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 2013/4/22 『新編バベルの図書館3』 ボルヘス編 国書刊行会

薄明の書斎に座しながら記憶に残る文章の回廊を逍遥し、世に隠れた幻想怪奇譚の名品を蒐集、バベルの名を冠したビブリオテカに保存し、好古の士の閲覧に供さんと企てられたこのシリーズ。第三巻目はイギリス編その二。ボルヘスの手が掬い上げた作家はスティーヴンソン、ダンセイニ卿、アーサー・マッケン、チャールズ・ハワード・ヒントン、そしてウィリアム・ベックフォードの五人。イギリス編一に収めきれなかった拾遺編、というよりもむしろ大本命の登場といいたいところだ。『宝島』で知られるスティーヴンソンは別格として、残る四人は知る人ぞ知るという面々。光を失ったボルヘスの眼だからこそ見つけることのできた異能の文士ばかりだ。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、わが中島敦の『光と風と夢』にもある通り、病気療養に赴いた南洋群島サモアにおいて客死する。原住民は、彼のことを「トゥシタラ」(物語る人)という名で呼んでいたことが中島の本に記されている。その南洋の光と風が生んだ夢物語が二篇選ばれているのが嬉しい。英国を舞台にしたものとは異なる趣きを持つゆえに。『ジキル博士とハイド氏』に明らかな一人の人間の中にある善と悪の葛藤という主題は「マーカイム」が引き継いでいる。「ねじれ首のジャネット」の不気味な雰囲気も捨て難いが、「トゥシタラ」の名に相応しいのは愛し合う二人の互いの思いのすれちがいを描く「壜の小鬼」か。スティーヴンソン版『賢者の贈り物』と呼びたくなるような愛すべき佳篇である。

ロード・ダンセイニは本物の貴族である。妖精や太古の神々の物語を書くのは余技のように思われたか、その名は文学史上には埋もれていたといっていい。ボルヘスの称揚はダンセイニ卿の復権に与するものだ。悪夢のように恐ろしい「潮が満ち引きする場所で」ほか、短い物が多く採られているが、短篇らしい結末の切れ味を見せるのが「不幸交換商会」。余韻の残る終わり方が絶妙である。ダンセイニ卿らしさを味わいたいなら中世の面影を残す「カルカッソーネ」。伝説の地を捜し求め彷徨する苦難の旅程は実人生の寓意ともとれ、その徒労感が深く心に残る。

江戸川乱歩も愛したアーサー・マッケンは、「黒い石印のはなし」、「白い粉薬のはなし」、「輝く金字塔」の三篇。いずれもケルトの地に根づいた伝承の古層に今も深く息づく、人ではないものたちの出現を描いた妖異譚。マッケンならではの恐怖をたっぷり味わえる。

チャールズ・ハワード・ヒントンという名は初めて眼にする。その著作『科学的ロマンス集』をボルヘスの言うように幻想物語集と読めるかどうかは読者の力量によるのだろう。ただ、小さい頃、四次元立方体の展開図なるものを科学雑誌で見つけ、しばらくの間ノートの端に落書きめいた図ばかり書き散らしていた身としては、よくぞこれを発掘してくれたものだと、ボルヘスの慧眼に今更ながら畏れ入るばかり。三篇の中では「ペルシアの王」が最も物語らしい。寓話として語られる王の、民の苦痛の一部をわが身に負う所業は、シッダルタ王子の事跡を思い出させる。物語色の濃い諸篇の中で、最も心打たれる一篇。

ウィリアム・ベックフォードは、文学史的には『ヴァテック』ただ一篇で知られるが、金にあかして建設を急がせたフォントヒル・アベイの城主として名を残す。「英国の最も富裕なる公子」と呼ばれた稀代の遊蕩児である。三日と二晩で書き上げたと伝えられる「ヴァテック」は、アラビア物語とある通り、数ある「千一夜物語」の一ヴァージョン。ダンテの『神曲』に端を発する冥界巡りをクライマックスに置いたバイロン卿枕頭の書と噂される奇書。美女と美食を何より好む王が、したい放題、放埓と残虐の限りを尽くした挙句、魔神の誘いに乗ってソロモン以前の宝物を手に入れるため、地の底の火の王国を訪れるという、デカダン極まりない幻想怪奇譚。私市保彦氏の訳は平易で読みやすいが、私蔵の牧神社版、矢野目源一氏の旧訳と読み比べたとき、口語訳聖書を読むときの味気なさに似た思いを抱く。時代に合った訳の必要性を認めるに吝かではないが、試みに冒頭部分を新旧訳で読み比べてみたい。言わんとするところが分かってもらえると思う。

