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 2012/7/20 『ブルックリン』 コルム・トビーン 白水社

時は1951年から2年。舞台はアイルランドの田舎町エニスコーシーとニューヨークのブルックリン。主人公は、エニスコーシーで母と姉と三人で暮らすアイリーシュ・レイシー。英国からの参戦要請を拒否し、第二次世界大戦に参戦しなかったアイルランドは、戦勝国の好景気から見放され景気も雇用もぱっとしなかった。いくら簿記の成績がよくても、売り子ではなく事務職員として働きたいと願う若い娘の働き場所はなかった。ちょうどアメリカから帰国していた神父の口利きでアイリーシュはブルックリンで働くことになる。

ブルックリンにはアイリッシュ・コミュニティーがあり、神父の紹介で下宿先を見つけたアイリーシュは昼は百貨店の売り子として働き、夜は簿記の学校に通うことになった。異国の小さな同郷人の共同体の中での軋轢や階級意識に翻弄されたり、ホームシックに落ち込んだりしながらも、次第に新しい環境になじんでゆく主人公には、やがてトニーという恋人もでき、封切りしたばかりの『雨に歌えば』を見たり、コニー・アイランドに海水浴に出かけたりと、アメリカ生活を謳歌するようになる。

ところが、思いもかけぬ出来事が起こり、アイリーシュは一時帰国することに。トニーのたっての願いを聞き入れ、秘密に結婚式を挙げたアイリーシュは船上の人となる。用が終わればすぐに取って返すことになっていたアイリーシュを待っていたのは、故郷の人びとの思いもかけぬ歓迎だった。アメリカナイズされ、自信に満ち溢れたヒロインは、器量よしの姉に劣らぬ美人になっていたのだ。以前ダンスパーティーで無視されたジムは今ではパブの経営者になっていた。彼からの求愛に心揺れるアイリーシュだったが、かつて働いていた店の主人に呼び出された彼女は、そこで今まで秘されていた事実を知らされる。

働き者で、向学心に溢れ、周囲の人びとへの気遣いを怠らない主人公は、直属上司や下宿屋の主人に気に入られ贔屓される。好意の贈与は当然その見返りを要求している。自分はどう振る舞えばいいのだろう。内省的で自分の行為を振り返らずにいられない主人公の心理描写が卓抜で、読者はどうなることやらとはらはらどきどきしながら彼女の優柔不断ぶりにつき合わされる。コルム・トビーンという作家は初めてだが、美しい姉を持つ、年頃の利発な娘の心理を実に鮮やかに活写している。

今一点。第二次世界大戦後のアイルランドの田舎町とニューヨークのブルックリンという二つの対称的な世界を描き分けることで、生き生きした時代の雰囲気がよく伝わってくる。離婚の文字を頭に浮かべた主人公がリズ・テーラーを思い出したり、ドジャースがまだブルックリンの人びとの誇りだったりした時代のアメリカ。百貨店で黒人がナイロンストッキングを買う事に好奇な目が注がれていた時代、ダンスフロアに「ジャッキー・ロビンソンの歌」が流れていた時代のアメリカだ。

年若い娘ならではの矜持や懼れ、自分をしっかり持っているようでいながら、流れに任せて自分を見失いがちな稚さがよく書けている。みなにちやほやされてすっかりのぼせ上がっていたアイリーシュが、母親も含めた田舎の蜘蛛の糸のように張り巡らされた情報網に絡めとられて身動きできなくなってゆく様子が、周囲の人間が善意であるだけに恐ろしく感じられ、かつての雇い主の悪意の奔出がかえって救いのように感じられてくる皮肉さなどほとんど秀逸とさえ言っていい。近頃目にした小説の中でいちばん面白く読めた。原書の惹句にいわく「出発と帰還、愛と喪失、自由意志と義務との間で迫られる残酷な選択をめぐる優しさあふれる物語」である。

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 2012/7/13 『言葉を生きる』 片岡義男 岩波書店

