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 2013/3/25 『快楽としての読書』(海外篇) 丸谷才一 ちくま文庫

本を切らしてしまった。読むに価する本をどうにかして調達せねばならぬ。そういうときどうするか。私なら書評に頼る。新聞や雑誌には書評欄というスペースがあって、週に一度は新刊の紹介記事が載っている。何度か試すうちにお気に入りの書評家が見つかる。そうなればしめたものだ。彼らの紹介する本を探して読めば、まず大概外れることはない。

ところで、何もすぐに書店に向かう必要はない。書評はそれだけで立派な読み物である。ここに採りあげたような書評だけを集めた本もある。古くはホメロス、聖書から、ナボコフ、バルガス=リョサ、それにカズオ・イシグロまで、百冊を越える書物の書評が収められている。

巻頭を飾る「イギリス書評の藝と風格について」は、云わば「書評」論。イギリス書評の伝統と現在に範をとりながら書評のあるべき姿を問う。そこに書かれた「四条件」は、丸谷の書評について解説を依頼された誰もが引用したがる決定版である。そのひそみに倣って引く。第一は、再話性。どんなことを書いた本なのか、読んでなくても人に話せる程度の内容紹介が必須だということ。ネットに溢れる書評には最低限のこれすらないものが多い。第二は評価。これのない書評はないがそれだけに難しい。第三は文章の魅力である。流暢、優雅、個性の三つを兼ね備えるのが理想だが、この辺で書いていて恐ろしくなってくる。そして、最後に来るのが批評性。「それは対象である新刊本をきつかけにして見識を趣味を披露し、知性を刺激し、あわよくば生きる力を更新することである」。

数が増える順にクリアするのが難しくなるが、当の丸谷の書評に最も顕著なのは、四の批評性の素晴らしさ。厖大な知識量に、持ち前の批判精神が相俟って他を寄せ付けない。

もちろん文章の魅力にも事欠かない。書き出しから結びまで、頼まれ仕事も多いだろうに、気を抜かず、最大限にその藝の力を発揮する。たとえば、チェーザレ・パヴェーゼ作『丘の上の悪魔』の書き出し。「若さを失つた読者はこの長篇小説を読んではいけない。青春の風がまともに顔に吹きつけて来て、息苦しくなるから」。読むなと云われれば読んでみたくなるのが人情というもの。レトリックで惹きつけるこの手にのせられて、パヴェーゼを手にとった中年読者は評者一人ではないはず。

書き出しがあれば、結びもいる。「海外篇」だから、翻訳についての評価は欠かせない。ウィリアム・モリス作『世界のかなたの森』の結び、「小野二郎の訳は推奨に価する優れたもの」のような、作家お気に入りの型を持つ。時に「推奨」が「嘆賞」になったりする。書名『快楽としての読書』は、中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』の結び、「その偉大な、そしてほとんど未紹介の詩人を、彫心鏤骨の、しかも生きがよくて清新な訳で読む。快楽としての読書といふべきか」からとられたにちがいない。

自薦書評集だけあって評価の低い本はない。ただ、それだけに誉めてなければ訳の評価は高くないと分かる仕掛けだ。内容については、特に出版する側の意向もあるのだろうが、訳書の題名のつけ方に注文が多い。かつて自著の『笹まくら』という題名に文句をつけられた恨みがあるのかもしれない。内容紹介については実直そのもの。ネタバレには注意しながらも、ほぼ粗筋は分かる紹介ぶり。これなら読まずとも人に語れよう。

ジョイスはもちろん、ナボコフ、マルケス、バルガス=リョサ、エーコと愛読する作家の既読の本の書評を読み、なるほど、そういう見方があったか、と改めて書棚に手を伸ばすことも一度ならずあった。一冊で何冊分も読書の愉しみを味わうことのできる至福の書評集である。

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 2013/3/22 『快楽としてのミステリー』 丸谷才一 ちくま文庫

帯に「追悼」の二文字が入った、これも文庫オリジナル編集の「追悼」本。早川書房の「エラリー・クィーンズ・ミステリ・マガジン」をはじめ各社の雑誌等に寄稿したミステリ関係の書評・評論を時代、内容ごとに改めて編集したものである。その多才さは知っていたものの、こうして集められたものを読むと、ミステリー愛好家としての丸谷才一の一面が、他の顔にも増して強く浮かび上がってくる。

冒頭に「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」シリーズを語った鼎談を収める。これも今は亡き瀬戸川猛資と向井敏を相手に、趣味を同じくする者同士が座談に興じる様子が伝わってくる好い企画である。

