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 2012/5/31 『マルタの鷹』講義 諏訪部浩一 研究社

『マルタの鷹』は、ダシール・ハメットの代表作であるだけでなく、ここからハードボイルド探偵小説というジャンルがはじまったというべき記念碑的な作品である。サム・スペードがいなければ、レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウも、ロス・マクドナルドのリュウ・アーチャーも存在しなかった。そういう意味で、探偵小説の世界では誰一人知らぬ者のいない作品である。あまりにも有名な小説で、ジョン・ヒューストン監督、ハンフリー・ボガード主演で映画化されていることもあり、評者などもテクストをしっかり読むこともなく、映画を見て内容を知ったつもりで済ませてきた。

惜しむらくは、本人の与り知らぬところでハードボイルド探偵小説という流れを作り出したことで、結果的にエンタテインメント小説(日本でいう大衆小説)のジャンルに括られることになってしまい、その後大量に配給される傍系小説と同じように消費されることになったところに恨みが残る。村上春樹が、『ロング・グッドバイ』のあとがきに書いているように、チャンドラーをフィッツジェラルドと同世代の都市小説作家として読むことが可能ならば、ハメットもまた、ヘミングウェイやフォークナーと同時代のモダニスム作家として読むことができるのではないか。この本は、その疑問に答えるべくして書かれたともいえる。

村上春樹は翻訳という行為を通して、チャンドラーを読み直す機会を与えてくれたのだったが、諏訪部浩一は、精神分析的批評やラカンの「象徴界」、フェミニズム批評のジェンダー論など、現代批評理論を駆使した「講義」というかたちでハメットの再読を迫る。正直、純然たるハードボイルド探偵小説ファンには耳慣れない批評用語が頻出し、面食らう部分もある。

ただ、しつこいくらい繰り返して解釈されるので、はじめはとっつきにくいかもしれないが、次第に筆者の言わんとするところが分かってくる。なにしろ二十章もある作品を一章ずつに区切っての講義である。講義を聞いた後で、小説『マルタの鷹』の同じ章を再読して確かめる。そのリズムがつかめれば、後は一気に『マルタの鷹』という小説が、単なる「ハードボイルド探偵小説」として済ませることのできない多面的な相貌を持つモダニズム小説であったかを知ることに困難はない。

『マルタの鷹』は、ヨハネ騎士団にまつわる宝石で飾られた黄金の鷹像をめぐる「冒険小説」であり、ミステリアスな美女、ブリジッドとスペードの「恋愛小説」でもある。しかも、歴とした「探偵小説」であるとともに「ハードボイルド探偵小説」の嚆矢でさえある。ここまでは、誰にでも理解できるところだ。筆者の眼目は、サム・スペードを取り巻く三人の女、依頼人であるブリジッド、冒頭で殺される相棒の妻で、サムの愛人であるアイヴァ、それに探偵事務所の秘書エフィを、それぞれファム・ファタール(運命の女)、ビッチ(牝犬)、母と考えることで、この円環構造を描く小説の中で、スペードがハードボイルド探偵として、いかに自己を全うできるか、そしてハメットが、どのようにしてジャンルとしての予定調和を阻んだかを論証して見せるところにある。その帰結として、『マルタの鷹』は、「ハードボイルド探偵小説」というジャンルの先駆的作品でありながら、見事にそれを脱構築した作品であったことが明らかになる。この論証過程が読みどころで、特に最終章の秘書エフィとスペードのやりとりの読解には、よくできたミステリにも似た「どんでん返し」の醍醐味が味わえる。

人類が始めて大量死というものを経験した両大戦間という時代背景に加えて、禁酒法時代のアメリカにおける警察の腐敗という状況の解説も詳しく、ドロシー・セイヤーズから笠井潔に至るまで、数多の探偵小説論を引っ張り出し、必要とあれば長文の英語原文の引用もはばかることなく、まこと「講義」の名に相応しい充実した内容である。なにしろ、ものが探偵小説であるので、解説には慎重を要する。ハードボイルド探偵小説は、本格ものと比べれば謎解き興味は薄いと考えられるが、そこは、綿密に構成されており、初めて読む読者なら、一章ずつ読んでいくことで、謎解きの感興がそがれる心配はない。翻訳だけでも六種あるというが、講義には小鷹信光氏の訳が使われているようだ。評者は村上啓夫訳を用意したが、特に不都合はなかった。むしろ、訳者によって解釈の違いが楽しめて得をした気分であった。

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 2012/5/25 『2050年の世界地図』 ローレンス・C・スミス NHK出版

