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 2012/6/24 『LAヴァイス』 トマス・ピンチョン 新潮社

ピンチョンが2009年に発表した最新作だが、背景となる時代はなぜかシックスティーズ。『ヴァインランド』からピンチョンを読み始めた評者のような読者には、懐かしい古巣に戻ったような思い。50年ぶりに再結成されたビーチボーイズは、相変わらずブライアン・ウィルソンならではのメロディアスなコーラスをひっさげて新曲を披露してくれたが、この『LAヴァイス』も、ピンチョン・ワールド全開で、ヒップでパラノイアックな世界を展開してくれている。

LA のゴルディータ・ビーチにオフィスを構える私立探偵ドックのところに昔の恋人シャスタが訪ねてくる。今つきあっている男の妻が何かたくらんでいるようなので調べてほしいという依頼だ。男が開発中の宅地を訪ねたドックは何者かに襲撃され、意識を失う。気がついたときには傍らに死体が転がっているという典型的なハードボイルド探偵小説の幕開けである。

LAを舞台にした探偵小説といえば、誰だってチャンドラーやハメットを思い出すにちがいない。組織に属さない一介の探偵が、美女のからむ事件に否応なく巻き込まれ痛い目にあいながらも事件を解決に導く。もっとも真犯人が見つかってそれでよし、という訳にいかないのがハードボイルド。歪んだ犯罪心理やそれを生み出す社会状況への批判的な視点がつきまとい、読者を完全なカタルシスへと誘うことはない。

ピンチョンが狙ったのもそこだ。ハードボイルド探偵小説の構造を借り、一篇の探偵小説を描きながら、ニクソンが支配する時代のアメリカの暗部をあぶりだす。と同時に、クサと音楽と連続TV番組がすべてだった60年代ロスアンジェルスのフラットではないビーチ周辺のヒッピー文化を描き留めておくこと。

実際、多感な時代に60年代に遭遇した者の一人として、あの時代のもつ雰囲気は誰かに知っていてもらいたいと思う。今から見れば、錯誤でしかなかったのかもしれないが、自分たちが世界に直接アクセスしているという根拠なき自信に満ちた多幸感。「ウッドストックネイション」という言葉さえ生まれたほどに。カントリー・ジョー・&ザ・フィッシュをプリントしたTシャツをひっかけたシェスタ。ベルボトムのパンツにサンダル履きのドックのスタイルがすべてを物語っている。

単なるノスタルジーでないことは言っておかねばなるまい。顔なじみの刑事にヒッピーと揶揄されるドックの姿は、すでにそれらが全能感に満ちたものではなくなってしまっていることを物語っている。世界は愛と平和に満ちたものではなくなっている。監獄の中でさえ人種によるギャングの派閥ができ、人と人とはそうした殻から自由になれない。

それでも、人は何かを信じていなければ生きていけない。刑事はその相棒を、ヤク中のミュージシャンは家族を、そして我らが探偵は仲間を。非情で孤独が売り物のハードボイルド探偵小説をまるっきり裏返して、やたらと仲間とツルんでドタバタ喜劇を演じる私立探偵は、思いっきりセンチメンタル。これでは、まるで日本の股旅物の世界じゃないか。

そう思いながら、読み終え、結局しっかり再読してしまった。ネットに、この小説に登場する曲のプレイリストがあって、本を読みながらBGMに流すことができる。「サムシング・イン・ジ・エア」なんか聴いていると、こっちまで鼻の奥がツーンとしてくる。そういえば、この小説の中には、インターネットの先駆的なシステムが登場する。ネット社会最初のハッカー、スパーキーの発言は思いっきりグルーヴィーだ。

カタログ小説というと、なんだかピンチョンを矮小化するようで気が進まないが、全編を彩る音楽の曲名やミュージシャン名、アメ車の名前、聞き慣れないメキシコ料理。TV番組や映画のセリフが半端じゃない。ティム・バートンとジョニー・デップのコンビによる『ダーク・シャドウズ』のリメイクが騒がれているが、ビーチボーイズ同様作品中にしっかり取り込まれている。まるで、それがカルマによるお告げであるかのように。