「教王ヴァテックはアッバシィド朝九代の王でモタッセムの息(こ)、ハルゥン・アル・ラシッドの孫に當る。年齢少くして王位にのぼり、まことに英邁の君であったゆゑに人民からも御代の榮は永く、泰平にうちつづくものと望み仰がれてゐた。」(矢野目訳)

「アッバース朝第九代カリフのヴァテックは、ムータシムの息子にして、ハールーン・アル・ラシードの孫でありました。若さ誇る男盛りに王位にのぼり、少壮にして英邁な資質に恵まれていましたので、王の御代は末永く栄えるだろうと、人民は熱い期待を寄せておりました。」(私市訳)

訳者のせいにする気はないが、新訳の「です・ます」調は文末にしまりがなく、文章の持つリズムが感じられない。なんだか子ども向けの読み物を読んでいるような気がしてくるのは歳のせいばかりではないと思うのだが。

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 2013/04/16 『遠い女―ラテンアメリカ短編集』フリオ・コルタサル他 国書刊行会

表題作「遠い女」を含むフリオ・コルタサル作五編は、ボルヘスに激賞されたといわれる最も早い時期に発表された短篇集『動物寓意譚』に収められている。ラプラタ河幻想文学という言葉があるが、アルゼンチンのブエノスアイレスは、ボルヘスやアドルフォ・ビオイ=カサーレス、マヌエル・ムヒカ=ライネスなどを輩出する幻想文学が盛んな地域である。コルタサル家の女たちも愛読者だったらしく、小さい頃から本好きだったフリオ少年は、家にあった幻想文学を耽読したらしい。「遠い女」は、ポオに影響を受けたといわれるコルタサルらしい分身譚。ただ、ポオの「ウィリアム・ウィルソン」のように外貌が似ているのではない。

アリーナ・レイエスは自分の名(Alina Reyes) を es la reina y…(彼女は女王様、そして…)と、アナグラムで置き換えてみせるような、美人で気位の高い女だった。彼女が我慢ならないのは、どこか遠くにいるはずのもう一人の自分が、乞食女か娼婦のように惨めな暮らしをしているらしいことだ。どこにいて、何をしていても、その女が寒さに震え、苦しみ、人に殴られているのを感じる。日増しにその思いは強くなるばかり。意を決したアリーナは、新婚旅行先に、女がいるはずのブダペストを選んだ。夢の中で考えた伝言(モクヨウニユク、ハシデマテ)は、相手に伝わっているはず。その日、ホテルを出たアリーナは街歩きに出かけた。目的地である橋の上には一人のみすぼらしい身なりの女が待っていた。

「わたしはあるオブセッションなり悪夢に取り憑かれると、どうしても振り払えなくなるのです。それを払いのけるには何か書くしかないのですが、その意味でわたしにとって短篇を書くというのは悪魔祓いの儀式にほかなりません」

フリオ・コルタサルの言葉である。いかにも幻想文学作家が言いそうな話だが、コルタサルの口から出ると、まんざら作り話ともいえない気がしてくる。というのも、ひとくちに幻想文学と言っても玉石混交であるのは他の文学ジャンルでも同じことで、なかには、いかにも「つくりもの」めいた拵えの目立つ作風を見せる作家も少なくない。仕事上、幻想や怪奇事象を扱ってはいるけれど、ドッペルゲンゲルも異世界の存在もはなから無縁で、信じも感じもしないのではと思わせる作家作品は掃いて捨てるほどある。そうした作品の多くは結末でオチをつけたらそれでお終い。所詮は他人事、主人公の思い入れや語り手の感情など知ったことか、という感じ。

コルタサルの作品は、そうではない。抜き差しならない感情が行間にたゆたい、身につまされた読者は胸を痛め、物語が終わっても、解決が宙吊りにされたまま、割り切れない思いを抱いていつまでも立ち尽くすしかない。こののっぴきならない読後感こそ、フリオ・コルタサルの短篇を読む楽しみなのだ。

他に次の作品を収める。

「夕食会」/アルフォンソ・レイエス(メキシコ)
『流砂』より/オクタビオ・パス(メキシコ)
「チャック・モール」/カルロス・フェンテス(メキシコ)
「分身」/フリオ・ラモン・リベイロ(ペルー)
「乗合バス」/「偏頭痛」/「キルケ」/「天国の門」/フリオ・コルタサル
「未来の王について」/アドルフォ・ビオイ=カサーレス(アルゼンチン)
「航海者たち」/マヌエル・ムヒカ=ライネス(アルゼンチン)

