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 2005/3/26 『枯葉の中の青い炎』 辻原登 新潮社

辻原登は巧すぎる書き手である。そのままで一篇の小説として立派に通用するだろう題材にさらに一ひねり二ひねりを加えないと満足できない。そのひねりの基となっているのがこれまでに読んできた世界中の物語や小説だ。おそらく無類の本好きで、作家自身の幾分かは本でできているにちがいない。どの話にも時間や空間を隔てた異国の物語が影を落としている。というより、異国の物語を読んだ経験が作家をして新しい物語を紡せている。物語が物語を産む。登場人物も作家も我々人間はみな物語を語る器官のようなものだ。

青いラピスラズリのブローチを故郷で待つ許嫁への土産として持ち帰った男が、部屋の壁に掛かった絵の中の世界へと迷い込み、向こうで別の女性と何年かを過ごして帰ってくると、こちらの世界では数分間しか経っていなかったというメルヘンがある。「一炊の夢」を主題にしたヴァリエーションだが、世界を往還するのはいつも男だ。女は壁の絵と扉の向こうでただ男の帰りを待つしかない。

「ちょっと歪んだわたしのブローチ」は、男を待つ女の側の視点から書かれている。愛人と同棲するためにひと月の間だけ家を空けたいという夫の願いを冷静に受けとめたように見えた妻だったが、二人の部屋を突きとめると、向かいの建物の空き部屋を借り、オペラグラスで二人を眺めるようになる。向かいと同じ色のカーテンを掛け、同じ花を部屋に飾る。奇妙なシンクロニシティが起こる。向かいの花とこちらの花が同じ散り方をするのだ。約束のひと月がたち、夫が家に帰ってみると、妻の胸には女にプレゼントしたはずのラピスラズリのブローチが……。

「枯葉の中の青い炎」では、新聞に載った小さなコラム記事から、往年の野球ファンを湧かせたスタルヒンの三百勝という偉業と、続いて起きた悲惨な事故死の間に横たわるミステリアスな共時性に目を止めるよう読者を促す。天皇の太平洋三カ国訪問中止を告げる記事で見つけたのは大酋長であるアイザワ・ススムという名前。かつての高橋ユニオンズの名選手だ。彼が少年だった頃、その島には『ツシタラ(後に「光と風と夢」と改題)』を書いた中島敦がいた。

「物理世界と精神世界を秘かに結ぶシンクロニシティは、日常生活にいくらでも起きていることではないか。ただわれわれは、それを自分の意志で起こすことができない。秘蹟を起こすことのできる儀式、方法を我々は持っていないだけなのだ」と、作中ツシタラ(物語大酋長)は語る。

書名は短編集の掉尾を飾る一篇から取られているが、硝子瓶の中に封じ込められた枯葉をちろちろと舐める青い炎は、現実世界に隠れながら、知らぬ間に裡側からそれを焼尽していく物語世界の暗喩でもあるのだろう。二篇の他にも現実と物語の間に強引に架橋した稀有な物語世界を見せる短篇が四篇収められている。作家はどのような儀式でもって、これらの秘蹟を成し遂げたのだろうか。

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 2005/3/21 『河岸忘日抄』 堀江敏幸 新潮社

題名だけ読むと時代小説みたいだが、もちろんちがう。堀江敏幸らしい、エセーと小説のあわいに成立しているような独特の世界。仮綴じ本のように素っ気なさと親しさとを感じさせるあっさりした造本。小さめの活字、アスタリスクで切られた断章のような文章構成。すべてが肩肘張らず身軽で風通しのよいのがいかにもこの作者らしい。

「海にむかう水が目のまえを流れていさえすれば、どんな国のどんな街であろうと、自分のいる場所は河岸と呼ばれていいはずだ、と彼は思っていた。」冒頭のこのセンテンスを含む一節は、そのまま終章近くに登場する。物語ならそれで何かが終わり何かが始まるかのように。

