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 2013/5/31 『カールシュタイン城夜話』 フランティシェク・クブカ 風濤社

丘の上に聳える灰色の城塞が眼に浮かんだ。坂を下りながらふりかえると、武骨な石造りの砦は翼を広げた鷲のように、谷に向かってその一部を中空にせり出していた。プラハ郊外の寒村に中世の姿を今にとどめるカレルシュタイン城。よく覚えている。張出し窓の両側に設えられた石の長椅子に腰掛け、足下の峡谷に見入りながら、夜な夜な満天の星を眺め、王は何を思ったのだろうと考えていた、あの城のことだ。

神聖ローマ皇帝にして、ボヘミア王カレル四世は、ある日突然猛烈な腹痛に襲われ昏倒した。医者は王の症状から毒殺を疑った。手当ての甲斐あって一命は取り留めたものの、体力の消耗は甚だしい。侍医は緑濃いカールシュタイン城での休息を勧め、王もこれに従う。これ以上王の心身を疲れさせることのないよう、お付きは同年輩の医師と騎士、それに僧の三人が選ばれた。

黒死病に襲われ街に閉じ込められた男たちが無聊を慰めるためそれぞれが話を披露した十日間の物語を書いたボッカチオの『デカメロン』にならい、七日七夜、夜伽の話で王を慰めようというのが『カールシュタイン城夜話』である。有徳の尼僧の転落、子を持つ母の不義密通、親子兄弟間の裏切りといった如何にも中世の古色を帯びた稀譚が一夜で三話、計二十一話。情感を抑えた淡々とした語り口、贅肉を削ぎ落とした文体で書き留められている。これを素っ気ないと見るか、古人の雄勁さの現れと見るか、評価の分かれるところ。絡まった蔦のように生い茂る『千一夜譚』をはじめとする古今の物語からお気に入りの挿話を抜き出し、解剖医の手際よろしく、物語を成立させている根本の構成要素のみを採りだして並べてみせるボルヘスの好きな読者なら或は分かっていただけるかと思う。

人物は近代小説のそれのように個性というものを持たず、典型として登場する。それゆえ女は絶世の美女でなければならず、一夜の恋はすべてを捨てて駆け落ちに至り、篤信の尼僧は男に騙され、娼婦に転落せずにはいられない。類稀な美女は、その美しさゆえにめぐり合うすべての男の運命を狂わせ、それを罪として、剣で自分の顔を切り裂く。そんな美女を妻にした男は嫉妬に苦しめられ、自分の出張中、妻を他の男から守るためなら悪魔に己が魂を売り渡すことさえ厭わない。それを知った妻は夫の魂を救うため、悪魔を誘惑する。全編すべてこの調子、数奇の人生が息つく暇なく繰り出される。身を乗り出して話を聞く王はみるみる回復し、やがて自分も話の仲間に入り、語りはじめる。

作者フランティシェク・クプカは、チェコに伝わる古譚集、歴史書を渉猟し、各国に伝わる遍歴のモチーフ数編をチェコ風に改編し再話、その他については、カレル王の自叙伝を参考にするなどして創作し、この黄昏迫る中世を舞台とする歴史物語を編んだ。チェコという国は、かつては神聖ローマ帝国の首都プラハを擁し、世界に冠たる一大帝国であったが、その後幾多の戦乱や他国の支配により受難の歴史を持つ。『カールシュタイン城夜話』は、ナチス・ドイツの支配の眼を掻い潜って出版され、収容所の中で奪い合うようにして回し読みされたという逸話を持つ。

如何なる国家であれ、順風満帆の時代ばかりではない。異邦の風下に置かれ、自民族の誇りを奪われ、辛酸を嘗めねばならぬ時代を持つこともあろう。それをどう受け止められるかが国家や民族の品格というものだろう。困難な時にあっても徒に卑屈にならず、偏狭なナショナリズムに陥ることなく、自国文化の精華を忘れずに生きぬくことがいかに大事なことかということを、この本は教えてくれる。

山口巌氏の訳は逐語訳に近くやや生硬だが、古譚の味わいを伝えるもの。ただ、「オンドジェイ氏はこの歓迎の場にいて顎鬚を撫でていた。それは剃られていた。悪魔が痩せていたのである」(オンドジェイ氏というのが悪魔が化けている人物)のように日本語として意味の通じない部分も散見される。版を改める際、見直しが必要ではないか。


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 2013/5/28 『スクールボーイ閣下』 ジョン・ル・カレ 早川書房

