HOME | INFO | LIBRARY | JOURNEY | NIKE | WEEKEND | UPDATE | BLOG | LINK
LIBRARY / REVIEW | COLUMN | ESSAY | WORDS | NOTES  UPDATING | DOMESTIC | OVERSEAS | CLASS | INDEX
Home > Library > Review110

 2012/10/25 『横しぐれ』 丸谷才一 講談社

「わたし」は、中世和歌や連歌を専門とする国文学研究室の助手。父の通夜の席で、父の友人であった国文学の黒川先生に思い出話を聞く。実は、戦争が激しくなるちょっと前、黒川先生は父と連れ立って郷里の松山を訪れたことがある。そのとき、道後温泉近くの茶店で一人の乞食坊主に酒をたかられた話を以前に父から聞いたことがあるのだが、たいそう話の面白い坊主で、特に将棋指しの手拭いの話が面白かったという。

将棋指しに限らず無宿者は、旅の間一本の手拭いを用意し、一夜の宿を借る際に手向けとして差し出す。宿の主は翌朝そのまま返す、という慣習がある。評者は『ひとり狼』という映画でこれを知った。旅の将棋指しは、手拭いを洗濯中で、どうせ返ってくるものと思い、たたんだ褌を差し出したが、あいにく留守を預かる家人はこの慣習を知らず、受け取ったまま返さないので褌ができず困った、という与太話である。

お楽しみはこれからだ。その日、強い雨が降った。これを「横しぐれ」と評した黒川先生の言葉に、旅の僧がいたく感嘆したという。後日、調べ物をしていた「わたし」は、『現代俳句集』のなかにある種田山頭火の句に「しぐれ」を詠んだものが多いことに気づく。略暦を読むと、そこに「昭和十五年松山一草庵にて頓死」とある。ひょっとしたら、父が出会った乞食坊主とは、山頭火その人ではなかったか、と思いついた「わたし」は、関連する書物を集め、その証拠を固めようとするのだった。

昭和四十二年に新聞に連載された記事がブームに火をつけたようだ。世に山頭火ブームともいうべき現象が現れた。山頭火はテレヴィ番組やマンガにまでなった。尾崎放哉もそうだが、世人は自由律俳諧というより、専ら世捨て人めいたその生き方に興味を引かれたのではなかろうか。

しかし、多分に作家その人を連想させる「わたし」の興味は、純粋に学問的関心らしい。源三位頼政の歌にある「横しぐれ」という歌語が、山頭火の俳句のなかに果たして存在するか。また、道後温泉で父が出会った大酒のみの旅の僧は山頭火本人だったのか、国文学者らしい実証主義で文献を渉猟してゆく。このあたり、謎解き探偵小説のようで実にスリリングである。

反戦主義者であった黒川先生とぶつかったことから、その坊主は右翼だったろうと見当をつけ、山頭火と日本浪漫派の関係を探ったり、山頭火の日記から松山での足取りを追ったりするが、謎は深まるばかり。とうとう研究者にあるまじき類推に走る「わたし」に、定家論を出版したばかりの仏文学者が同調し、「しぐれ」は「死暮れ」だとか、「よこし」は「横死」ではないかと、言葉遊びめいた極論が飛び出すところまでいく。この仏文学者も丸谷の分身で、二人の会話によって論調が変化するあたり、丸谷の文学評論を読む面白さである。

探索の果てに、「わたし」は、思いもかけない父の側面を知ることになる。それは自分の人生の一部分を形成する大きな出来事であった。年少の「わたし」には知らされなかった事件は、しかし「わたし」が自分の進路を選ぶとき無意識の裡に影響を与えていたのではないか。

文学ミステリの意匠をまといつつ、山頭火の文学とその人物を深く掘り下げるとともに、「私小説」めいた身振りを装い、作家自身を思わせる主人公の人間形成の履歴にメスを入れるという手の込んだ中編小説。反戦思想と歌語という主題は、『笹まくら』とも共通する、いかにも丸谷才一らしいアクロバチックな趣向である。人と「死」の出会いについて様々な思いをめぐらせた一篇。他に「だらだら坂」「中年」「初旅」の三篇を収める。


pagetop >

 2012/10/22 『笹まくら』 丸谷才一 河出書房新社

プロ野球の監督が選手にくらわすビンタに旧軍の悪弊を見て嫌悪の情をもらす骨がらみの軍隊嫌いである丸谷の根っこがあらわに出た代表作の一つ。

「オリンピック道路」という言葉が文中にあるから舞台は1964年ごろの東京。「文学部の全学生に神道概論が必須科目になっているような」大学の庶務課長補佐浜田庄吉は、理事の後押しもあって若い妻をもらい、課長への昇進を待つばかりだった。そんなある日「昔の恋人で、しかも命の恩人である女」の死を告げる黒枠の葉書が届く。庄吉は二十年前、正確には昭和十五年の秋から昭和二十年の秋まで、杉浦健次という偽名で全国を逃げ回っていた。旅先で出会ったその女は、徴兵忌避者である庄吉を終戦の日まで実家にかくまってくれていたのだ。

