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 2004/9/27 『古書修復の愉しみ』 アニー・トレメル・ウィルコックス 白水社

本好きと呼ばれる人には二種類ある。一つはいわゆる読書家。本を読むことが好きな人たちで、読むことさえできれば、文庫であろうが、借りた本であろうが関係ない。もう一方は、愛書家と呼ばれる人たち。無論読むのも好きだが、それだけにとどまらず本という物自体が気になってならない人々である。当然、装幀、造本に煩い。本好きの多くは、この二極のどこかに位置しているはずだ。私自身は、どちらかと言えば、後者よりか。本という物の成り立ちや作りに興味がある。

京極夏彦の本でお馴染みの中禅寺秋彦は古書店主だが、扱うのは主に和綴じ本。衒学趣味を満足させるには古書店主の探偵というのはいい設定だが、資料的価値はともかく、本としての堅牢さ、美観という点では、洋書に一歩譲るのではないだろうか。しかし、その洋書も時の浸食には勝てない。洋の東西を問わず古書は傷みやすい。そこで、古書の修復を専門に担当するブックアーティストと呼ばれる人が登場してくる。

著者は大学の出版局で製本を学んでいるときに、古書修復の第一人者であるウィリアム・アンソニーに出会う。「一冊ずつ違う本を作る方が、そっくり同じ本を二百五十冊をつくるよりはるかにいい」と、考えた著者はビルに弟子入りし、古書修復のノウハウを直接伝授されるという幸運にめぐりあう。敬愛する師との出会いから別れまでを、実際に担当した古書修復の現場報告を交えながら綴ったのが、本書である。優れた仕事でありながら、あまり世間の注目を浴びない世界に読者を導いてくれる貴重な一冊といえるだろう。

実際、古書の修復というものがどのようにして行われているのか、著者は自分の担当した『ロシア遠征詳述』を例に、初心者にも理解できるように、丁寧に解説してくれている。道具や用紙の準備から薬剤の製法まで、これを読めば、そのおおよそは分かるのではないか。何よりも大切なことは、無味乾燥になりがちな解説書めいたところがなく、はじめて出会った古書修復にかける著者の意気込みや、失敗したときの落胆ぶり、師の支えによって見事成功したときの喜びが、ある時は初々しく、またある日には自信に満ちて、こちらに伝わってくるその筆致である。

仕事の上でも人間的にも尊敬できる師と過ごす毎日。気心許せる仲間とのふれあい。時には、講師として出かけたワークショップで、騒ぐ児童に疲労困憊したりもするが、適切な助言と見本を与えてくれる師のおかげで、次第に独り立ちしてゆく著者の姿はまぶしいくらいだ。現代にあっては、存在すら危ぶまれる職人の徒弟制度というものに対するちょっと面はゆいほどの傾倒ぶりは、日本人職人オーダテ(大館年男)の著書の引用から熱く伝わってくる。

楮(こうぞ)紙や寒冷紗といった紙だけでなく、他の用途で作られた道具を借用して製本用の道具にしている古書修復の世界では、鉋や砥石その他、日本の道具が多く使われている。国連やオリンピックで騒がれるより、こういうところで頼りにされる日本という存在に心惹かれるものがある。手仕事の世界では、まだまだ貢献できることがあるのがうれしい。

本を全部ばらして、紙を薬品につけて水洗いをし、中和させることで酸性化を止めたり、ポリエステルフィルムの袋で挟み込んで再び製本したり、と古書修復の現場でとられている作業の実態には、驚かされることも多い。同じ出版社から先に出ている『本棚の歴史』と併せ読まれると一段と興趣が増すことだろう。読書の秋にお薦めしたい一冊。

 2004/9/24 『青い兎』 杉本秀太郎 岩波書店

文人などという呼び名は現代にあっては死語と化しつつあるのかもしれない。閑雅で、憂き世にいながら浮世離れした存在。芸術を生活の一部として、常住坐臥、芸術の中で起き伏ししている。杉本秀太郎には、そんな文人の名こそ相応しい。京都では、秀吉が築いた「お土居」の内側を洛中、その外側を洛外と呼ぶ慣わしだが、その洛中の商家に生まれ、京都大学に進み、フランス文学者として、バルザックやアナトール・フランスの翻訳者としても知られる。その該博な知識は、単なる知識にとどまらず、著者の血となり肉となっている。

たとえば、ゴーガンの「乾草」を論じた一章などは、凡百の美術評論家も頬被りして逃げ出しそうな清新な発想に充ち満ちている。一般に『乾草』という題名がつけられていることから、人は誰しも、乾草を描いた絵だと思いがちだが、著者の眼はちがうものを見る。「鯨」。著者がそこに見たのは浜辺に打ち上げられた巨大鯨の姿であった。しかも、連想は次々に発展し、北斎漫画から、最後は釈迦涅槃図に及ぶ。

杉本秀太郎の面白さは、この連想作用にある。絵の中に隠された別の絵を発見したり、マラルメの詩を暗唱した挙げ句、その一句が呼び起こす旋律を五線譜に書き起こしたりする。フランス印象主義絵画から、漢詩に至るまで、文学、音楽、美術と、教養に裏打ちされた視線は、ボードレールがコレスポンダンス(照応)と呼んだ、あらゆる芸術を横断する線を見つけ、それを追う。