村上春樹が「ぼくは三度読んで、そのたびに興奮した」と絶賛し、ル・カレの最高傑作としたのが本作『スクールボーイ閣下』(原題“ The Honourable Schoolboy ”)だ。前作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』に継ぐスマイリー長篇三部作の第二作。単行本で二段組530ページという堂々の大長篇である。これを読んだあとでは、前作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』が、習作であったかと思えてくるほど、その完成度は高い。

アメリカ情報部の壁に掲げられている大統領の写真がニクソンからフォードに変わるという記述から時代は1970年代半ば。当時インドシナ半島は、将棋倒し的な共産化を恐れたアメリカのベトナム戦争介入やラオス・カンボジア侵攻に揺れていた。そんな時代の英領香港を舞台に、前作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』にもちらっと顔をみせていた親スマイリー派の現地工作員ジェリー・ウェスタビーが大活躍する本格的なスパイ小説。

原題のオナラブル(高貴なる)というのは、公・候・伯・子・男の爵位のうち伯爵から男爵までの子弟につける尊称で、ジェリーが歴とした貴族の出であることを示す。スクールボーイ(小学生)というのは、英国情報部(サーカス)の所謂「崩壊」後、新聞記者をやめ、トスカーナで無聊をかこっていたジェリーの半ズボンスタイルからついたあだ名。

二部22章構成で、舞台はロンドン、香港、カンボジア、ラオスと変転し、南シナ海に浮かぶ蒲台島でクライマックスを迎える。主にロンドンを舞台とする情報戦を指揮するのは、壊滅状況にあるサーカス建て直しを任されたジョージ・スマイリー。配下には前作に継いで登場する側近のピーター・ギラム、モスクワ観測者コニー・サックス、雑用係フォーン、それに今回から加わった中国観測主任ドク・ディサーリス。

幹部に二重スパイがいたという非常事態の事後処理中とあってサーカスは休業状態。「情報機関の仕事は追いかけっこをすることでなく、顧客に情報をとどけること」である。情報を「生産しないということは取引きできないということであり、取引きできないということは死ぬということである」。というわけで、スマイリーが追うのは、モスクワ・センターからインドシナ経由で香港の資産家ドレイク・コウに信託勘定という形式で送られた五十万米ドルの持つ意味。いったい何の代金か。その秘密を探るのがジェリーの役目。鍵を握る二人の男を追って戦渦のインドシナに飛んだジェリーを待っていたのは人殺しも厭わぬ組織の隠蔽工作だった。

コウには幼い頃に別れたきりの弟がいた。レニングラード大学で造船を学んだネルソンは文化大革命下の中国で親ソの烙印を押され辛酸をなめたが、その力を認められ今は中国共産党の実力者となっている。英国に二重スパイを送り込んでいたカーラが、これを見過ごすはずがない。それに気づいたスマイリーは、米国情報部(カズンズ)の協力を得てネルソン捕獲を企てる。

前作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』を企業小説と評したが、本作もスマイリーが担うストーリーは企業小説として読むことができる。サーカスという倒産寸前の会社更生を任されたスマイリーが、持てる資産を活用して双務取引きをならわしとするカズンズをはじめとする姉妹機関に提供しようとする交換商品がネルソンだ。スマイリーには予算削減のあおりを食って放り出された末端の工作員を養う責務がある。愛妻と別れ、サーカスの屋根裏部屋に寝泊りしてまで再建に奔走するスマイリーの姿には鬼気迫るものがある。

そんなスマイリーを敬愛しながらも、作戦の過程で無残に殺された犠牲者のことをジェリーは忘れられない。長年の苦労の末ようやく再会が叶う兄弟を引き裂く結果になる幕切れも納得できない。サム・コリンズによって麻薬の運び屋にされ、男たちの間で使い回しにされた金髪の美女リジーも見捨てては置けない。ジェリーは、任務終了後即日ロンドン帰還を命じられながらそれに背き、香港洋上蒲台島に向かう。

「高貴なる」スクールボーイとあだ名されているのは単に出自がいいからというだけではない。全能の師スマイリーに「あんたは間違ってるよ、大将(スポート)。どういうふうにか、どうしてかはわからないが、あんたは間違ってる」と言ってのけるジェリーには、スマイリーにはない無垢の心、謂うならば「永遠の少年」性とも呼ぶべき性向が備わっている。多くの人に愛される男が持つものだ。それが、組織の持つ非常さを肯んじ得ない。

