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 2012/12/26 『哲学の起源』 柄谷行人 岩波書店

社会構成体の歴史を見るとき、マルクスの所謂「生産様式」から見ていく見方では理解することが難しかった近代以前の社会や宗教、ネーションといった上部構造とのつながりが、同じく経済的土台である「交換様式」という観点から見ればよく分かるのではないか、というのが先に上梓された『世界史の構造』で、柄谷が提起した問題であった。

柄谷が主張する交換様式には四つのタイプがあり、「A贈与の互酬、B支配と保護、C商品交換、およびそれらを越える何かとしてのD」がそれである。家族や共同体内部の交換であるAや、税や兵役の代わりに保護を受ける国家と個人の交換様式であるB、さらにCの商品交換と比べ、ある意味抽象的なDには説明が必要だろう。柄谷によれば、「交換様式Dとは、交換様式BとCが支配的となった段階でそれらによって抑圧された交換様式Aが回帰したもの」である。ただ、それはAあるいは共同体のたんなる回復ではなく、Aを一度否定した上で高次元で回復したものとしてある。いいかえればそれは普遍宗教として到来するのである。

紀元前五、六世紀ごろ、イスラエルにエゼキエルをはじめとする預言者が、イオニアに賢人タレスが、インドに仏陀、中国に孔子や老子があらわれた。この同時代的平行性には驚くべきものがある。普遍宗教成立に到るこの不思議をマルクスの「生産様式」の変化という観点では説明できない。仏陀や老子は古代社会の転換期に出現した自由思想家であった。後に宗教的開祖と目されるようになったが彼らは自由思想家と考えるべきではないか。交換様式Dなるものは、宗教というかたちでしか現れることはできないのだろうか。それについて、ほぼ同時代にイオニア地方の都市国家に出現した自由思想家およびそれを受け継いだ一群の思想家について、改めて考察を試みたのが『世界史の構造』の続編ともいえる『哲学の起源』である。

プラトン、アリストテレス以来、哲学の起源はアテネとされ、イオニアは単なるその萌芽でしかなかったと考えられているが、それはちがう。アルファベットもホメロスの作品も貨幣の鋳造も、みなイオニアで始まった。アジア全域の科学技術、宗教、思想が海外交易とともにイオニアに集まってきたからだ。ただ、イオニアは、アジアのシステムにあった官僚制や常備軍、価格統制は持ち込まなかった。

イオニアの政治形態を表す言葉はイソノミア(無支配)である。アテネに始まるといわれる民主主義(デモクラシー)が、氏族的伝統を濃厚に留めた盟約連合体として形成されたポリスを基盤にしたため、階級対立や不平等を払拭できず、多数決原理に基づくデモクラシーという支配体制をとらざるを得なかったのに対し、それまでの特権や盟約を放棄した植民者によって形成されたポリスであるイオニア諸都市では、伝統的な支配から自由であり、経済的にも平等であった。ただ軍事に長けていなかったイオニアはペルシャに敗北してしまう。イオニア出身の思想家たちは、他国によって支配された後、他のポリスに赴き、彼らの思想を実際の政治に生かした。ピタゴラス、ヘラクレイトス、パルメニデスといった錚々たる顔ぶれが登場し、彼らの哲学がどんなもので、それがなぜそのようなかたちをとらねばならなかったかを、彼らが暮らしていた都市の政治形態、たとえば奴隷制の有無や僭主制、軍の構成員といった視点から読み解いていく。

哲学という一見難解になりがちな話題をとりあげながら、きわめて平易な語り口で、時には人口に膾炙した哲人、賢人たちの逸話もまじえながら、生き生きとした人物像をつくりあげている。特に、ソクラテスについては一章を割き、プラトンによって捻じ曲げられたその思想、生き方をすくい取って見せる。マルクス、フロイト、カントといった柄谷にとって馴染みとなった解析格子を駆使し、ヘーゲルの誤りをつき、イオニア哲学の精華がいかにしてソクラテスの中に胚胎したかを解き明かす。かつて『探究』を読んだときの興奮を久しぶりに思い出した。