いずれも、ラテン・アメリカを代表する詩人、小説家の幻想的な作品を選りすぐった短篇集である。名のみ伝えられて、実際の作品に触れたことのなかった作家の作品が読めるのがうれしい。なかでも、巻末を飾るムヒカ=ライネスの「航海者たち」は、短篇小説という体裁ながら、夢想癖の強い騎士の海洋冒険譚という器を借り、新知識に溢れ、社会改革にも熱心な若者の集団が、旧式の武器しか持たない体制側に、てもなくひねり潰されてしまうという、リアルに書けば苦々しい寓話を、実に愉快で滑稽な幻想怪奇小説に仕上げて見せてくれている。冒頭に無聊をかこつ主人公の騎士が読みふける書物の作者名が列挙される。ヘシオドスやヘロドトスの名に混じって、ウンベルト・エーコの近著『バウドリーノ』で言及されている伝説の王プレスター・ジョンことプレスタ・ジョアン王や『教皇ホノリウスの書』の著者であるオータンのホノリウスなどの名が見えるのは、博識で知られるムヒカ=ライネスらしい。衒学趣味の横溢した、いかにも幻想怪奇文学の本流をいく構えで、たいへん結構なものである。

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 2013/04/15 『海に投げこまれた瓶』 フリオ・コルタサル 白水社

原題は所収の別の一篇のタイトルを採って『ずれた時間』であった。どういう理由でこの表題になったかは「訳者らの判断による」と解説にあるが、この短篇集の一つ前に発表された『愛しのグレンダ』という表題を持つ短篇集の存在が大きいのではないだろうか。その表題作「愛しのグレンダ」は、ある女優を熱愛するあまり、膨大な資金と労力を費やし、全出演作の瑕疵を編集作業で削除し、廃棄されたプリントと入れ替えることで完璧な作品集を秘密裡に完成させるグループの活動を描いた作品だが、表題作「海に投げ込まれた瓶」は、その「エピローグ」であると、副題がつけられている。

英女優グレンダ・ジャクソンをモデルにしたグレンダ・ガーソンの完璧な演技の集大成を創りあげ、天地創造にも似た喜びのうちにあったグループは、一度は引退を宣言した女優の復帰発言に衝撃を受け、完成度を落とさないため、女優を殺害するというのが、「愛しのグレンダ」だった。

ところが、その短篇集が発行され、まだ英訳も出ないうちに、当の女優が主演する映画『ホップスコッチ』が発表される。「ホップスコッチ」は「石蹴り遊び」の謂いで、いうまでもなくコルタサルの代表作の題名である。CIAやKGBの内幕を暴いた暴露本をめぐるスパイ活劇には元スパイが書いた本の題名「ホップスコッチ」も登場する。それが、作品の中で女優を殺したことへの意趣返しなのか、それとも皮肉をこめた挨拶なのか、作家には分からない。勝手に名前を借りた女優に直接訊くことなどできるはずもなく、真意を問う手段として、その疑問と自分なりの考えを書いた手紙を壜に入れ、海に流すことにする。これが「海に投げ込まれた瓶」の概略である。

話題性はあるだろう。グレンダ・ジャクソンといえば、ハリウッド女優でもないのにアカデミー賞を二度受賞した名女優である。しかし、作品としては、前作「愛しのグレンダ」がなければ意味を持たない、いわば「アンサーソング」である。作家自身も書いているように、この「事件」を締め括るための終幕でしかない。コルタサル最後の短篇集を飾る表題としては如何なものか。

個人的な見解としては、原作通り『ずれた時間』に戻すのが妥当だと思う。全部で八篇収められているうち、すでに名を記した二篇をのぞく残り六篇を簡単に紹介しておこう。偶然立ち寄った見知らぬ町の美術館で見たスーパーリアリズム絵画そっくりの風景を、同じ町の中に見つけてしまう、二次元から三次元への移行を描いた「局面の終わり」。並のボクサーでしかなかった男が、急にハード・パンチャーに変貌を遂げる「二度目の遠征」。 atar a la rata (ネズミを罠に掛ける)という回文を素材に、軍に追いつめられたゲリラ部隊の状態を寓意的に描く「サタルサ」。夜の学校に忍び込んだ学生が目撃したのは、見てはならない夜宴だった。バルガス=リョサを髣髴させる「夜の学校」。両親に内緒で反政府集会に通いつめる兄が願うのは、植物状態の妹の覚醒であった。後期コルタサルらしいラテン・アメリカの状況を背景にした「悪夢」。ある娼婦の毒殺事件にまつわる逸話を、創作ノート風に綴った「ある短篇のための日記」。

残る一篇が原作における表題作である「ずれた時間」。アニバルは、物を書くのが嫌いじゃない。しかし、あんな記憶をわざわざ書いてどうなるのかという疑念もある。「(記憶を)ぼくなりのやり方でつなぎ止めておくために文字にし、まるでタンスの中のネクタイか夜のフェリシアの肉体のように身近にしまい込んでおけば、それだけいっそう、さまざまな物事が真実になると信じこむ、おめでたい性向がぼくにはあるが、実際、二度と体験できないことを書きつらねていると、それが眼前にいっそう彷彿としてきて、まるで、なんの変哲もない記憶の内部に第三次元への通路が開け、必ずといってよいほど苦々しいものであるにもかかわらず渇望せずにはいられない連続性が生まれるように思われる。」