少し前に読んだマーセル・セローの『極北』の舞台がシベリアの永久凍土だった。近未来を描いた小説が極北を舞台に採用していることが新鮮だったが、この本を読んで、作家がなぜ北の土地を選んだかがよく解かった。未来予測をテーマにした本は多いが、わずかばかりのデータをもとにして、描き出す終末論的世界を、さもそれが現実の近未来であるかのように騒ぎたてるものがほとんどだ。この本は、そうしたものとは一味ちがう。

著者のローレンス・C・スミスはUCLAの地理学教授で、最近再び話題になっている『銃・病原菌・鉄』を書いたジャレド・ダイアモンドは、同僚である。北半球北部の河川の水文学、氷河・氷床、永久凍土の融解が土壌炭素や湖に及ぼす影響、最先端の探査・観測システムなどを専門に研究し、フィールドワークにも積極的に出かけている。コンピュータに打ち込んだ膨大なデータの解析によるシミュレーションが本論の中心だが、実際に足を運んだ「環北極圏」(Northern Rim Countries略してNORCs)の姿を伝える筆は、学者というよりノンフィクションライターのそれで、学者たちの実態や先住民の生活をありのままに描き出し、読み物としても楽しい。

さて、未来予測には隕石の衝突やら第三次世界大戦がつき物だが、スミスはあらかじめ四つの約束を決めて解析を行う。いわく1.「打ち出の小槌」はない(技術の進歩はゆるやかだと仮定する)。2.第三次位世界大戦は起こらない。3.隠れた魔物はいない(隕石の衝突など可能性が低く、影響が大きい出来事は想定しない)。4.モデルが信用できる(気候や経済のコンピュータモデルの実験)。きわめて保守的な思考実験であり、「売らんかな」の精神からは最も遠い。そのぶん、読み物としては少々硬い感じを受ける。

著者が着目する四つのテーマがある。その第一は、人口構成。第二は、資源の需要。第三は、グローバル化。第四は、気候変動である。この四つのグローバルな力が未来を方向づけている。その結論が2050年、人口増加に伴い、資源を求めた世界は、未開発の石油や天然ガス等の資源を多く蔵しているニュー・ノースに軸足を置くというものである。ただ、地域によって相違はあるものの、北半球においては地球温暖化が進み、氷塊や永久凍土が融けだすことにより、交通手段や都市の建設に様々な影響が出てくる。

来年のことを言えば鬼が笑うというが、昨年、未曾有の洪水と人災ともいえる原発事故に見舞われたわれわれ日本人にとって、30年先のことなどわからないといって、笑ってすますことなどできない。2010年に出たこの本の中には、チェルノブイリやスリーマイル島の事故が風化し、世界が再び原子力発電の方を向いていることを説明し、日本やフランスで「今のところ大きな惨事は起きていない」としつつも、廃棄物の処理や安全性の問題について注意を喚起している。3.11以降、ドイツをはじめ、反原発へと舵を切った国が増えたのは知ってのとおりだ。最大の被害を被った当事国である日本がまだ原発にしがみついているのは、皮肉としか言いようがないが。政治家たちは、どれくらいのタイムスパンで事態を見ているのだろうか。彼らにこそ、ぜひ熟読玩味してもらいたい本である。

科学者らしく、客観的な視点で公平な筆致に好感が持てる。評者の歳では、2050年まで生きているとは到底思えないが、世界の動きをただ眺めているというのでなく、一つの視点を持って見つめていこうと考える向きには、必携の参考書かもしれない。


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 2012/5/21 『批評とは何か』テリー・イーグルトン+マシュー・ボーモント 青土社

正直なところ、テリー・イーグルトンの名前は何度も目にしているが、書かれたものを読んだことがない。そんな人間がこの分厚い本をなぜ手にとってみようと思ったのか。理由は至極簡単、面白そうだったから。筒井康隆の『文学部唯野教授』でも紹介されているが、筒井が「印象批評」から「ポスト構造主義」にいたる主要な文学理論をネタに、あの小説が書けたのもイーグルトンが『文学とは何か』で先鞭をつけていたからだ。

もっともこの本、タイトルこそ似ているが、『文学とは何か』とちがってテリー・イーグルトン自身が書いたものではない。マシュー・ボーモントという十九世紀英文学を専門とする研究者によるインタヴューと、イーグルトンの回答を編集したものだ。そのぶん、たいへん読みやすくなっている。このマシュー・ボーモントというインタヴュアーが只者ではない。インタヴュー相手の書いたものに精通しているだけでなく、誤解されている部分についての弁明や言い足りないところの補足を促すような、実にいい質問を投げかけている。そのせいもあって、テリー・イーグルトンの方も、実に気持ちよく開けっぴろげな態度で応えている。それが読んでいて、こちらに伝わってくる。