今、彼がいるのは、とある河岸に繋留された二、三人なら快適に暮らせる設備の整った一艘の船。少し働きすぎた彼は、仕事を精算し、かつて留学していた土地を再訪していた。昔なじみに提供された船の上で、行く水に日を浮かべては暮らしている。時折遊びに来る少女や郵便配達夫くらいが話し相手という市井の隠者暮らし。どうやらかつての仕事が彼をこのような孤独に追い込んだ原因らしい。電池を次々と縦につないでより強い光を求めるような直列型が今の時代というものなら、彼は並列型の人間だった。他者との軋轢に倦んで、孤独を求めてきたのだ。

ひとり暮らしの男の生活とはいえ、そこはフランス。船の中には300枚を超すLPレコードとCDとそのための音響装置、それに少なからぬ蔵書も備えられている。何不自由ない生活の中で、することと言えば本を読み音楽を聴く間に、クレープを焼き、マルメロのジャムを作り、ガラパゴス産の珈琲を淹れ、デッキの椅子に座る毎日。羨ましいような暮らしぶりだ。

物語とも言えぬほどの物語を彩るのはコラージュのように挿入される他の小説や映画、童話、音楽家の評伝に関するエセー風の思索。特に何度も言及されるのがディノ・ブッツァーティ作『K』。主人公ステファノにつきまとう海の怪物がKだ。人生において他者との遭遇がもたらす幸不幸についての苦い寓話とも言うべきこの物語は、向き合うべき人生から一時避難している彼には迫るものがある。タルコフスキーの『ノスタルジア』や、チェーホフの「スグリの木」、ショスタコビッチの交響曲と、挙げていけばその傾向が仄見える。

停滞し逡巡する彼の内省は思弁的なものにならざるを得ない。年長の友人である枕木との海を越えてのファクスや手紙のやりとりは、「他者」や「現存」という観念についての哲学的と言ってもいい対話がなされる。それと比べると船の持ち主である老人との会話はもう少し人生に寄り添っている。幸福とか悲しさ、孤独という概念が、人生の老師ともいうべき先達によって揺さぶられる。不思議なのは老成しているように見えた作家がここに来て若返っているように思えることだ。

対岸の木立が風に揺れる様子や雲や霧、風雨の描写。ほとんど定点観測のようにそこだけに限ってなされる心象風景の移ろい。航海日誌の顰みに倣って挿入される気象情報。春からはじまった物語は、一応老人の死で幕を閉じる。終章、彼はそれまで行こうともしなかった対岸に歩を進めようとする。対岸に渡れば船の反対側を見ることができる。何も変わらないかも知れないが、とりあえずためらいの時は過ぎたようだ。読後爽やかな余韻を残す一編。人生という流れに飛びこむ前に躊躇している人、日々の生活に疲れ、懐疑を感じている人に薦めたい。


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 2005/3/19 『古書の聖地』 ポール・コリンズ 晶文社

ピ−ター・メイルの『南仏プロヴァンスの12ヶ月』が売れたせいで、プロヴァンスに観光客が押し寄せるようになり、当のメイル本人が騒がしさに耐えきれなくなってせっかく苦労して手に入れた新居を手放すことになったのは皮肉な話だ。異国の地で暮らすことになった外国人が、家を手に入れる顛末と地元の人々との交流を絡めて一冊の本にしたという点で、この本も前述の本と同工異曲である。ただ、風光明媚で美味しいものに溢れた南仏の町と、本屋と火事で焼けた姿をそのままさらす城しかない英国の町では、条件がちがう。作家が町を去るに至った理由は別にあった。

ポール・コリンズはこの時点ではまだ処女作を出版していなかった。失敗した者の事例ばかりを集めたその本の出版は、ヘイ・オン・ワイと呼ばれる古書の町を離れ、アメリカに帰国してすぐのことだからだ。古書の町での家探しのあれこれと、城の持ち主であるリチャード・ブースの書店での仕事、それに子育てと本が出版されるまでの手続きを気の向くままに書きとめたような、エッセイとも紀行文とも私小説ともつかぬ奇妙な本だが、読み始めてみると引き込まれてしまう。

