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 2004/12/29 『書物の敵』 ウィリアム・ブレイズ 八坂書房

世の中には本の内容ばかりではなく、物体としての本が気になって仕方のない人たちがいる。そういう書物愛(ビブリオフィリア)に取り憑かれた人を愛書家と呼ぶが、この本の作者もその一人である。それだけではない。イギリス活版印刷の祖であるウィリアム・キャクストンの手になる本の蒐集者として知られ、後に書誌学として確立することになる学問の第一人者とも呼べる人らしい。専門の学者ではない。印刷を生業にする人である。

専門の学者でもない人が書誌学の礎となる業績をなぜ上げられたか、それは偏に本に寄せる愛情の賜物であった。印刷工として出発したブレイズは、英国初の鋳造活字によるキャクストン本を体系立てて蒐集し、活字の摩耗具合などから判断してイギリスで活版印刷が行なわれるようになっていった歴史を明らかにすることに成功する。しかし、書誌学という学問成立以前のこと、その蒐集過程でブレイズが出会うことになったのは今となっては信じられないほど無造作な取り扱いに甘んじている書物の姿であった。

愛書家が書物の美点、長所について語るのは当然である。しかし、真の愛書家にとって何より問題となるのは、愛すべき書物に襲いかかる敵の数の多いことである。ブレイズがここに挙げる書物の敵の中には、「ガスと熱気」のように、時代の移り変わりの中で自然に消滅していった例もふくまれるが、「火の暴威」や「水の脅威」のようにいまだに強敵として君臨する者もいる。なかでも、ブレイズが最も力を入れて言及する最大の敵は「紙魚」である。

その他、作者が挙げる敵を列挙すれば、「埃と粗略」「無知と偏狭」「害獣と害虫」「製本屋の暴虐」「蒐集家の身勝手」「召使と子供の狼藉」と枚挙に暇がない。表紙の修理を依頼した製本屋が原本の奥付や内表紙を勝手に切り取ってしまったり、また、逆に価値ある書物の天地を自分の書棚の寸法に合わせて裁断したりする蒐集家もあったという。飾り文字の部分を切り取って自分のイニシャルを作る子どもや、装飾付きの題名の部分だけを切り取ってスクラップする蒐集家もあったらしい。召使いが本の値打ちを知らずに暖炉の焚き付けに一枚ずつ引き毟ったり、トイレで事後の処理に供されたりもしたというから、愛書家が胸を痛める気持ちも分かろうというもの。

アレクサンドリア図書館を襲った大火の模様や、財宝が見つからないので腹を立てた海賊によって海中に投じられた積み荷の蔵書の運命に一喜一憂するもよし、ヴィクトリア朝英国の図書事情について当事者であるブレイズの一家言を聞くもよし、本に関することなら何でも興味関心があると宣う御仁なら。読んでおいて損はない。ただし学者ではないブレイズ氏、記憶違いもたまにはある。だが、心配御無用。たっぷりとった余白に原註、訳註が親切である。

原本にあったエングレーヴィングや石版による挿画も多く採られ、愛書家に関する書物らしくゆったりした版組や活字の選択等、造本もまた興趣を添える。語り口はといえば、少々時代がかった口吻に巧まざるヒューモアが感じられ、愛書家ならずとも、本好きにとって古き良き時代を偲ぶ絶好の読み物となっている。冬の夜、暖炉の傍に肘掛け椅子など引き寄せ、サイドテーブルに置いた洋燈の火影で読まれるならば、これに勝る愉しみを見つけることは難かろう。


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 2004/12/28 『ブレードランナー』論序説 加藤幹郎 筑摩書房

