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 2004/11/29 『指からウロコ』 和田誠 白水社

どうしてだろう。和田誠の本は読まなければという気にさせたりしない。いつも手もとに置いておいて、ほかの本を読んでて疲れたときなど、栞を挿んだページを開いてほんの一章ぶんだけ読んだりするのにいい。そこには難しい言葉も、過激な調子もなく、古いアメリカ映画やスタンダードの名曲のように、いつでも愉しい気持ちにさせてくれる。

イラストレーターとしての仕事はもちろんのこと、映画の話や音楽の話をさせたらこんな洒落た会話のできる人はいない。いつまでもその話を聞いていたくなる。話題が豊富なのに、知識をひけらかすことなく、いつも謙虚で、こんな話があるんだけど、という感じでさりげなく話を切り出し、いつまででも話していられるはずなのに、決して長々と話し続けない。聞いている方の気持ちになって、疲れないところで切り上げる。そう、スマートなのだ。

そのイラストが、誇張に走ることなく人物の特徴を的確にとらえ、単純な線でありながらほのぼのとしたユーモア感覚さえ漂わせるように、文章もまた、簡潔で要を得ている。それだけでなく、人品卑しからぬ品性をたたえているところが何より好ましい。一言で言うなら読み終わった後口がいいのだ。単に人柄がいいというのではない。物事を見るときの軸がぶれないので、批評のキレがいい。

かなり勉強したらしいカクテルの話や、お得意の映画の話、それにスタンダード曲の中にある殺し文句と、よくまあこんなにネタがあるものだと感心してしまう。好きなことにはのめり込むタイプなのだろう。ただ、普通ならそれが窮屈さを感じさせたりするところなのだが、この人にはいつも余裕が感じられる。かといって、ただの好事家の話とは一線を画している。何をとりあげてもぴりっとしたものが必ずそこに含まれている。なんならそれを批評精神と呼んでもいい。

「スランプ」という話がいい。パーティーの席上であった有名な野球選手に、「スランプのときはどうしますか」と聞かれた筆者は「スランプというのはないんです」と答える。けげんそうな顔をする選手に、「ぼくは自分をトップクラスだと考えていないので、あせることがないのです」と説明した。とたんに選手はものすごく真面目な顔になり「いいお話をうかがいました。勉強になりました」と言ったという。

気軽に本音を言ったことが相手にショックを与えてしまったことに、筆者はちょっと驚く。実力が数字で表されるスポーツと数字で計れない絵の世界はちがうと前置きしながら、こう言う。

 しかし、ぼくらの世界にも、中には勝負好きな人がいて、「誰それには負けたくない」とか、「今にトップになってやる」とか言ったりする。数字で計れないのに、誰と比べてどうだなんて考えるのは、つまらぬことだとぼくは思う。第一、疲れてしまう。
 ぼくは余計な心配で疲れたくないと思っている。気軽にやりたい。ただし、気軽にやるというのと手を抜くというのは違います。余計な疲労をしなければ、そのぶん仕事に時間も神経も使えるわけだから、結局お得用なのである。

面白い面白いと思って読んでいると、ときにこういう文章に出会う。そして、ふと立ち止まって我が身を振り返ったりさせられる。実にもって、和田誠はお徳用なのである。


 2004/11/25 『磨かれた時間』 中井英夫 河出書房新社

「三島も澁澤もいないこの地上なんて」というのが、澁澤が死んだ時、この人が漏らした言葉だった。自分をどこか遠い星から、地球への流刑囚と思いなしている中井のことだ。先達とも仰いだ年若い知友に先立たれて、心を許すこともできない人々の暮らす星に独り置き去りにされたような虚しさが襲ったとしても無理はない。二人だけではない。最後のエッセイ集には、最愛の友に去られた寂しさが繰り返し嘆かれている。

寺山修司を世に送り出した短歌誌の主宰者にして、畢生の大作『虚無への供物』の作者塔晶夫として知られる中井英夫のことを、澁澤龍彦は「狷介にして心優しき人物」と評したことがある。幻想怪奇小説がブームを呼び、夢野久作、久生十蘭、小栗虫太郎などの旧作が、次々と復刊されていた頃、ブームに乗った出版社の企画したシリーズの監修者として名を連ねていた澁澤に、あんなひどい企画に名を貸すとは、という抗議の電話が中井からかかってきたという話だ。

独自の美学を持ち、自分の目に適った作家の作品は徹底的に擁護するが、どんな大作家といえども、力の抜けた作品には容赦がなかった。それだけに、自分の周りに置いた人の数はあまり多くはなかったと察することができる。小説もまた同じである。好きな作品を徹底的に読み込む。そうして諳んずることができるほど愛したものだけを身辺に置き、読み且つ語ってきた。幼い頃から愛読した江戸川乱歩、その文章の巧さを最後まで賞賛して倦むことのなかった久生十蘭、そして寺山修司。最後のエッセイ集で語られるのもまた、それらの作家、作品であるのは論をまたない。

作家の父は、種々の花の学名にNakaiの名を残す植物学の泰斗として、また、祖父は若くして渡米し、あのクラーク博士の弟子となった人物として知られる。『孤島の鬼』を乱歩の最高傑作に推し、人外(にんがい)としての存在の様態に共感を示す作家は、学者一家の異端児としての自己の在り方に屈折した思いを抱き、この世界を仮寓としてとらえることに固執し続けてきた。しかし、さすがの狷介孤高の作家も最晩年は心の弱まりからか、自分の生い立ちや生家のある田端周辺についての思い入れを語るなど、世界との和解を試みているかのように見える。

