HOME | INFO | LIBRARY | JOURNEY | NIKE | WEEKEND | UPDATE | BBS | BLOG | LINK
LIBRARY / REVIEW | COLUMN | ESSAY | WORDS | NOTES  UPDATING | DOMESTIC | OVERSEAS | CLASS | INDEX
Home > Library > Review > 31

 2005/6/28  『柄谷行人初期論文集』 批評空間

著者の柄谷自身がその存在すら忘れていたというような初期に書かれた論文がこうして日の目を見るというのが、柄谷にとっていいことなのかどうか、本人ならずとも気になるところである。柄谷の書くものなら売れるというのが、今になって出版する理由なのだろうが、もっぱら営業的理由による出版ということで、校正も編集部任せとことわっている。どうやら書いた当人にとっては用済みの論文といいたいらしい。

たしかに、若書きゆえの強引さや断言口調が目につくものの、しかし、これはこれでなかなか魅力的な論文集である。書かれている内容もさることながら、批評家たらんとする自負や気概が文章の端々から匂い立つようで、懸賞論文として書かれたものもあるというから、審査員として同時代に読んだ人はさぞかし後世畏るべしの感を抱いたにちがいない。

全編を通して感じるのは、自己の思想的営為に対する真剣な検証を忘れている凡庸な思想家に対する若い柄谷の苛立ちや怒りである。「思想はいかに可能か」のプロローグには、こう書かれている。

凡庸な思想家は殆ど現実的情勢の変転に応じて「無自覚のうちに」しかも「大義名分によって」めまぐるしく変転して行かざるをえない。無変化も変化の一種にすぎない。しかし、彼らの変化無変化は彼らが信じているように現実的条件の変動に応じているのではなく、また現実的変動にも拘わらず死守されているのではなく、実に彼らがその内部において自己の相対化を残忍なほどに検証するという不可欠の営為を済ましていず、またこれからも済ますことがないためなのである。「思想」は全く個人の内部においてのみ問われるので、現実的諸勢力の関係によるのではない。

現実的勢力による思想的変転といえば具体的には「転向」を指すが、洋の東西を問わず、どのような時代にあっても我々は「現実的な支配秩序と、それと逆立する幻想的な支配秩序との間に繰り広げられた「相対」と「絶対」の葛藤のパターンを歩む他はない」のである。初期論文集に一貫するのは、変化する外部と、「個人」の内部で行われる思想的営為の葛藤というテーマである。

「『アメリカの息子のノート』のノート」では、ユダヤ人問題や黒人問題を俎上にのせ、それらを語るときに論者がとる二つの立場の間に起きる「断絶」を説く。「つまりわれわれが個別的な意志や実践の場に立つばあいと、意志をこえた関係や構造を洞察しようとするばあいとの間には、決定的な位相的断絶がありこれらを連結する論理はない、ということである」。ここでも問題にされているのは、個人の意志の問題と外部にある関係や構造の葛藤である。

「現代批評の陥穽―私性と個体性」で問題にされているのは、現代批評のもつ傾向、つまり、表現において語っているのが「私」でなくて「潜在的システム」(フーコー)、「私ではなくなった<私>」(ソレルス)であるような、「書く(語る)」ことの「私有性」を排撃しようとする傾向である。柄谷は、人間存在を抽象化する時に起こる「私有性」と「個体性」を区別しながら、「私有性」を排撃するあまり「個体性」を喪失してしまってはならないと説く。

現実的勢力も、個人の意志をこえた関係や構造も、さらにはわれわれを先見的に呪縛する潜在的システムも、一見みな外部にあるように見える。しかし、「私」という存在もまた、現実にある構造やシステムの一部である。「私」が仮構されたものだというなら、「私でなくなった<私>」というのもまた仮構である。クラインの壺のように外部と内部は通底しているのだ。この一見断絶しているように見える外部と内部とを往還することこそが問題なのだ。