映画の冒頭、ロサンジェルスの夜景を見下ろしている「碧い瞳」が映し出される。その碧い瞳の持ち主は誰かという魅惑的な謎を提示しながら、筆者は映画の文法を用いて、それを解いてゆく。筆者は『ブレードランナー』はフィルム・ノワールであるという。一般的にはフランスの暗黒街を描いた映画と解されるこの言葉を、「近代都市に起因する孤独と法と欲望の葛藤の寓話」だと別の章で定義してみせる。なるほど、頻出する夜の雨、逆光、たゆたう煙や湯気、サーチライト、ブラインド越しの光と影、たしかにフィルム・ノワールを彩るモチーフには事欠かない。

謎を解明する物語はオイディプスの悲劇に起源を持つ。オイディプスの物語は自己の出自を探索するメロドラマでもあった。メロドラマと推理小説は同じ起源を持っていたわけだ。その意味でフィルム・ノワールである『ブレードランナー』は、メロドラマであり、悲劇でもあるという二重構造を持っている。

そういいながら、筆者はフィルム・ノワールにはつき物の「殺し屋」でもあり、「刑事」でもある元ブレードランナーのデッカードを「主人公」と括弧づけで呼ぶことで、その正当性を留保する。たしかに、女を後ろから撃ち、女に命を救われ、最後には敵に助けられるデッカードは最後までいいところを見せることのない、いわばアンチ・ヒーローではある。

筆者の解釈によれば、デッカードが受け持つのはメロドラマの方の主人公で、悲劇の主人公は、生きる期限を4年と定められ、その運命に刃向かい荘厳な生を生ききるレプリカントのロイの方だったのだ。この映画を典型的な古典的ハリウッド映画だと位置づけながら、メロドラマの中に埋め込まれた悲劇の比重の重さ故に亀裂が生じているという筆者の指摘は説得力を持つ。

よく知られているように『ブレードランナー』にはプロデューサーズカット版とディレクターズカット版の二種が存在する。監督の意図を忠実に伝える後者の方が正統な位置を占めるだろうという観客の大方の予想を裏切り、筆者は前者の方こそが映画の文法から見て、首尾一貫していると主張する。そして、監督の意志を金科玉条の如く尊重する向きを「作者の死」という概念を用いて切断する。

ポップキリスト教神学や頻出する円環表象の解釈と、自身は図像学的表象と自由に戯れながら、デッカードの相棒ギャフの鶏とユニコーンの折り紙について、インターネット上に氾濫する解釈を不要な謎の解明と切って捨てるあたり、また、あえて断章形式で提示しながら、リニアに論を進めていく態度から見て、バルトを引用しながらも、どうやら筆者は他者には「テクストの快楽」を許さないらしい。少し長くなるが、蓮実重彦の『大江健三郎論』からメロドラマの定義を引用する。

メロドラマとは、距離の特権的な操作者としての作家がいずれは開示されるべき真実をめぐってその真実の在りかと意味とを一時的に隠蔽しうるもろもろの符帳を巧妙に配置し、その配置ぶりをたどりながら、解読すべき最後の記号への歩みを操作することで成立する距離と密着の戯れのことだ。

大学教授が学生相手に講義するというスタイルで通され、特権的な知を持つ者が、映画学の知識が詰まった抽斗を開けたり閉めたりしながら逆説を弄して無知な観客を引っ張り回すという嫌いがなくもないが、映画に関する蘊蓄は本物で、これはこれで立派な一つの物語になり果せている。この作品は、「『ブレードランナー』論序説」という物々しい題名を冠し、映画学特別講義という副題まで持つが、その実、映画『ブレードランナー』の本当の主人公は誰かという「真実」をめぐるメロドラマなのである。

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 2004/12/26 『ソラリス』 スタニスワフ・レム 国書刊行会

誰にでも何かに夢中になる時期というものがあるように本ばかりを読んでいた時期が自分にもある。ただ、好きな作家が偏っていて、東欧系のSFはあまり読んだことがなかった。それでも『ソラリスの陽のもとに』という旧訳名はよく知っていた。それだけ有名だったということだ。二度も映画化されていることから見てもSF界におけるこの作品の人気がよく分かる。