昆虫に造詣深く、樹木を愛し、浅井忠の水彩画を好む著者に、生臭い政治の話は似合わないと思っていた。が、意外なことに9.11以来、「顔にかかった蜘蛛の巣のようにまといついて離れない憂鬱に悩まされて」いたという。「小さな風穴を穿つのに短小な錐を揉む」ようにして書かれたものがこの集の大半をしめる、とあとがきに書いている。夢の中で日本の代表となり、ブッシュに「わたくしはあんたのドレイではない。報復戦争には断じて協力しないから、よく覚えておき給えと言いつつ涙をながしてい」る杉本秀太郎という図はなかなか想像するのが難しい。「現首相の台詞と仕種を大根の道化と思ってながめるのは、せめてもの気晴らし」とまで書く。

著者が今もそこに暮らす京都はもともと、権力者の都合で何度も焼かれ、散々な目に遭ってきた土地である。戦乱や権力者の横暴を憎む気風は強い。フランスの旧跡「ヴォ・ル・ヴィコント」にふれた一編でこう書いている。「城館あるいは宮殿に魅惑を覚えたことは一度もなかった。壮麗華美のすぐ裏には、領地の継承権を争う陰惨なドラマという代償、最大多数の人々の惨苦という代償が透けて見えた。そして今はあるじとして住む人のないむなしい建造物の冷やかさ」が感じられた」と。「町衆」の気概というものか。プチ・ブルにもなれない庶民の目から見ると、時にそのブルジョアぶりが鼻につきもするのだが、この国には少ない成熟した「市民」の存在を頼もしくも感じるのである。

 2004/09/15 イエスという男 田川建三 作品社

特にキリスト教に詳しくなくても、イエスと言えばどんな男か、たいていの人が説明できそうな気がする。娯楽映画に一番多く登場する宗教者である。非暴力を貫き、己の罪を悔い改めることを説く、愛の宗教の創始者。しかし、その容貌はともかく、性格や思想の方は、福音書の記述をもとに作りあげられた像を真に受けると、とんだまちがいをしてしまいそうだ。

知っての通り、福音書というのは、イエスの弟子たちが、近くにいて見聞きした師の言葉を後に思い出して書き記したものである(本当のところは、弟子の名を借りて複数の記述者によって書かれたものと考えられる)。マタイ、マルコ、ルカ、それにヨハネの四つの福音書を数えるが、ヨハネのものは別にして考えるのが通例だ。しかし、先の三人の福音書にしたところが、三者三様、それぞれ記述者の思惑が入り込み、イエスその人の言動には異同がある。

キリスト教に限ったわけではない。すぐれて独創的な思想家やそれまでにない行動パターンをとる人間が現れると、普通の人間は、まず驚き、拒否し、やがて、受け容れるといった行動様式をとるものだ。そして、その受容のレベルが、受けとる側によって異なる。だから、いくら身近にいた弟子でも、弟子の生育歴や教養その他によって、師の言葉はフィルターを通して受けとられることになる。ましてや、教団という大所帯を維持してゆくとなれば、そこには、俗世間との妥協が入ってくる。変質は避けられない。

田川がここで明らかにしようとしているのは、当時のガリラヤで大工をしていたイエスという男の真の姿である。ユダヤ民族にとってユダヤ教というのは、単に宗教というにとどまらず、政治であり、法である。すべては律法によって厳しく律されていた。しかし、現実的にはパリサイ派のような教条主義的な人々もいれば、戒律を無視し、世俗的な利益に走る宗教者たちもいて、一般の人々にとっては決して納得のいく世界ではなかった。

おまけに当時世界はローマ帝国によって支配されていた。ローマの支配とユダヤ教による支配に対する「逆説的反抗」者としてのイエスというのが、田川の描き出してみせるイエス像である。有名な「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」というのも、非暴力というより、「どうせ打つならこちらも打ったらどうだ」とういう反抗的な身振りであったろうというのだから、世間に流布するイエス像やキリスト教という宗教の既成概念は木っ端微塵になる。

もちろん、勝手な解釈ではない。当時の歴史的状況や資料に残されたイエスの言葉を検討した結果浮かび上がるのが、「逆説的な発言に見られる鋭い批判、相手の問いに答えることを拒否し、お前が自分でやればいいだろうとつき放す冷たさ、底の底までつき入ってくるようないやらしい皮肉、などに見られるおそろしく醒めた目」の持ち主だ。

しかし、その醒めた眼を持つ男の中には「一見ひどく幼稚で迷信的な宗教的熱狂」が同居していた。それが、イエスを追いつめ、ついには死に至らしめたのである。田川がこの本を書くことで解き明かしたかったのは、なぜ、ひとりの男の中に相手を徹底的に突き放す醒めた目と幼稚な宗教的熱狂が同居し得たのかという疑問である。答えは出たのだろうか。

あとがきに「十字架に架けて殺されたこの男のものすごい生を描きうるためには、自分もそれに対抗しうるだけの生の質を生きていないといけない」と著者は書いている。すぐれた聖書学者だが、既成のキリスト教の護教論者が卒倒しそうなほど過激な言動を繰り返す著者には敵も多い。逆境の中で、自分の仕事を続けることの意味を探るというのがこの本を書くもう一つの目的であったろう。答えはその選びとった生の中にこそあるのではなかろうか。


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