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 2012/1/22 『持ち重りする薔薇の花』 丸谷才一 新潮社

いやあ、さすがに手なれたものです。こういうのを風俗小説というのでしょう。

財界や会社の人事にまつわる裏事情に始まり、企業買収のために関係者の趣味を徹底的にリサーチするやり口まで、知らなくても困らないが知っていてもいっこうに困らない、いやむしろ愉快か、といった話が、主筋の話に入る合いの手のように、次から次へと繰り出される。そこは丸谷才一のことだから、その手の読者を飽きさせないように艶っぽい話も用意して、これでもかという具合に供される。巻擱くを能わず。一気に読み終えてしまいました。ああもったいない。

かねてから懇意にしている二人。一人は財界の大物で元経団連会長の梶井。もう一人の野原は梶井とは雑誌の編集長時代からのつきあい。野原は取材で、ブルー・フジ・クヮルテットという日本人弦楽四重奏団の話を聞きに梶井のもとを訪れたところ。

クヮルテットというのは難しいもので、どんなにすぐれた演奏を聴かせる楽団であっても二年で喧嘩別れをするのが常という。少人数の集団が四六時中顔をつき合わせていれば、それも無理あるまい。それが、この四人組は、一度抜けたメンバーが再加入して続いているめずらしい例。ひょんなことから後見の役回りをしている梶井は、世間の知らない面白い裏話を知っているらしい。関係者の死後に公開するという条件で野原は話を聞くことに同意する。

とはいっても、そこは初めに紹介した通り風俗小説です。ミステリのような展開を期待されても困る。メンバーの間に起きるトラブルの原因は、男と女の問題に端を発する。それは、どんな社会でも同じ。ただ、精妙なアンサンブルを期待されるクヮルテットだからこそ、感情のもつれが軋轢となって構成員の調和が乱れる。ヴィオラの別れた奥さんにチェロが手を出し、それを吹聴して回るので、ヴィオラが退団をほのめかしたり、チェロの奥さんとヴィオラが駆け落ちしたりという、よくありがちないざこざ。

まだ若い音楽家たちの稚気あふれる逸話の間に、華やかな実業家人生の陰に隠された家庭内の不幸や、雑誌編集長の社内人事での挫折話が絡み、人生の有為転変が、酸いも甘いもかみわけた人の口を借りてしんみりと語り出される。まるで名人の語る人情話を聞いているような、いいあんばいの語り口です。

英国の小説にくわしい人らしく、階級差というものをうまく使っています。中流の上程度に属する階級の暮らしぶりが醸し出すスノビッシュな味わい。ニューヨークですき焼きを食べて、アメリカの卵にはサルモネラ菌が入っていて危ないが、この店は大丈夫と言わせたり、二人が会話の間に手にするシェリーがアモンティァードだったりと、読み手の気を惹く小道具の使い方がうまい。

クヮルテットの話だから、音楽談義が中心になるのは当然のこと。音楽史では一時代前の人のようにみなされているボッケリーニがハイドンと同時代人だったという事実や、ハイドンのセレナーデは二楽章がいいけれど、実は本人の作ではないという説が持ち出されたりと音楽好きには愉しい。スラブ的旋律が耳に残るチャイコフスキーのアンダンテカンタービレが、むしろモーツァルトに代表される西欧的音楽に近いのだという第一ヴァイオリンの話には我が意を得た思いがした。

圧巻は、ニューヨークの日本料理店で梶井にご馳走になったクヮルテットの面々が余興にやってみせる「忠臣蔵七段目 祇園一力茶屋の場」。チェロの義太夫に第二ヴァイオリンの口三味線、ヴィオラがお軽と平右衛門を早変わりでやってのける。第一ヴァイオリンが「成駒屋!」と大向うを務める。歌舞伎、中でも「仮名手本忠臣蔵」は丸谷才一自家薬籠中の演目。このあたりはお遊びでしょう。

抜けた第一ヴァイオリンに代わって加入したアイリッシュ系の奏者が、あまりにベートーヴェンばかりを持ち上げるので、チェロがかねて用意の難しい単語を繰り出して、自慢の鼻を折ってみせるくだりでは、英語原文をそのまま数行引いてみせる。『ユリシーズ』の訳者の一人でもある丸谷ならではの華麗なペダントリーだが、これもまた読者サービスの一環か。丸谷ファンの中には、音楽だけでなく英語に堪能な読者も多いにちがいない。

