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 2013/7/30 『旅立つ理由』 旦敬介 岩波書店

パステルカラーにぬり分けられた家並みや、陽盛りの路地にできたわずかばかりの日陰の椅子で飲む生温かいミント茶、親しげにすり寄ってきては、何かとものを売りつけようとする少年たち。ピレネーをこえた異郷の旅がなつかしくよみがえってくる。

町の書店でこの本を探すとすると、どのあたりの棚に並んでいるのだろう。旅行関係の本が並ぶ棚だろうか。それとも、日本の小説が並ぶ棚だろうか。海外が舞台のエッセイとも小説ともつかぬ手触りからは堀江敏幸の初期の作品に似た風合いがある。身綺麗な主人公と同じ匂いを共有する友人たちが出会い、意気投合し、自分たちの手で料理した旨いものを食う、その味わいは、たとえば片岡義男の手になる短篇小説の持つそれである。ちがいは、その舞台が日本のどこにでもありそうな小さな町か、中南米やアフリカのひなびた町かどうかくらいだ。

生きていることを実感するには、適切な食材を正しい方法で調理して食べることにつきる。僕はそれを長田弘の『食卓一期一会』で学んだ。そのためには、少々の時間と金はつかわねばならない。グルメというのではないから、三ツ星のついた有名料理店で高級料理を食するといった話ではない。その土地の人間が大事にしてきた、その土地の人でなければ分からない料理。そこには、大きくいえばひとつの民族の歴史が息づいている。

巻頭を飾る「世界で一番うまい肉を食べた日」で紹介されるビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(骨のついた肉の塊が大きいことで知られる)はともかく、それに続く話に登場するのは、ほとんどの日本人が食べたこともない料理だ。気候、風土がちがえば、食べる物も人々も異なる。料理といっしょに異郷の地に生きる多民族の息づかいが伝わってくる。切りつめた語り口は、座談の名手のようで、吹きすぎる風のように耳に心地よい。

メキシコ湾岸、ベラクルス郊外のマンディンガという集落の食堂では牡蠣を注文すると、男の子が海に飛び込んで牡蠣をとってくる。世界一の牡蠣を食べるならマンディンガ、ということになる。アパートの「封切り」パーティーのために二日前から支度して作る、ブラジルはバイーア風フェイジョアーダ。リオ・デ・ジャネイロの黒インゲン豆とちがって茶色い豆を使う。40人もの客がやってくるいかにもブラジル風の一夜。キューバならアヒアコで決まりのはずだったが、「典型的なキューバ料理」のはずのアヒアコがどこへ行っても食べられない、この不条理さ。エチオピア人のマリオが焼くインジェラ(テフというきわめて粒の細かい雑穀をすりつぶして水で溶き、三、四日醗酵させてから円形の鉄板か陶板に薄く流しこんで蒸し焼きにしたもの)。スペインのサラマンカでは、大学生のマノーロがトルティーヤ・エスパニョーラ(早い話がスペイン式オムレツ)を作ってくれる。オリジナルのレシピつきで。バイーアの料理をもうひとつ。貧民街だったペロリーニョの飲み屋「パンゾ」の女主人が別れに作ってくれたムケカ。レモンとココナッツ・ミルクと椰子油で魚を調理したアフロ・ブラジル料理。極めつきはアミーナというウガンダからの国連認定難民が大量の買出しの果てに作るカチュンバーリだろう。「細かく刻んで激しく塩もみしてから洗ったり絞ったりした玉ねぎやキャベツに、やはり細かく切ったトマトと香菜と緑トウガラシを混ぜてレモン汁でじっくり和えたもの」だが、このカチュンバーリの来歴が凄い。

「彼がアミーナから見よう見まねで学んだカチュンバーリが、こんなふうに、アミーナの人生の全容と切っても切れないものであって、それがヴァスコ・ダ・ガマの時代から続く全地球的規模の暴虐な歴史の展開にダイレクトに結びついていて、流行語として『ポスト・コロニアル』と呼ばれている世界の構成と分かちがたいものであることを思うと、いったい自分はどんな顔色をして何を作ればいいのか、彼にはなおさらわからなくなっていた」