前作がフーダニットのミステリだったとしたら、ジェリーの活躍する本作の後半はハードボイルド探偵小説だといえるだろう。村上春樹が三度読んだのもよく分かる。チャンドラーはマーロウを「卑しい街をゆく高潔の騎士」に喩えたが、ジェリーはリジーに対して、自分のことを「正義の騎士」(ギャラハッド)に喩えている。殴られ、蹴られ、ぼろぼろになりながらも、塵埃と反吐の臭いに塗れた香港の裏通りを駆け抜け、囚われの思い姫を救出に来た白馬の騎士のつもりなのだ。この甘さは致命的だ。

スマイリーは分かっている。「いまや自分の奮闘努力は、野獣と悪党のあいだをおのれの力不足がひとり勝手に歩いているといったていのものになってしまい、そこにジェリーのような無邪気な精神をむざんにまきこんでいるのではないか」「いまのわたしにわかっているのは、自分が世の中すべてを陰謀という見地から解釈することを覚えたということだけだ。それはわたしがきょうまで生きるに用いた剣であり、いま周囲を見まわすとき、いずれわたしの命を奪う剣でもあることがわかるのだ。わたしは彼らがこわい。だが、わたしも彼らのひとりなのだ」。ジェリーが父とも慕うスマイリーが生きている世の中は、こういうところだ。到底ジェリーのようなスクールボーイが生きられるところではない。

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(新訳版)と同じ村上博基氏の訳だが、新訳に比べるとたしかに読みやすい。作者が分量を気にせず、書きたいことをたっぷりと書き込んでいるので、人物の輪郭がくっきりし、陰影も濃い。要所要所を締める香港、インドシナ半島の風景描写も異国情緒に溢れ、魅力満載の仕上がりとなっている。ただ、ジェリーが会話の中に挿む「豪儀」や「大将」という言葉はいまや死語だ。村上春樹がいうように、翻訳には賞味期限があるのだろう。新訳までは望まないが、古びた言葉の錆を落とす程度の手当てが望まれるところ。文庫版では、そのあたりの配慮がなされているのだろうか。

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 2013/5/23『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』ジョン・ル・カレ 早川書房

二度読んだ。結果から言えば、ここは、と思わせる部分がないこともないが、全体的にはさほど読みづらさは感じなかった。読みづらさを感じる原因は、フラッシュバックを駆使した回想視点の導入による時制の交錯や、複数の視点人物の瞬時の転換といった原作者の文章にあるのではないか。しかし、一度目は多少苦労しても再読時は、主人公スマイリーの独白の沈鬱さを紛らわそうとするかのように絶妙のタイミングで挿入される情景描写の巧みさや、込み入った伏線を多用した構成の妙味にうならされるはず。旧訳や原文とつき合わせていないので、訳の巧拙についてはひとまず置く。ただ、それを理由に読まないですますのはもったいない。そう思わせる作品である。

スパイ小説というジャンルには不案内で、ル・カレの作品も読むのはこれで二作目。だから全くの素人評だが、読後思ったのは、これは、一種の企業小説だな、ということ。業界紙の記者をやっていた藤沢周平が作家に転じ、「お家騒動」に材を採った時代小説を得意としたように、企業でも、江戸時代の藩でも、洋の東西を問わず、男が集まるところに権力争いはつきものだ。

主人公スマイリーは、サーカスと呼ばれるイギリス情報部の幹部だったが、チェコで起きた事件の巻き添えを食って職を失う。愛する妻にも去られ、今は孤独な年金生活者である。その元スパイのところに大臣の側近レイコンから呼び出しがかかる。どうやら、サーカス内部それも幹部の中にソ連に通じている「もぐら」と呼ばれる二重スパイがいるらしい。スマイリーの馘首も直属上司であったコントロールの失墜もサーカスを牛耳ろうとする「もぐら」による策謀だった。スマイリ−は、権力の中枢から排除されたかつての仲間と諮り、もぐらの正体を暴こうとする。

題名の「ティンカー、テイラー、ソルジャー…」は、マザー・グースにあるわらべ歌で、「鋳掛屋、仕立て屋、兵士、貧者、乞食」の意味。ここでは、それぞれサーカスの幹部、パーシー、ヘイドン、ブランド、トビー、スマイリーに見立てられている。「もぐら」の裏切りによってチェコに潜入したジム・プリドーは背中を撃たれ、現地の組織は壊滅した。いったい誰の仕業なのか。スマイリーは、その謎を解かねばならない。スパイ小説とは言い条、そのつくりはクインやクリスティ、横溝正史偏愛の童謡仕立てのフーダニット物ミステリに類する。