ちょっと変わったエッセイ集である。表題に『言葉を生きる』とあるように、自分と言葉のかかわりについて誕生から現在までを四つに区切り、通時的にまとめられている。自伝風エッセイと呼んでいいかもしれない。自伝風といっても、そこは片岡義男である。主題に関係のないアネクドートの類は一切切り捨てられている。ハワイ生まれの父は本土に渡り、いかにもアメリカらしい英語を身につけた人であり、母は日常的には関西弁を話すくせに片岡少年に対しては東京言葉で語りかける人、といった徹底的に言葉とのかかわりにおいてのみ読者の前に登場する。

父が日本を観光中に母と知り合い結婚する。当時は戦時中で母を連れてアメリカに渡ることができず、二人は日本で暮らすことになる。片岡は赤子のときから父からは英語で、母からは日本語で話しかけられて育つ。その結果、そのどちらもが母語となる二重言語の人として彼は育つ。戦争が激しくなり、岩国に移った片岡は八月六日のきのこ雲を目にしている。ここまでが第一部。

東京に戻った片岡は古書店でペイパーバックを見つけると買い集める。読むためではなく、そこにアメリカを感じていたからだ。ふとしたきっかけから彼はその一冊を読み、本の世界に触れる。大学生時代は、ビリヤードと古書店めぐりに明け暮れた。先輩の小鷹信光から翻訳してみるかい、と渡された一篇のミステリが彼の行く道を開いた。第二部の最後を飾る「美人と湯?」がいい。片岡の小説のヒロインの原型がどこから来ていたかを明らかにする、上出来のエッセイになっている。

第三部は、雑誌に文章を書き出した時代。僕らが片岡義男の名を覚えたのはこのあたりからだ。テディというペンネームの由来がサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』から来ていたことを初めて知った。田中小実昌のジョークをネタに、自分の日本語の文章を語る「西伊豆とペン」もいい。片岡は「拾う」という日本語を自分の文章で使えない。なぜなら、「拾う」という語が持つ日本人なら誰でもが理解するニュアンスを表す英語がないからだ。片岡は英語で考える。英語で考えたことを日本語で書くのだから、言葉として存在しないものは書けない。当然のことだ。彼の書く文章が好きだが、その秘密がこんなところにあったなんて初めて知った。

第四部は、小説作法について実例を挙げて書いていく。自分の小説がどうやって描かれているのかを、こんなにあからさまに書いてみせる作家を他に知らない。片岡の書く小説はほどよい具象と抽象の均衡の上に成立する。例えば、居酒屋の品書きに見つけた「塩らっきょう」と、その右隣にある「えんどう豆」。この絶妙の組み合わせから小説が生まれる。このあたりの進み具合は実際に読んでもらうしかない。

片岡の小説は完全なフィクションである。それは、彼が小説を書く言葉が日本語だからだ。英語で書くならノン・フィクションになる、と彼は言う。英語はアクションの言葉だから。英語で考えたストーリーやアクションを日本語で書くわけだが、片岡には生理的に書けない文章というものがある。先にあげた「拾う」もそうだが、心理的に書けない言葉もある。ある意味、きわめて不自由な作家ということになる。しかし、そのできないことの多くが片岡を他の誰でもない片岡義男にしているのだ。そういう意味ではなんと自由な作家だろう。

日本で小説家といえば、なんとなく胡散臭い人物を思い浮かべてしまう。自分の思ったことや考えを人物に託したり、あるいはもっと無意識に自分を垂れ流すように書き散らしたりすることに何の疑問も持たず、小説家でございとやっている、そんな作家の書くものを小説というなら、片岡の書くものをなんと呼べばいいのだろう。自分とは完全に無縁の虚構としての小説。この風通しのいい乾いた場所を好む少数の読者に向けて片岡は今日も書いている。何軒かの喫茶店をはしごしながら。

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 2012/7/10 『燃焼のための習作』 堀江敏幸 講談社

いつかは書かれるべくして書かれた小説といえるかもしれない。同じ作者によって何年か前に書かれた異国の河岸に係留された舟を住まいとする青年の静謐な日常を記した『河岸忘日抄』なる小説がある。その年若い主人公には故国に「哲学的な」話題を話し合える年上の知人がいて、その名が確か枕木であったと記憶する。遠く離れて暮らす二人の交流の手段は手紙だったから、枕木は名のみ知らされていただけの人物ではあったが、不思議に印象に残る人物ではあった。