今度あらためた訳された『ソラリス』は、社会主義政権下で検閲を受け、余儀なく削除された部分を復元したポーランド語原本からの完訳版である。初版が発表されたのは1961年だから約半世紀前の作品ということになるが、今度はじめて読んで思ったのは古典的SFの風格を感じこそすれ少しも古さを感じないということだ。ソラリス学の架空文献の列挙をはじめ、「海」が見せる形態模倣のリアリスティックな描写と見所は多い。

ストーリー自体は複雑なものではない。地球から遠く離れた惑星ソラリスに派遣された心理学者クリスは、宇宙ステーション内の荒んだ様子に驚く。どうやらステーション内には人間以外の何者かがいるらしい。やがて、自分もその存在に出会うことになるが、意外なことにそれは十年も前に死んだはずの恋人ハリーだった…。

その星のほとんどを海が占める惑星ソラリスでは、海から生物が発生するのではなく、海そのものが高度の知的生命体となっていた。その海が知的活動を行うことは海が見せる模倣活動によって知ることができる。「海」は人間の脳の中に残る強い意識の残存物を手がかりに、庭園であれ人間であれ、何でもその姿を模倣するのである。

科学者たちは様々な実験を繰り返し「海」とのコンタクトを図ろうとしてきたのだが、進展は望めず、最近では計画の見直しを図る声が出始めていた。ステーションで実験を続けていたギバリャンはひそかに禁じられていたX線照射を行ったらしいことがメモに残されていた。「お客さん」はそれ以来ステーション内に出没するようになったらしい。

誰もが心の奥深くに沈めている忘れられない人の記憶。自分の脳内にあるその生体組織や心理傾向のデータが解析され、そのデータに基づいて造られた瓜二つの構成物があったとしたら、人はそれを愛することができるだろうか。そして忠実に再現されたその生命体が知力だけでなく意志や感情を持つとしたら、何度でも再現可能な自己という存在をどう受けとめるだろうか。ここにあるのは、人間とは何か、人を愛するということはどういうことかという根元的な問いかけである。

しかし、『ソラリス』が投げかける問いはそれだけではない。人間は神さえも自分の姿に似せて造型せざるを得ない性向を持っている。自分以外の知的生命体に対する接し方もそこから脱却できない。理解し合えればいいが、でなければ征服するかされるかのどちらかになる。コンタクトを望みながら、それが叶わないとX線照射を辞さない人類の姿に映し出されているのは、自分とはまったく異質の存在を認めることができないのが人間だという否定的な認識である。

旧ソ連時代、この作品が検閲を受けねばならなかった理由はそのあたりにあるのだろう。そしてまた、この作品が一向に古びないのは、米ソ冷戦も終わり、新時代を迎えながら、自分とはまったく異なる世界観を想像する力を持たず、それどころか根底から破壊してしまいかねない現在の人間世界の在り様からも窺えるのではないだろうか。

「それでも、残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ。」と、主人公の言葉を借りて作者が結んだのは1960年6月のことだった。

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 2004/12/19 『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』 黒崎宏 哲学書房

小さい頃から理屈っぽい奴だと言われ続けてきた。今もそれは変わらない。必要とされる時にだけ重宝がられて、ふだんは煙たがられている。どうもこの国では理屈を言う輩は立場が悪いようである。それは、この世の中にある何もかもを現実に存在していると感じている人の方が多いからだろう。例えば川を見たとしよう。あなたが見た川の水は見た瞬時に流れ去っているはず。その後あなたが川と言い、聞く人が思い浮かべる川は実在しない川である。その川が実在するのは言語ゲームの世界なのである。理屈は言語によって展開される。言語の世界は人々が実体と感じている世界から遊離しているため、理屈はものごとを解決するよりもかえって複雑にするように感じられてしまうらしい。しかし、ものごとが言語で構成されている限り、人々が実体だと信じて疑わないものもみな、言語の世界の存在でしかない。