少年時、友達の姉に感じた愛とも憧憬ともいえる思慕の念を、大きくなっても変わらず持ち続け、アニバルは今もサラを夢に見る。アニバルは思い出を文字にする。友達の家で毎日見ていたサラの美しい姿。突然やってきた別離と、その後の人生。ついに告白できなかったことへの悔い。年のはなれた男女の間にそれぞれに過ぎていった時間のずれはどうにもならないのか。ある日、仕事帰りの一杯を飲みに出かけた街角でアニバルはサラと突然の再会を果たす。喫茶店のテーブルを挟んでようやくかなった告白の結果は…。

作家でなくとも、日々文章を書く者にとって、書かれたものと、現実の差というものは気にならないわけがない。記憶をたどり、事実だけを記しているつもりでも、そこに選ばれたものは、自分というフィルターがかかっている。しかし、一度文字にしてしまえば、そこにひとつの世界が立ち上がる。描かれてしまったものは、それなりの質量を保持するに至る。仮令それが自分の想念が作り出した世界であっても。頭の中に浮かび上がることを文字にすることの重さを痛いほど感じさせる、フリオ・コルタサルにしか書けない、甘く、苦い追憶の物語。やはり、この一篇こそが最後の短篇集の表題に相応しい。


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 2013/4/13 『愛しのグレンダ』 フリオ・コルタサル 岩波書店

M.C.エッシャーの絵を見たことがあるだろうか。泳ぐ魚の群れから視線を上げていくと、何やら一つ一つの輪郭が抽象的な形の中に溶解してゆく。なおも視線を上げてゆくと隣に同じような抽象的な形が目に入る。ちがっているのは今度はそれが鳥のようにみえること。そして最後には一群の鳥の飛翔を目撃することになる「空と水」。あるいは、右手が今まさに一本の線を描き終わったところ。その線の先をたどると全く同じペンを持つ右手に至るという「描かれた手」といった一連の画業を。

コルタサルの短編には、このエッシャーの絵を見ている時に感じるのと同じような印象を受ける。図と地がある。普通は地の上に図が描かれる。ところが、エッシャーのある種の絵の場合、ある地点で図と地が入れ替わり、地であったものが図となり、図は地へと後退してしまう。あまりにも日常的な出来事を描くコルタサルの筆に読者は安心しきって叙述に仕掛けられた細部を読み落としてしまいがちになる。淡々とした叙述を「地」だと勘違いして、いつか「図」が浮かび上がるだろうと期待して先を急ぐからだ。多くの場合地と図はすでに巧妙に交錯し始めているので、結末に至ったとき、あたかも今まで見ていた図が忽然と消え、全く別の絵を目の前にするような奇妙に落ち着かない感覚を味わうことになる。

「猫の視線」は、ミステリアスな女に秘められた別の顔を探し求める男の話。音楽を聴いたり、ギャラリーの絵画を見たりしている裡に、女は絵の世界に入り込んで帰らなくなるという、絵の中に人間が閉じ込められるという、よくある話と読めるのだが、どことなく腑に落ちない点が残る。そこで読み返してみると、女が殆ど口をきかないことに気づく。視線はまっすぐ「ぼく」を見るばかり。飲み食いはおろか本を読んだり、ドアを開けたりという日常的な動作をしないのだ。そこで、はたと気づく。女はもともと猫といっしょにはじめから絵の中にいたのではないか。自分の妻だという「ぼく」の語りが、「騙り」であり、これは信用できない語り手によって語られた妄想ではないか、と。しかし、そうだと決め付けられるほどの証拠を作家は残していない。そこで、納得のいくまで幾度も読み返す羽目になる。収められた十篇の最後に「メビウスの輪」と題された一篇があるように、コルタサルもまた、エッシャーと同じくメビウス的世界を描くことに執した作家なのである。

生涯に九つの短篇集を残したコルタサルの、これは八作目にあたる。コルタサルには繰り返し使いまわすお気に入りのフェティッシュがある。自作短編を(1)儀式、(2)遊戯、(3)移行、(4)そちらと今、の四つに分類している作家自身に従えば、(3)移行、(4)そちらと今、にあたるだろうか。ある入り口を人物が通り抜けることで別の時空間にそのまま滑り込んで、別の世界で生きる、という設定である。頻繁に使われるので、同工異曲と言われるのを避けるため、いきおい技巧を尽くすことになる。

