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 2005/2/27 『さらば長き眠り』 原ォ 早川書房

エッセイ集の中で、題名について読者が想像するほど作家の思い通りになるわけでもないというような意味の文章を書いているので、そういうものかと一応は理解したつもりだが、それで違和感が解消されたわけではない。しかし、まあハードボイルド作家が、自著に『さらば愛しき人よ』『長いお別れ』『大いなる眠り』というチャンドラーの代表作からそれぞれ一語ずつ拝借した題名をつけようと誰から文句をつけられる筋合いでもないのだ。この手のものを書く人間に、歳の割に子どもっぽいところが残っているのは初めから分かり切っていることだった。

チャンドラーが事務所のデスクの抽斗の中にウィスキーの瓶を常時忍ばせている自嘲癖のある男を探偵役にして、長いモノローグと感傷的な情景描写を売り物にする探偵小説を書いたのは、ハリウッドのシナリオ書きとしても芽が出ず、書きたいものを書くこともできない中でやむを得ず選んだいわば方便だった。それに比べれば、日本のハードボイルド作家は、はじめからチャンドラーやハメットに憧れてそういう種類の小説が書きたくて書いているのだから、読後の印象がちがうと言っても仕方がないことなんだろう。

正式な依頼もされていないのに事件に首をつっこんでは、表面上は平穏さを装っている日常性に波風を立て、果ては依頼者が、調査を依頼したことを後悔するしかない結末へと導いていく私立探偵とは疫病神の別名でしかない。もっとも、地獄の釜の上に蓋をして下で起きている阿鼻叫喚の様を知らぬ世界のこととしてすましているこの世界の住人に対して意識的にか無意識的にかは知らず、置き所のない怒りや鬱屈を抱いているものがいるとすれば、疫病神を引きずり出そうと考えても不思議はない。

探偵小説の犯人や関係者におよそ庶民とはかけ離れた生活をしている富豪や上流人士が配されているのは、一見羨むに足る生活をしているそれらの人々が、一皮剥げば我々と何ほどもちがわない悩みや不安に苛まれている哀れな人々だということを暴き立て、ルサンチマンの解消をはかろうとするものだ。しかし、探偵役が常に読者である我々の一歩先を歩いて真実を明らかにし、我々の代理として正義の審判者の役を果たしながら、その割に結末に救いのないものが多いのは、どうしてだろう。

それは、金や名誉のあるなしを除けば、この国に暮らす多くの人々は自分で思うように自分の人生を生きているわけではないからだ。たとえ、どんな境遇に生きようと自身の生きる目的がはっきりし、それを実現するために動く人物像であれば、そこには操り人形ではなく自らの意志で動く人間としての魅力が生まれるものだ。チャンドラーの描く作品には大鹿マロイのように、そうした愛すべきキャラクターが登場する。

原に限らず、この国この種の小説に欠けているのは主人公以外の登場人物の人間的な魅力ではないか。阿部謹也のいう「世間」というものが力を持つこの国独特のシステムをリアルなものとして描き出そうとすれば、結果は必然的に世間の有り様をなぞるものにしかなり得ない。ドストエフスキーの愛読者であり、処女作から飛び抜けた技量を持つこの人にして、なお心ひかれる人物像の造型に成功したとは言い難い。

自身が疑惑の対象となった高校野球の八百長事件が原因とされる姉の自殺が信じられず、十一年もたってからことの真相を明らかにしたいと考えた魚住彰は、調査の依頼を躊躇している間に何者かに襲われて重傷を負ってしまう。瀕死の状態にある青年からの依頼に答えて、沢崎は調査を開始する。確実と思われた自殺の目撃証言は簡単に覆され、事件は思いもかけぬ方向に広がっていった。事件の鍵を握るのは事件当時姉と親しくしていた人間国宝の能役者の娘らしい。野球と能という何とも取り合わせの悪い材料を力業で組み伏せ、あっと驚く結末を用意した沢崎を主人公としたシリーズ長編第三作である。