ただ羅列されているように見える映画の関係者の中で、ドックが執拗に憧れを表明するジョン・ガーフィールドは、マッカーシー議員によるアカ狩りに非協力的だったために命を縮めたことで知られる俳優である。エンタテインメント性の強い「読み易い」小説仕立ての作品に思想だの主義だの持ち出すのは野暮だが、アメリカ人なら読めば誰にでも分かるように書かれているが、今の日本人には訳者あとがきにあるような詳細な注がいるだろう。

ピンチョンの世界に入り込むには最適のビギナー向け作品である。『LAヴァイス』は、これまでの作品でピンチョンが描いてきた世界の索引といってもよい。スクーナー船「黄金の牙」号から、『逆光』の気球にたどり着くのは容易だ。ピンチョンが繰り出す技ありアイテムや独特の陰影を漂わすアイコンに夢中になれる読者なら、きっと他の作品世界にもハマるはず。いざ、お試しあれ!

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 2012/6/14 『災いの古書』 ジョン・ダニング ハヤカワ文庫

もと警官で現在は古本屋を営むクリフ・ジェーンウェイが主人公のシリーズ物第四作。インターネットが普及し、特に経験がなくとも金さえあれば誰でも本を扱えるようになった。各地の古本屋に足を運び、自分の目で掘り出し物を探し当てては店に出す。そんな商売が成立しなくなったこともあり、以前のように古本屋稼業に情熱が感じられなくなったクリフは、今回から「本の警官」を名乗る私立探偵を兼務することにしたようだ。

第四作ともなればシリーズ物の常としてマンネリ化が心配されるが、そこのところはどうか。同じ古本を扱っても一作ごとに趣向を変えているのが、このシリーズの人気の秘密だ。今回クリフが扱うのは、サイン本の世界。本そのものは美本でも稀覯本でもない。そこに記されたサインの有無が問題になる類の本である。たとえば有名な映画スターや監督、スポーツ選手が書いた本に本人のサインが残されている場合、価格が十倍以上になる。

前作から登場した恋人の弁護士エリンから、仕事の依頼を受け、クリフはロッキー山麓のパラダイスという小さな町に向かう。そこで殺人事件が起き、エリンに弁護の依頼があった。事件の被害者はエリンのもと恋人。殺人容疑で留置中の依頼人ローラはエリンのもと親友で被害者の妻である。自分を裏切って恋人を奪ったローラの弁護を担当することにエリンの胸中は複雑だ。そこで、クリフを派遣し事件の詳細を報告してもらうことにした。被害者は大量の本を収集しているらしい。値打ちがあれば、裁判にかかる費用がまかなえるのだ。

冬のロッキー山麓。吹雪の舞う山小屋が殺人の舞台。被害者は銃で顔半分が吹っ飛んでいる。事件を扱う保安官代理は相も変らぬ愚物で糞野郎ときている。現場保存もできず、自白を根拠にローラを逮捕。顔見知りのマクナマラという老弁護士は夫妻の養子で言葉をしゃべれないジェリーの関与を疑う。ローラは、障害を持つ息子をかばって嘘の告白をしたのではないかと。

本を調べたクリフは、書棚に並んだ本がすべてサイン本であることに驚く。殺人の動機は本にあり、で犯人は他にいると考えたクリフは小屋を張り込む。そこに「牧師」を名乗る巨漢と双子の助手が登場し、クリフは後を追う。雪の山中の追跡劇や、法廷劇のサスペンスを盛り込み、マンネリどころか、シリーズ中最も緊迫感漂う仕上がりとなっている。

アメリカには「スモールタウン」物というジャンルがある。近い例ならデヴィッド・リンチ監督『ツィン・ピークス』。因習に凝り固まった地方の小都市を舞台とし、特定の人間関係から起こる事件を描くものだ。場所の移動が少なく、登場人物も限られていることから、犯人探しの範囲が狭まる。この「スモールタウン」がサスペンスを盛り上げるのに成功している。いつもながら善玉と悪玉が截然と別れ、一度主人公に感情移入してしまうと、容易にミスディレクションに誘われてしまう書きぶりは堂に入ったもの。再読すれば伏線はあちこちに張られていて、直観が働く読者なら真犯人を見つけることも難しくはないように丁寧に書かれている。