ブエノスアイレスで起きた国家の暴力を告発する記事に衝撃を受けたパリにいる作家が、帰宅途中別の暴力事件に巻き込まれ、それをもとに文章を書く。しかし、その事件はパリではなく、実はマルセイユで起きていたという怪異を描く「ふたつの切り抜き」。晩年、ラテン・アメリカの現実に対し、積極的に発言するようになったコルタサルらしい作品だ。メッセージを生のままでなく、虚構の衣をまとわせることで、より普遍性を持たせていることに注目したい。

男の画家が街角の壁に色チョークで描く「落書き」に、会話を交わすように女の画家が描いたらしい別の絵が添えられる、というそれだけなら微笑ましいエピソードととれる「グラフィティ」も、それが暴力的な取締りの対象になる(ラテン・アメリカと思しき)国家の管理下に置かれるとき、極めて今日的なアクチュアリティを持つに至る。

バッハの「音楽のささげもの」のスコアを、合唱団のパートを受け持つ八人の男女に演じさせる「クローン」。愛する女優の映画を編集しなおし、現存するプリントと置き換えてゆくという究極のファン心理の行き着く果てを描いた「愛しのグレンダ」。裏切った男にじりじりと追い詰められる恐怖を描いた「帰還のタンゴ」と、いずれも脂の乗り切った作品ばかり。

巻末に置かれた「メビウスの輪」は、言葉の通じあわない男女の悲劇的な遭遇が生んだ強姦殺人という異色の題材をメビウスの輪というトポロジーの象徴を用いることで、ユークリッド的世界では永遠に理解し会えない男女を次元を超えた世界で和解させようとした意欲作。強姦の被害者である女性心理の描き方に批判があるという。作家の意図するところは理解できるが、評価は分かれるかもしれない。目まぐるしいほどのイメージの奔流はそれまでのコルタサルの作品と比べると難解さが際立つ。晩年のコルタサルの目指そうとした世界なのだろうか。今となってはその達成が見られないのがいかにも残念である。

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 2013/4/12 『この世の王国』 アレホ・カルペンティエル 水声社

カリブ海に浮かぶサント・ドミンゴ島の西部に位置するハイチは、ラテン・アメリカ諸国で初めて独立を果たし、共和国となった国である。カリブの海賊といえば、ディズニー社製のアトラクションや映画を思い浮かべるかもしれないが、17世紀にはハイチ島を基地としてフランスの海賊が海を荒らし回っていたのだ。しかし、18世紀後半、宗主国フランスに革命の嵐が吹き荒れると、植民地も政情不安となり、動乱の時代を迎えることとなる。この物語は、それより少し時をさかのぼり、1751年に幕を開ける。

『この世の王国』は、フランスの一植民地であったハイチが、いかにして奴隷制を廃し、自分たちの手で共和国を樹立することに成功したかという歴史を、ひとりの奴隷の目を通して描いたものと一応はいえるだろう。ただ、そういうと何やら難しそうな歴史小説を想像してしまいそうだが、そう思わせたなら紹介者の筆のまずさ。この小説、人間が虫や鳥、けものに変身したり、生き埋めにされた大司教の霊が化けて出たり、魔女が毒薬を調合したりというゴシック・ロマンも真っ青の怪奇幻想小説仕立てに仕上がっている。

変身の主は、修行の果てにブードゥーの祭司となったマッカンダルという奴隷。魔女に習った毒薬で農場主たちを毒殺し、ハイチ独立のさきがけとなった。マッカンダルは火刑に処されて果てるのだが、ブードゥーを信じる奴隷たちは彼は変身して逃れたと信じて疑わない。これがこの後に続く暴動、革命の原動力となる。

四部構成のこの小説、第一部はマッカンダルの事跡から始まるのだが、その前に序文が付されている。その中で作家は、自身が影響を受けたシュルレアリスムの運動が生み出した「驚異的現実」の実体が如何に貧寒としたものであったかを、徹底的にこき下ろしている。形骸化した想像力がひねりだした蝙蝠傘とミシンの手術台の上での出会いなどより、自分が訪れたハイチで目にしたかつての王国の廃墟や民衆の中に生きるブードゥーの魔術、音楽、舞踊などの方が、どれほど驚異に満ちた現実であるかを熱っぽく語っているのだ。

では、いったい何が作家をして、そうまで思わしめたのであろうか。遥か谷底を見下ろすように、今も聳えるラ・フェリエール城砦と、その眼下に広がるサン=スーシ宮の廃墟の景観を目にしたことが大きかったのではないか。ピラネージの名を出して、その偉容を形容しているが、同じ版画に影響を受けたホレス・ウォルポールのストロベリー・ヒルやウィリアム・ベックフォードのフォントヒル・アベイに比べ、その規模や形状は想像を絶している。