シリーズ物らしくかつての登場人物の挿話が入るのも愛読者には愉しい。相変わらず元パートナー渡邊のしでかした不始末のおかげで、暴力団と警察の両者から監視を受ける沢崎だが、さすがに年を感じている。タフさは変わらないが反射神経は鈍くなり、以前はあれほど毛嫌いしていた組員の相良に奇妙な親愛の情を感じ出したりするのもそのせいだ。「ああいえばこう言う」と評される沢崎の返し文句にも年齢に応じた重さが加わって私立探偵というより訳知り顔のご隠居めいたところがでてきた。

「どんなことを訊いても、あなたにはいつもぴったりの答えが用意されてるんですね」と、言う魚住に沢崎はこう答えている。「つまらない質問にはいくつでも好きなだけ正しい答えが見つけられるんだ。だが、本当の質問には簡単に答えられないものだ。たぶん、質問そのものに答えなどより重要な意味があるからだろう……」。日本人の作家がなぜ、気候風土も人間観もかけ離れた国で生まれたハードボイルド小説を書いているのだ、と訊いたら沢崎は何と答えるだろうか。「気候風土も人間観もまったくちがう国に生まれたお前がなぜ、そんな小説を読んでいるのだ?」とはぐらかされるのがオチかもしれない。


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 2005/2/22 『私事』 中村雀右衛門 岩波書店

副題がただごとでない。「死んだつもりで生きている」というのだ。今年で八十五歳になる文化勲章受章者で人間国宝。六世中村歌右衛門亡き後、歌舞伎界を背負って立つ女形の大看板である。大病でもして余命わずかなのか、と思いながら読んでみたのだが。

六代目大谷友右衛門の子として生まれ、小さな時から歌舞伎役者として育てられた。友右衛門は立役である。息子にもスキー、スケート、車にオートバイと男の子っぽい遊びばかりやらせてきた。ところが、戦争から帰ってみると、後ろ盾の父は亡くなっていた。歌舞伎で生きるしかないと、父が親しかった七世松本幸四郎を頼り、付き人となる。その大恩人から「女形になるよう」に言われたのが27歳の時。

歌舞伎役者が、立役でいくか、女形でいくかは自分で決めるのではない。上の者がそう言えば、従うか役者をやめるしかない。男が女を演じるのが女形。歌舞伎の女形は、もともと女性の所作の真似から入ったが、今はそれを昇華し独特の「女形」というものができている。三つ年上の歌右衛門が女形になると決めたのは何と三歳の時というから、二十年以上のハンディがあることになる。

小さい頃から名優の芸を見て育った人である。当然眼力はある。眼高手低の言葉通り、自分の芸の拙さが見えてしまう。父親の死や戦争帰りという境遇から名優達に情けをかけられ一緒の舞台を踏ませてもらえばもらうほど、我が身の拙さが歯がゆくて仕方がない。ついには自殺を考える。偶然がそれを阻んだとき、これからは「死んだつもりで」やってみようという言葉が頭に浮かんだという。

雀右衛門は「わたしは自分に惚れていません」と言いきる。自分の芸の未熟さを我慢して、一歩でも先に進むように練習を繰り返すだけだ、とも。幸四郎に言われた「女形は六十歳にならないとものにならないよ」という言葉を頼りに精進して、八十一歳の時、やっと「これかな」という手応えを得る。『熊谷陣屋』の女房相模を演じたときのことだ。

「出す足ごとに相模の心情が乗り移っていきます。息子を案じる母の感情と同時に、役者としては、ある境地といいますか、ああこれだ、この気持ちだ、この動きだという法悦境とでも申しますか、ああ、歌舞伎役者をやってきてよかった、生きていてよかったと、心からの悦びが身体を貫くのです。」

歌舞伎界という閉じられた世界の中で、ふつうの男には想像もつかない「女形」を演じるという、ただそれだけでも興味はつきないのに、死と隣り合わせだった兵役、遅すぎた出発ゆえの苦労、不世出の女形歌右衛門との確執、映画界入りの波紋と、雀右衛門を取り巻く波風は高い。しかし、ただの苦労話とはひと味ちがう。