副題に「イーグルトンすべてを語る」とあるが、実生活についてはほとんど触れられていない。インタヴュアーの関心は作品と発表当時の批評的関心に限られる。その中で例外的に語られているのは、少年時からケンブリッジ入学に至るまでの家庭の様子だ。ぶれないマルクス主義的批評家として知られるイーグルトンは、ソルフォード市に生まれる。両親はアイルランド移民の二世で典型的な労働者階級。家にはほとんど本などなく、古本のディケンズ全集を分割払いで買ってもらって読んだのが、読書体験の始まりというから、後の作家・批評家イーグルトンが、どこから出発しているかを知って驚いた。自分で買った最初の本はコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』。何だ、自分と同じじゃないか。

この状況から抜け出すには勉強して上に進むしかない。カトリック系のグラマースクールでその才能を認められ、ケンブリッジに進むことになる。ご存知のように上流階級の子弟が集まるケンブリッジでは、カトリックグラマースクール出身ということで居心地の悪い思いをしたようだ。カトリックの世界では制度習慣という観点からものを考えるのに対して、多数派のパブリックスクール出身者は個人主義的リベラル・ヒューマニストとして育っている。これが、ラディカルなカトリック系左翼としてのイーグルトンの立ち位置を決定づけたようだ。

自分でも語っているように、アルチュセールやロラン・バルト、デリダ、フーコーといったポスト構造主義他のそうそうたる論客の影響を次々と受けながらもカトリック系左翼であるという点は、ずっとぶれない。その点が、流行りの思想潮流を輸入しては蕩尽し、それが廃ればまた別の流行思想の旗を振るどこかの国の知識人たちとは徹底的に異なる。階級差というものが全くといってない日本のような国で育つのと、はっきりした階級意識の存在する英国のような国で生きるのとでは、人格なり思想の形成においてかなりちがいがあるのだと、この本を読んで強く感じた。

インタヴューは時代順に進んでいくので、自伝のようにも読めるのだが、ケンブリッジでは、ウェールズの労働者階級の出身者であるレイモンド・ウィリアムズに師事している。ケンブリッジにおける異端者であること以外にも、優れた才能と人格を持ったこの師であり友人でもあるレイモンドとの関係が心に残る。若さゆえの性急な批判を今となっては悔いるイーグルトンの言葉は胸に浸みる。

それと反対に、イーグルトンを批判する論客に対する舌鋒は実に鋭い。ノースロップ・フライが書いたイーグルトンの悪口やマーティン・エイミスの反イスラム的発言に寄せる批判文などを読むと論争好きといわれるイーグルトンの面目躍如たるものがある。

カトリックであることと、マルクス主義者であることが無矛盾で結びつくことが、いくら説明されてもなかなか腑に落ちないなど、すべてがよく解かるとは言いがたいのだが、話を端折ったり、韜晦趣味に逃げ込んだりしないイーグルトンの語りを直接に聞いているような気分に励まされ、あっという間に読み終えてしまった。読んでいて、たびたびわが身を振り返らされた。本を読んでいて、自分の生き方や思想的営為を問われるというのはかなり疲れる体験である。最近そのような経験をしたことがなかっただけに余計。しかし、それが「批評家の責務」(原題)というものなのかもしれない。

ベンヤミンは言う。「偉大な批評家は、自分自身の意見を披露するかわりに、自分の批評分析を基盤として、他の人びとが彼ら自身の意見を形成するよう仕向けることができる。またさらに、こうした批評家像のありようは、私的な性質の事柄に留まるべきでなく、可能な限り、客観的で戦略的な事柄であるべきだ。批評家について私たちが知るべきは、その批評家が何を支援しているかである。批評家はそれを私たちに告げるべきである」と。

まんま批評家イーグルトンについて述べているようではないか。最後に出版社に苦言を呈する。瑣末なことだが、脱字が多すぎる。一つや二つではない。青土社はちゃんと校正をしたのだろうか。良い本だと思うだけに残念だ。

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 2012/5/14 『巨匠とマルガリータ』 ミハイル・ブルガーコフ 河出書房新社

もうずいぶん昔、『輪舞』という洋画があった。オムニバス風にいくつかのエピソードがあって、ひとつのエピソードの最後のシーンが次のエピソードの始まりにつながるというしゃれた形式だった。そこから、こういう映画のことを「ロンド」形式と呼ぶようになったとか。淀川長治が映画解説でしゃべっていたのを記憶している。ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』が採用しているのがその形式である。 