蘊蓄満載のエッセイ集はコンスタントに発表するが、長篇小説は寡作という、この人の久々の書き下ろし。弦楽四重奏など聴きながら、シェリーとまではいかずとも、グラス片手に読まれるなら至福のひとときをお約束しよう。


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 2012/1/21 『悪い娘の悪戯』 マリオ・バルガス=リョサ 作品社

1950年代初頭、ミラフローレスはペレス・プラード楽団の演奏するマンボが人々を熱狂させていた。そんな時代、「僕」はチリからやってきた少女に恋をしてしまう。蜂蜜色の瞳にくびれた腰、マンボを踊らせたら誰にも負けないリリー。しかし、三度にわたる求愛も見事にはねつけられ、あえなく失恋。その後、チリから来たというのは嘘で裕福なミラフローレスには不似合いな貧民街の生まれであることが発覚し、少女は姿を消してしまう。

60年代初頭、今はパリで暮らす「僕」の目の前に大人になったリリーが現れる。今度は女ゲリラ兵となってキューバに向かうという。再び夢中になる僕をしり目に、この悪い娘(ニーニャ・マラ)は、またもや姿を消す。もうお分かりだと思うが、この後、60年代後半のロンドン、70年代終盤の東京、再びパリ、そして最後のマドリッドと、忘れたかと思うと別の女性になって姿を現し僕を眩惑して虜にしては姿を消す。

「僕」にとってニーニャ・マラは生涯たった一人の恋人である。何度裏切られても、「僕」は彼女を思いきることができない。一方、貧しい家に生まれた女は、いくら愛されようが、ユネスコで働くしがない通訳と一生添い遂げる気などない。金と力のある男を見つけると鞍替えすることを何とも思っていない。裏切り続ける悪女とそれでも愛し続ける人のいい男の一風変わった恋愛を、60年代パリを皮切りに時代の風俗をからませて描くという洒落た趣向の物語である。

リョサといえば、『緑の家』や『世界終末戦争』に代表されるような、いくつもの時間や場所を緻密に組み立てた構成や、複数の話者を配した多視点による語りといった一筋縄ではいかない作風で描かれた重厚でスケールの大きい作品群が知られている。しかし、最近では『フリアとシナリオライター』に見られるようなユーモアを配した作品も発表しており、この『悪い娘の悪戯』も、その流れの作品である。

一人の女に対しては情熱を抱けるのに、同時代の世界に対して傍観者的態度をとり続ける主人公と対称的に、60年代初頭のパリではカストロの革命を奉じて帰国しゲリラとして殺される友人、ヒッピー・ムーブメント真っ最中のロンドンではフリー・セックスでエイズに感染死する友人と、それぞれの時代を反映する男友達の活躍と悲劇的な最期が物語に陰影をつけている。

注目に値するのは、舞台となる諸都市の中で唯一リョサが住んだことのない東京に対する作家の視線である。シャト−・メグル(目黒エンペラーのことか)というラブホテルが象徴する当時の東京は、セックスのためにかくまでも精緻を極め、贅を凝らした場所があろうかという驚異的な都市として描かれている。ヒロインを徹底的にいたぶる愛人フクダのサディストぶりといい、日本人の性意識に対する独特の思い入れが感じられ複雑な気持ちになる。

「ロマンチック小説を書くなんて、老いた証拠かもしれないな」と作家自身が自嘲気味に語るほど、主人公リカルドの一途な愛が謳い上げられる恋愛小説である。その一方で作家リョサが自分の生きてきた20世紀後半に秘かに捧げるオマージュでもあり、あれほど愛しながらも結局は異邦人につれなかったパリという街への嘆き節でもあろう。アポリネールの『ミラボー橋』の引用が泣かせる。

報われぬ愛に悩んだことのある人、それとは逆に、心底人を愛することができない人、どちらの人にも読んでほしい。衒いをかなぐり捨てたマリオ・バルガス=リョサ畢生の純愛小説である。


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 2012/1/5 『精霊たちの家』 イサベル・アジェンデ 河出書房新社