第二部はジャマイカのブックマンという、やはりブードゥーの祭司が先導した革命の顛末と、その鎮圧を命じられたナポレオンの義弟ルクレルクに従ってハイチを訪れた妻ポーリーヌ・ボナパルトの浮世離れした暮らしぶりを描く。疫病に冒され、暴動の起きているハイチをまるでポールとヴィルジニーの暮らす楽園でもあるかのように思いなすポーリーヌのノンシャラン振りが、どちらかといえば血なまぐさい世界を陽気な色にぬりかえる。そのコントラストが強い印象を残す。

第三部は、カプ市で人気レストランの料理長をしていたアンリ・クリストフがフランスの絶対王政を模した独裁政治を行い、同じ黒人の奴隷を酷使して王宮と城砦を築き上げるが、圧制のつけが廻り、家臣に見限られ、黄金の銃弾で自殺を図る。その最期を、城砦を築くための煉瓦を肩に、蟻の行列のように山道を登らされる奴隷の一員となった主人公ティ・ノエルの目を通して描く。

どれだけ暴動を起こし、奴隷が王になろうが、大統領になろうが、虐げられた者の暮らしは一向によくならない。第四部は、そんな人間に絶望した主人公が蟻や蜜蜂、鵞鳥に変身したすえ、悟るところがあって結局人間の姿に戻るが、大風のあとには何も残らないという寓意性の強い物語になっている。

『この世の王国』が描いた「驚異的現実」をもってマジック・リアリズムの嚆矢とする説があるようだが、それは、すこしちがう。たしかにめくるめく物語であり、ブードゥー教の儀式や変身譚が出ては来るが、ガルシア=マルケスの描く世界とは微妙に温度差がある。シュルレアリスムの影響を受けたカルペンティルの眼差しは以外に冷静で、野放図なマジック・リアリズムの詐術に依らない合理的な解決が可能な視点が貫かれている。古典的な稀譚の風趣を漂わせた格調を感じさせる文章であり、評者などは、むしろこの描き方を好む者である。とんでもない奇想の書のように受け止める向きもあろうかと思われるが、歴史上の事実を根拠にしている。いかに驚異的であれ、これがアメリカの現実なのだ。ラ・フェリエール城砦もサン=スーシ宮も世界遺産に登録され、ラバに乗れれば誰でも訪れることができる。いつか事情が許せば訪れてみたい地のひとつである。

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 2013/4/11 『遊戯の終り』 フリオ・コルタサル 国書刊行会

1956年発表というのだから、パリに来てまだ五年しかたっていない頃の作品である。掌編といってもいいほど短い作品も混じっているが、とてもとても習作などとは呼べない完成度を見せている。とはいえ、まだどこか初々しさすら感じさせるコルタサルを味わうことのできる初期短篇集。

日常の何気ない、出来事ともいえないような些事の中に潜んでいる「向こう側の世界」への裂け目を見つけるのが、コルタサルは巧い。「誰も悪くない」は、待ち合わせ中の妻のところにかけつけようと、急いでセーターを着かけた男のいささか滑稽な情景を描いている。あわてていて通すところをまちがえたのか、なかなかセーターが着られない。手や頭が外に出ないので、身動きが取れなくなるなどというのは、誰でも一度や二度は経験があるにちがいない。ただ、それがコルタサルの手にかかると、背筋が寒くなるような怪談に変わる。自分の意思に逆らって、わが身を絞めつけ絡めとろうとしてくる何かに対する不安が、現実の世界を異界に変える。

「ねじこむように手を通してゆくと、わずかだが通ってゆき、やっと青いセーターの袖口から指が一本のぞいた。夕方の光を受けたその指は内側に折れまがり、皺だらけで先には尖った黒い爪がついている。」

セーターが異界との通路と化し、そこを通り抜けた手は、最早自分の手でありながら魔物のそれのような禍々しい形状に変貌を遂げている。あわてて抜くと別段変わったこともない。セーター(通路)の入り口に戻ったからだ。安心して頭も左手もセーターの中に入れてしまうと、再びセーターの外に出た右手はさらに勝手な動きをしはじめ、ついには左手に噛みついたり顔を引っかいたりしはじめる。外側から見れば踊りでも踊っているように見えるが、内側では恐ろしい混乱が生じている。セーターと右手のない世界に逃れようとした男を待っていたものとは…。

自分の中にあって、自分の自由にならないものを、人は誰でも持っている。多くの人はうまくそれを誤魔化し、それと折り合いをつけ、気づかないふりをして世間を渡っているのだ。しかし、感受性が強かったり、神経質すぎたりする人は、それに目を瞑っていることができない。それは恐怖であり、苦痛だから。

