物屋が並んだりする観光宿場町に点が辛いのは当然だろう。

モノクロームの写真ばかりだが、それにこだわったわけではないという。60年代、カラー写真に手が届かなかっただけだと。何が幸いするか分からない。少しハイキーがかった画面は、もう今となってはどこにもない日本のさびれた宿場町の情緒を見事にとどめている。それぞれの宿を紹介する各章のはじめに、一ページ程度の解説がついている。後は、ただただ写真が続く。この潔さがいい。読者もまた、筆者のように一人で街道を歩き、峠を越えて、日も昏れかかった宿場町に入っていくような気になれる。

写真に関しては全くの素人と書かれているが、画面の切り取り方、カメラアングルと、撮影にはかなり気合いが入っている。名作『沓掛時次郎』を監督した加藤泰の名がたびたび出てくるところから見て、自分で撮るならこう、というような思いでシャッターを押したにちがいない。『たそがれ清兵衛』のロケ地として知られる茂田井宿もちゃんとある。旅好き、懐かしい風景を残す町や村に興味がある人にお薦めしたい。


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 2005/7/11  『ホモセクシャルの世界史』 海野 弘 文藝春秋

前々から不思議に思っていたことがある。ダヴィデ像であれほど見事な人体像を表現したミケランジェロが、どうしてメディチ家の礼拝堂を飾る二人の女性像、「夜」「夜明け」の胸に、見るからにとってつけたような乳房をおいたのか。どうみても男のように扁平な胸にそこだけお椀を伏せたような貧弱な乳房は、素人目で見てもつり合いがとれていないように見えるのだ。

この本を読んで、やっとその謎が解けた。ミケランジェロは、女性のヌードは男性のヌードに劣ると思っていたらしい。女性を描くときも男性モデルを使ったほどだ。その彼がなぜ女性のヌードを作ったのか。「それはちょうど彼が少年への愛に悩んでおり、フィレンツェではそれに対する非難が高まっていた。自分の欲望をカモフラージュするために彼は女性のヌード像を入れたのではないか」というのがケネス・クラークの解釈である。

ルネサンスのイタリアの状況は複雑だった。ギリシア以来の快楽主義とキリスト教の禁欲主義が衝突していたのだ。その中心がフィレンツェで、ミケランジェロはメディチ家とサヴォナローラが代表する二大勢力の影響をもろに受けていた。ネオプラトニズムの影響はミケランジェロに少年愛を教えた。プラトニックなものであっても男同士の愛は、当時のイタリアでは同性愛と考えられていた。有名人であるだけにスキャンダルを恐れたのかもしれない。

ハイト・リポート男性版によると、多くの男性が、現在親友はいないといい、学生時代にはいたが、今は親しくないとしているそうだ。何故、男が一対一の友情を避けるかといえば、ホモと思われたくないからだ。男たちは同性愛を忌避するあまり、人間的な直接的な親愛性を作ることができないでいるのではないか、というのがハイトの意見だそうだ。筆者は人間と人間の絆、友愛の可能性を極限的に純粋な形で提出しているのが同性愛ではないかというのだが。

少年愛で有名なギリシア時代から現代に至る同性愛の歴史を一冊にまとめたこの本は、『陰謀の世界史』『スパイの世界史』に続く、隠された視点から世界史を読み直すシリーズの三冊目である。なるほど、こうして書かれてみると、それまでの歴史書からは見えてこない世界史の裏側が見えてくる。それにしても、よくもまあこんなにと思うほど、同性愛者がいるものだ。

『モーリス』を書いたE・M・フォースター、『オーランドー』のヴァージニア・ウルフ、映画『キャリントン』にも描かれたリトン・ストレイチーと、なぜか同性愛者の多いブルームズベリー・グループをはじめとして、ニジンスキー、ジャン・コクトーなどによるディアギレフ率いるロシアバレエ団(バレエ・リュス)のサークル、それに『失われた時を求めて』のシャルリュス男爵のモデル、ロベール・ド・モンテスキュー伯爵を中心とするコネクション、と枚挙に暇がない。

同性愛を語って、オスカー・ワイルドを外すわけにはいかない。ワイルドの代表作といえば『ドリアン・グレイの肖像』だが、今まで、この〈ドリアン〉についてはあまり語られてこなかった。「そのまま解釈すれば、ドーリア人のことであり、古代ギリシアの戦士愛、男たちの友情で名高い民族のことだ。つまり、ドリアン・グレイはドーリア人グレイ、同性愛者グレイのことなのだ」。当時のワイルドの取り巻き連の中にジョン・グレイという若い詩人がいたことが今では分かっている。