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」の核心は、「すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在と見なす」ということである。言い換えれば、一切は意味的存在で、言語以前に実体としてあるものなどないという徹底的な思考である。著者は、その思考を大乗仏教「八宗の祖」龍樹の書き表した難解を持って知られる『中論』と通底させようとする。誰でも一度くらいは耳にしたことがあるだろう。「般若心経」の一節「五蘊皆空」(一切は空である――実体は存在しない)の世界像と。

ナーガールジュナ(漢訳名「龍樹」)の『中論』には前々から興味を持っていたのだが、超難解と聞いて尻込みしていた。難解といっても、訳が分からないと言う意味ではない。論理的に明晰すぎて、通常の思考ではついていけないということである。仏教用語の問題もある。誰かいい先達がいないものかと探していたところへこの本である。『中論』をやはり難解なウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」で読み解こうという著者の試みに飛びついたわけだ。

『中論』とは何か。釈迦入滅後百年を経て、教団は戒律を巡り上座部と大衆部に分裂する。その後もう一度分裂を起こし二十の部派仏教が生まれる。それを批判する形で生まれてきたのが大乗仏教の運動である。その「大乗教典」の中心をなす「空」の思想を位置づけたものが龍樹(150〜250)の記した『中論』にほかならない。

では、その内容はといえば、「八不」と言われる「不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不去・不来(何ものも滅することもなく常住することもなければ断滅することもない。一つとして同じものはなく異なりもしない。去るものはなく来るものもない)」ということを称揚する立場から、反駁者の「戯論(形而上学的言説)」を例に引き、徹底的に理詰めに論駁してゆく。そのあまりなラディカルさは、最後には、思考の放棄を宣言し、仏陀は何も説かなかったと言うまでに及ぶ。

著者は先行する諸訳を手がかりにしながらも、意味の通らないところは自説を引き、『中論』を読み解いてゆく。時には有名なゼノンのパラドックス(飛んでいる矢は止まっている)なども例に引きながら、逆説を多用する龍樹のパラドキシカルな思考の跡を誠実に辿ってゆく。そうして最後まで読んで思うことは「『中論』には二つの原理が貫いている」ということである。

その一つは「縁起」の原理であり、もう一つは、「〈去るもの〉は去らない」という原理である。前者は、「一切は意味的に含みあっている」という原理であり、後者は、「事柄は二重におきることはない」という原理である。この後者は、「一重の原理」と言われてもよいであろう。(第二十五章より引用)

「八不」はこの二つの原理が分かれば理解できると著者は言う。こうして書いてみても虚しいのは、この結語に至るまでに思索の行為こそが愉しいのであって、結語そのものは『中論』の記述をそのまま読むのと同じで何の感興ももたらさない。読者は是非、本を手にとって読んでみられたがいい。宗教というものの持つ神秘的なところや超越的なところが嫌いな方にこそお薦めしたい一冊である。


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 2004/12/18 『ベートーヴェン 交響曲第7番 イ長調』 小澤征爾 新日本フィル

クリスマス前という時期もあってか、会場周辺は、ホール外観から前庭中庭の植え込みに至るまでライトアップされていた。国際的な舞台で活躍するマエストロを招いてのコンサート、それも、ラフマニノフとベートーヴェンというプログラムである。地方にいては滅多に味わえぬ至福の時を期待して開場前から観客の顔は上気していた。

拍手に迎えられて登場した小澤は燕尾服姿だった。白いタートルネックやマオカラーのジャケットでタクトを振る印象が強かったためか、はじめて間近に見るマエストロは、予想以上に小柄に見えた。トレードマークの白髪まじりの長髪は相変わらずだが、胴回りが痩せているせいか上着の長く延びた裾が萎れて見える。無理もない。バイクでヨーロッパ各地のコンクール荒らしをやって勇名を馳せた若者も来年は70歳である。