批評とは、自分を取り巻く現実を意識化すること、言い換えれば抽象化することである。しかし、「抽象概念は、具体的な経験からにつめられ、しぼり出されるように抽出されてきてのみ、意味がある」と柄谷は言う。この熱っぽい言葉に、初期柄谷を貫く強い意志を見ることができる。最近の柄谷はNAMの運動にいそがしく、著作も対談等に限られ、読者は物足りない思いをしていた。初期論文集の刊行はその渇を癒すことだろう。本意ではない論文の刊行を許した著者に感謝したい。

pagetop >

 2005/6/26  『私の絵本ろん』 赤羽末吉 平凡社

子どもが小さかった頃、よく絵本を読み聞かせした。海外のものもあれば、日本のものもあったが、日本の昔話をあつかったものでは赤羽末吉の描く絵がお気に入りであった。大塚勇三の文に赤羽が絵を描いた『スーホの白い馬』という絵本は、教科書に採用されているので、目にした人も多いのではないだろうか。横長の版型を生かして地平線を強調した独特の画風は、島国日本とは異なった大陸の乾いた風土を見事に伝えており、絵本といえば子ども向けのものという先入観を追い払うだけの迫力を持っている。

その赤羽が、絵本について述べたエッセイや中国への取材旅行記、それに国際アンデルセン賞を受賞したときの挨拶、評論等をまとめたものである。副題に「中・高校生のための絵本入門」とあるが、大人が読んでも充分楽しめる。副題は、幼児や小学生より大きい子どもにも絵本に親しんでもらいたいという編集者の思いからきたものだろうが、赤羽自身は、大人あてに書いているので、この副題は考えものである。

完成された画風の持ち主のように見える赤羽だが、絵本界へのデビューは遅くて五十歳を過ぎてからだ。師についての日本画の修業は一年ほどでやめており、絵はほとんど独学に近い。赤羽は満州からの引き揚げ者で、絵を描きはじめたのは、満州時代に漁村で見た影絵芝居に魅せられたのがきっかけである。満州国国展で特選に入るも敗戦によって命からがら帰国する。しかし、中国大陸で暮らしたことが、日本の湿潤な風土の良さに目覚める原因となっている。いかにも日本を感じさせる赤羽の絵が中国帰りの所産であったというのが皮肉である。

修業時代、下積みの絵描きたちが席画というものを描く風景を見たことがある。料亭に呼ばれて、何枚でも寸分たがわず同じ絵を描いてみせる。客はそれを面白がって買うのだが、赤羽はそれが面白くない。日本人は名人芸が好きらしいが、赤羽は「完成などはない。どこで終わってもよいのだ」と、言い切る。

「ナレだけでかく絵」が嫌いな赤羽の線は自然たどたどしくならざるを得ない。こちらが、達者な線と見たものを、絵描きの方はたどたどしい線と呼ぶ。たとえば、あたらしい絵本に向かうとき、赤羽は使いなれた筆をとらない。以前に使ったことのある紙を用いない。題材に合わせて、滲みやかすれを予想して新たな画材を探し続ける。一冊の絵本の中でも、善人と悪人では紙の質を変えてその効果を出す。一冊の絵本に八種の紙を使ったこともある。

文章の中では、燭台、ひき臼と書けばそれで事足りるが、絵を書く方では、話はそう簡単ではない。場所や時代によって、それらはちがっているからだ。日本の昔話では衣裳などは中世の風俗に頼ることが多いという。絵巻物に参考になるものが多いからだ。有名な鈴木牧之の『北越雪譜』でも本人のかいたものは参考になるが連れて行った浮世絵師の描いたものは江戸風になっていて参考にならないという。

まして、『あかりの花』のような中国少数民族苗族の昔話となれば、取材の労を惜しむわけにはいかない。その折の紀行文が、またおもしろい。絵本に関する話題は専門だけに力の入りすぎた物言いもあり、少々硬さが感じられるが、旅の話は肩のあたりの力が抜け、おおらかなユーモアの感じられる飄々としたものになっている。

自作絵本の解説は、筆や紙の選び方について詳しく説明してくれている。特に和紙について、それぞれの紙の持つ性質、仕入れ先、手作り和紙の漉き手について触れているくだりは、これから絵本について学んでみようと思っている人には親切な手引き書になっている。絵本作家仲間について語ったところでは、今江祥智のことを「ダンナ」と呼んだり、安野光雅の描いた壺のあまりの見事さに「アンノのデコスケ」と悪態をついてみたりと、気のおけない仲間同志の気安さが透けて見え、呼んでいるこちらの方も愉しくなってくる。絵本好きにはたまらない一冊である。

pagetop >

 2005/6/22 池内紀の仕事場 8 『世間をわたる姿勢』 みすず書房

身の回りにころがった、ごくありふれたものごとを観察して、それに自分の思ったことを一言二言つけ加える。それで、できあがり。ことさらにむずかしいことをいう必要もなければ、新奇な知識も必要としない。エッセイは、誰にでも書けるように見える。執筆のための手間暇がかかる小説や論文を正業にする作家や学者の小遣い稼ぎには、もってこいである。