主人公の日本人はウガンダの女性と結婚し、子どもも生まれるが、今は離婚して男の子と暮らしているようだ。仕事は何をしているのかよく分からないが、海外暮らしが長い。それも、中南米やアフリカといったあまり観光では行かないところばかりだ。最後の方の一篇で主人公の日本人の名が「ダン」であることが示される。

作者の名は、バルガス=リョサや、ガルシア=マルケスの訳者としてかねてからなじんでいたが、こうして本人の著作を読むと、また別の顔が見えてくることに驚いた。軽々と国境を越え、世界の果てまで出かけてゆき、そこで伴侶を得、子どもを授かる。その出向いた土地で、新たな友を得て、また別の国へと彷徨い出る。

かつて外国を旅して、紀行や小説を書いた作家には、日本と西洋を比較して、その優劣を競ったり、彼我のちがいに慨嘆したりと、しかたのないこととはいえ肩肘張った物言いがつきまとった。著者の文章には、その大上段に振りかぶったところがない。軽やかな身ごなしと、身の丈にあった感慨が新鮮な感興を与えてくれる。久方ぶりに「旅への誘い」を感じた。夏の旅のお伴に絶好の一冊。


 2013/7/26 『孤児』 ファン・ホセ・サエール 水声社

ホセ・ルイス・ブサニチェ著『アルゼンチンの歴史』(1959)のなかに、フランシスコ・デル・プエルトなる人物に関する次のような記述がある。

「一五一五年、ファン・ディアス・デ・ソリスの率いるインディアス探検船団に見習い水夫として雇われたこの男は、スペインのサンルカール・デ・パラメダ港を出港した後、船団が翌年ラプラタ川へ入ると、数人の仲間とともに陸地へ上がって現地調査に従事した。上陸部隊はそこで原住民の襲撃を受けて皆殺しにされたが、デル・プエルト(スペイン語で「港出身」の意味)だけはなぜか命を救われ、その後一五二七年にセバスティアン・ガボートの率いる船団に救出されるまで、十年以上もの間インディオ部落で生活することになった。」

1979年頃、「ある民族学者が空想のインディオ部族をめぐって行う講演を収録する形」の小説を構想していたファン・ホセ・サエールは、このわずか十四行ばかりの記述に強く惹きつけられ、物語の中心にこの見習い水夫を据えることに決めた。

なかなか興味深い史実ではないか。コロンブスのインディアス発見から二十年ほど。陸ほどもある大海獣やら未開人やら財宝やら、未知なる大陸に関するスペイン人の興味は滾っていたにちがいない。誰も見たことのないインディオと呼ばれる蛮人のなかで、十年間を過ごした男は何を見聞きし、何を思ったのか。作家は想像力を駆使して、その奇異な経験を語ろうと考えた。これは架空のインディアス見聞記である。

物語は、老年にいたったこの男の回想から始まる。例のごとく、不幸な生い立ちから探検船団の見習い水夫として乗り込むまでの経緯が語られる。やがて出港。赤道を越え海岸伝いに陸地の裏側に向かう。そこが目的地だった。船団長をふくむ他の水夫たちは、上陸したとたんインディオの毒矢で射られ即死。なぜか一人だけ生け捕りにされた男は、仲間の死体といっしょにインディたちの集落に移送される。浜辺には火が焚かれ、木を組んで焼き網が用意されていた。

この部族は、年に一度だけ太古の風習に倣い、他部族を襲っては相手の死体を持ち帰り、皆で食べることを習慣としていた。その日だけは人を食い、酒を飲み大乱交を行う。しかし、その狂気の一夜が明ければ、いたってつつましい暮らしにもどるのだ。船団が上陸したのがちょうどその時期にあたっていたのが不運だった。しかし、仲間はその憂き目に会ったのに、なぜ年若い男だけは助かったのか。しかも、丁重な扱いを受け食事まで用意されるのはなぜか。

十年以上もの年月をインディオ部族の中ですごした後、救出された男は、こちら側の世界の中で今一度孤児となる。男にとって人間とはインディオの方であり、こちら側にいるのは醜い生物でしかなかった。生きる実感を失った男を救ったのは一人の神父だった。男は、神父のもとでラテン語やギリシア語を学び、プラトンやテレンティウスを読むことを覚える。その結果、彼はかつての経験を新しい目で見ることができるようになる。物語の後半は、今や引退した老賢者である男が、自分が生かされていた理由や、インディオたちの世界観について思索する哲学的考察となっている。