ヘイ・オン・ワイはウェールズとイングランドの州境に位置する人口千五百人ほどの小さな町である。60年代までは単なる市場町だったが、物流の時代にバターと卵の市でやっていけるはずもなく町はジリ貧状態であった。その町を英国屈指の本の町にしたのがブースである。彼は城を買い、古い消防署や映画館を買い取ると、世界中からコンテナで送られてくる古書を売る本屋に変えていった。今では教会が五つ、食料品店が四軒の町に、古書店が40軒、築百年以上を誇る建造物の中に数百万冊の古書が隠れる「古書の聖地」になってしまった。

奇書や古書に目がないポールは、以前に二度ほどこの町を訪れ、隠退するならこんな町がいいと思い定めていた。サンフランシスコでこれ以上やっていけなくなった若い夫婦が、子育てにもいいだろうと引っ越し先に決めたのが、ヘイ・オン・ワイだった。本屋の二階にあるアパートに腰を落ち着けた二人は、一日も早く引っ越せるよう家を探すのだったが、気に入った古い家は、高価すぎたり、奇妙な条件が付いていたり、古くて修理代がかかりすぎたりとどれもうまく話がまとまらない。アメリカとは違うイギリス流の不動産売買の仕組みに関するやんわりとした批評もあって、憧れの英国での暮らしはすんなりとは始まる気配がない。

そのうちに、迷い込んだ書店の倉庫で、アメリカ文学に強いところを認められ、大量に積み上げられた古書の仕分けを受け持つことになる。その店主が「本の国の王様」ブースだった。貴族の血を引くブースは、城を買い取るとパスポートを発行し、ヘイ・オン・ワイを独立国扱いするなど、数々の奇行で知られていたが、最近では手堅い古書店を経営するライヴァルが現れ、城下の書店も次々と買収されるなど苦境に陥っていた。

しかし、ポールは有名な稀覯本を扱う整然としたその店よりも、アナーキーなブースの店が気に入っていた。なぜなら、ブースの店にはどうしようもない本も多い代わりにここでしか見つけられない掘り出し物に出会う可能性もあるからだ。真の本好きが、自分の知っている本しか置いていない店より、何が隠れているか知れないブースの本屋の方に興味を持つのは当然だろう。

ブースの店でアメリカ文学の棚を整理しながら、次から次へと古書の蘊蓄を披瀝してゆくあたり、あるいはアパートの大家で古書の町唯一の新刊本を扱うペンバートン書店のオーナー、ダイアナとブースのヘイ・フェスティバルをめぐる確執、と本を取り巻く話題満載で、本好きにはたまらない一冊である。

因みにヘイ・フェスティバルは、かつてはヘイ文学フェスティバルと呼ばれ、カズオ・イシグロはじめノーマン・メイラーなど錚々たる作家がやってくる一大文学フェスティバルなのだが、ヘイの町の書店がスポンサーにもなっているこの行事にブースは参加しない。なぜなら、それで利益が出るのは町でたった一軒の新刊本書店であるダイアナの店だけだからという理由で。もとはアンティークショップだったダイアナの書店には、ブルース・チャトウィンやマーガレット・アトウッドなどの本がたくさん置いてあるのと逆に、当然あってしかるべき本がないという個人の書棚を拡大したようなところのある店らしい。チェーン店の書店が増えている中で、こんな本屋が続けていられるというのはなんだかうれしい。

ひとつ気になるのは翻訳の文章である。キイボードの打ちまちがいかも知れないが「だ褐色」だの「ディジェスティブビスケット」だのという耳慣れない語句が頻出する。初版であるので、次の版では訂正されることになると思うが、本を扱った作品だけに洒落にならない。固有名詞については「インターネットで検索すればまず大抵のものは調べられた。便利な世の中になったものである」と訳者あとがきにあるが、辞書を引くという不便を避けるようなことはなかったのだろうか。もって他山の石としたい。