鼎談を別にすると、他は五つの章に分かれる。初期の書評を集めたU「深夜の散歩」とX「ミステリー書評29選」が書評、V「女のミステリー」、W「ミステリーの愉しみ」、Y「文学、そしてミステリー」が評論ということになろうか。

書評は英米のミステリーが中心になるが、評論においては日本の推理小説界の動向にも批評、提言を惜しまない。タイトルに「ミステリー」とついているが、エリック・アンブラーやイアン・フレミングといったスパイ小説作家にも扉は開かれている。もともとミステリーと純文学、大衆小説、中間小説といった類のジャンル上の垣根は丸谷にとって、どうでもいい区別であった。

好きな作家については重複をいとわないのが、大作家であってもファン心理というのは変わらないことがうかがえて微笑ましい。特にチャンドラーについては何度も触れ、「これが文学でなくて何が文学か」と、その文学の魅力を称揚し、村上春樹を筆頭とする日本の作家への影響力の強さを語る姿には力が入っている。

丸谷がミステリーを愛するのは、読んでいて愉しいからであって、そもそも読んでいて面白くないものは文学としての価値がない。鹿爪らしい顔をして、つまらない文士の日常の瑣末な身辺雑事をみじめったらしい筆使いで書き綴った「私小説」が、日本の文学を生きる上での色あいや潤いの乏しい、狭量な世界に閉じ込めてしまったことに対する不満が、この人にはある。

それに比べ、食事や酒、社交の席上での会話、音楽等々、人をして人生を愉しませてくれる種々の薀蓄を存分に語ることのできるミステリーは、何をおいても外すことのできない文学ジャンルである。ハヤカワ・ポケット・ミステリが、アメリカについて知る上での最も手軽な参考書であった時代を語り、日本推理小説界の大御所である松本清張と横溝正史を分けるのが、ハヤカワ・ポケミスに代表されるアメリカもののミステリ受容の有無であることを論じてみせる弁舌の爽やかさは、酒杯片手の上機嫌さにだけよるのではない。

この本、タイトルにつられて、ミステリ小説の解説本と思ってしまうと、ちょっともったいない。特に最終章「文学、そしてミステリー」は、グリーン、チェスタトンあたりはミステリーに分類されるだろうが、エーコ、清張、大岡昇平に至ると、いわゆる文学というものを読み解く作業に、「ミステリー」という「解読格子(グリッド)」を用いたとき、どんな読みが可能になるかという、その実例を奔放華麗に見せてくれる。松本清張をかつて人気を呼んだ社会派推理小説の重鎮などと括って済ませているのが、いかにつまらないことかを教えてくれる「父と子」など、ミステリ嫌い、純文学好きの読者必読といえよう。

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 2013/3/18 『生半可版英米小説演習』 柴田元幸 朝日文庫

海外の小説が好きでよく読む。もちろん日本語訳で。読んでいて思うのは「これって原作者じゃなくて、翻訳家が書いた文章だよね」ってこと。フォークナーを読もうが、サリンジャーを読もうが、はっきり言って、読んでいるのは「筋」であって、本来英語で書かれた「小説」が持っている微細なニュアンスのようなものは、翻訳の上手下手はあるにしても、ほとんど抜け落ちているのではないか。実際に原文で読んだら、そのちがいは分かるんだろうか、なんてことを常々考えていたところに、この本が出た。もともとは1998年に出版されたものの文庫化である。

原作の「さわり」の引用に、作家や作品についての解説をつけるというスタイルは、デイヴィッド・ロッジ作『小説の技巧』その他の先例があるようだが、原文の引用に対訳つきというのは、この本が初めてなのではないか。タイトルに「演習」とあるように、大学で教えているゼミの学生に提出を義務づけているレポートの体裁と同じらしい。

英語が堪能というわけでもないので、対訳がたよりになるが、一読して分かるのは、なるほど、同じ英語による文章でも作者の個性というのはあるものだな、ということ。たとえば、カズオ・イシグロの「ほとんどそのまま辞書の例文に使えそうな」几帳面かつ端正な英語によって書かれた『充たされざる者』と、絵本『フランシス』シリーズで知られるラッセル・ホーバンのコンマも改行もなく、奇妙なスペルの頻出する『リドリー・ウォーカー』を読み比べてみれば、そのちがいは明らかだ。