倫理や宗教、哲学や思想がすでに長い歴史を持ち、自らのなかにはじめから備わっているかのように思ってしまいがちな近代人だが、魔女裁判はほんのひと昔前のことだ。いや、宗教やイデオロギーが異なれば、相手を襲い、命を奪うのは今も変わらない。さすがに人肉までは食べようとしないが。人間とは何か。歴史に刻まれる以前、われわれの祖先はどのようにしてこの地球上に生き残ってきたのか。そんな根源的な疑問にひとつの解を与えるため、原住民とともに十年間生きた西洋人という史実を一粒の種のように空想の畑にまき、丹念な思考実験を繰り返し行うことで、みごとな架空世界を構築することに成功した。

ファン・ホセ・サエールという作家は、ボルヘス、コルタサルと並ぶ、アルゼンチン文学における「未邦訳の重鎮」であるという。紹介が遅れたのは、作家仲間と群れることなく、アルゼンチンでも周縁の地に住まい、出版社も大手ではないという事情があったようだ。その佇まいは、作中の神父や、老年の主人公を髣髴とさせる。これ一作しか読んでいないので、まだその持ち味を云々することはできないが、尋常でない出来事を冷静な筆致で淡々と叙述し、時間と記憶、存在と無といった形而上的問題について真摯に哲学的考察を加える作風は他のラテン・アメリカ文学の作家の誰ともちがう。今まで知らなかった未踏の高峰を発見したようなわくわくする出会いである。

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 2013/7/19 『寒い国から帰ってきたスパイ』 ジョン・ル・カレ 早川書房

シンプルなストーリー展開で、小気味よく読ませる。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』に始まる三部作でゆきつもどりつを繰り返す晦渋な語り口に翻弄された読者には信じられないような読みやすさ。ジョン・ル・カレの出世作である。この作品がスパイ小説の世界を変えたともいえる。一言で言えば、ジェイムズ・ボンドのような超人間的なヒーローが活躍するファンタジー世界から、ただ勤め先が情報部であるというだけで、どこといってわれわれと異なるところのない等身大の人間が、仕事に悩み、恋に落ち、葛藤するリアルな世界に。

第二次世界大戦後のベルリンは東西両ドイツ陣営によって壁を境に二つに引き裂かれていた。アレック・リーマスは、西ベルリン駐在の現場指揮官として、東側に潜り込ませた逆スパイを使う立場にいた。しかし、どういう訳か、協力者は次々と消されてしまい、最後に残った大物スパイであるカルルもまた冒頭で射殺されてしまう。組織を崩壊させた責任を取って帰国したリーマスを待っていたのは直属上司である管理官だった。管理官はエージェントを喪ったリーマスに「もう一度寒いところに行く気はあるか」ときく。カルルの射殺命令を出した敵スパイの領袖ムントへの復讐を果たすために。

退職まで残る任用期間、銀行課勤務を命じられたリーマスは、自尊心を傷つけられ、しだいに荒れてゆく。とどのつまりが失職、図書館に新しく職を得たリーマスは、そこで働くリズと愛し合うようになるが、暴力事件を起こし刑務所に送られる。出所したリーマスを待っていたのが、東側の人間だった。リクルートされたリーマスは、オランダ、次いで東独で尋問を受ける。最後の尋問に当たったのがフィードラー。ムントが英国側と通じているのではないかという疑いを持つ第二の実力者だった。管理官のねらいは、フィードラーの疑念を利用してムント二重スパイ説を偽装し、彼を追い落とすというものだった。

ル・カレの書くスパイ小説の面白さは、法廷ドラマのそれに似ている。徹底的な尋問とその裏づけをとおして、相手が何を隠し、何を黙っているのかを探ることにつきる。何度も同じことを質問し矛盾点を突く。尋問される側は、どこまで本当のことを話すか、相手の得ている情報量を推理しながら小出しに情報を提供する。すべてを明らかにすることだけは絶対にしてはならない。それは自分に価値がなくなるということだからだ。