スマイリーの調査活動は、レイコンや側近のギラムがサーカスから持ち出した資料を読むことと、事件の当事者の尋問。ぶ厚い丸眼鏡をかけた風采の上がらぬ小男という外見に相違して、スマイリーは有能なスパイだった。得意とするのは厖大な情報を精査し、そこに存在する齟齬から重要な問題点を読み解くことと、警戒する相手から得たい情報を聴き出す力。どちらも地味ながら情報活動では必須とされる力で、考えようによっては、これは名探偵の資質でもある。

ル・カレの真骨頂は、一見無関係とも思える情景から物語の中に読者を導く手際にある。冒頭、喘息の発作で授業を見学していた少年の目を通して描かれるジム・プリドーの荒々しいまでの登場シーン。雨中、窪地に突っ込むトレーラー車の描写が、これから始まる物語の不穏で酷薄な世界を余すことなく予告する。尋常でない魅力を身にまとった新任教師が垣間見せる孤独な姿に、少年は自分が庇護者になろうと決意する。すべてが終わり、心配しつつ待つ少年のところに彼は戻ってくる。裏切りに傷ついた男に新しい友情の誕生を予感させ、物語は余韻を漂わせて終わる。少年の挿話が陰惨なスパイ小説に一抹の救いを与えているのだ。

かつて実際にあった二重スパイ事件をモデルに、東西冷戦を背景に権力闘争にうつつをぬかす男たちを冷静な視点から解析し、倫理的な判断を下す。男同士の友情と裏切りというテーマは、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』にも通じる、ほろ苦い読後感をもたらす。ル・カレの代表作であり、これに続く『スクールボーイ閣下』、『スマイリーと仲間たち』三部作は、スパイ小説の傑作とされている。

「そろそろ生命保険の広告のいう“人生の晩年”だから、彼は不労所得生活者の見本になろうと努めた。だれも、だれよりもアンは、その努力を買いはしないが、彼は本気だった。毎朝ベッドを出て、毎晩ベッドにはいる。たいていひとりきりのそんな日々を送るうち、いまも、これまでも、自分はなくてはならぬ存在ではなかったのだと、自分にいってきかせた。」

スマイリーの独白だ。人生のある段階にきた者にとって、この感慨を他人事と読みすごすことができるだろうか。自分はまだできる、できるはずだと思いながらも、一日はやってきては去ってゆく。その日の長さに耐えるため、自分に言い聞かせる。「いまも、これまでも、自分はなくてはならぬ存在ではなかったのだ」と。

生きる記憶装置のようなコニーをはじめとして、ル・カレの創り出した人物は、誰もみな実在の人物であるかのごとく生き生きしている。彼らがすぐそばにいても何の不思議もない。バリバリの現役だったころならピーター・ギラムに感情移入し、いらいらしながらスマイリーの思考を追うだろうが、年金生活者の身ともなれば、スマイリーの境遇に自分をかえりみてしまう。スパイ小説の傑作と紹介してもまちがいではないが、すぐれた文学の持つ香気のようなものが全編に漂う。時間に余裕があって、再読、三読を愉しむことのできる世代にこそお勧めしたい。

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 2013/5/16 『春の祭典』 アレホ・カルペンティエール 国書刊行会

「彼らを見なよ。企業の国営化に対抗して、ヤンキーたちがこれから輸出規制を強化することを知っていながら、彼らは歌っている。この国の食料品店は空っぽになるだろうし、車は交換部品や燃料の不足から止まってしまうだろう。歯ブラシ一本、タイプライターのリボン、ボールペン、櫛、ピン、糸巻き、温度計、何もかも手に入れるのが難しくなるだろう。それでも彼らは歌い続けるさ。私たちは目まぐるしい変化の中の重要な瞬間を生きている。新しい人間が私たちの目の前で生まれつつあるんだ。何が起ころうとも明日への恐怖を持たない新しい人間だ」

歌っているのは、「ソン」だろうか。革命直後のハバナの街に立ち、民衆の姿を見つめる主人公に相棒が語りかける言葉だ。それから半世紀以上の時がたった。時折り眼にするハバナ市街の映像では、当時のまま時が止まったかのような流線型のテールを振りたててアメ車が通りを流している。小説家の言葉通り、物はなくとも人々は底抜けに明るく過ごしている。キューバのニュースが流れるたび、不思議な感動を覚えるのだ。人はこういう風にだって生きていけるのではないか、と。

作者アレホ・カルペンティエールはハバナに生まれ、大学で建築と音楽を学び、ジャーナリストとなるものの、マチャード政権批判により投獄。翌年パリに留学し、シュルレアリストたちと親交を深め、所謂「驚異的現実」に目覚める。『この世の王国』をはじめとする作品を発表するとともに、革命後は政府の要職に就くなど、ラテン・アメリカ文学を代表する作家の一人である。