コルタサルの世界は閉じている。すべては独白の世界だ。対話形式であっても相手はもう一人の自分に過ぎない。他者の入り込む余地のない自閉空間。水族館の水槽の中にじっとしている山椒魚を毎日毎日飽かず見続ける「山椒魚」の少年は知っているのだ。その山椒魚が自分であることを。バスの中で幼い頃の自分そっくりの少年を見つけ、仲よくなる「黄色い花」の男もまた、それが小さい頃の自分に他ならないことを知っている。しかし、それを他者にどう分かってもらえばいいのだろう。少年はふと思いつく。どうせ他人はそれをまともに受け止めない。それなら、いっそ「奇譚」として語ればいいのだ。こうして一人の幻想小説作家が誕生する。

異国で生まれ、幼少時に帰国したと思ったら、父が出奔。母親は子どもを親戚に預けて働き、女手ひとつでフリオを育てたという。多感な少年の心は、如何ばかりだったであろう。そのせいか、少年時代を舞台にした作品がコルタサルには少なくない。本作の中では、「殺虫剤」「昼食のあと」「遊戯の終り」がそれに当たる。どれも少年時代の心のふるえが伝わってくる優れた出来映えをみせている。孤独であるからこそ、人一倍他者に認められたい気持ちが強くなる。複数の人間が互いの愛を求め合う立場で対峙するときに生じるきしみに異様に敏感な少年少女の心理を描くとき、コルタサルの筆は余人の追随を許さない。

ともすれば、自分の心の闇に怯え、他者との関係の難しさに挫けそうになる、若い時代に読みたかったと思う短篇集である。

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 2013/4/7 『すべての火は火』 フリオ・コルタサル 水声社

ラテン・アメリカ文学と一口にいっても北は北米西海岸に接するメキシコから南は南極に近いアルゼンチンまで、人種、気候はもとより歴史、文化が異なるのは当然のこと。それを一括りにしてしまうのには無理があると思うようになったのは、コルタサルを読むようになってからだ。アルゼンチンという国は旧大陸からの移民によって創られた国である。首都ブエノスアイレスはパリを真似て建設された。世界三大オペラ劇場の一つが建ち、南米初の地下鉄が敷設されたのもパリへの憧憬あればこそ。エリート層によって主導されたアルゼンチン文学は高踏的、芸術的で、土着的な風俗よりもヨーロッパ世界を志向しているのは、ボルヘスを見たらよく分かる。紛れもなくラテン・アメリカに属していながら、腰より上の部分では西欧社会を生きるように運命づけられているのが、アルゼンチンの作家なのだ。

二つの世界を生きるという意味では、巻末に置かれた「もうひとつの空」が象徴的である。ブエノスアイレスに住む「僕」は、あやしげな店が犇めき合うグエメス・アーケードを歩き回るうちに、いつの間にかパリのヴィヴィアンヌ回廊に出てしまう。アーケード(回廊)がトンネルの働きをし、「僕」は二つの世界を往還しながら二人の女性と付き合い、現代の夏のブエノスアイレスとギロチンによる公開処刑が行われていた当時の冬のパリという異世界での二重生活を送ることになる。アルゼンチン人ならではの引き裂かれたアイデンティティーを濃厚に漂わせる一篇である。

表題作の「すべての火は火」もまた相異なる二つの世界が同時進行する。ひとつはローマの円形闘技場、剣闘士と総督夫人は恋仲であり、総督もそれを知っている。強敵のヌビア人剣闘士との死闘が今しも始まろうとしている。もうひとつは現代、パリのアパートの一室が舞台。不実な男に愛想を尽かした女は電話で自殺をほのめかすが、別の女といる男はまともに取り合わない。どちらも男女の三角関係が主題で二つの物語は相似形をなす。二つの糸が綯い合わされ一本の紐になるように、二つの物語が交互に語り継がれ、最後には一体化してしまう。はじめは段落ごとの交代だったものが、事態が緊迫感を増し始めると、文レベルの交代となってゆくのだが、ひとつの言葉やフレーズが異世界の橋渡しの契機となり、物語の進行はいささかも停滞しない。バルガス=リョサにも同様の手法を用いた作品があるが、あちらは長篇。短編でこの技法を駆使してみせるコルタサルはまさに短編の名手の名に相応しい。

他に六篇の作品を収めるが、いずれもコルタサルらしい技巧を凝らした粒揃いの傑作短篇ばかり。個人的にはパリ名物の渋滞をファンタジックに描いてみせた「南部高速道路」がおすすめ。大規模災害に見舞われたとき、人は連帯感を抱き、見知らぬ者同士が会話したり、食料や物資を融通しあったりするものだ。プジョー404に乗った技師は、ある日曜日の午後、南部高速道路を通ってパリに戻ろうとするところを渋滞につかまってしまう。なかなか収束しない渋滞に、はじめは苛立っていた人々が次々と起きる難題を解決するために協力して立ち向かうようになる様子をユーモアを交えて描いたもの。ただ、時間の進み方が尋常でない。渋滞の最中に季節が何度もかわるのだ。長引く事態にブラック・マーケットが生まれたり、調達屋が現れたり、最後には死人まで出るという戦時を思わせる状況下に、大江健三郎がかつて「広大な共生感」と呼んだような感情がそこに現出する。仲良くなったドーフィヌに乗った娘とのこれからの生活を夢見かける技師だったが、渋滞が解消されるに連れ、人々は…。