忘れようとしても忘れられない過去が、不意に平凡な日常生活の中に裂け目のようにあらわれる。徴兵忌避者という過去は、戦争が終わった今となっては誇ってもいいくらいのものなのに、庄吉は学校荒らしや貼り紙の指名手配犯のほうに自分の姿を重ねてしまう。彼は依然として逃げ続けている。いったい何から逃げようとしているのだろうか。

現在時の独白に過去の回想が突然侵入してくる。「意識の流れ」の「内的独白」の手法を駆使して、庄吉と健次の、戦後二十年たった今の暮らしと戦時中の逃亡生活が、交互に描き出される。一見平和な毎日だが、徴兵忌避者という過去は彼の経歴にまとわりついて放れない。学校荒らしを捕まえようとしなかった一事をもって「蒋介石やルーズベルトをこわがった奴が、泥棒をこわがるのは、当たり前でしょう」と陰口をたたかれる。

平凡であれかしと願い、目立たぬように大学の事務員として暮らす現在の生活と、同じように世間の目を懼れながらも、好きな機械いじりの技能を活かした時計・ラジオの修繕や同宿者に教わった「砂絵描き」で、全国津々浦々の祭礼を渡り歩くテキ屋暮らしのある意味自由気儘な暮らしが対比的に描かれる。息が詰まるのは一見平和を装う現在で、官憲を恐れていたはずの戦時中のほうが、したたかであったのはどうしてだろう。

一言で言えば戦争中の毎日は自分の思想信条と命を懸けた本物の「生」であるのに対し、戦後のそれは本来の自分を見失った偽の「生」であるからだ。それが証拠に、失職しそうになった彼を襲う妻の不祥事が明らかになったとき庄吉の心は何故か晴れやかになっている。

「彼らには彼らの、共通の運命がある。その共通性が、彼らの運命をいたわってくれるだろう。祝福してくれるだろう。そしてぼくにはぼくの・・・孤独な運命がある。ぼくはその孤独な運命を生きてゆくしかない。おれは自由な反逆者なのだ。」

引用した文章は、徴兵忌避者となった日の独白で小説の最後の部分を占める。体制に反逆していた者が、終戦によって、突っ張っていた壁が勝手に崩れてしまったことにより、生きる方途を見失う。二十年後、皮肉にも人生の危機といってよい状況が出来することにより、本来の自己を取り戻す。

表題の「笹まくら」だが、『俊成卿女家集』所収の越部禅尼の歌「これもまたかりそめ伏しのささ枕一夜の夢の契りばかりに」から採られている。「刈り、節、笹」という竹尽くしの技巧を凝らした恋歌だが、庄吉は「笹まくら」の一語に笹を揺らす音に不安な旅を連想すると学内の知人にもらす。それが最後には次のような独白に変化する。

「国家に対し、社会に対し、体制に対し、いちど反抗した者は最後までその反抗をつづけるしかない。引き返すことは許されぬ。いつまでも、いつまでも、危険な旅の旅人であるしかない。そう、危険な旅、不安な旅、笹まくら。」

「脛に傷持ちゃ、笹の葉避ける」という文句がある。世間並みの家庭を守ろうとするあまり、過去から目をそらし、忘れていた本来の自分、「自由な反逆者」であった自分を取り戻した主人公は、現在の生活が「これもまたかりそめ」と知ったのだろう。一つの歌語が一人の男の二様の人生を彩る。見事としか言いようのないタイトルではないか。

pagetop >

 2012/10/22 『女ざかり』 丸谷才一 文藝春秋

丸谷才一が亡くなった。ジェイムズ・ジョイスの訳者として、博識を洒落のめしたスタイルで軽妙に綴った数々のエッセイの書き手として、また日本における書評文化の担い手として、そして何より、『女ざかり』その他の長編小説の作者として八面六臂の活躍ぶり、まことに異能の人であった。『日本文学史早わかり』や『文章読本』など、文学評論の書き手として早くから注目していたが、風俗小説の名手として知ったのは、割合に遅かった気がする。あらためて『女ざかり』を手に取った。

新聞社の論説委員である弓子は、着任早々「妊娠中絶」の是非を問う論説文を書く羽目になる。家庭内のいざこざもあって気がくさくさしていた弓子の文章の論調は、男性優位の社会に対する非難の色濃いものとなってしまうが、それと時を同じくして弓子に事業部異動の声がかかる。裏に何かあると思った弓子は各方面の伝を頼りに情報を集める。どうやら新社屋用の土地取得の件に弓子の処遇がかかっていて、その原因は例の論説文らしい。持てるコネを総動員して不当人事と戦う弓子と、彼女を助ける男たちの活躍を描いた小説。