ガルシア=マルケスの『百年の孤独』との類似を論じた評が多いが、『百年の孤独』以後にこの手の物語を書けば、そう言われても仕方あるまい。ただ、首都にある「角の家」の中を歩き回る精霊たちや浮遊する椅子、床を叩いてお告げをする三本脚の机などのアイテムは、ラテン・アメリカというよりもゴシック・ロマンスでお馴染みの愛嬌者たちであって、土俗的な匂いの強いガルシア=マルケスの世界とは微妙に異なる。

語り口もちがう。『百年の孤独』の文体がその後頻繁に叫ばれるようになった「マジック・リアリズム」という名で呼ばれたのは、不思議極まりない出来事を当たり前のように物語るその筆法にあった。『精霊たちの家』の文体はむしろ古典的な物語の文体である。語り手は、椅子ごと浮遊するクラーラの能力を異常なものとして認識しているし、当の本人も「この家の人はみなどことなくおかしい」ことを知っている。つまり、周囲はすべて尋常であるのに、この一家の者だけが異常なのだ。

とはいえ、とても面白い作品であることはまちがいない。何より読みやすい。度々比較するのは作者に失礼だが、『百年の孤独』と比べて奇想のスケールがほどよく、読者がついて行きやすいのだ。物語は国会議員エステーバン・トゥルエバの回想ではじまり、孫娘のアルバの手記で幕を下ろす。主たる登場人物は二人の他にエステーバン・トゥルエバの妻クラーラ、その娘ブランカ、そして双子の兄弟ハイメとニコラス。この物語は老国会議員の回想記の体裁で書かれたクラーラ、ブランカ、アルバという女たちの三代記である。

「マジック・リアリズム」的色彩が強いのは、幼いクラーラの叔父マルコスの遺体が運ばれてくる冒頭部分。『百年の孤独』のメルキアデスを髣髴とさせるこの叔父の聞かせる話やトランクの中に入った神秘的な書物を日々の糧として育ったクラーラは精霊と話ができ未来を予言する能力を持った子どもだった。姉の死後、その許婚であったエステーバン・トゥルエバと結婚したクラーラは日々の出来事をノートに綴る。この物語の素材の多くはクラーラの書きとめた逸話である。今ひとつは話者であるエステーバン・トゥルエバ自身の回想、さらには後にこの物語を仕上げるアルバ自身の記憶。

クラーラというヒロインが魅力に溢れている。美しいだけでなく慈愛に溢れ、誰からも愛されている。しかも主婦としての実務的能力は皆無ときている。精力絶倫でかっとなると銀の握りのステッキを振り回し、あたる物を片端から打ち壊す恐ろしい権力者であるエステーバン・トゥルエバもこの妻にはかなわない。ごりごりの保守主義者ながら努力家でもあるエステーバン・トゥルエバは資産家となり、政治にも手を出す。舞台はチリ。思い出す人もおられようか。社会主義を奉じたアジェンデ政権がアメリカの支援を受けたピノチェト将軍の軍事クウデターによって倒されたあの事件を。

『精霊たちの家』を書いたイサベル・アジェンデは、その、サルバドール・アジェンデ大統領の姪にあたる。クラーラという女主人の存命中は、精霊たちの守護により、幸福感に溢れた一家であったが、クラーラの死とともに政治の季節を迎える。アルバの兄姉とその恋人は、社会主義や共産主義の運動に身を投じ、一家はイデオロギーの対立に翻弄される。クウデター下の虐殺、拷問を描く筆はマジックぬきのリアリズム。前半部分の幸福感を知っているだけに読者は対比的な後半部に胸塞がれる思いを抱くであろう。

エステーバン・トゥルエバがインディオの娘を強姦して産ませた庶子の子、エステーバン・ガルシア大佐は、総じて善意の集団である一家の負の遺産として登場する。フォークナーやドストエフスキーの作中人物を髣髴させるこの男の造型はクラーラ(光)に対する闇であり、天上的な世界に対する地上的な世界でもある。この対比は物語を劇的なものに変化させるだけでなく、文学的虚構をリアルポリティクスに限りなく接近させる。読者はラテン・アメリカ世界の持つ豊潤な文学的香気とともに苛酷な政治状況を否応なく突きつけられ、自分の生きる姿勢さえ問いつめられていることに気づかせられる。そういう意味では読後に一抹の苦味が残る。ジャーナリストでもある作家の一面がそこにある。訳者は木村榮一。極端に改行の少ない文章をよどみなく読ませる見事な訳である。

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