この情報漏洩にまつわる相互のダイアローグから生まれる心理上の駆け引きが醍醐味である。尋問する側もされる側も対話を通して、自分を語り、相手を知ることになる。三日間もぶっ通しで尋問し、休憩時間には監視をかねてともに一時間ほど散歩をするのだが、その間も当然尋問は続いている。しかし、スパイとはいえ人間である。しかも相手の人物も力量もすでに旧知の仲。しだいに友情めいたものが芽生えてきたとしても不思議はない。これが葛藤を生む。

優秀なスパイが女で失敗するという冒頭のカルル射殺劇をはじめとする伏線に次ぐ伏線。何気ないひと言やふとさしはさまれる疑問が、あとで重大な意味を持ってくるのはル・カレの真骨頂。だましていたはずがだまされていたのか。目指すターゲットはフィードラーなのか。ムントなのか。知るはずのない情報を敵が知っているのは何故なのか。最後の審問の席で明らかにされる驚くべき真実とは。

後のスマイリー三部作で主人公をつとめることになるジョージ・スマイリーがピーター・ギラムとともに重要な役で登場しているのもうれしい。

「かれは彼女のアパートを出ると、人通りのない街を、公園へむかって歩き出した。ふかい霧で、道路のすこしさきに――それほどさきではなく、二十ヤードか、あるいはもうちょっとといったところだが――レインコート姿の、背の低い、小肥りの男が立っていた。公園の鉄柵にもたれかかって、ながれゆく霧に、シルエットを映しだしている。リーマスが近づくと、霧がいちだんと濃くなって、男の影をおおいかくした。そして、霧が切れたときには、すでにその姿は見えなかった。」

まだ、この時点でスマイリーの後の活躍は保証されていない。しかし、ここには、すでにわれわれ読者にお馴染みのスマイリーが活写されている。見事な伏線というべきではないか。

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 2013/7/15 『リトル・ドラマー・ガール』 ジョン・ル・カレ 早川書房

スマイリー三部作をはじめとして、ル・カレの小説は再読を強要する。一読して分からないというのではない。時間や場所、登場人物の異なる複数のストーリーが並行して展開する小説は少なくないし、もっと大量の人物が交錯する小説も何度も読んできている。文章が難解というのでもない。平易な語り口で会話も多用されている。それでは、どうしてこうも読み返したくなるのだろう。

その秘密は、プロットにある。物語なら「王が死に、それから王妃が死んだ」と語られる。これがストーリー。小説になると「王が死に、悲しみのあまり王妃も死んだ」と、王妃の死の原因らしきものが述べられる。これがプロット。「王が死に、続いて王妃が死んだ。人々はそれを怪しんだが、王妃は夫の死を悲しんで死んだのであった」というのがより高級なプロット、というのはE・M・フォスター(『小説の諸相』)。

それからどうなるのか、というストーリー展開で話を読ませる書き手とちがい、プロットに重きを置く作家は「なぜ、そうなったのか」という点に重点を置いて小説を構成していく。結末でその謎を解いて、読者をあっといわせるわけだ。ル・カレの場合、結末まで読んでも解かれない謎がいくつも残っている。「あれは、いったいどういうことなのか」という解決されない疑問を追って、読者は再読を迫られるのである。

ル・カレの小説にはめずらしく若い女性が主人公。チャーリィはイギリス人。スポンサーの招待で芝居仲間とギリシャのミコノス島に滞在中、ジョゼフという男にくどかれ、仲間と別れ一緒にギリシャを旅行することになる。あちこち連れまわされた果てに誘拐され、尋問を受ける。相手はイスラエルの情報部員で、当時ヨーロッパで頻繁に起きていた爆弾テロの犯人を追っていた。ところが、首謀者と思われるハリールという男だけは写真一枚の手がかりも得られず捜査は行き詰っていた。

リーダーのクルツは、爆弾を運ぶ役に必ず若い女を使うハリールの手口を逆手にとり、仲間を敵の組織内に潜入させる計画を立てる。役者で、反シオニストの集会に何度も参加し、ハリールの弟の講義も聞いたことのあるチャーリィは、その役にうってつけだったのだ。リクルートされたチャーリィは、ハリールの弟の恋人を装い、プラスチック爆弾を満載した車ごと国境を越えることで、まんまとテロリストグループの仲間入りを果たす。しかし、レバノンで訓練を受けるうち、チャーリィの心のうちに変化が生じる。「土地なき民」であるユダヤ人がパレスチナにイスラエルという国家を建設したことから起きるパレスチナ難民の悲劇。念願の中東問題を主題にしたル・カレ渾身の一作である。