スティーヴン・ミルハウザーやスチュアート・ダイベックが、さわりだけとはいえ対訳つきの原文で読めるのはファンとしてうれしい限りだが、何のことはない、柴田元幸がさかんに推奨し、訳出したからこそ日本でも話題になり、多くの作品が読めるようになったわけだ。1998年に本が出た時点で「いったいこんなもの誰が訳すんだろう」と書かれているトマス・ピンチョンの『メイスン&ディクスン』は、結局そう書いた当人の翻訳を待って日本初お目見えとなった次第。

翻訳者としての著者の功績はミルハウザーやダイベックの翻訳でもあきらかだが、柴田の存在価値は単に訳が上手というだけではない。数多ある英米文学の中から面白いのに紹介されていない作家、作品を見つけてきて、どうだい面白いだろう、と読者に薦めつつ、その本が世界文学の中で占める位置や作家の持つ個性といったものをしっかりとらえてみせること、つまりは、すぐれた批評性の持ち主であることだ。それぞれの作品に付された、決して長いとはいえない解説がそれを示している。



近現代英米文学のブックリストとしての価値は、初版発行後十数年経過した今でも、その価値は減じていない。文庫版のあとがきには、今現在なら、こんな作家が加わるはずという新しいリストも付け加えられている。
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 2013/3/14 『なつかしい時間』 長田 弘 岩波書店

長田弘は詩人である。ともすれば難解なイメージをもたれがちな現代詩の書き手の中で、難しい言葉を使わず、易しい言葉を使って、言うべきことを短く語る、そんな詩人だ。

その詩人が、NHKテレビ「視点・論点」で毎回語った元原稿に手を入れた四十八篇に、同時期に別の場所で話した三篇を加えたものである。もともとが放送原稿であるため、いつもの文体とは異なる「です・ます」調で書かれていることに若干の違和感を持つものの、内容はいつもの長田弘。

『深呼吸の必要』という詩集を行きつけの書店で見つけ、買って帰ったのが、この詩人とのつきあいの始まりだった。ありふれた日常の風景に眼をとめ、吟味された日常語を駆使して、たしかな思考を紡ぐ、その詩篇をことあるごとに読み、口の端に上せた。

その方向性に、いささかの変化もなく、言わんとすることは同じなのだが、番組視聴者の年齢層を配慮してか、詩人自身の年のせいか、インターネットその他現代の諸相に感じる違和感の表明が多くなり、挨拶言葉など失われつつあるものに寄せる愛惜の言葉が増えているのが気になった。また、古今東西の文献からの引用や、世界を旅して見てきたことの紹介に、いつも新鮮な驚きを感じさせられたものだが、引用は日本近代の文人、露伴、杢太郎、龍之介などよく知られた文人中心に選ばれているようだ。テレビ番組ということもあり、耳で聞いて覚えやすいものが選ばれたということもあったのかもしれない。

十七年、四十八回という長きにわたっているのに、言葉の大切さ、本というもの、読書の持つ意味、と言いたいことに全くブレのないのが、いかにもこの人らしい。

忙しく動き回っているときには忘れていても、何かがあって立ち止まることを余儀なくされたときなど、ふと思い出されて、読んでみたくなるような言葉があふれた一冊。本のもつ質感までも大事にする詩人ではあるが、そんな時には、新書という手軽さが生かされていい。

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 2013/3/12 『無地のネクタイ』 丸谷才一 岩波書店

作家が亡くなると、関係のあった出版社からは追悼の意味も含め、版権を所有する原稿を集めて遺稿集のような本を刊行するのが常で、これもそのひとつ。岩波の雑誌『図書』に掲載されていたエッセイを集めたものである。同じエッセイ集にしても『オール讀物』に拠るそれらとは少しく色合いが異なる、解説で池澤夏樹も言うように「武張っている」のだ。軽妙洒脱にして、博覧強記の中に下品にならない程度の色気、というのが丸谷才一のエッセイの持つ妙味だが、この本に集められた諸篇には出版社とその読者を意識してか、世の中に一言申しのべたきことあり、というスタイルをとるものが多く、どちらかといえば「大人」に似つかわしくないと思うのだが、その中からひとつ採るとすれば、「私怨の晴らし方」という一篇。

ボルヘスがペロン嫌いだったことを簡単に説明した後、彼の『まねごと』という短編を紹介する。妻のエバの人気があって大統領になれたペロンはエバの死を境に失脚するのだが、そのエバの死後、アルゼンチンの村には、棺に見立てた段ボール箱に金髪の女の人形を入れ、喪服の男が傍らに立つ小屋がけの見世物が立ったという。入場者は喪服の男に哀悼の意を表し、ブリキの箱に二ペソの銅貨を払うというものだ。これは実話だと書いた後の文章を引用している。