革命と戦争の世紀と呼ばれる20世紀。ロシア革命、スペイン戦争、第二次世界大戦、キューバ革命と打ち続く戦乱に翻弄された一組の男女の半生を描いた一大ロマン。二段組540ページに及ぶ大作だが、時に入れ替わる視点人物が、エンリケとベラであることが飲み込めたら、後は一気呵成に読み進められる。背景となる舞台はロシア、スペイン、パリ、ニューヨーク、カラカス、キューバ、と転々と移動するわりに、登場人物は二人を取り巻く友人知人に限られているため、ストーリーを追うのは容易でわき道にそれることもない。

主人公の一人は、ロシアはバクーの呉服商の娘でバレリーナのベラ。もう一人は、キューバの貴族を叔母に持つ青年エンリケ。二人が出会うのはスペイン、バレンシア地方の地中海沿いの町ベニカッシム。スペイン内戦に参戦して負傷した恋人の見舞いに来たベラは、同じく負傷兵であったエンリケと出会う。ユダヤ人の恋人をナチに殺されたエンリケと、フランコとの戦いで恋人を奪われたベラはパリでともに暮らすが、しだいに激化する戦火を逃れてキューバに渡る。結婚し、それぞれ建築家とバレエ教師となった二人に今度はキューバ革命の混乱が襲いかかる。二人が最後に出会うのは、革命勝利に沸く野戦病院だった。

革命にトラウマを持つブルジョワ娘と、貴族の末裔という身分でありながら共産主義にかぶれ、ファシズムと戦うために国際旅団の志願兵となった青年が、一度はブルジョワ社会の中で生きることを選択するものの、キューバ革命という歴史的事件に立ち会うことで、否応なく革命に参加するようになる顛末を描いた長篇小説。

ディアギレフのロシア・リュスによる『春の祭典』公演は不評であった。ベラはキューバの祭儀で踊るダンサーの動きをモチーフに新演出での再演を企図する。これが題名の由来。音楽批評家でもあった作家らしく、このバレエに関わるエピソードが面白い。完璧に仕上がりながらも、黒人ダンサーを受け容れられないキューバ社会や革命シンパの夫を持つ教師の主宰するバレエ団の入国を認めない米国社会に翻弄され、公演先の決まらないバレエ団の悲劇。

作家自身の経験を増幅したものだろうが、名立たるシュルレアリストや作家の面々が随所にカメオ出演してみせるのが憎い演出になっている。やれその椅子でアルトーが寝ただの、ジョイスの黒眼鏡ががどうしただの。アナイス・ニンがエンリケと従妹の不倫の目撃者にされていることにも驚いたが、アンナ・パブロバに至ってはちゃんと長科白もある役で堂々と登場する。ヘミングウェイにも科白があるが、こちらは背中越しというのが、ちと残念。超有名な詩人、作家、画家、建築家、芸術家がみんな二人の知人として次々と登場するのが何よりのご愛嬌だ。ただ、いかにも顔を出しましたといわんばかりの軽い扱いになっているのはモダニズムやシュルレアリズムといった諸々の「イズム」よりも革命のイデオロギーであるマルクシズムを重視しているところを見せたかったのかも知れない。

惜しいのは、革命と戦争の時代に流されて自分を見失い、逃げ出してしまう二人の主人公より、没落してゆくグラン・ブルジョワとしての生き方に忠実な伯爵夫人やエンリケの従妹といった脇役の性格やその豪奢極まりない暮らしぶりの方が魅力的に描かれていることだ。もしかしたら、作家自身もそちらに共感していたのかもしれない、などとあらぬことを想像したくなるほどに。

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 2013/5/11 『石蹴り遊び』 フリオ・コルタサル 集英社

幻想的な短編小説の名手フリオ・コルタサルの筆になる、あまりにも有名な長篇小説。何がそんなに有名なのかは後で説明するとして、まずはざっとあらすじを述べる。主人公は、作家自身をいやでも思い浮かべてしまうブエノスアイレス出身で、パリでボヘミアンを気取って暮らす青年オラシオ・オリベイラ。同じような境遇の若者たちと「クラブ」と称するグループをつくり、夜な夜な誰かの部屋に集まっては、ジャズのレコードをかけては酒を飲み、一晩中形而上学的な話題や美術論や文学論をたたかわす毎日。オリベイラにはウルグァイから子連れでパリに出てきたラ・マーガという恋人がいる。はっきりした待ち合わせ場所を決めず、街角での偶然の出会いを求めてパリの街を彷徨する遊戯めいたデートを繰り返す二人だったが、赤ん坊の死を契機に破局。ラ・マーガは行方知れずとなる。これが第一部。