たとえば、女形特有の色気を、どうやって出すのかという質問に「肩幅の広い男性が、女形として踊るときには、肩胛骨を背骨のほうに寄せて、その状態で肩を下げ、腰に力を入れていきます」と答えている。また、よく使われる「息が合う」という言葉について「立役が息を吸い込んだときに、こちらは息を吐く。両方が同時に吐いているようでは、息が合ったとはとてもいえません」という。身体論、コミュニケーション論、と話の奥が深い。

子役時代の思い出話や愛妻の話には人間雀右衛門の息遣いが感じられて愉しい。歌舞伎ファンはもちろんだが、何かの壁にぶつかって悩んでいる人は一度読んでみるといいかもしれない。なにしろ、辛抱だけを支えにして「死んだつもりで生きてきた」人の話なのだ。


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 2005/2/20 『愚か者死すべし』 原ォ 早川書房

捕物帖は探偵小説の一種ではなく、舞台になっている江戸の風情を味わう「季の文学」だと言ったのは誰だったか。その言葉を借りるなら、日本製のハードボイルド小説は、欲望渦巻く現代社会の裏側を歩きながら、青臭さを失わずに生きる男の倫理観を味わうものといえるだろう。見せかけの平穏さの陰で世の中がどんなに薄汚い思惑で動かされているのかを、何かの拍子に思い出してしまったりしたときに、悪酔いを防ぐ一服の清涼剤になる。

大晦日の朝、私立探偵の沢崎は、事務所の扉に七年前に死んだ男への伝言が挟まれているのを見つけた。行きがかり上駆けつけた新宿署の地下駐車場で沢崎は銃撃に出会う。車をぶつけて阻止したが、巻き添えを食らった形の若い刑事が殉職する。同じ日、政治家のゴシップを握る一人の老人が誘拐されていた。スキャンダルの暴露を恐れて政治家が払う巨額の「保険金」を狙う犯行を中心に幾つもの謎が交錯する。

日本のハードボイルド小説の探偵は時代遅れのポーズをとるのが好きらしい。携帯電話嫌いで、ヘビースモーカーという沢崎もご多分にもれない。頭も腕も切れるが、仕事を選り好みし、職業倫理にうるさく、必要以上の報酬は受けとらないというストイックさでは、時代に取り残されてしまうのも無理はない。

現代人の多くは、自分が「自分」でなくても構わないのではないか、という不安を抱いているという。人より多く金を儲け、その金で自分の欲望を満たしたところで、その欲望すら自分のものであるかどうか自信が持てないのなら、欲望の追求自体が虚しく思えてきても不思議ではない。金や、ある種の集団に属することで得られるアイデンティティに一瞥もくれず、自己の倫理や信条に忠実に生きることのできる沢崎に羨望の眼差しを向ける者は少なくないだろう。

上質のフィルム・ノワールに似て、登場人物は必要以上に広がらず、場面も限られている。銃撃も車の追っかけもあるが、総じて静かなものだ。日本で犯罪を描けば警察と暴力団を出さずにすますのは難しいが、どちらもあまり魅力的な素材とは言い難い。自分の生き方を貫く主人公との男の友情を描くには組織内の男が相手では役不足の感が否めない。その代わり魅力的な女性は何人か登場する。ただ、いずれも若すぎて、沢崎の相手にはなれないのが少し寂しい。

そのうちの一人、宗方毬子に夫の潔白を証す秘密を打ち明けた後、号泣する毬子を心配するウェイターに沢崎が言う科白が、いい。「女があのように泣いているのは、人生最悪のときか、最良のときじゃないのか……あまり自信はないのだが、たぶんあとのほうだと思う」。ハードボイルド小説を読む楽しみの一つは、探偵の目を通して見られた世相や人間観をそのまま映し出す独白にある。あまり饒舌なほうではないが、この探偵、なかなか洒落た決めぜりふを吐く。

