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 2013/2/14 『落語の国の精神分析』 藤山直樹 みすず書房

著者は日本にたった三十人ほどしかいない精神分析家にして、年に一度はみっちりと新ネタを仕込んで客に披露する落語のパフォーミングアーティスト(職業的落語家ではない)である。小さい頃からの落語好きが嵩じて、喰いっぱぐれる心配のない今の職業についてから、落語修業を再開したという。このあたりの計算ができるのが、所謂「落語家」とちがうところだ。落語家というのは、単にネタを覚えて人前でしゃべることができる人のことではない、というのがこの本の大事なテーマの一つ。つまり、落語家論でもあるのです。この本。

もう一つのテーマ、それは分析家から見た落語世界の住人たちの精神分析の臨床カルテなのです。落語には、かなりおかしな人々が登場します。いや、中心になっているのは、ほとんどおかしな人物であるといっていいでしょう。その人物の不条理な言動を落語家の語りによって聞きながら、客の方は涙を流して面白がっているわけです。どうして、そんなことが起きるのか、その不思議の理由を探る、というのがこの本のもう一つの主題という訳です。

かいつまんでいいますよ。詳しくは本を読んでください。たとえば「らくだ」は、「死体」をめぐる二種類の人間の在り様、つまり「死体」を恐れる人間(月番と大家、漬物屋)と恐れない人間(屑屋と平次)、さらに酒を飲んだことによって、その平面からも逸脱していく屑屋の狂気を描いた物語ということになる。

「芝浜」はアルコール依存症の患者が立ち直る姿を描いた物語に、「よかちょろ」は、父性の不在ゆえに、いい歳になってもエディプス・コンプレックスを克服しきれず「父殺し」を夢見る若者の不幸を描いた物語となる。以下、「文七元結」、「粗忽長屋」、「居残り」、「明烏」、「寝床」と続く。興味のある向きは是非読まれたがいい。

文学批評理論に精神分析批評という流派がある。ラカンやスラヴォイ・ジジェクなどが有名だが、この本は、その批評理論を落語という分野に当てはめてみたという点で画期的といってもいいだろう。誰もやらなかったことをはじめてやるから意味がある。著者も書いているが、落語のネタ(著者は根多と表記している)の多くは、ずっと民衆の間に語り継がれてきたフォークロアである。昔話やファンタジーが精神分析に採りあげられるのだったら(実際によく採りあげられる)、落語だっていけるはず、というより、長年落語世界と親しんできた著者は、彼らとつき合ううちに、その職業的意識が発動し、どうしても落語世界の住人を精神分析しながら聴く癖がついてしまったようなのだ。

与太郎や左平次にはとんだ迷惑だろうが、傍で見ている客には滅法面白い講義となっている。自分というものが一つではなく、いくつもの自分が同時に存在しているのが普通で、それをどうにか統御し続けているのが正常人であるとか、著者自身(「注意欠陥」と診断)も含め、全ての人間は何らかの意味で「病人」であるとか、すとんとこちらの腑に落ちる話が、落語論の前ふりに使われていて、生きることとか、自分とか、自殺とかについて一度でも真剣に考えたことのある人には、新しい展望が開けるような話が満載である。

それにもまして圧倒的なのは落語家という存在について、である。巻末に著者偏愛の立川談志の弟子、談春との対談が組まれている。ここでの談春のはじけ方が半端でない。落語家というのは、殆ど落語世界の住人を地でいっているのだ。それまでけっこう奇矯な解釈を振り回してきた著者が、ただの正常人に見えてしまうくらい、その異世界住人ぶりはすごいの一語に尽きる。『赤めだか』が読みたくなった。

落語と精神分析のどちらにも興味や関心のある人ならもちろん、どちらかに少しでも興味があれば頗る面白く読めるはず。おすすめです。

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 2013/2/5 『こころ朗らなれ、誰もみな』 ヘミングウェイ スイッチパブリッシング

柴田元幸が自ら選び訳したヘミングウェイの短篇集。時代的には初期の短篇集『われらの時代』から晩年の未完の長篇『最後の原野』まで、舞台も時代も異なる作品を集めた19篇から成る。

熱狂的なファンは別として、髭面の写真に「パパ」という愛称、それに映画化された『老人と海』他の長篇しか知らない読者だったら、ちょっと意外な読後感を持つのじゃないだろうか。「へえ、ヘミングウェイって、こんな話を書く作家だったのか」って。

訳者もあとがきで触れているように、まずアフリカ物がない。ガルシア=マルケスがその短編作法を激賞したという「雨のなかの猫」を除けば、男女の関係を中心に据えたものも見あたらない。「代わりに、何らかの意味で壊れた人間を描いた、悲惨さを壮絶なユーモアで覆ったように思える作品」が多く採られている。登場人物でいえば、ヘミングウェイの分身的存在であるニック・アダムズを主人公とする作品が八篇と、半数近くを占めている。

作品の多くは雑誌掲載作だが、ニック・アダムズ物の内四篇は、訳し下ろしである。特に初期の作品に属する「心臓の二つある大きな川」第一部、第二部と「最後の原野」は読み応えがある。「心臓の二つある大きな川」は、フィッツジェラルドが「何も起こらない物語」と言ったと伝えられる通り、男が独り、川べりでキャンプするだけの話だ。いかにもヘミングウェイらしいストイックな文体を駆使し、テントを張り、鱒を釣り、火を熾し、調理し、食べる、その様子をまるで何かの儀式でもあるかのように厳密な手順を何も足さず、何も引かず、淡々と叙述する。読者は息をつめ、その様子に見入るしかない。

また、未完の作でもあり、長篇でもあることから、短篇集に入れることを躊躇しながらも、訳者がどうしても入れたかった「最後の原野」は、「ヘミングウェイの全短篇のなかで、この作品が一番、書きたいことをそのまま書いているかのような切迫感と、にもかかわらずどう終えたらいいかわからないかのような行き詰まり感とが、同時に生々しく伝わってくる」作品だ。まちがいなくハックルベリー・フィンの末裔であるニックとその妹リトレス。血のつながった兄と妹の、兄妹愛という言葉では言い表すことができない深い絆を軸に据え、北米の原生林を背景に、追われる二人の逃避行を抑制をきかせたリリシズムと仄かなユーモアを湛えた筆致で綴った魅力溢れる長篇小説(未完)である。思っても詮無いことながら、続きが読みたい、と激しく願った。

今もっとも脂ののった訳者によるヘミングウェイの新訳短篇集である。中には掌編と呼んでいいスケッチ風の小品も含まれる。原書が手に入ったら、チャンドラーやカーヴァーが影響を受けたその文章と手だれの翻訳を読み比べてみたい誘惑に駆られる。

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