古本屋としての薀蓄はバーバンクの古書フェアに関する話題が中心。なるほど、と思わせる内訳話は事実古書店主でもあった作家ならでは。ただ、評者の個人的な好みから言えば、好きな作家のサインは別にして、サインの有無で評価が決まるサイン本には興味が持てない。活字、装丁、造本と本の中身が大事と思いたい。それでも、今回のクリフ・ジェーンウェイは好感度が高い。吹雪の山中での張り込みや聞き込みといった地道な仕事ぶりにつけ加え、ジェリーに対する庇護者としてのはたらきがそう思わせる。タフでなくては務まらないが、優しさを失ったらやっていても意味がないのがハードボイルド探偵というものだ。

ミステリとして、上出来と評価できる作品だが、星ひとつ分足りないのは後味の悪さだろう。たしかにこうでしかなかったろうと思わされる真犯人ではある。敬愛するチャンドラーにも同じ傾向があるのだが、長編小説にするためにあちこち引きずり回されて、結局これが真実だったのか、とため息をつかせる。これがミステリと言われれば仕方がないが、後味の悪い事件の場合、解決後に心に残る余韻がほしい。『ロング・グッドバイ』におけるテリー・レノックスとの再会のように。どんでん返しの後の一工夫、これがあれば星五つである。

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 2012/6/4 『失われし書庫』 ジョン・ダニング ハヤカワ文庫

元警官で、今はデンヴァーで古書店を営むクリフ・ジェーンウェイを主人公とする古書ミステリシリーズ三作目。二作目の活躍で、思わぬ大金を手にしたクリフは、リチャード・バートンの稀覯本を競り落とす。ところが、それを聞きつけた老嬢がクリフの店を訪れ、その本は祖父が奪い取られた蔵書の一冊だと話す。

日本では『千夜一夜物語』の訳者として知られるバートンは、語学の達人で世界中を股にかけた探険家でもある。そのバートンが、ボルティモアを訪問した際、老嬢の祖父チャーリーと意気投合し、南北戦争前夜のアメリカ南部を一緒に旅することになった。友情の記念に献本してくれた著書にはバートン自身のサインが記されている。

バートンの本をめぐる殺人が起こり、クリフは老嬢の意思を尊重し、失われてしまった蔵書の謎を解くことを心に誓う。謎解きが主体のミステリなので、あまり詳しく内容に触れるとネタばれしてしまう危険があるので、中身の紹介はこれくらいにしておく。

「歴史ミステリ」というジャンルがあるらしいが、古書探索の薀蓄が楽しい、このシリーズ。作者はマンネリ化を警戒し、一作ごとに新味を出そうと工夫しているようだ。今回は、バートンの伝記の中にある空白部分を「謎」として、提出することで、現代に起きた殺人事件を描くミステリの中に「歴史ミステリ」をはさんだサンドウィッチ状のミステリを書いた。

味としては、外側のパンは馴染み深い味だが、肝心の中に挿んだ具の味にあまりなじみがなく、個人的な感想を述べることを許してもらうなら、少々違和感が残った。決して不味いわけではないのだが、パンと具のマッチングが上首尾で最高のサンドウィッチになっているとは言いがたいのだ。

一人称の語りと、気の利いた会話が特徴のハードボイルド探偵小説と、古書にまつわる謎解きをからめた独特の味わいは今回も健在で、その部分は十分に楽しめる。登場人物が善人と悪人の二種類に色分けされすぎるきらいはあるが、それすらも「意外な犯人」というミステリの常道を生かす叙述にプラスに作用しているといってもよい。

タフガイぶりは相変わらずだが、暴力に対する忌避感が薄いところが少々気になる。一度暴力を振るうと高揚感がとまらないところがある。もっともそれが災いして警察をやめ、古本屋をやることになったという設定だから、無理もないのかもしれない。それと、昔なじみの顔役を使って相手に脅しをかけるのも、あまりほめられたやり方だとは思えない。これは個人的な好みの問題だから小説の出来とは関係ないが。

アメリカ人にとって、南北戦争というのはどんな時代になっても忘れられない歴史なのだろう。その歴史的な事実とリチャード・バートンという人物をからませるという発想はすぐれていると思う。日本なら辻原登が採りあげそうな話題だ。残念ながら、南北戦争に興味を持つ日本人は、そうは多くないだろう。ただ、リチャード・バートンについては興味を持った。バートンとスピークを主人公にした『愛と野望のナイル』は、かつて見たことがある。DVD化されていれば、もう一度見てみたいものだ。