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 2005/3/13 『世界文学を読みほどく』 池澤夏樹 新潮社

作家池澤夏樹が2003年9月に京都大学文学部の学生を相手に行った夏期特殊講義の講義録である。七日間午前と午後に分けて計十四回の講義。採り上げた作品は自作『静かな大地』をのぞけば、スタンダールからピンチョンまで世界文学の傑作と呼ばれる十編。一回の講義で一作品を読んでいくというスタイル。

一読後の印象は、京都大学文学部というから、さぞ難しいものになるのだろうという予想をくつがえし、一般教養的な誰にでも分かる言葉を使っての講義だったので拍子抜けした。現役の文学部の学生相手にこれくらいの内容だとすると、一般に文学を大学で学ぶというのがどれほど意味のあることなのかという疑問が浮かぶ。もっとも、芥川賞作家から直に世界文学についての講義を受けることができる機会というのは一般人にはなかなかないわけで、そういう意味では大学というところは特権的な場であると言えるかもしれない。

世界文学というと仰々しく聞こえるが、取り扱ったのがすべて小説であることからして、この講義は小説論を扱ったものである。小説の始まりは「神話」だとはよく言われることだが、作家はそれに「ゴシップ」を加えてもいい、と言う。講義の中でも採り上げている『ユリシーズ』が神話的な作品であるとしたら、今回は扱っていない『失われた時を求めて』が、ゴシップ的な小説である。今日、文学を語ろうと思ったら、必ず言及されるこの二作はその意味でも両翼を担っている訳だ。

カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』の中に「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある」という言葉があるそうだ。そしてその後に『だけどもう、それだけじゃ足りないんだ』と、つけ加えられる。現代の小説とは何を書こうとしたものなのか、それを読むことはどのような意味を持つのか、というのが講義の眼目らしい。

冒頭に読者と作者、登場人物の間に幸福な関係の成り立つ小説として『パルムの僧院』が挙げられている。これが始まり。次に来るのが『アンナ・カレーニナ』と『カラマーゾフの兄弟』。前者はメロドラマで大衆小説、後者はリアリズム小説と、作家の評価に温度差はあるが、いずれにせよスタンダールに比べると、二作とも今日的なテーマを持つ小説として現代でも通用する。

『白鯨』は発表当時、よく理解されたとは言えない。単純なストーリー展開とは別に、鯨についての百科事典風の知識を羅列的に書き並べたその作品の持つ構造が当時は理解されなかった。世界はツリー状の構造をなしているわけではなく、それぞれがばらばらに並置されているアト・ランダムな状態になっているというのは今日としては自然だが、当時としては先見的な解釈だったろう。読者の世界観と作品のそれに乖離が生じているのだ。

『ユリシーズ』を採り上げた講義では、様々な言語、文体を駆使することで、膨大な分量を持った世界をあれだけの長さに圧縮してみせた、小説における言葉の持つ力に言及する。また、『魔の山』では世界を考える上での西ヨーロッパという問題、『アブサロム、アブサロム!』ではアメリカ南部の抱える問題、『ハックルベリイ・フィンの冒険』ではアメリカ人の信じるイノセンスの問題と、採り上げる話題は変わるが、話題が文学以外のものに推移していくのが分かるだろう。『百年の孤独』では、ラテン・アメリカという「別世界」を、『競売ナンバー49の叫び』では、エントロピー論やアメリカという国に根強く蔓延る陰謀説を話題に上らせている。

「小説は、その時代、その国、その言葉の人々の世界観の一つの表現である」というのが作家の立てた仮説である。19世紀から20世紀後半までの十人の作家の作品からその変遷をたどってきたわけだが、きわめて常識的な説明に終始しているように感じた。むしろ、脱線したところ、たとえば、作家は自分の中の批評家を押さえつけなければ書けないという話の例に、批評家として優れた作家に丸谷才一を挙げ、だから十年に一度しか作品を書かないと言ったりするところに小説家としての実感が出ていて面白かった。政治的な発言もあるが、そのナイーブさから見て、若い読者向きと言えるだろう。