それが指揮台に上り、足を心持ち内股に構えると、印象ががらりと変わる。少し前のめりになり背を丸めた姿勢から勢いよく振り下ろされた右手の先から第一楽章「ポーコ・ソステヌート−ビヴァーチェ」の開始を告げる強奏和音が迸り出た。木管とホルンがその後に続く。待ちかねたように弦が上向音階を奏で、管楽器がそれに加わる。オーボエのくぐもったような温もりのある音がフルートの華麗な響きと絡まり合い心に浸みいるような旋律を歌い上げる。一気にベートーヴェンの交響曲の世界に引きずり込まれてしまった。

ベートーヴェンが、あまりにも有名な五番、六番の交響曲をほぼ同時に完成させ、大成功を収めた後、次の交響曲第七番が発表されるまで4年間の空白があった。大傑作を続けて物した後の虚脱感とも創作意欲の減衰とも囁かれたが、この曲が完成したのは1812年。大砲の音が入ることで有名なチャイコフスキーの『大序曲1812年』でも分かるようにナポレオンがロシアに侵攻しモスクワで大敗した年である。この時期ウィーンもまたナポレオン軍により占領され、パトロンである貴族たちも音楽どころではなかっただろう。交響曲第三番を捧げようとまで考えたこともあった英雄の凋落を彼はどう思っていたのだろうか。

第二楽章は緩徐楽章といわれ、通常ゆっくりしたテンポで奏されることの多い楽章だが、作曲者の指示は「アレグレット」、速いテンポである。行進曲風の主題は第一楽章とはうって変わった愁いを帯びた旋律。情熱と憂愁、歓喜と悲哀。二項対立的な主題を鮮明に打ち出す如何にもベートーヴェン的な構成である。主旋律と対旋律が交互に現れる対位法的な展開が異なる楽器による変奏の効果によって次第に高まってゆく。小澤の指揮は自己を主張しすぎない的確なテンポを維持し、オーケストラもよくそれを支え、バランスのとれた盛り上がりを見せる。

第三楽章は「スケルツォ」。明るく快活な主題が弾むように奏される。少し髪を茶色に染めたコンサートマスターはボウの上げ下げに連れて体を大きく揺らし、足先まで床の上を滑らせての熱演。中間部は木管とホルンによるゆったりしたテンポの田園風な旋律。この二つが交互に現れる。第二楽章にうっとりしていた気分がスケルツォによって目ざめさせられ、手や足が動き出しそうになる。

ほとんど間を置かず第四楽章に突入した。「アレグロ・コン・ブリオ」。まさに狂喜乱舞という様相を呈する音の奔流。ベートーヴェンならではの圧倒的な迫力を持つ構成は、音の星々が渦巻く大星雲の中にいるような気分にさせてくれる。いつまでも続いていて欲しいと思わせる長大なコーダが終わると、一息ついて「ブラボー」と拍手の嵐。満面の笑みを浮かべた小澤の顔には汗が浮かび、右腕の釦はほつれかけていた。

手勢の新日本フィルを率いてのベートーヴェンの交響曲。若さを感じさせるオーケストラだったがよくまとまった好印象を受けた。三番や五番ほどポピュラーではないが、よく言われる奇数番の交響曲である第七番は、やはり傑作である。ヴァイタルな曲想を後にワーグナーは「舞踏の神化」と呼ぶことになるが、一方では緊密な構造を持った堅固な建築物の一面も併せ持つ。その名曲をケレン味のない解釈で、終始テンポよく聞かせた今宵の演奏は、息のあったオケの特色を十二分に引き出した演奏ではなかったかと思う。

アンコール曲はシュトラウス二世によるオペレッタの序曲。先ほどとはうって変わった指揮はまるでパートナーを抱いて踊るような思い入れたっぷりな身振りである。無名時代のコンクールの日、不意の熱で思うように腕が上がらず、肩を振り上げた大仰な身振りがかえって支持されたという逸話を思い出した。現在ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務める小澤の年越しはやはり、ウィーンなのだろうか。コンサートが終わり、会場の外の星を見ながらかつて見たウィーンの夜空を思い浮かべていた。



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