そんなわけで、巷にはエッセイに名を借りた身辺雑記があふれている。しかし、その多くは世間一般に言われていることをただ受け売りするばかりで、時間つぶしにはいいかも知れないが、わざわざ読むには値しない代物だ。中には名エッセイと思われるものもあるが、あまりに巧すぎるエッセイというのは、普段着でくつろいでいるところに、正装をした客を迎えたようなもので、それはそれで面はゆいものだ。

池内センセイのエッセイはそのあたりが、なんとも具合がいいのである。特に肩肘張ったところもなく、気楽に読める。それでいて、ここぞというところは、外すことがない。世間一般が疑いもしないことに首を傾げてみせる。医者が「ベロを出して」のような幼児語を使う理由だとか、薬袋の古臭いデザインと安っぽい紙質のことなど、あらためて指摘されるとなるほどとうならされる。目の付け所が鋭いのだ。

そんなセンセイでも、エッセイを書きはじめた当時は少々背伸びをしていたらしい。本書は主に四つのエッセイ集から選ばれた文章からなるが、初期の文章には手を入れなければならなかった。最近のものにはその必要がない。「身の丈そのものはともかく「背」がのびたらしい」と書かれている。そうなのだ。美味い物のことを書いても、なじみの店について触れるばかりで、グルメ談義にはならない。すべてが、背丈に合わせて書かれているので、読む方も背伸びしないですむ。近頃、これほど気軽に読めて、読後に軽い満足感を覚える本を知らない。腹八分目のエッセイというところだろうか。

その初期のエッセイに高校時代の教師について語った一文がある。その中にホフマンスタールのエッセイが出てくる。言葉の魔力について語ったもので、それは「魔法の指輪」を指にはめたようなものだという。ところが、この指輪は学者から学生に手渡されることはない。彼らはこの指輪をもっていないからだ。それができるのは、学者から「軽蔑される」、善良で物わかりのよい教師たちだと詩人は書いている。

それというのも彼らの多くが教師以前に「他のもの」であったからだ。人生の航路において、偶然に教師となった。すでにあまりに多くを体験してしまった人たち―その中には不遇の詩人や、失望した俳優や、放逐された王子がいる―その人たちの言葉にこそ流れ去る暗い影のように、多くの面影が動いている。(「魔法の指輪」)

センセイもまた、「他のもの」であった先生によって「魔法の指輪」を受けとったと書いている。多くの人が、何かの偶然で教師になった先生によって「魔法の指輪」を受けとっているにちがいない。遂に何者にもなれなかった失意の詩人や挫折した俳優は、善良な教師となることによって「魔法の指輪」の持ち手になっているのだ。ここを読んで高校時代の国語の教師を思い出した。不肖の弟子ではあったが、私もまた、「魔法の指輪」を受けとっていたのだ。


pagetop >

 2005/6/11 『僕のスウィング』 トニー・ガトリフ監督

ジャンゴ・ラインハルトを御存じだろうか。ジャズ・ギターの伝説的な名手。今ではロマの人たちと言わなければならないのだが、ジプシーの血を引くジャンゴの指先が奏でる音楽は、独特の哀愁を帯びた旋律とリズムが特徴的で、ジプシー音楽とスウィングが融合したその音楽はマヌーシュ・スウィングと呼ばれ、今でも後継者によって受け継がれている。映画の中で「マヌーシュもヒターノもジタンもみな同じだ」といっているように、マヌ−シュはジプシーの異名である。

母の都合で、マックスは独り夏休みをストラスブールの祖母の家で過ごすことになる。街角のカフェでミラルドの奏でるマヌーシュ・スウィングを耳にしたマックスは、彼にギターを習おうと、マヌーシュの人々が集まる一角を訪ねる。練習用のギターを探しにやってきたマックスにジャンゴ・ラインハルトが使ってた物だと偽って、屑ギターをウォークマンと交換で売りつけたのがスウィング。黒い瞳が印象的なやせっぽちの少女だ。