無関係の市民を巻き込む爆弾テロは許されない。しかし、イスラエル軍による爆撃でパレスチナの子どもや老人が何人死んだか。かつて自ら住む土地を奪われ離散を経験したユダヤ人が故国と呼べる地を希求する気持ちは理解できる。しかし、その結果がパレスチナ人から故郷を奪うことになるのは矛盾でしかない。相反するイデオロギーの対立を回避するのではなく、イスラエル人、パレスチナ人、在外ユダヤ人、ドイツ人、イギリス人、強制収用所経験者、戦後世代と、さまざまな立場に身を置く人々のポリフォニックな声を響かせながら、中東問題を考えさせる、作者も認める啓蒙的な書となっている。

ル・カレ自身の来歴にまつわるアイデンティティの不確かさというテーマも健在で、チャーリィは、男出入りの乱脈さから放校処分となったのに、父親が詐欺罪で刑に服したためやむなく学校をやめたなどと、嘘で固めたプロフィールをエージェントにかたっている。過激な思想に肩入れし、集会にもたびたび参加するが、その実はマリファナとフリーセックス目あてである。この自己同一性というものを持たないチャーリィがジョゼフという演出家を得て、劇場における芝居ではない「現実劇場」に足を踏み入れることにより、覚醒し、自らを発見し、真実の愛を得るという、しごく健全なテーマが一本通っているところが、単なるエンタテインメント小説と一線を画している。

ジョゼフがリクルートする前のチャーリィは、愛すべき女性ではあるが、自分で自分を扱いかねている。役者という職業は、いろいろな人間に扮することができる。しかし、それは、逆に自分が何者でもないことをカモフラージュする言い訳にもなる。ジョゼフが、チャーリィに与えた、パレスチナ人の恋人の死を契機にテロリストとなる悲劇の主人公というフィクションを演じることは、それまで真剣に見つめてこなかった世界というものを再発見することになる。チャーリィはフィクションを生きることで、生まれてはじめて自分の生を実感するのだ。

ジョゼフにとって、彼の操作で思うように動く素人スパイのチャーリィは、いわば人形のようなもの。しかし、しだいに彼は人形に恋をするようになる。それと同時に、これまで命じられるままに動いてきた自分を逸脱し始める。自分を持たなかった女がはっきりした人格を所有し、他者に対し心を開くことのなかった男が人を愛するようになる。『リトル・ドラマー・ガール』は、ピグマリオンのテーマをエスピオナージュの世界に置き換えた愛の物語でもある。

ひとが自分というものを理解し、愛することができるようになるためには、他者を必要とすること。他者を愛することで、そういう自分を発見し、自分をも愛せるようになっていくということを、チャーリィとジョゼフという二人の人物の姿を借りて説いている。『純情でセンチメンタルな恋人』という恋愛小説もものしたことがあるル・カレ。不評でスパイ小説にもどったというが、果たされなかった願望をスパイ小説の世界にひそかに持ち込んでいたのだろうか。

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 2013/7/3 『ナイト・マネジャー』 ジョン・ル・カレ 早川書房

テレビのモニタに空爆されるバクダッドの映像が流れるチューリヒの高級ホテル・マイスター・パレス。ナイト・マネジャーをつとめるジョナサン・パインは夜間、吹雪をおして到着する一団の到来を待ち受けている。一群を率いるのはリチャード・オンズロウ・ローパー。本業はナッソーに本社を構える会社社長だが、その裏の顔は紛争地に武器を調達した代価を麻薬で受け取り、売却益を得ている「世界一の悪(わる)」だ。

カイロのホテルに勤めているころ、ジョナサンは上客であるソフィーという女に書類の保管を依頼された。書類には女の愛人とローパーの間に交わされた契約内容が記されていた。ジョナサンの通報により情報の漏れたことが原因でソフィーは殺される。女が死んだ後になって彼は女を愛していたことに気づく。