現実の社会は国の内外を問わず混迷を深め、何時その抑圧されたものが回帰しても不思議ではない様相を呈している。このようなときだからこそ大きなパースペクティヴで世界を見る必要があるだろう。蒙を啓く一助になる一冊。「起源」好きの著者ならではの表題と、その出版社から専門書のようにとられる恐れがあるので、蛇足ながら付言しておくが、これは専門書ではない。もともとは月刊文芸誌に連載したものを単行本化したものである。気軽に手にとって読んでほしい。

 2012/12/11 『火山のふもとで』 松家仁之 新潮社

これがデビュー作というから畏れ入る。編集者という経歴のなせるわざか、よく彫琢された上質の文章で綴られたきわめて完成度の高い長編小説である。

1982年、大学卒業を目前にした「ぼく」は、村井建築設計事務所に入所がきまる。所長の村井俊輔は戦前フランク・ロイド・ライトに師事した著名な建築家。事務所は夏になると、スタッフ全員で浅間山麓にある山荘「夏の家」に転地し、そこで合宿、仕事をするのが慣わしだった。今夏は特に参加を決めたばかりの日本現代図書館のコンペに向け、そのプランを練ることになっていた。
建築設計のコンペという新鮮な題材を基軸に据え、季節によってうつろう北軽井沢の自然を背景に、若い「ぼく」の仕事と恋愛を描く。

仕事といっても入所したての主人公は、先生や先輩たちから学ぶことばかり。下界から高地へ転地した青年が、先人から教育を受けるという点で、トーマス・マンの『魔の山』に似た設定を持つ。登場する車がすべて外国車だったり、暖炉のある山荘に似合った食事のメニュだったり、ある種の富裕な階級を感じさせるあたりも共通する。

北軽井沢という避暑地を舞台に選んだ時点で、小説は日本とは異なるいわば異国情緒を漂わせることになる。長期にわたって本拠地を離れた山荘で過ごすことのできる人種とは、芸術家、大学教授、著述業といったハイブロウな人種に限られる。当然のように当時、下界で起きている出来事などは、小説の中から慎重に排除されている。会話のほとんどを建築や家具を中心とした審美的な話題が占めている。作中で「先生」は「建築は芸術ではない」と語っているが、そういう意味で、この小説はある種の芸術家小説の相貌を帯びざるを得ない。

いわゆる生活臭のようなものが徹底的に排除されているという点で、読者は醜いものや見たくないものから完全に隔離され、趣味のいい食事や車、音楽、暖炉の前で交わされる心地よい会話に囲まれ、知らぬ間に時を過ごしている。『魔の山』にいる間は時が止まっているように。

鉛筆やナイフといった小物からヴィンセント・ブラック・シャドウなどという旧車のバイクにいたるまで選び抜かれたブランド名が頻出する。カルヴァドスやグラッパなどのアルコールにしても詳しい者には愛飲する人物の個性を示す表象になるだろうが、その方面に不調法な者には鼻につくきらいもあろう。評価の分かれるところかもしれない。

主人公は二十四歳。事務所ではいちばんの新入りだ。その人物を話者に据えた一人称限定視点での語りで、日本語で文章を書けば、一般的には周囲の人物には敬語を使うことになる。呼称の場合、名前の後に「さん」がつくのが普通だ。ところが、自分より三歳年長者である先輩の雪子と先生の姪に当たる雪子と同い年の麻里子にだけは最初から地の文で呼び捨てになっている。

回想視点で語られている以上、現在の主人公が過去を振り返っても、呼び捨てで語ることのできる関係に、この二人の女性はいるわけだ、とそんなことを読みながら考えていた。どこまでも神経の行き届いた書きぶりである。

そんな中でひとつだけ気になったことがある。全体を通して「ぼく」の一人称限定視点で語られているこの小説の中で、一箇所だけ麻里子でなければ知りえない感情を直接話法で書いた部分を見つけた。重要な場面だけに気になった。故意にだろうか。もしそうだとすれば、ロシアフォルマリスムでいう「異化」作用を意識した心憎い演出である。次回作に期待のできる新人の登場である。


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 2012/12/11 『2666』 ロベルト・ポラーニョ 白水社