丸谷の目論見を、弓子流に箇条書きにすれば、
1.新聞社という、知っているようで知らない特殊な場を基点に政治の舞台裏を描く。
2.新聞記者や大学教授とのインテリジェントな会話を通して日本に固有の文化を論じる。
3.妻のある男との恋愛を主題とした「姦通小説」を描く。
4.弓子の家を通して女系家族の人情や風体を描く。
5.論説文の書き方を具体例を用いて実践的に指南する。

1については、大手の新聞社で社屋用の土地の提供を国から受けていないのは一社しかない、とか論説委員の仕事ぶりの実際とか、選挙で票を買うのに使う茶封筒は選挙違反がバレるのを恐れて公示以前に別の地区で大量に仕入れるだとか、首相官邸の間取りだとか、相変わらず知らなくてもいいけど、知っていると面白い雑学がこれでもかというほど用意されていて、この手の逸話を小説の中にいくつも仕込んでいくその手並みは鮮やかなものである。

2について、日本という国はその心性的な基盤を近代以前のずっと古層に置いているのではないか。その一つが今も残るお中元やお歳暮といった贈答文化だという「贈与論」をはじめとして、なぜ政治家は「書」を揮毫するのかだとか、お得意の御霊信仰とか、日本人や日本文化についての、これは作家自身の持論あるいはエッセイ集などで論じたことのある興味深い見解をそのまま作中の人物の口を借りて思うがまま論じている。これは巧い手である。世間に対して何かいいたいことがあるとき、架空の登場人物の口を借りて云えば誰にも文句のつけようがない。だってフィクションなんだから。

3の「姦通小説」について言えば、『アンナ・カレーニナ』や『ボヴァリー夫人』をはじめ、西洋では「姦通」を主題にした小説は枚挙に暇がないが、日本に少ないのは「姦通」を描いた小説が禁じられていたからで、娼妓との関係ばかりを主題にする「花柳小説」が多いのは逃げである。漱石の『それから』は、「姦通」という主題に正面から踏み切った画期的な小説である、という丸谷が漱石のひそみに倣ったものと思われる。

4は、着物や装身具という目に鮮やかな彩りを文章中に取り入れられるばかりでなく、着物の種類や帯との組み合わせに、人物の階層や趣味のよしあしを通じて人間を描くことができる。5については『文章読本』の著者なのだから当然。

弓子と同期に論説委員になった浦野という元社会部記者の押しが強く自信過剰のわりにどこか憎めない性格がよく描けていて、上品とはとてもいえないが品が落ち過ぎない程度のユーモアを醸しだしている。恋敵であるはずの弓子の不倫相手が浦野を認めているところも二人の男の器量を高めている。そういう男たちが惚れるのだから弓子の値打ちがどれほどのものか、ということだろう。

文芸誌に連載するというのでなく、長い時間をかけて「書き下ろし」というかたちで世に出されてきた丸谷の長編小説。これからはいつまで待っても読むことができない。実にさびしい。

pagetop >

 2012/10/18 『螺旋』 サンティアーゴ・パハーレス ヴィレッジブックス

マドリッドにある出版社の編集者ダヴィッドは、社長から一つの依頼を受ける。それは、ある人気作家を探し当て次回作の原稿をとってくることだった。ただ、そこには問題があった。その作家トマス・マウドは、原稿を郵便で送りつけてくるだけで、誰も顔を見たことがない覆面作家だったのだ。

調査の結果、郵便の発送元はピレネー山麓にある人口六百人ほどの僻村であること、さらに原稿についていた指紋からその男には右手の指が六本あることが分かった。いつも留守がちで妻との間に波風が立ちかけているダヴィッドは、仕事の件を秘密にして妻を誘い、休暇旅行という名目で村に向かうのだったが。

探偵役が妻同伴というあたりからどうやら普通のミステリではなさそうだなと気づく。たしかに謎があり、最後にその謎は解かれるのだから、ミステリと呼んでもまちがいではないが、六本指を持つ謎の男探しというテーマに見合ったサスペンスは一向に登場しない。主筋ではドジでマヌケな素人探偵のドタバタ劇が展開されるばかり。そればかりか、秘密がばれ、怒った妻はマドリッドに帰ってしまう。一方マドリッドを舞台にしたサイド・ストーリーでは麻薬中毒から抜け出そうとする若者のシリアスなドラマが進行中で、何組かのグループが織り成すドラマが平行して物語は展開されてゆく。ジグソウパズルの最後のピースがあるべき場所にはめ込まれるように物語の最後で、それらはぴったり結ばれる。そのパズルの絵柄こそ作中の『螺旋』という小説なのだ。