旧男爵家の跡継ぎで、政治家のスキャンダルを記したメモの所有者である設楽老人は自分のマンションに900本に及ぶ日本映画のコレクションを所有している。政敵の追い落としや保身のために、老人のもとには与野党を問わず様々な醜聞が持ち込まれる。それを有利に使うために支払われる「保険金」が、コレクションを維持する資産になっている。その中には公式には断片しか残っていない伊丹万作の『国士無双』の完全なフィルムがあるという。フィクションと知りつつも一度でいいから見てみたい。七億円の金には心動かされなくとも、そのコレクションを燃やすという老人の言葉に衝撃が走った映画好きは少なくないだろう、と思うのであった。


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 2005/2/12 『哲学の冒険』 マーク・ローランズ 集英社インターナショナル

哲学について書かれた本なんぞを読んで何の益があるのか、と考える人がいるかもしれない。たしかに金儲けにはあまり役に立つとは思えない。しかしまあ、ものは考えようである。世の中に役に立たないことは多いが、それでもけっこう多くの人が関わっている。他人には理解できなくても、当事者にとっては意味を持つことはあるものだ。

現実の世の中には立場によって様々な利害関係が存在するから、自分自身の行動も思うようにはとれない。自分の人生なのにどうしてと思ったりすることが多いものだ。そんな時、哲学はけっこう役に立つ。この世のしがらみに雁字搦めになって息苦しくなったり、重い気分になったりしている自分を現象学的括弧に入れて、一度突き放してみるのだ。すると、意外に悩んでいたことがすっきり見えてきて、自分の悩みが自分固有のものではなく、普遍的なものに感じられてくる。

自分が自分だと思っているものがそれほど確固としたものではないことが分かればしめたものだ。悩んでいる自分に別れを告げて、新しい自分をリセットすればいい。人が変節をなじろうと構うことはない。古い細胞が垢になって剥離しても見かけが変わらなければ貴方であるのと同じように、記憶が持続している限り貴方は貴方なのだから。

映画で哲学を語るというのは、それほど突飛なアイデアではない。事実映画の中には哲学的命題が溢れている。古今東西の人間の営みで哲学の材料にならないものはないからだ。ではなぜSFなのか。SF映画にはエイリアンとかモンスターとか人間とは異質の「他者」が登場する。著者の言うところによれば「他者を通すことで、自分自身がよりいっそうはっきり見えるようになる」。つまり、我々はモンスターを見ているつもりだが、モンスターに反映されているのが私たち人間の姿なのだ。

『フランケンシュタイン』で実存主義を、『マトリックス』でデカルトをと言われたら、少々哲学をかじったことがあれば、にやりとするだろう。なるほどうまいところに目をつけたものだ。映画を材料に、時にはジョークも交えながら手際よく哲学的主題を語ってゆく、その語り口は大学の哲学概論を思わせるが、もし、これが大学の講義なら、かなりの人気が予想されるだろう。実際、映像という具体的なものをもとにしているだけに、抽象論である哲学が分かりやすく頭に入ってくる。

なかでも、世界で最も哲学的な俳優と著者が呼ぶシュワルツェネッガーと監督のポ−ル・バーホーベンはお気に入りらしく、この二人の映画の引用は他を圧している。『ターミネーター』では心身二元論を語り、『トータル・リコール』、『シックス・デイ』ではアイデンティティ論を語り尽くす。自我とは何か、「私」とは詰まるところ脳なのか、といったよくある疑問を極端な論法で解いてみせる手際はなかなか水際立っている。

『スター・ウォーズ』では、ニーチェの超人論を引きながら、せっかく暗黒面のフォースを自分のものにしながら「昇華」させることのできなかったダース・ベイダーの生き方を批判し、『ブレードランナー』では、死の意味を問う。「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いに、大人が窮したことがあった。それをもとに書かれた哲学者の本も何冊かあったように記憶する。その答えもカントの「定言命法」を用いて至極あっさりと解決されている。