ことは渋滞に限らない。誰にでも覚えのある経験を、極限状態に追い詰めることで生まれる凝縮された感情のカタルシス。日常の中に非日常を奔出させるコルタサルの真骨頂。このなんともいえない結末の持ち味がたまらない。

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 2013/4/3 『通りすがりの男』 フリオ・コルタサル 現代企画室

詩はアンソロジーで読め、と言ったのは誰だったか。一冊の詩集には同工異曲のものもあれば、駄作もまじる。アンソロジーなら名詩ばかりで外れがなく、ヴァラエティーに富んでいるからだろう。同じことが短篇集にもいえる。一人の作家の持つ様々な持ち味を一冊の本の中に並べてみせることができる。

フリオ・コルタサルはベルギー、ブリュッセル生まれのアルゼンチン人。幼少時に帰国し故国で育ち、三十代半ばで留学生として渡仏。その後パリ在住。そのせいか、他のラテン・アメリカ作家の書く物とは一味ちがう。一口で言えば都会的で繊細なのだ。小説の舞台もヴェネツィアやジュネーブといった有名な都市であったり、固有名を持たない街であったり、とラテン・アメリカの地霊に縛られていない。

丸谷才一がその書評の中で、モーパッサンの短編小説の結末のつけ方は評判が悪いと書いている。どんでん返しがあざといと嫌われるらしい。丸谷はナボコフはその裏を行ったと続けているのだが、フリオ・コルタサルの結末のつけ方も独特である。結末に至って、それまでよく分かったつもりで読んでいた物語がふと見えなくなる、というか、読み違えていたのだろうかという疑念が生じる、そんな感じ。

超自然や驚異、珍奇な物、事件といった非日常的なものはまず登場しない。そういう意味ではチェーホフ的かもしれない。多くは市井のアパートや酒場、避暑地のホテルといった日常的な空間に一組の男女を配置し、その心理の綾を語るだけだ。ただ、その人間と人間の間にあるずれが生む葛藤を摘出して見せる手際のよさ。読者はそこに人間存在の思いもかけぬ顕現を見て畏怖すら覚えてしまう。はっきりしない終わり方という点もチェーホフに似ているといえる。

すれちがいの恋愛譚あり、大人になりかける時期の微妙な少年心理を鮮やかに切り取ったスケッチ風のもの、アラン・ドロンという懐かしい名前も登場するフィルム・ノワール風の一幕もあり、と多彩な作品が揃っている。作家は短編小説を一枚の写真に喩えているという。たしかに、長篇小説とはちがい、人生の一瞬を切り取って掌の上に差し出してみせるという点で、短編小説は写真に似ているだろう。ただ、それは読者や見る人の知性や感受性を動かす導火線のような働きを持つものでなければならないともつけ加えている。

個人的な好みをいえば、手紙のやりとりで知り合った男女が、あらかじめ創りあげた互いの像にしばられて現実の相手を見失う「光の加減」や、倦怠期のカップルが他人を装って避暑地でのアヴァンチュールを楽しむ「貿易風」のような作品が、洒脱な味わいを醸し出していると思う。

異色なのは、作家がニカラグアの革命運動に連帯し、世界にその実状を訴えたルポルタージュ『かくも激しく甘きニカラグア』所収の一篇でもある「ソレンティナーメ・アポカリプス」だ。他のルポルタージュといっしょに読んだときにはずいぶん主観性を強く押し出しているな、とは思いながらも、作品中の「ぼく」を作家その人と思って読んでいた。ところが、短篇集に収められるとその中に登場する「私」(訳者が異なる)は、虚構の視点人物としか読めなくなるのだ。ニカラグアの湖に浮かぶ小島の住民描くところの絵を撮影したスライドをパリの自宅で上映していると、そこにあるはずのない虐殺現場を撮影した映像が次々と映し出されるという、一見平和な島の日常の裏に隠された混乱の続くニカラグアの現在を二重露出にして提示する手の込んだ一篇だが、こうして短篇集の中の一篇として読むと、ルポルタージュとして読んだとき以上の衝撃を受ける。これが物語の持つ力だろうか。

翻訳は若い訳者の下訳に木村榮一が手を入れたものだろうか。話者の語り口に特徴のある作家の個性をよく生かして読みやすい。


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