ワイルドが投獄されるきっかけを作ったのがアルフレッド・ダグラスとの関係だった。二人がアルジェリア旅行をしているとき、かつてパリで知り合っていたアンドレ・ジッドと宿で再会する。もともとジッドには同性愛的傾向があったのだが、このアルジェリア旅行でワイルドに出会ったことがそれを決定的なものにする。

そのジッドが愛したのが、マルク・アレグレ。やがて映画製作者として知られることになるこの青年をジッドは英国にまで連れ出している。この時、ブルームズベリー・グループとも会っているようだ。映画や演劇に惹かれたマルクがコクトーと親しくするようになったことが、ジッドの嫉妬を生み、後にフランス文学史に残るジッド・コクトー論争に発展するというのだから、少年をめぐる愛の憾みはおそろしい。

文学、美術ばかりではない。音楽界、映画界はもとより、政治の世界にも話は及ぶ。旧世紀までは主にヨーロッパ、二十世紀以降はアメリカに舞台を移し、通常の文学史や美術史からは見ることのできなかった世界のもう一つの姿が同性愛という鍵を使うことであぶり出しのように浮かび上がってくる。同性愛を禁忌とすることで成立してきた異性愛中心の世界史が、いかに偏った見方で叙述されていたかが分かろうというもの。労作である。


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 2005/7/10  『ジェームズ・アンソール展』 三重県立美術館

ジェームズ・アンソール(1860-1949)はベルギーの画家である。マグリットやデルヴォーと並んで近代ベルギーの生んだ三大画家の一人と呼ばれている。自画像を見る限り、なかなかの美男子で、晩年には爵位まで得たというから、幸福な芸術家のように見えるかも知れないが、遺された作品からは、その生涯は決して羨まれるようなものではなかったと想像される。

アンソールといえば、仮面や骸骨を主題にした表現主義的な色が濃い油絵が有名だが、本展覧会では若い頃の習作から、日本の浮世絵の影響を受けたデッサン、それにグロテスクな諷刺画と、油彩、デッサン、版画を含めた140点あまりの作品を集めて展示している。ベルギーの地方都市で生まれ、生涯をその地で暮らした画家の一生を一望できる展示になっている。

アンソールの生まれたオーステンドという町は夏場、近隣の都市からの海水浴客でにぎわう避暑地であった。生家は避暑地の客目当ての土産物などをあつかう小間物商で、彼の生涯のモチーフとなるカーニバル用の仮面や貝殻類がその店頭を飾っていたようだ。店はフランドル人の母の実家で、父はイギリス人。ブリュッセルで絵を学んだ彼は、実家の屋根裏部屋をアトリエにして、オーステンドの海や街並みを描きはじめる。

初期の作品はクールベの影響を感じさせる外光派風の写実画であったり、友人や妹をモデルにした室内画であったりするが、後の画風を暗示させるものはどこにもない。油彩画やデッサンを見る限り、習作とはいえそれなりの完成度を見せている。ただ、北の風土がそうさせるのか、青年期の特有の感情からか、全体に暗さを感じさせる光景が印象的である。

友人の家にあった北斎漫画を模写したデッサンには、三つ目の怪物や葵の上の怨霊といった不気味なものが目立つ。そこから画家のグロテスクなものへの偏愛をうかがうことができる。そこには後の、暗い諧謔と残酷な哄笑の溢れる諷刺画の世界に通じるものがある。何が画家を変えたのだろうか。

今でこそ、ベルギーを代表する画家の一人とされているが、アンソールの絵は当時の人々には受け入れられることがなかった。友人たちと作っていたグループからも出品を拒否されたりして不遇をかこつ画家は、しだいに自己の裡に沈潜するようになる。頻出する仮面や骸骨は、表層としての世界を象徴するものだろう。現実的な人間世界は、仮面の内側と髑髏の間に隠されているのだ。『首吊り死体を奪い合う骸骨たち』という作品は、画家を暗示する首吊り死体を前に骸骨二体が箒を手に争うという人形劇仕立ての絵だが、それを見ている観客はすべて仮面を着けている。目を剥いて死んでいる男だけが顔を見せているという徹底ぶりである。

しかし、アンソールが最も輝いているのは、19世紀末の数年に描かれたこの時期の絵画に限られている。後は、自分の手に入れたモチーフを何度も繰り返しなぞっているに過ぎない。『仮面と死神』に用いられているような赤や青、白といったコントラストの強い色彩を配置した迫力のある画面はしだいに影をひそめ、力の弱いぼんやりとした白っぽい画面に変化していくのである。それかあらぬか、傲然とした表情で見る者を見返していた自画像も、奇妙に力のないものに変化している。現世的な評価を得たときには既に描くべきものをなくしていたということだろうか。芸術と実人生の間にある皮肉なものを見る思いがする。(7月24日まで)


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