映画のほうは、衣装や背景の関係上、同時代の地続きの場所につなげざるを得ないが、テクスト上ではどこにでもつなげることができる。たとえそれが20世紀のモスクワからイエスが処刑される日のイスラエルにだったとしても。そう、この小説では章が変わるたびに時間や場所は自在に変化する。まるで魔法のように。

事実、魔法が使われるのだ。なにしろ主要な登場人物が悪魔なのだから。といっても、この悪魔のすることはたいしたことではない。魔術のショーを興行し、空からルーブル紙幣を降らしたり、パリ直送のモードを無料で頒布したり、もちろん魔術なのだから紙幣はワインのラベルだし、洋服は本人に見えているだけでそんなものもともとありはしない。まあ、首を引き抜いたりもするが、それくらいは悪魔なのだから当たり前だ。

悪魔を信じようとしない頑迷な輩と欲に目がくらんだ者だけが相応の罰を受ける。日本ならさしずめ天罰といったところだ。二元論的な世界観を持つキリスト教社会では、悪魔は必要悪なのだ。ヒロインのマルガリータは自らを解放するため、進んで魔女になろうとする。悪魔の夜宴サバトに参加するため衣服を脱ぎ捨て全身にクリームを塗りこみ、ほうきに乗って飛翔するのだからすごい。パニック状態に陥る一般大衆とは心意気がちがう。

圧巻なのは、悪魔ヴォランドが主催する夜宴だろう。燕尾服姿の男と髪飾りと靴以外は何も身に着けていない女が次々と登場する。ダンテの『神曲』の地獄めぐりを髣髴させる様々な悪徳のエピソードを纏って。ヴォランドに請われ、その夜宴で女王役を務めることで信用を得たマルガリータは悪魔の助けを得て愛する作家と再会を果たす。

物語がはじまってからしばらくは何が起きているのか読者にもよくわからない。だって、主要な登場人物と思われたベルリオーズ(作曲家ではない)はすぐに轢死してしまうし、その話し相手だった(宿なしの)イワンは精神病院に入れられてしまう。それもこれも悪魔を信じなかったばっかりに。当時のモスクワの住宅事情を風刺しているのだろう、悪魔でさえモスクワでの居場所を確保するためにベルリオーズに接触を試みたのだ。科学的社会主義を信奉する二人は簡単に悪魔の手中に陥ってしまう。

作者のブルガーコフは、並々ならぬ才能を持ちながら、作品を発表する機会を得ることなく、この幻の大作を残して早世した。作中、巨匠と呼ばれる作家も自らの作品を暖炉に投げ入れるなど、世間に認められない芸術家の悲哀を体現している。その意味で、本作は自己言及的な小説といえる。その「巨匠」の小説というのが、イエスを処刑しなければならなくなったピラトの葛藤を描いたものである。本作は、その小説世界と悪魔が跳梁跋扈する現実のモスクワ、そして悪魔の夜宴が行われる異世界という三つの世界を往還する。

何故モスクワに悪魔が登場するのかといえば、悪魔はピラト(ピラトゥス)とイエス(ヨシュア)が対話する場面に立ち会っていたからだ。現実のモスクワは、科学的社会主義を奉じる人間が支配する社会である。「宗教は阿片である」と言ったマルクスがキリスト教を認めるはずがない。巨匠の小説が掲載されない理由はそこにある。しかし、キリスト教が認められなければ、悪魔にも出番がない。悪魔が巨匠擁護の側に回るのは必然である。そこで悪魔は自分の存在を見せ付けるためにモスクワ中を引っかき回す挙に出たわけだ。

現代のモスクワに出現する抱腹絶倒のカーニバル的世界。非人間的なイデオロギーによって本来的な人間の存在様態が否定されている現実に対するアンチテーゼの表現として秀逸である。しかし、それ以上にこのてんやわんやは読んでいて面白い。シニカルでペダンティックなヴォランドはじめ、その手下三人の造形は非凡。これまでの悪魔など尻尾を巻いて逃げ出しそうなほどだ。ブルガーコフは上手い作家である。

ヨシュアの処刑を止め切れなかったことを思い悩むピラトゥスの葛藤は、ヨシュアとの対話から生じてきている。マタイの書きとめた自分の言葉は嘘ばかりだとこぼすイエス(ヨシュア)の造形はマルクス主義者からもキリスト者からも批判を招くものだろう。世俗的であれ、宗教的であれ、完璧な世界などこの世には存在しない。月下のバルコニーで愛犬と不眠の夜を過ごすピラトゥスの姿は、生きている限り思い悩む存在としての人間を描いて哀感が強い。