第二部の舞台はブエノスアイレス。ラ・マーガを探してウルグァイに渡ったオリベイラは失意のうちにブエノスアイレスに帰郷。サーカス団に勤めていた旧友のトラベラーと、その妻タリタを頼る。三人はサーカス団を手放した団長の経営する精神病院で働く。オリベイラは、中庭で石蹴り遊びに興じるタリタの姿にラ・マーガを重ね、精神的に追い詰められていく。

こう書けば青春の彷徨を描いた普通のリアリズム小説のようだが、実はこれ、作者が指定したひとつの読み方に従って読んだ「第一の書物」のあらすじに過ぎない。三部151章で構成されている本書の巻頭には「指定表」なるものが記されてあり、「二通りの可能な読み方のうち、いずれか一方を選択していただきたい」とある。「第一の書物は、普通の方法に従って読まれ、第56章で終わる」。「第二の書物は、第73章から始まって、以下、各章末に指定されている順序に従って読まれる」とあり、73‐1‐2‐118‐ (略)‐131‐51‐131‐と読んでゆく順番が指定されているのだ。そして、第一の書物を選択した読者は第57章「以後の続編を何の未練もなく放り出してもかまわない」とまで書かれている。しかし、そうは言っても、約三分の一残る続編を読まずに済ますことのできる読者がどれだけいるだろう。結局第二の書物を読まされることになる訳だが、すでに読んであるはずの第一部、第二部の各章が、指定された順に読まれることで、全く別の相貌を帯びてくることに驚かされる。まるで魔法にかかったみたいなものだ。

普通、小説の中で詳しく説明されることのない人物や出来事は特に深く知る必要のないものと勝手に判断して読み飛ばす。そうしたところで、さしたる不都合のないことを知っているからだ。ところが、第二の書物を読むことで、読み飛ばしていた挿話が登場人物の意思決定に深くかかわる要因であったことが明らかになる。今まで読んでいた物語はいったい何だったのか、という疑問がわいてくる仕掛けだ。映画に喩えれば、ストーリーに関与していると思っていた人物や事物が途中から完全に消えてしまうことが多々ある。その部分がカットされても物語の大筋は大きな影響を受けないと判断され、編集段階でカットされてしまったからだ。プロデューサーによる編集が承服できず、ディレクターズカット版と銘打って別バージョンを販売する監督がいて、同タイトルでありながら、全く別の作品になっている映画も一つや二つではない。

『石蹴り遊び』は、オリジナルと、ディレクターズカット版の二つをカップリングしてセット販売したDVDのような小説といえるかも知れない。今だからこそ、映画の比喩が成立するが、発表当時そんな発想はどこにも存在しない。いかに斬新なアイデアだったことか。

しかし、単なるアイデアとばかり言い切れない。この「決定しない」というスタイルこそが、主人公の生き方の反映であるからだ。オリベイラは、論理的整合性や弁証法、ヒューマニズムといった自明と思われている根拠を疑う。行動を呼びかけるもとになっている思考の拠って立つところをあえて疑い続けるところなど、実存主義の時代に過って迷い込んだ構造主義者そのものではないか。安易なヒューマニズムによる行動の前に、事態を分析、究明することを優先させる弁舌の人オリベイラはしかし、周囲から無責任で非人情な薄志弱行の人物とみなされ「審問官」という蔑称さえ賜ってクラブを除名されてしまう。優しい心の持ち主でありながら自己の指針に忠実たらんとして誤解を受け傷ついてしまう青年の魂の彷徨を描いて秀逸、と書いて終わりたいところだが、そうもいかない。

読み捨ててもいい続編の中にモレリという作家の創作ノートが多量に含まれている。どうやら、夜毎のクラブの議論の根底にあるのがモレリの書いた小説らしいことが分かってくる。それかあらぬか、モレリその人と思われる老人さえ登場してくるに至っては、セルバンテスの『ドン・キホーテ』に範をとったメタ小説と読めるのだ。

木村榮一は『石蹴り遊び』を評して「ボルヘスとは位相を異にする作者の該博な知識にも魅了され」たと書いているが、ピンチョンならロックやポップミュージック、ジョイスならオペラの歌曲でやるところをジャズの名曲をバックに流し、ユングや禅、オカルティズム、シュルレアリスムといった時代を象徴する主義主張の引用、解説、ドストエフスキーはじめ多くの文学者の名前の列挙と、ペダンティックな博引傍証の連続の合間に挿まれる難解な形而上学談義は好みの分かれるところだろう。