スウィングといとこのカルロ、それにマックスはすぐ仲よくなる。裕福な館で暮らす祖母には唾を吐いたり風呂を嫌がったりする孫の近頃の変貌が飲み込めない。外出禁止を食らうマックスだったが、ミラルドのトレーナーでは折しもパーティーが開かれようとしていた。アラブ人やユダヤ人、それにもちろんフランス人も、みんなが楽器を持ち寄って狭いトレーナーの中で「黒い瞳」をセッションするシーンは圧巻である。

マックスはしだいにスウィングに惹かれてゆく。スウィングが気になってギターの練習も身が入らない。頭が痛いと仮病を使って川に魚を捕まえにゆくスウィングを追っかける。ボートを浮かべて二人っきりの川遊び。何かというと水浸しになりながら二人が笑いあうシーンは男と女を意識していないように見える二人の無意識の裡に高まる官能を象徴しているかのようだ。

マックスは自由奔放なスウィングとマヌーシュの人々との生活に夢中だった。そんなある日、母親がマックスを連れて旅行に出るという連絡を寄越す。引き止めるスウィング。しかし、結局母親の車に乗るマックス。別れにマックスは、自分の日記をプレゼントする。スウィングと出逢ってからの日々を書きつづったものだ。しかし、定住をよしとしないロマ族は学校教育と無縁だ。スウィングは字が読めない。二人の住む世界の違いをさらりと匂わせながら映画は幕を閉じる。

ユダヤ人のホロコーストは有名だが、ロマ族もまたナチスの迫害を受け、多くの死者を出している。ミラルドの母親が語る一族の歴史や、鉄条網を見ると無性に腹が立つというユダヤ人の医者の言葉に歴史が暗い影を落としている。マックスはギターを教わるかわりに字の読み書きができないミラルドの代筆をする。ユーモアにまぶしてはいるが監督は自身のルーツでもあるロマ族の持つ問題点も描くことを忘れてはいない。

マックスとスウィングの一夏の恋物語を彩るように全編を通じて流れるマヌーシュ・スウィングをはじめ、アラブ音楽等民族音楽が素晴らしい。ミラルドに扮するチャボロ・シュミットはジャンゴ・ラインハルトの第一の後継者。現役のマヌーシュ・スウィング奏者が映画の中で弾いてみせるギターの妙技に酔いしれた。爽やかな青春映画であり、虐げられ続ける民族の魂を映像と音楽で綴る叙事詩でもある。


pagetop >

 2005/6/11 『書物愛[海外篇]』 紀田順一郎編 晶文社

このアンソロジーは[日本編]と対になっているが、グーテンベルグの活版印刷による聖書の刊行以来、本を愛することにかけて西洋には歴史がある。それ故ビブリオマニア(愛書狂)について書かれた本も枚挙に暇がない。その中でも「書物固有の魅力を知りつくした作家による、選り抜きの作品」ばかりを収めた[海外篇]はさすがに読みごたえがある。

まず、「愛書狂」などという題名からもうかがえるように、物狂いの程度が半端ではない。書物蒐集のためなら放火殺人も辞さぬといった思い入れの強さは日本篇ではちょっと見られない。愛するにしても憎むにしてもその振幅の度合いが大きいのだ。

また、聖書のことをThe Bookと呼ぶことからも推して知られるように、キリスト教文化圏には世界を一冊の本として見る見方がある。知識を封じ込めた書籍に寄せる思いには、世界をまるごと所有したいという欲望が潜んでいる。稀覯本の蒐集家といっても、単なる趣味や投機的な目的のために集める者ばかりではない。それだけに、自分の人生を消尽するまで古書蒐集に賭けてしまう悲劇が起きるのである。

少年時代のフローベールが実際にあった事件をもとに書き上げた「愛書狂」は、かつて白水社から出た生田耕作編『愛書狂』でも巻頭に置かれていたビブリオマニアを描いた物語では外すことのできない傑作。火事にあった書店から消えていた世界に一冊しかない聖書が競争相手の書店から見つかった。弁護人は罪軽減のため、それが世界で一冊でなかったことを証明しようとするが、それを聞いた被告人は絶叫する。蒐集家の心理を突いたアイロニーにみちた一作。