魔女になってでも愛する巨匠の小説を世に出したい、と何もかも捨てて行動するマルガリータの姿は、愛するものの強さを描いている。しかし、この可愛い女は、巨匠を中傷した批評家の家をハンマーでもって破壊しつくすという恐ろしい面も持つ。知的ではあるが自分を恃みきれない巨匠のような男には、マルガリータのような無批判で意志的行動的な女性が必要なのだ。

大作ではあるが、短い章立てが、それこそロンドのようにくるくると展開し、あれよあれよと見ているうちに大団円を迎える。決して表面には出さない作家の思いのようなものが読後、こちらの胸に響いてくる。面白い小説を読みたい人にお薦めしたい。

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 2012/5/4 『極北』 マーセル・セロー 中央公論新社

いわゆる「近未来小説」。何らかの理由で人類が滅亡しかけた後に生き残った人々の悲惨な生活を描いた「ディストピア」ものである。しかし、この紹介ぶりから、よくあるSF小説を想像されると困る。たしかに、設定はSF的かもしれないが、内容はきわめてリアル。時代は現在より何年後か、その舞台は極北の地シベリア、視点は主人公に限定されている。

科学技術が発展を遂げ、人類に不可能などないと思われていた時代はとうに過ぎ去り、核戦争か、地球の温暖化による大規模自然災害か、何らかの理由で、文明社会は崩壊し、人々は生存できる土地を求め、極北の地に逃げ延びてきていた。しかし、そこには過度の科学技術信奉を嫌い、人間本来の生活がしたいと考えた人々が先に入植を果たし、キリスト教信仰に基づいた平和な生活を営んでいた。

主人公メイクピースの父は、入植者たちが作った街エヴァンジェリンのリーダーであった。かつての都会から流れ込んでくる難民を受け入れようとする主人公の父の一派と、拒絶もやむなしとする一派が対立し、入植地は崩壊する。家族を亡くし、ひとりぼっちになった主人公は町の警察官を自称し、無人の町をパトロールすることを日課にすることで、かろうじて日常性を維持している。

そんなとき、逃亡奴隷をかくまった主人公は、仲間との新生活に未来を見るのだったが、その死により絶望し、入水自殺を図る。溺れかけた主人公が死に際に目にしたものが空を飛ぶ飛行機だった。文明の存在を知った主人公は再び生きることを誓う。飛行機を飛ばせる力があるということはそこに行けば未来があるということだ。

果てしない雪原を徒歩で、あるときは馬で、無法者と化した人々との遭遇を警戒しながらもメイクピースは探索をやめない。そう、馬に乗り腰にピストルを携えた主人公を持つこの小説は、ある意味フロンティアを舞台とした西部劇小説であり、ハードボイルド小説なのだ。

しかし、それだけではない。訳者である村上春樹があとがきで書いているように、この小説には「意外性」がある。それも、一つや二つではない。だから、むやみに面白いのだが、あらすじを紹介することがむずかしい「しかけ」に満ちた小説である。

根幹に流れるのは、「アンプラグド」の精神。つまり、プラグをコンセントから抜いたら、何もできない文明社会に対するアンチテーゼだ。メイクピースは、銃弾も自分の手で作る。まあ、店もないのでそうするしかないのだが、食糧を得たり、自分の命を守ったり、という我々文明社会に生きるものが自明とする一つ一つのことが、あらためて切実な意味を持って立ち現れる。

それと、もう一つは、このどうしょうもない世界で生きることの意味の問い直しであろうか。3.11以来、さまざまな論説が飛び交っている。真摯なものも多いが、時流に乗った発言も少なくない。やわな口舌の徒でしかない評者のようなものは、なかばこの世界のあり方に絶望しかけている。完膚なきまでに破壊された原発の姿を目の当たりにしながら、その検証もいまだしというのに、再稼動を言いつのる勢力と、それを政争の具としようと計る勢力のあいも変わらぬ争いに、うんざりするばかりだ。

しかし、最悪の状況に陥った主人公が、持ち前の強靭な肉体と精神力をバネにして何度でも立ち上がる姿に、ありきたりの言い方で申し訳ないが、読者は勇気をもらう。どんな時代、どのような状況下においても、人は生きねばならぬし、生きることには意味がある。放射能や炭疽菌に冒された人類滅亡の地で生き抜く主人公に比べたら、今の世界は、まだまだ可能性が残されているじゃないか。そんな気になってくる。

テーマは、それぞれ読者が見つければいい。一つ言えるのは、そんなものを抜きにしても、この小説は面白いということだ。一気に読み通すことを約束できる。翻訳は、大事なしかけを十分に意識したていねいな仕上がりになっている。一読をお勧めする。

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