それは言わば、ある夢の影であり、『ハムレット』の劇中劇のようなものである。喪服の男はペロンではなく、ブロンドの人形はその妻のエバ・ドゥアルテではなかった。しかし同様に、ペロンはペロンではなく、エバはエバではなかった。

オリジナルなきコピーであるエバとペロン、すべてはコピーでしかないラテン・アメリカに限らぬ独裁者の姿を描いて見事な一篇だが、これを私怨の晴らし方の素晴らしい例とした上で、わが?外の『空車』が当時売り出し中の武者小路に対する私怨から書かれた物であるという松本清張の説を支持していわく、「出来が悪いし無内容である。もう一工夫あって然るべきだった」と結ぶ。知の巨人と比べられては、さしもの大文豪も形無しである。ボルヘスのペロン嫌いに自分の軍人嫌いを重ねながら、論旨の展開に、ボルヘス、?外、松本清張と斯界の大御所を並べてみせる豪勢さは流石。

表と裏に、シリーズタイトルから採られた無地のネクタイとバオバブの木のイラストが花を添える。名コンビである和田誠との顔合わせもこれが最後かと思うと、やはり哀しい。

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 2013/3/6 『そして、人生はつづく』 川本三郎 平凡社

川本三郎には、荷風、林芙美子、白秋など近代文学史上に名を残す作家の評伝を書くという文芸評論家の仕事とは別に、映画、鉄道旅行、居酒屋、商店街といったお気に入りの主題を材に採ったエッセイ作家の顔がある。数年前に永年連れ添った伴侶をなくしてからは、それに独り居の日記という体裁の気どらない日誌風の文章が加わった。

イランの映画監督アッバス・キアロスタミの作品からタイトル名を借りた今度の本にも、その弧愁の色が影を落としている。さらには地震の被災地をめぐる記録映画の形をとった映画同様、3.11後の東北を訪れた際の文章も数多く含まれている。どんな辛い出来事に出会おうとも、残された者はその後の人生を生きていかなければならない。淡々とつづられた文章の向こうに日々の暮らしをつづけていく、たしかな力が透けて見える。気負いのない、むしろ軽みすら感じさせる筆致からは、ようやく老境に入りかけたかつての青年の姿を想い見ることができる。

自らの「愚行」の記録でもある『マイ・バック・ページ』の映画を見ながら、手ばなしで泣いてしまう川本には、いい意味での人の良さを感じる。「朝日との切れ目が縁の切れ目」と、事件後「朝日」を辞めた自分の周囲から去ってゆく人々を恨むでもなく、独り引きこもった彼だったが、復帰を喜んでくれる人々も少なくはなかった。井上ひさし、種村季弘、丸谷才一といった錚々たる顔ぶれが物書きとしての川本を認めていた。丸谷の死を悼む一文には、刊行当時、また袋叩きに会うのではないかと恐れた『マイ・バック・ページ』を一番に書評で評価してくれたことに礼を言う川本に、「僕は『笹まくら』の著者だよ」と応じた丸谷の言葉が紹介されている。情理を尽くした一言に読んでいるこちらまでうれしくなった。

一人になったこともあって、以前にもまして気軽に旅に出るようになっている。旅といっても各駅列車に乗って近くに出かける日帰り程度の旅が多いのだが、この近郊への旅で見つけた、観光地でない日本の小さな町歩きが、エッセイの恰好の材料になっている。人の暮らしぶりがそのまま町の風景となっているような、まだ日本に残っている名も知らない町、食堂があり、居酒屋があり、時には温泉があったりする。

かつては「中年房総族」と名乗って房総半島を経巡っていたが、近頃は八高線沿線がテリトリーになっているようだ。ファミレスや牛丼屋で朝飯を済ませ、鉄道に乗り、遠くは小淵沢まで足をのばす、その間車内を書斎代わりに読書し、好きなところで降りて、駅弁で昼食、小一時間ほど湯に浸かった後は近所の町をぶらぶら歩き、そしてまた鉄道に乗って帰ってくる。

夜は、DVDで古い映画を観ながら燗酒を独酌。映画を一本見終わったら床に就くという、淋しいような、気楽なような暮らしのところどころに観劇や、音楽会、講演会で出会った人との交友をちりばめながら、この本はつづられている。肩の力の抜け具合がほどよく、読んでいて心地よい。「朝ジャ」で中津川のフォーク・ジャンボリーを取材した話を読んで、国鉄の汽車に乗って出かけた当時を思い出した。もしかしたら糀の湖畔ですれちがっていたかもしれないな、と懐かしくなった。

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