セーヌ河畔に家政婦と猫と暮らす学士院会員シルヴェストル・ボナールは、一冊の古写本を訪ねてイタリアまで旅に出る。老人は旅先で出会った貴婦人に、探し求める本が皮肉にも一足違いでパリに戻った話をする。帰仏した老人は、早速古書店に出向くがそれは競売で人の手に落ちてしまう。失意の老人にある日薪が届く、とその中には……。アナトール・フランスの「薪」は「情けは人のためならず」を地でいったフランス風のエスプリが効いた洒落た一編。

しかし、本アンソロジー中いちばんの掘り出し物は、シュテファン・ツヴァイクの「目に見えないコレクション」と「書痴メンデル」の二作だろう。前者は版画の蒐集に一生を費やし、今は盲人となった男が、コレクションを見に来た古美術商に見えないはずのコレクションを喜々として説明するという話。老妻と娘が古美術商に懇願したこととは何か。戦後インフレのもたらした悲劇を静かに告発した傑作。

後者は、ヴィーンのカフェの片隅にいながら、出版された本の題名、著者、刊行年を一冊残らず暗記しているという本の生き字引ヤーコプ・メンデルの消息を描く。ネット検索のなかった時代学者や学生が頼りにしたメンデルだったが、本以外には興味を持たず新聞も見ないという極端な生活ぶり。それが災いして敵国である英仏に書籍を注文したことから収容所送りに。かつての顧客であった著名人の嘆願で無事出所したのだったが、強制的に現実に向き合わされた結果、帰ってきたメンデルはかつてのメンデルではなくなっていた。市井に生きる書物愛をしみじみとした筆致で描いた名品。読後に静かな余韻が残る。

アンソロジーを読む愉しみは、自分の読書傾向とは異なる作家の作品にめぐり逢えることである。「愛書狂」や「ポインター氏の日記帳」のように既読の作品に再会するのも愉しいが、ツヴァイクのように読まずにきた作家の作品に出あって感銘を受けるのはそれに倍する悦びである。他にO・ユザンヌ「シジスモンの遺産」、ギッシング「クリストファスン」、H・C・ベイリー「羊皮紙の穴」他二掌編を収める。いずれも愛書家の悲喜こもごもを描いた逸品ぞろい。生田耕作をはじめ、選りすぐりの訳者揃い。翻訳物はどうもという人にこそ読んでもらいたい一冊。


pagetop >

 2005/6/9 『書物愛[日本篇]』 紀田順一郎編 晶文社

世に本好きの人は少なくないだろうが、「書物愛」とまで言われると、ふつうの読者はちょっと引いてしまうのではないだろうか。編者は紀田順一郎。本については一家言を持つ名うての本読み巧者である。解説にある通り「書物と人生の深く、楽しく、時には不可思議で悲惨な関わりあいについて」書かれた短編が九篇集められている。紀田氏がこれまでに読んできたものの中から、選びぬかれた作品は、夢野久作のように、ポピュラーな作家から、不勉強にして名さえ知らなかった作家まで、その射程は幅広い。ひとくちに「書物愛」とくくってみても、なるほど、さまざまな関わりあいがあるものだ。

古本屋にとっては本盗人は天敵である。本アンソロジーのなかでも、本泥棒の話は何度も出てくる。夢野久作の「悪魔祈祷書」は、機転を利かせて不法手段で稀覯本を集める蒐集家に一杯食わせる話。ミステリ仕立ての鍵になるのが、聖書に擬したアンチ・クリストの書物。日本にはめずらしい洋古書物という仕掛けが愉しい。

島木健作の「煙」は、思想ゆえに世間から脱落した青白きインテリが、古本屋の手伝いをする話。競りで、値打ちを知らぬ丁稚が自信を持って安値をつけるのに、なまじ文学や美術に通じているために、相場より高値で買ってしまう。安く扱われる本に自分を重ねてしまうインテリの自嘲が苦い。

由起しげ子の「本の話」は、闘病する姉を看病し疲れ、先に逝った義兄が蒐集した専門書を、姉の介護の費用を捻出するために売ろうとする妹の苦悩を描く。貴重ではあるが専門家にしか値打ちの分からぬコレクションを、ただ姉を生かしておくことのために処分することの正当性を疑う妹の心には、義兄への思慕が。本の蒐集という行為の意味を問う一作。