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 2012/6/1 『みみずく偏書記』 由良君美 ちくま文庫

由良君美といえば、今では、その著書もほとんど絶版となっているが、70年代怪奇幻想文学の一時的なブームが起こったとき、仏文学の澁澤龍彦、独文学の種村季彦と並び、英文学の先達として脚光を浴びた一人。代表作に『椿説泰西浪漫派文学談義』がある。もともと、コールリッジを専門とする英文学者であるが、愛書家、読書家として知られ、美術にも造詣が深い。平井呈一に私淑し英語、翻訳においても一家言をもつ偉才である。

曽祖父は明治時代に英和辞典を編纂した学者。父はカッシーラと親交のあった哲学者という恵まれた家門に生まれる。蒲柳の質で、幼少期から家で本ばかり読んで過ごしたという筋金入りの書斎人。単に読書量の多い所謂読書家とはちがい、本というものを愛する愛書家、本人の言葉を借りれば「書痴」である。

そのため、この本の中でも、本というものの体裁、造本から構成まで、現今の本には厳しい批判を加えている。その一方で、あまり世に知られていないが、筆者の目にかなう本、著者については、手ばなしで絶賛している。その両極端に走る性向には、熱心な讃仰者がある代わり、敵も多かった。東大受験に失敗し、学習院、慶応で学位を取得、後に東大教授となるが、学内出身でないこともあり孤立。晩年は酒量も増え奇行が目立ったと伝え聞く。蝶ネクタイにパイプというダンディーぶりで知られるが、洋行経験はない。自分の能力への絶大な自信と自己に欠落した部分に対する秘されたコンプレックスという矛盾したアイデンティティにこそ由良君美という文学者の真骨頂がある。

由良も好んだ批評家、花田清輝に「楕円幻想」という一文があるが、由良本人も自分の中に二つの中心があることを意識していたふしがある。たとえば、詩について文語、雅語を典雅に使用した詩に魅かれる半面、平明な散文を駆使した詩にも魅力を感じるといったように。その振幅の大きい自我に内在する批評性こそが由良の持ち味である。

独断と偏見に満ちた一刀両断のごとき切れ味の文章の裏には、犀利な知的営為が存するのであり、無闇矢鱈に敵に切りかかっているのではない。専門莫迦では到底不可能な古今東西の文献を気の向くままに渉猟し、しかもそれを記憶する傍から忘れ、やがて厖大な無意識の底に沈める。あるとき、それは、新しく出会った何かと反応し意識の表面に浮かび上がり、全く異なった相貌の見解となって由良の筆先から躍り出すのだ。

1983年に青土社から出たものの文庫化。筆者自ら書いているように「本についての本」である。こちらの不勉強を棚に上げていうのもなんだが、採りあげている「本」と、その著者が、ほとんどはじめて目にする名前ばかり。中には夢野久作の父、杉山茂丸の『百魔』のような名の知れたものもあるが、由良の専門分野である英文学や哲学に関するものは、全くもってお手上げである。連載当時の雑誌読者には自明なのかもしれないが、一般読者には初耳だろう。それでも読ませる。世界には、こんなにも凄い人がいたのかと驚き、やがて自分の知的領域の狭さに気づかされ畏れる。それが狙いなのだ。悪くとれば虚仮脅かし。「どうだ、凄いだろう。世界は広いのだ。ちっとばかし日本で文学や哲学をかじったところで、そんなもの何ほどのことがある。」といったところか。

稚気溢れるといっては失礼千万。悪口ではない。こと文献渉猟に関して由良の右に出るものなどない。その道の大家が素人に向けて大見得を切って見せるような大人気のなさがひとつの魅力になっているといってもよい。畏れ入りました、とかしこまっていればいいのだ。由良に愛された弟子たちのように、この碩学の博学多才ぶりに驚き呆れながらも、憧れ仰ぎ見て、その導きによって知の大海に漕ぎ出せばいい。自分の不勉強を棚に上げ、地位に便々として恥じぬ輩には厳しくとも、同じ道を行こうとする若輩には実に優しい。懇切丁寧に教えを垂れてくれる。まちがっても批判などしてはいけない。もし、そんな思いを持つとしたら、所詮行く道がちがうと知れ。とっととこのテーベの大門を去り、何処へなりと行けばいい。誰も止めはしない。

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