ミステリは好きだが、知性も洞察力もありそうな犯人が、どうして割に合わない殺人を犯すのか、それも連続して何人もの人々を、という疑問がある。どれだけ上手に書かれても、殺人という行為はにはよくない後味のようなものが残る。

この小説のいちばんいいところは、後味のよさというものではないだろうか。作家の個性でもあろうが、人間というものに対する肯定感のようなものが読んでいるあいだずっとただよっている。エキセントリックな村人も多数登場するのだが、その書きぶりに好感度が高い。一口に言えば誰もが善人なのだ。善人ばかりを登場させて面白いミステリを書いてみせるという困難に挑戦したという点で、この小説の点は高い。

探している覆面作家は大体この人だろうという見当はつくのだが、作家は簡単に正解には導いてはくれない。ちゃんとどんでん返しが待っている。サイド・ストーリーがメイン・ストーリーと出会う設定はハリウッド製のロマンティック・コメディ顔負けのご都合主義的解決ではあるが、それまでに登場人物に対して思い入れがあるので許してしまう。弱冠二十五歳でこれだけの小説を物にしてしまう作家の才能にあらためて驚く。次の作品が早く読みたいと思うのは評者だけではないだろう。

pagetop >

 2012/10/2 『天使のゲーム』 カルロス・ルイス・サフォン 集英社文庫

一九一七年十二月、バルセロナの新聞社で雑用係をしていた十七歳のダヴィッドは短編小説を書く機会を得た。作品は好評でシリーズ化され、一年後ダヴィッドは新興出版社と専属契約を結び独立。それを機に以前から気になっていた市中に異容を誇る「塔の館」に移り住み、執筆に励む。

新シリーズも好評だったが、契約に縛られ読者受けをねらった作品ばかり書き続けるダヴィッドに失望した恋人は別の男と結婚してしまう。失意のダヴィッドに謎の編集者からオファーがある。高額の報酬と望むものを与えるかわりに彼のために本を書けというのだ。

専属契約を理由に一度は断るダヴィッドだったが、契約を結んでいた出版社が放火され契約は無効に。事件を疑う刑事に追われる身になったダヴィッドは、「忘れられた本の墓場」で手に入れた『不滅の光』の著者にして「塔の館」の前の住人、ディエゴ・マルラスカについて調査を始める。ところが、彼の行く先々で人びとは謎の死を遂げるのだった。

『風の影』で世界的大ヒットを飛ばしたカルロス・ルイス・サフォンの「忘れられた本の墓場」シリーズ四部作の第二部。主人公が「呪われた都」と呼ぶバルセロナを舞台に、前半のゴシック・ロマン風幻想小説のタッチから後半のハードボイルド探偵小説ばりのアクションまで無理なく運ぶ筆の冴えは前作を軽々と越えたといっても過言ではない。

ゲーテの『ファウスト』や、ディケンズの『大いなる遺産』といった先行するテクストを下敷きに、この作家ならではのジャンルを横断した「読ませる小説」をめざす試みは見事に達成されている。周到に準備された伏線、夢の記述の多用、主人公である話者の昏倒や泥酔による語りの中断といった叙述上の工夫が凝らされ、作品の完成度を上げている。

戦争被害者であった父親の虐待を受けて育ち、その殺害現場に立ち会うといった主人公の生い立ちや、安心して住まう場所を持ち得なかった境遇から、ダヴィッドが精神的に追い詰められていく状況を的確に診断すれば、一見幻想小説風仕立てに見える筋立ての中に謎解きミステリとしても読める手がかりが残され、フェアな叙述になっている。エピローグは、伏線を生かしたファンタジー小説風の結末であるが、崩壊の危機にあった主人公の人格が十五年という歳月をかけて回復を果たしたことを示すものを読めば、その解釈はまた変わってくる。

クリスティの『誰がアクロイドを殺したか』以来、一人称の語り手の証言は一度括弧に入れて読まねばならなくなってしまったが、まずは、カタルーニャ・モデルニスモの奇矯な建築で彩られた異郷バルセロナを舞台にしたゴシック・ロマンの風味を堪能し、しかる後再読、三読して謎解きミステリの醍醐味を味わうのがお勧めだ。

前作『風の影』未読でも本作を堪能するに何の支障もないが、すでに『風の影』を読んだ読者には、エピローグは何よりのプレゼントになっている。そういう意味では、『風の影』を読んでから本作を読むほうが意外性が増すということだけ伝えておきたい。

pagetop >
Copyright©2012.Abraxas.All rights reserved. since 2000.9.10