野呂邦暢の「本盗人」は、古書店から盗まれた稀覯本が主人の知らぬ間に帰ってくるという話。不審な女性客に目を止めた店主は、女性の後をつけると……。軽い恋愛小説風スケッチ。横田純弥の「古書狩り」は、古書店から何冊も同じ本を買う老人の秘密を暴く話。同じ本の奥付を見ては、買ったり棚に戻したりする老人の目的とは。謎解きミステリ風の味わいのある一編。

物語巧者の宮部みゆきは、「歪んだ鏡」で花を添えている。短篇ながら、複数の人物が絡まり合って一つの謎に向き合うストーリー展開はさすが。山本周五郎の『赤ひげ診療譚』を手がかりに古書店主の解く謎とは。周五郎のトーンを生かした人情の味わいが読後に残る佳編。稲毛恍「嗤い声」は、芥川、直木両賞発表後に起きる受賞者の初版本の書価高騰を狙った買い漁りを描いた作品。庶民のささやかな欲望がかえってリアリティーを持って迫る。

しんがりは、編者紀田順一郎の作品「展覧会の客」。悪い噂のあるコレクターとの交遊を通して、稀覯本蒐集の裏側をえぐった意欲的な一編。書誌学者めいた風貌からは想像のつかない人間観察眼が光る。以上、いずれも看板に偽りのない書物と人生との不可思議な関わりあいを描いて秀逸。古書蒐集が趣味という人なら、何を置いても読むべき一冊。『書物愛−海外篇』とあわせて読まれることをお薦めする。

pagetop >

 2005/6/6 『モリスの愛した村』 齋藤公江 晶文社

ロンドンから西にテムズ川をさかのぼると、イングランドがウェールズと境を接する辺りに、その地方特有のクリームがかった灰色の石灰岩で組み上げた家々が立ち並ぶ、コッツウォルズと呼ばれる地方がある。ケルムスコット・プレスと呼ばれる美しい書物を作り、植物や鳥をモチーフにした細密な壁紙などのテキスタイル・デザインを生み出したことで有名なウィリアム・モリスが、最愛の妻ジェインと過ごすために探し当てた理想の村が、コッツウォルズにあるケルムスコット村である。

家の前を小さなテムズ川が流れ、その趣のある外観から領主館(マナー・ハウス)と呼ばれる古い建築をモリスはいたく気に入ったようだ。モリスと違い、オックスフォード生まれのジェインは、ロンドンでの生活が合わなかった。夏場だけでもロンドンを離れて過ごせる家を探していたモリスにとって、ケルムスコット・マナーは注文通りの隠れ家だったろう。借地権を共有するダンテ・ガブリエル・ロセッティと、モリス一家はそこに移ることになる。

ロセッティは、詩人で、ラファエル前派を代表する画家でもある。ジェインをモデルに多くの傑作を残していることでも有名だ。ロセッティとジェインの仲は半ば公然の秘密であり、モリスは二人の関係に苦しむことになる。ケルムスコットに移転して間もなく、モリスは二人をそこに残し独りアイスランドに旅立つ。旅は苦境からの逃避行でもあった。

英文学者の著者は、その詩を読むことからモリスに近づいていった。やがて、オックスフォードを訪れた著者は、そこにモリスの愛した灰色の小さな村が今も残っていることに感慨を覚え、ことあるごとに近隣のモリスゆかりの村や丘を訪れ、彼の愛した建築や風景を愛でることを楽しんだ。この本は、そうした旅の折々に綴られた紀行文風エッセイである。

ケルムスコットに居を構えたモリスは、心を慰める村の風景を愛したが、中世の佇まいを残す美しい村も時代の波には勝てず、教会の石造りの床が、ヴィクトリア朝好みのタイル貼りに改築されようとしていた。村だけではない。この時代、英国中で古い遺跡や建築が、新しい時代に合わせた意匠に変えられていた。モリスはその流れに異を唱え、やがてはナショナル・トラスト運動となる環境保全の運動にいちはやく取り組んだのだった。

モリスたちの運動は、ただ美しい景観を残すというものではなかった。社会主義者でもあったモリスは、そこに人の生活のある村を愛した。機械的な大量生産でなく、手仕事にこそ芸術的な美しさがあると信じたモリスは、ロンドンから大量の芸術家を呼んで、アーツ・アンド・クラフト運動を起こすことになる。ケルムスコットこそはその中心であった。