バルザックの『谷間の百合』や『ゴリオ爺さん』が、それぞれ単体の小説でありながら、それら全ての小説群が壮大なスケールの『人間喜劇』の世界を作るように、作家には自分の創作した人物が独り歩きして別の小説世界を歩き始めてしまうことがあるのかもしれない。それとも、書かれていないだけで、そもそも事のはじめからそういう人物が想定されていたのかも知れない。

そこは堀江敏幸の小説であるからして、話らしい話が起きるわけではない。市井に住まう名もない人びとの何気ない日常生活におきる出来事を淡々と、しかし滋味溢れるユーモアを配した筆致でさらりと描いたスケッチに淡彩を施したような小説世界があるばかり。

主たる登場人物は三人。風に乗って潮風が海の匂いを運んでくるような運河沿いに建つ古い貸しビルの二階に、頼まれた仕事なら何でも引き受ける「便利屋」の事務所を構える枕木と、その事務所の雇い人の郷子さん。そして、事務所を訪れた依頼人の熊埜御堂という珍しい名の中小工場の経営者。時ならぬ雷雨に降り込められたかたちの三人が、雨夜の品定めならぬ四方山話に時を過ごすといった体。

「探偵」が事務所で人探しの依頼を受けるのが発端なのだから、ジャンルから言えば探偵小説のスタイルだろう。ただ、聞き手が心理療法士よろしく、どこまでも相手の話を妨げることなく聴くというスタイルで、おまけに時折り合いの手のように自分の回想を織り込んで話しはじめるものだから、いつまでたっても依頼人の頼みごとがなにであるかにたどりつかない。そこへもってきて、途中から話に割り込む形になった聡子さんが、枕木に輪をかけての話好きだからたまらない。話は右往左往し、何人もの人物に纏わるエピソードがアラビアンナイトのように入れ子状に錯綜して収拾がつかない。

どうやら枕木は、相手が警戒心を解いて自ら話し始めるのをいつまでも待つことのできる類まれなる聞き手らしい。そうして話が引き出せれば問題はほぼ解決されているというのだ。問題というのはそれを解くより、問題を提出する方が難しいものだという枕木の言葉には成程と思わせられた。薄毛で小太りの中年男という、およそ外見からは魅力を感じることのできない枕木の面倒を郷子さんがみているのもそこらあたりが理由らしい。

依頼人である熊埜御堂もまた枕木の産婆術によって自分の過去を語りだすことをためらわない。こうして、どこにでもあるような話に細やかな陰影が付され、男二人の会話には哲学的な切り口さえ仄見えることになる。もっとも、聡子さんの介入によって話が徒に晦渋になることは慎重に避けられている。このあたり作家の成長ぶりを感じるとともに、以前の堀江敏幸が少し懐かしくなったりもする。

身の回りの細々とした小物にも一言あったこの作家が提出した今回の主人公は、ネスカフェにクリープ、それにこれだけはこだわりのある赤いスプーン印の角砂糖をほうりこんだ「三種混合」なる飲み物をひっきりなしに飲む。仕方なしにお相伴する依頼人は腹具合が悪くなり、富山の薬売りの置き薬、赤玉を白湯で飲む始末。しかも、その後空腹になった三人はスパゲティとお握りを作って食べるという、どこまでもゆるい設定に堀江敏幸の変貌を見るのは評者だけだろうか。

表題の「燃焼のための習作」は、枕木のかつての依頼人の話の中に出てくる風見鶏ふうのオブジェの名前。明朗なタッチで綴られるこの小説の中で、成就されることのなかった愛を描くそこだけは唯一暗い情念のようなものがたゆたう世界が現出している。エピソードとエピソードを記憶に残る声や音、物の名前、ある種の形といった些細なものごとでつなぐ連想ゲームのような中編小説。物語性をできるだけ回避しつつ、それでいてそこにあるのはあくまでも小説でしかない、といったちょっと手の込んだ作風になっている。話の間に挿まれる風雨や雷鳴、空き缶の転がる音の精妙な描写にこの作家ならではのセンシティブな持ち味を堪能できる。善意の人しか登場しないのに、どこかやるせない後味の残る佳編である。


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