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 2005/3/9 『真夜中へもう一歩』 矢作俊彦 光文社

『リンゴォ・キッドの休日』(78年)に続く二村永爾ものの第二作である。とはいえ、初版は1985年、今から二十年前になる。当然、絶版。これも図書館の閉架書棚で眠っているところを引きずり起こしてきたよれよれの一冊。昨年、三島由紀夫賞を取った『ロング・グッドバイ』が第三作だから、二村は、相変わらず、あまり休暇が取れないらしい。

私立探偵という、この国ではあまり現実的でない設定を採らず、主人公を現役の刑事にしたのはいいが、警察という機構に頼ったり、権力を行使して事件を探ったりしたのでは、ハードボイルド小説としては興醒めだ。ハードボイルド小説の主人公というのは、孤独でなければならない。頼りになるのは自分の拳と頭、それといくら使っても減らない口くらいのものだ。

だから、ふだんは警察で働く二村が自分の仕事に割けるのは、滅多にとれない休暇の間。なかなか巧い設定である。手帖も銃も持たない休暇中の男なら私立探偵と変わらない。ただ、探偵とちがって、基本料金や調査にかかる実費は請求できない。この作品では愛車はベンツ。着る物にも相当気を配っているようだし、食事と酒にはうるさそうだ。公務員の給料でやっていけるのか心配になるが、野暮なことは言うまい。青年と言ってもらえる年頃だ。パリッとした格好で登場する二村は颯爽としている。

医大から病理解剖用の死体が消えた。学生の悪戯を心配する友人から調査を頼まれた二村は久々にとれた夏休みがつぶれるのを気にしながらも調査を開始する。山中湖にある関係者の別荘を訪ねた二村は冴子という美貌の令嬢に出会い、惹かれるものを感じる。例の如く米軍関係者、銀行家、病院経営者、それに密輸グループと、怪しい人間達が巣くう横浜の街と山中湖を舞台に、少したがの外れたような、美しいが危うい女をめぐる殺人劇が繰り広げられる。

どんな社会にも、利権を握る者同士が作り上げたネットワークが存在している。有機体のように絡み合いながら、その中に侵入してきた異物を排除するため協力しあっている。その中では、犯罪すらネットワークの存続を脅かすことのないよう、何らかの機構によって未然に回収されてしまう。何の権力も持たない探偵は自分を囮に使うことでしか、犯罪を捜査することができない。そんな探偵は、社会にとってはウィルスのようなものだ。異物として至る所で攻撃を受ける。

手製のブラックジャックで後頭部を殴られたり、薬物を飲まされたり、果ては車のブレーキオイルを抜かれて殺されかけたりと、仕事とも言えない仕事にしては、命懸けの毎日。やるかやられるか、始末される前に真相にたどり着けば、ウィルスの勝ち。綻びを生じたネットワークは、病んだ身体と同じだ。死に至らないまでも大打撃を受ける。ハードボイルド小説とは生きのびたウィルスの後日譚である。ウィルスの生還を喜ぶ者はいない。事件が解決されても残る一抹の寂しさの原因はそのあたりにある。

知悉した横浜界隈。入念なロケハンの成果か、観光地ではない横浜の、細部までしっかり描き込まれた風景が物語の背景に濃密な実在感をあたえている。近辺に住んでいたら、本を片手に歩いてみたくなる。工夫の跡が見えるのは、車や室内にクーラーを効かせることで、空気から湿り気を取っているところ。気分はマーロウの歩くロスアンジェルスだ。

もう一つの楽しみは相手役。美貌のヒロインをめぐる競争相手に織原という仏文出でシェイクスピアやポール・ニザンを引用するインテリヤクザが登場する。学生時代、女子学生を警棒で殴った警官を刺して投獄された過去を持つ。主人公と比べてもひけをとらない腕っ節と侠気を持った人物の登場で、二村の意気も揚がる。洒落た科白が売り物のハードボイルド小説では、いい会話のできる相手を見つけることができれば半分以上成功したも同然だ。