自分の家を黒鳥館、流薔園、月蝕領と呼びなす美意識を持った作家が、身の回りの世話を焼いてくれる青年の働きぶりに目を細めたり、バレンタインデーに年若い読者から贈られる花やチョコレートの贈り物についてたびたび言及する姿は、読んでいて微笑ましいものがある。『虚無への供物』に登場する五不動再訪記や、歌舞伎役者評判記、さらには、贔屓のタレント(若い頃の萩原健一である)についてと、エッセイならではのくだけた話題も含まれていて、普段着の中井英夫に触れるには、佳いエッセイ集かもしれない。

それにしても、全編を覆う死の陰のなんと色の濃いこと。端正な文章の端々から顔をのぞかせる亡くした者への哀憐には年老いてひとり残される者のみが知る愁いの深さがある。痛飲しては担がれて家に帰る酔態が自虐的に描かれているが、酒でも飲まずば夜を過ごすことはできなかったものと思われる。今は、遙か地上を離れ、寺山や澁澤の住まう星で愉快に酒でも飲み交わしているであろう作家を偲び、献杯。

 2004/11/09 『ロング・グッドバイ』 矢作俊彦 角川書店

知らぬ間に比べていた。そうするなといっても無理な話だ。題名がアルファベットで二文字しかちがわない。酒場で知り合った酔っぱらいがなんとなく気に入り、頼まれて車で送ったら事件にまきこまれていた。そんな出だしのあまりにも有名なハード・ボイルド小説があった。レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ(原題は THE LONG GOODBYE)』だ。

ハード・ボイルドに詳しい人なら、このタイトルを見ただけで、作者の意気込みが知れるといった代物。ダシール・ハメットと並び称されるハード・ボイルドの双璧チャンドラーの代表作のタイトルを少しひねって、THE WRONG GOODBYE。片仮名で表記すれば同名の『ロング・グッドバイ』だ。大先輩に敬意を表してのつもりか、あるいは挑戦状か。いずれにせよ、このタイトルを背にしたら最後、それなりの覚悟がいることは百も承知だろう。期待を持って読み始めた。

『あ・じゃぱん』、『ららら科學の子』と、最近は少し変わったところで傑作と言ってよい作品をものしていた矢作が、久々にホームグラウンドのハード・ボイルドの世界に帰って書き上げた、神奈川県警の刑事二村永爾を主人公にした最新作である。

酒場で意気投合したビリーは、もと撃墜王というふれ込み。ヴェトナム戦争当時の知り合いで今は台湾の実力者楊のお抱えパイロットとして危ない仕事をしている。ある夜、夜間飛行に飛び立つビリーに頼まれて、車で空港まで送ったのを最後にビリーは消息を絶つ。残された彼の車から死体が発見され、二村は窮地に追い込まれる。一線から外された彼に人捜しの依頼が舞いこむ。美貌のヴァイオリニスト、アイリーン・スーの義母が失踪したというのだ。横浜、横須賀の港町を舞台に、米軍基地に蔓延るカーキ・マフィアや基地を食い物にする組織との暗闘が始まる。

「卑しい町を行く高潔な憂い顔の騎士」というのが、チャンドラー由来のハード・ボイルド小説のヒーロー像だ。二村永爾がその系譜を引いていることはいうまでもない。ただ、拳銃や酒の銘柄はそのままでも、車の種類はどうにもならない。ネットや携帯電話の話題は、古き良き時代との距離を感じさせずにはおかない。物語はノスタルジックな雰囲気の漂うホテルやバーを背景に描かれるが、彼の探しているものが何にせよ、今の時代には予め喪われている。街が卑しいのではない。時代が卑しいのだ。

もう一つちがうのは人と人との間を行き交う空気の乾き具合。フィリップ・マーロウが歩いたのはロス・アンジェルス。砂漠に水を引いて創った人工の街だ。二村永爾のテリトリーは横浜、横須賀。ペリー来航以来アメリカ軍とは切っても切れない軍港の街である。中華街や基地、怪しげな人物と彩りには事欠かないが、そこは日本。警察機構の末端に位置する二村は、一介の私立探偵とはちがい、自分の意志ひとつで動くには制約が多い。やくざや業界人だけでなく、基地の街に生きる親と子、男と女の間にある人間関係のしがらみが湿った空気のように纏わりつく。

それでも、つい読まされてしまうのは濃厚なセンチメンタリズムのせいだろう。いい歳をした男が、自分の信条に忠実であろうとして昇進試験も受けないストイックさ。たかだか酒場で知り合った酔っぱらいに感じた友情に殉ずる侠気。惚れているくせに女につれなくしてみせる恥ずかしくなるくらいの感傷癖。頻出する片仮名言葉に幻惑されさえしなければ、これが股旅物の世界に近いことは誰にでも分かる。

絢爛たる比喩、機知に富んだ会話、気のきいた警句をちりばめた、チャンドラー節の日本での人気は高い。矢作の文体もまたチャンドラリアンのそれであることは論を待たない。しかし、ハメットをハード・ボイルドの正統と仰ぐ人にはチャンドラー嫌いが少なくない。感傷性の勝った文章に自己憐憫の臭いを嗅ぎつけるからだ。強きを挫き弱きを助けるのがヒーローだが、卑しい時代を行く騎士が暴くのは強者の不正ばかりではない。いきおい文章には正義が行われない世の中に対するルサンチマンが溢れ、自己憐憫にも似た色調が憂いを深くする。

『長いお別れ』が愛された理由にテリー・レノックスという酔っぱらいの魅力がある。酒を飲むのに言い訳はいらない。が、気の合った友人の存在は酒を飲む最上の理由になる。ビリー・ルウに二村が感じたほどの愛着が感じられないのは、彼の酒の飲み方にあるのかもしれない。



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