ただ、行きつ戻りつを繰り返し、あまりに短い断章と断章の間に挿まれた栞のせいで既読と未読の章をとりちがえ、すでに読んだ章に導かれては、また改めて未読の章に戻るという迷宮の彷徨にも似た読書体験は快い酩酊状態を誘い、いつのまにか石蹴り遊びの石にでもなったかのように、作品世界の中を逍遥し続けているうちに、読書というのではない、本の中に迷い込むような思いに囚われていることに気づいた。

「第二の書物」を読むためには、二分冊の文庫版は不便で単行本を探して読むのが良いのだが、古い訳のせいで事物や人名を表す固有名詞の表記が現今のそれとは多く異なっていて、分かりづらい。また、明らかに誤訳と思える箇所も散見するので、新訳もしくは改訳があれば参照されたい。ただ、本書はラテン・アメリカ文学にとどまらず、20世紀を代表する小説である。木村榮一氏あたりの新訳による単行本の刊行を期待したいところだ。

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 2013/5/3 『翻訳に遊ぶ』 木村榮一 岩波書店

ラテン・アメリカ文学にはまっている。一昔前にもなろうか、ラテン・アメリカ文学のブームが起きた。何事によらず、ブームとか流行とかには縁がなく、ほとぼりが冷めて人々が熱気を失いはじめたころになって興味を覚える天邪鬼な性行があり、今頃になって絶版になった本を探し集めては読んでいる始末だ。

ボルヘスだけは、ブームと関係なしに読んでいたが、当時スペイン語で書かれた本の訳者は鼓直氏、土岐恒二氏といった面々だった。『百年の孤独』を読んで衝撃を受け、ラテン・アメリカ文学の面白さをあらためて認め、ガルシア=マルケス、バルガス=リョサ、フリオ・コルタサルと、集中して読むようになった。木村榮一という訳者の名前が目に留まるようになったのはその頃からだ。そのうち、訳者の名前に注目して、本を探すようになった。読み終えたばかりのサンティアーゴ・パハーレス(『螺旋』、『キャンバス』の著者)などという作家も木村氏の名がなければ、本を手に取ることもなかったと思う。

『翻訳に遊ぶ』という書名から、どんな余裕のある話かと期待して読みはじめたのだが、良い意味で期待を裏切られることになった。だって、そうではないか。ラテン・アメリカ文学といえば、今この人を抜きに語れない、飛ぶ鳥を落とす勢いの翻訳家が、日の目を見るかどうかも分からぬ翻訳をやっている姿を見て、奥方が「都はるみの歌にそんなのがあったわね」と話しかける。そんな歌があったか、とたずねる夫に「ほら、《出してもらえぬ翻訳を/涙こらえてやってます》というのがあったでしょう」とからかうのだ。

誰にも修業時代というのがある。有名翻訳家にだってそんな時代はあるのは当然だ。しかし、本を読んで思うのは、木村氏ほどの訳者にしてこんな時代があったのかという驚きである。神戸市外国語大学名誉教授ともあろう人が、どの大学も落ち、新設のイスパニア語学科にようやく引っかかって、指導教官に報告に行くと「ついていけるのか?」と真顔で心配されたというから尋常ではない。

この本、大きく二部に分けることができる。前半は、物語好きの少年が、どんないきさつで大学に入り、教員生活を始めたのかという、いわば著者の生い立ちを語る自叙伝風のエッセイ。後半は、ひとりの翻訳家として、翻訳についてのあれこれを、これから翻訳をはじめてみようかと考えている後輩に、その心構えや、知っておくべき方法論を、自分の体験をもとに具体的に教授してくれる翻訳指南の書である。

後半の翻訳論が、実際翻訳を手がけたいと思っている初学者にとって、滅多と得られない良質の指導書であるのはもちろんのことだが、実は、前半の裃脱いだざっくばらんな半生記があってはじめて翻訳実技の講義が読者の胸にすとんと落ちるのだ。いろんな学者やえらい大学の先生のお書きになった本も何冊も読んできたが、著者ほど、飾らぬ人柄をそのまま読者にさらしてみせる書き手を知らない。

一例をあげるなら、翻訳の文章ができず苦労していたある日、奥方に読んでもらい、問題点を指摘される。文章がよく分かるのは共訳者の書いた方ばかりで、自分の方は日本語になっていないといわれる。そのあげく、刊行された本の書評でほめられた訳文は、妻の手直しを受けてその通り書いた部分だったというオチまでつく。