比喩を多用した凝りに凝った文体。車や酒、拳銃、服装へのこだわり、派手なアクションと、謎を秘めた美しい女。ハードボイルドの魅力が横溢する力の入った長編である。

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 2005/3/6 『スズキさんの休息と遍歴』 矢作俊彦 新潮社

40歳を過ぎ、広告代理店の副社長という職にありながら、スズキさんはいまだに世の中に対して怒っている。いや、怒っているのではなく、本人としては正論を唱えているつもりなのだが、一人息子のケンタにはパパはいつも何かと闘っているように見えるのだ。

妹と海外旅行に出かける妻を空港に見送ったら母親に息子を預け、久しぶりの休暇を楽しむはずだったのに、何を思ったのかスズキさんはケンタを乗せたまま会津若松目指してシトロエン2CVで旅立つ。スズキさんをそんな行動に駆り立てたのは、その朝郵便受けに入っていた一冊の本のせいだった。スズキさんは、なぜか無性に本の送り主である学生運動時代の仲間に会いたくなったのである。

その本というのは、岩波少年文庫の『ドン・キホーテ』。言うまでもないが、スズキさんの旅は、騎士道の廃れた時代に騎士道を求めて遍歴する「憂い顔の騎士」ドン・キホーテの遍歴譚のパロディである。かつてはあれほど真剣に革命を目指して闘った闘士達も実社会に出てしまえば、みな訳知り顔の大人になってそれなりの生活を送っている。時代は変わった。イデオロギーの出番はなくなり、左翼はいつの間にか消えてしまった。

スズキさんは、ラ・マンチャの騎士よろしく、ロシナンテならぬドーシーボーに跨り、サンチョ・パンサの代わりにケンタ君を連れて、会津から八戸、そして最後は北海道の留萌まで旅するのだった。学生運動家であった頃、仲間から「弱り顔の戦士」と呼ばれ、今なお「在日日本人」を名のってはばからないスズキさんの言動のハチャメチャぶりは、充分にドン・キホーテのパロディとなっているばかりでなく、日本の現実が持っている嘘っぽさや、惨めったらしさを暴くことに成功している。

何かというと、警官に対してたてをつき、外車というとミニでもボルボでも均一料金というフェリーの代金にくってかかり、ディズニー映画が胡散臭いからと言って(東京に住んでいるのに)子どもをディズニーランドに連れて行かなかったり、スズキさんの行動はかなりおかしい。多くの人は、スズキさんの行動に腹を抱えて笑うだろうが、その奇行愚行ぶりを笑いながらもどこかに共感を抱くのではないだろうか。

官憲にも暴力団にも敢然と立ち向かうスズキさんはケンタの目には頼もしいパパであり、中年の読者にとってもいつの間にか自分の中で失われたものをいつまでも持ち続けている眩しいヒーローのように見えてくる。その意味では、これは『ドン・キホーテ』のパロディであるばかりでなく、矢作の書くハードボイルド小説をネガとすれば、そのポジになっているのかもしれない。

本文イラストもまた矢作の手になる。これが、手慣れていて素晴らしい。伊丹十三が自分のエッセイに描いていたイラストも巧かったがあれに負けていない。タテカン風の書き文字はただただ懐かしく、結末の淡いロマンス風の味付けをノスタルジックに彩る。

学生運動華やかなりし時代には少し遅れ、世界同時革命の夢は破れた映画ポスターの中で色褪せ、風に弄れているのを見るばかりだった。しかし、その後、この国はその頃より少しでもましになったか。「しかたなしに日本に滞在している日本人」である「在日日本人」というのは、正直偽らない自分の心境に近い。作中、「ドン・キホーテの何が悪い」と呟く人物が出てくるが、たしかに悪くなんかない。ただ、人はいつまでもドン・キホーテを気どることはできない。夢から覚めた後をどう生きるかが問われているのだ。

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