ただ、著者も言っているが、哲学とは「知る」ものではない。ビデオで映画を見直したり、記憶にある映画と比べたりしながら著者の哲学講義を聞くことで、自分の抱えた問題を自分で考え直してみる、つまり「する」ものだ。しかつめらしい講義はご免だという人でも、チップス片手にビールでも飲みながらの哲学ならやってみる気になるかもしれない。そんな哲学初心者にうってつけの一冊である。もちろんSF映画ファンにもお薦め。


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 2005/2/5 『映画を見ればわかること』 川本三郎  キネマ旬報社

「キネマ旬報」に書いているコラムを集めたもの。好きなことを書いていいと言われていても、そこは映画雑誌だから当然映画の話が多いが、本の話や音楽の話もある。章立てが短くて一つの話題にあまり深入りしないフットワークが心地よい。なんとなく若者のようなイノセンスを感じさせる川本三郎も六十歳になった。軽く読ませることを意識したコラムではあるが、これまでに見てきた映画的蓄積が自然とにじみ出て、いい味に仕上がっている。

趣味の良さというのとは少しちがう。育ちの良さといっても語弊がある。川本三郎には、きれいに洗濯されて、アイロンがかけられたシャツのような汚れを知らない清潔感が漂う。こだわりという言葉はあまり好きではないが、無意識に倫理観が働いて、自分の嫌な映画については見ていても語らないのではないかという気にさせられる。日本映画、外国映画、とりとめもなく次から次へと繰り出される映画の中に一本、ピ−ンと硬質の線のようなものが通っている。

スピルバーグの『シンドラーのリスト』は、賞狙いと言われ玄人筋にはあまりウケがよくない。それをワイルダーが傑作と認めていた言を引いて擁護する。映画そのものよりもホロコーストを経験したユダヤ人に対する思い入れが勝っているのではないか。これは一例だが、投げキッス事件でバッシングを受けたアメリカ帰りの田中絹代に同情したり、黒澤の陰に隠れて評価されない木下恵介をあえて持ち出したりと、この人には弱い立場にある人、虐げられている人々、無垢なもの、忘れられたものに寄せる優しい眼差しがある。

巨額の制作費をかけたハリウッドの大作や、コンピューターグラフィックスを駆使した話題作よりも、どこかにきらっと光る物を見せる小品の方を好むところがある。映画は自分で金を払って見るものだという先人の言葉を何度か引いているが、試写室で見てきたばかりの近作についてテレビで宣伝めいた紹介をする映画評論家に苦々しい思いを抱いていることがよく伝わってくる。

評論の味を甘口辛口と喩えるのもあまりいい趣味ではないが、どちらかと言えば、川本の評は甘い。その映画のいい点に目を留めて、それを評価するからだ。反面、欠点の指摘は少ない。しかし、映画を見て三十年。新しい映画に、昔見た映画との類似点を見つけ出す作業はさすがに年季が入っている。瀬戸川猛資の綺想はないが、丁寧な紹介ぶりはこの人ならではだろう。スチール写真片手にロケ地を探す話や、『ロード・オブ・ザ・リング』の波頭が馬の形をとるシーンとそっくりの絵画の話など、映画好きにはたまらない話題満載である。コラムらしく、鮮やかな断面を見せて語り収める、文章の切れ味も見逃せない。

映画評論家の中には、映画会社の幇間を自ら買って出る輩や、言いたい放題の悪口を辛口評と勘違いしているような御仁もいる。また、精妙極まりない観察で分析批評しながら映画を見る愉しさを伝えることをどこかに置き忘れたかのような批評家もいる。読者や観衆は、自分の信頼できる批評家を探している。自分の映画に対する立ち位置をはっきりさせている川本のような評論家は有り難い存在である。

「年を取っての数少ないいいことの一つは映画の思い出がたくさんふえてくること」という川本は、ル=グウィンの「過去の出来事は、結局は想像力の一つの形態である記憶の中にしか存在しない」という言葉を引きながら、新しい映画を通して記憶の中の映画をたどる愉しさを語っている。年を取ると記憶も薄れがちになる。新しい映画を誘い水にして、古い映画を思い出し、想像力をふくらませるという川本の言葉は我が意を得たりという気がした。


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