運動そのものはやがて終焉を迎えることになるが、村の佇まいはそのまま残った。現在では、それを観光資源としてコッツウォルズは日本からも多くの観光客を集めている。ただ、観光地としての村はモリスが愛した、人が生活する村とはちがう。鉄道は廃線となり、車一台がやっとという田舎道を行かなければ辿り着けない村は、それだからこそ中世風の懐かしい姿をとどめていられるわけだが、著者は、そこに寂しさを感じているようだ。

村の風景を映したDVDも付いているが、残念ながら再生するプレイヤーがないので見ていない。お持ちの方は是非、映像とともに楽しんで読まれるといい。「夢を見るもの 時にかなって生まれた からっぽの唄をうたう歌人」と自称するモリスの詩も何編か引用されているが、立原道造の詩を思わせる、かなしさと懐かしさを感じた。コッツウォルズに行ってみたくなった。

pagetop >

 2005/6/4 『一者の賦』 澤井繁男 未知谷

ああ、この人も今はない京都書院の二階に並んだ書籍の前で長い時間を過ごしたんだな、と懐かしくなった。登場人物が学生時代下宿していた京都の部屋に残された書棚の中身が、我が家の書棚の最も古い部分に似ているからだ。後に新興宗教の教祖になるのだから、ルドルフ・シュタイナーの『神智学』は分かるが、稲垣足穂、夢野久作と続くのは、いかにも奇異だ。著者も、当時降って湧いたように起こった幻想怪奇文学ブームの洗礼を受けたひとりに違いない。河原町にあった店はその種の本を切らせることがなかった。

澁澤龍彦という水先案内人を得て、博物誌やら錬金術という、それまでは一部好古の士にしか知られていなかったヨーロッパ思想の古層のようなものに眼が向けられ、堰を切ったように斯道の先達たちの作品が復刊されたのが、著者がイタリア・ルネサンスを専攻し京大大学院に学んでいた丁度その当時である。多感な時代に影響を受けた書物というのは忘れがたいものだ。

小説の筋はシンプルなものだ。北海道に本部を置く新興宗教の教祖が失踪した。教祖とその妻、それに弟の三人で経営している小さい教団である。信者も増えつつあった時で、失踪の原因が分からない上、教祖不在が長引けば運営が難しい。手がかりを得られなかった義弟に代わり、妻が教祖が大学時代に住んでいた京都に出向き、夫の居場所を探る。そして、最後はイタリアに飛び、失踪に至る原因を究明するというのがそのあらすじである。

教祖と呼ばれる男は最後まで姿を現すことがない。友人や恩師、家族から見た男の像が章が変わるたびに明らかにされてゆく。そこに浮かび上がってくるのは、求道的な資質を持つ青年が、金儲けの手段と考えて教団を作りながら、しだいに信仰というものの深みにはまりこんで行き、二進も三進もいかなくなり、失踪を契機に本来の信仰を問い直し、それを信仰告白の形で表現することで自己実現を図ろうとする姿だ。

男の考えは生で語られることはない。それは、小説の中に仕込まれた小説、メタ・フィクションという形で読者に示される。教祖が学生時代に書いた『太陽と惑星に寄せる賦』という詩篇めいた作品や、海外の民俗学者の書いた『愚者の石』という書物を登場させ、さらにまたその中にD・H・ロレンス作といわれる手記をそのまま引用してみせるという、手の込んだ構成である。未完であった学生時代の作品を完成させたのが、最後の場面で読まれることになる『金属の詩』。占星術や錬金術と民間信仰をないまぜにした寓話とも読めるし、一種の信仰告白とも読める。

高橋和巳を思わせる佶屈な文章が一途にものを思いつめる男の頑なな性向を反映し、京都という観光地を選びながら、荒神口や妙心寺道といった渋いロケーションの選択が作品にリアルさを与えている。反面、ローマにおけるそれは、トレヴィの泉やパンテオンという観光地であるのが少し残念。主人公の妻が投宿するホテルが映画『終着駅』の舞台であるテルミニ駅付近というのが、京都の雰囲気に近いか。魔術や錬金術という日本に馴染みにくい話題を新興宗教とからませることで、かなり強引に小説化し、専門知識を生かして偽書を創造するなど、「ルネサンスの知と魔術」に詳しい著者でなくては書けなかった作品と言えよう。


pagetop >
Copyright©2005.Abraxas.All rights reserved. since 2000.9.10