ソフィーへの償いを果たすためジョナサンはローパーの顧客情報を通報する。念願のローパー逮捕のために恰好のエージェントを得た情報部のバーは、彼をローパー陣営に送り込む手はずを整える。うまく敵陣にもぐり込んだジョナサンだったが、ローパーの傍らにはソフィーを思わせる美女ジェドが控えていた。

魅力のひとつは人物設定にある。早くに両親をなくしたジョナサンは英雄として死んだ父の後を追うように孤児院から軍隊に進むが、孤独な男の例に漏れず屈折した自我を形成する。除隊後は、料理人や接客業でその才能を発揮し、一流ホテルのナイト・マネジャーとなるが、ソフィーの死をきっかけにローパーの悪事を暴くことに文字通り命を懸けることに。料理のほかに画才を持ち、文学をよくし、ヨット、登山をこなす万能のヒーローは、誰にも愛される男ぶりのいい「イギリスの精華」。

エンタテインメントならではの勧善懲悪のストーリー展開は平板なものになりがちだが、そこはル・カレ。敵役であるはずのローパーを魅力溢れる人物として描くことで、復讐を誓う主人公の複雑な心理を呼び起こす。実際のところ、どんな集団であれ、チームを統率する指導者にはそれなりの魅力がある。また、そうでなくては集団が力を発揮することができない。いつも微笑をうかべ、相手の話を聞くローパーには、つい本心を語りたくなる。豪華な邸宅に自家用ジェット機、ヨットを所有し、世界中を飛び回る男はそれなりの哲学すら披瀝する。曰く、英国は中国から茶と交換に阿片を売った。自分の仕事はそれと同じではないか、と。怪我をしたジョナサンが静養中のローパー所有の島で、一緒に海岸を散歩したり、泳いだりするとき、二人の間にあるのは友情といってもいい感情だ。

人物の魅力とそのやっていることの悪さとの二律背反は、ローパーだけにあるのではない。相手がまぎれもない悪だと知っていて、その情婦をつとめているソフィーやジェドがそうだ。とてつもない美女であるばかりでなく、しっかりした自分を持つ彼女たちが、何故悪党の女でいられるのか。ジョナサンにしたところが、自家撞着は変わらない。いくら悪の巣に潜入するための偽の履歴作成のためとはいえ、信頼して愛情を寄せる女を次々と利用しては捨て去る。結婚寸前の娘と関係し、その婚約者の名前を使ったパスポートまで手にするのだ。ローパーを信用させるため、窃盗、殺人を犯した悪人になりすますのだが、後にこの偽の履歴の完璧さが、彼と彼をあやつる男たちを追い詰めることになる。狂言強盗を演じる味方の腕を二回折る精神異常者の悪党なのか、自らの故国も名前も捨てた愛国者なのか。どちらの姿が真なのか。アイデンティティーの不確実性というのはル・カレの骨絡みのテーマなのだ。

相変わらず、背景となる舞台が素晴らしい。雪が降りしきるスイス、チューリヒ。イギリス南西部ウェスト・コーンワル、ラニアンのコテッジ。吹き付ける強風には群れ飛ぶ鳥すら屹立する岩角に打ち付けられ海上に屍骸が浮かぶという、ジョナサンが見つけた隠れ家。或は、ナッソーに程近いエクスマ諸島中にあるローパーの島。バハマ、海中の楽園。次から次へと展開される新奇な眺望に目が奪われる。まるで映画を見ているようだ。

文章のいいのは訳文からも伝わってくる。たたみかけるような洒落た会話のテンポ。主人公の暗部を浮かび上がらせる自嘲を帯びた内的独白。絶体絶命の土壇場で堰を切ったように吐きつけられる愛の告白。いつまでも読んでいたいと思わせる名調子と裏腹に、次を読んでしまったら主人公が危機に陥るところでは、と本を閉じたくなるハラハラドキドキ感。存分に楽しませてもらった。

冷戦終了後、協調路線をとる両陣営間に諜報戦を設定することができず、スパイ小説作家にとって冬の時代の到来かと考えられていた。そんなことはない。季節が変われば厨房には別の食材が登場する。料理人は新たな材料に腕を振るえばいいだけだ。本作『ナイト・マネジャー』はそれを証明してくれる一級品のスパイ小説である。欲を言えば、読後に感じられる余韻に、あと一滴のビターがほしいところか。

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