こんな著者が名翻訳家になれたのは何故なのか。それは本を読んでのお楽しみとしておこう。少しでも文章が上手にかけるようにと、世に云う「文章読本」の類を何冊も読んだという打ち明け話も人柄をしのばせるエピソードだ。同じ本が何冊も評者の書棚にも並んでいる。三島の、丸谷の、谷崎のそれぞれの引用も、よく覚えているものばかりで、昔なじみに久しぶりに出会ったようで懐かしかった。同じ本を読み、同じところで感銘を受けているのに、著者の文章は達意の名文となり、当方のそれはいつまでたっても迷文でしかないのは、なるほどこういう訳だったか、と思い知った。昔からよく云われるとおり、「文は人なり」である。読みやすさは保障する。翻訳に興味がある人はもちろん、そうでない人も読んでみられるとよい。特に、これから人生を拓いてゆく若い人たちに手にとってもらいたい一冊である。著者の生き方に勇気づけられるにちがいない。

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 2013/5/2 『キャンバス』 サンティアーゴ・パハーレス ヴィレッジブックス

井伏鱒二が、自作の『山椒魚』を自選集に収めるに際し、結末部分をばっさり削除してしまった事件を思い出した。教科書にも載っている有名な作品を、いくら作者であっても勝手に改編することが許されるのか、暴挙ではないか、というのが批判する側の論拠であったように記憶する。

世に知られている芸術作品の作者本人による改編の是非を問うという意味で記憶に残っているのだが、小説なら改編前の作品は消滅しはしない。音楽であってもスコアは残る。だが、もしそれが絵画なら、どうだろうか。加筆された絵から加筆部分を除去すれば、オリジナルは保持できるが、画家が意図した完成作は消えてしまう。また、加筆された部分をそのままにすれば、画家の手によって新しく描かれた画家の意に叶う「完成作」は存在するものの、世に知られたオリジナルな一枚は消えてしまうわけだ。このジレンマを主題にしたのが、『キャンバス』である。

主人公ファンの父エルネストは現代スペイン画壇の巨匠として知られるが、画筆を握らなくなって久しい。父から代表作『灰色の灰』を競売に掛けたいという依頼を受けたファンの尽力もあり、絵は無事プラド美術館に収まることになる。ところが、美術館の除幕式で自分の絵を見た画家は衝撃を受ける。父は息子に絵は未完で、後二本描線を引かねばならないと言い出し、修正加筆を美術館に迫る。もちろん一度購入した絵をいくら描いた当人とはいえ加筆などとんでもないと、館長に拒否された画家は絵を盗み出す計画を立てるのだった。

エルネストの絵の師匠で贋作家のベニート、美術品専門の窃盗犯ビクトルという仲間を得て『灰色の灰』修正プロジェクトは進行するのだが、ファンの妻は当然猛反対。父と妻の間でファンは身を裂かれるような苦境に立たされる。はじめは計画に反対していたファンだが、ベニートの死を契機に父を助けようと盗みの仲間に入る。はたしてその成否は?

美術館にある絵を盗み出し、加筆修正の上返却という計画は、まるで映画のようにエンタテインメント性が強いようだが、作家の思い入れはそちらにはないようだ。本物の芸術家と単に絵がうまく描ける画家とのちがいはどこにあるのか。自身も才能のある画家が身近に傑出した天分を持つ画家を見出したときの絶望と挫折。ある種の天分に恵まれたがゆえに他を顧みることができなくなる芸術家の悩み、などという傍系の筋から見て、この作品は所謂「芸術家小説」の範疇に入れたほうがおさまりがいいように思える。

誰しも一度は何者かになれるような気がし、一生懸命励むのだが、あるとき自分の限界が見えて、自分の才能に見切りをつけ、一般人としての生活を送るようになる。本当になかったのは才能なのか、もしかしたらあきらめずに努力し続けていれば、ひとかどの者になれたのではないか。人並みの幸せなどに眼もくれず、努力し続ける力こそが天才を天才たらしめる所以ではないのか。そんなことを問いかけてくる苦い味わいも隠し持つものの、サンティアーゴ・パハーレスの持ち味である後味の良さは今回も健在。もしかしたら、この善良さが作品世界を若干軽く見せてしまうのに加担してしまうのではないか、と危惧してしまう。

木村榮一の訳は、書き手の特質をよく知ったこなれた訳でたいへん読みやすい。冒頭の伏線が結末にきっちり反映されるところなど、『螺旋』と比べるとストレートすぎる印象の残る構成だが、一気に読ませる力量はたしかなもの。

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