A5版二段組855ページというボリュームを持つ超巨編。かなり無理して要約すれば、ベンノ・フォン・アルティンボルディという小説家をめぐる物語といえよう。作家は亡くなる前に全五章に及ぶ長編の一章を一巻とした全五巻の形で刊行するよう家族に言い残したという。

たしかに、ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』を想像してもらえればいいと思うが、あのスタイルで刊行されても特に問題はないように思う。一章がそれぞれ異なる話題や人物、それにスタイルを持って独立した小説になっているからだ。

第一章「批評家たちの部」は、ノーベル賞候補作家の一人にあげられながら人前に姿を見せないというトマス・ピンチョンを思わせる作家アルティンボルディの研究者四人が主人公。英仏伊西に住む女一人、男三人の批評家たちの三角関係ならぬ四角関係を都会的な恋愛小説風に描いた音楽でいう導入部。読者を小説の主たる舞台であるメキシコはソノラ州にあるサンタ・テレサという町に導く役割を果たす。

続く第二章「アマルフィターノの部」は、第一部の最後で批評家たちを待つメキシコ在住のアルティンボルディ研究者であるアマルフィターノが視点人物。別れた妻との関係や残された娘との生活を描く合間に、チリ人である自分が哲学教授としてサンタ・テレサで教鞭をとる意味についての自己省察が混じる。

第三章「フェイトの部」は、がらりと印象が変わって主人公はアフリカ系アメリカ人の記者フェイトが主人公。文化部の記者としてブラック・パンサーの伝説的人物をインタビュー中、死んだスポーツ記者の代わりにサンタ・テレサで行われるボクシングの観戦記事を書くことを命じられ、当地を訪れる。フェイトはそこでメキシコ人記者と付き合っているアマルフィターノの娘と出会う。

第四章「犯罪の部」は、サンタ・テレサとその郊外で多発するレイプ殺人を追う捜査陣をドキュメンタリー・タッチで描くクライム・サスペンス。二百とも三百ともいわれる事件の記録を羅列する即物的な記述に「異化」の効果がはたらいている。

そして、最終章「アルティンボルディの部」で、ようやくアルティンボルディ自身が登場する。作家アルティンボルディ誕生の経緯が伝記風に描かれることで、その他の章に登場する人物との関係が一気に明らかになる。名前が覚えられないほど多数の登場人物が、意外なところで出会っていたり、関係を持っていたりするが、隠されていた人物同士がここで結ばれ、人物相関図が浮かび上がるという仕掛け。一度読んだだけでは充分に楽しむことはできない。まずは、通して読み、気になった部分は再読時に当該部分に逐一当たって確認しながら進むといい。二段組855ページに再挑戦する気があれば、だが。

たしかに面白い小説だ。構成もよく考えられているし、人物造形も魅力的で印象に残る。また、メキシコという土地の乾ききった気候風土やそこに住む人々の気質や風俗も的確に捉えられている。執拗とも思えるほど書き込んでいく手法が、繰り返しによる強調効果を生み、厚みのある叙述となっている。

本、あるいは文学作品への言及も一つの特徴として上げられるだろう。一例を挙げれば、地下水路で繁殖するアリゲータを狩るハンターについての挿話がさりげなく語られるが、あれなど、ピンチョンから借りてきたエピソードにちがいない。読者の関心の度合いに応じて反応する記号が随所に埋め込まれている。それらを探すのも楽しい。

インターテクスチュアリティとでも言えばいいのだろうか、他の作家の作品や自作、映画その他も含めた先行テクストの引用、暗示、剽窃がテクストを開かれたものにしている。作中、一人の作家に語らせているが、すべてはすでに書かれている。いわば、すべてが盗用なのだ、という理論を実践して見せたのが、この作品といってもいいかもしれない。いずれにせよ、厖大なテクスト群を呑み込んだ超重量級の小説である。一冊にまとめたことにより、関連する記述を検索するには便利になったが、如何せん重い。持ち重りするなどというレベルではない。本というものの持つ重みを改めて思い知らされた。電子書籍に相応しい一冊かもしれない。


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