HOME | INFO | LIBRARY | JOURNEY | NIKE | WEEKEND | UPDATE | BLOG | LINK
LIBRARY / REVIEW | COLUMN | ESSAY | WORDS | NOTES  UPDATING | DOMESTIC | OVERSEAS | CLASS | INDEX
Home > Library > Review101

 2011/12/29 『小澤征爾さんと、音楽について話をする』 小澤征爾×村上春樹

考えてみれば、この二人の対談は誰かが思いついてもいいはずであった。村上も自分で書いているが、二人には確かに共通する部分があるからだ。何点かの共通点は、実際に村上の文章で読んでもらうことにして、一つ思い出したのは、どちらも日本で権威があるとされている連中にこっぴどく傷めつけられていながら、ちょうどそれとは反対に海外ではたいそうな評価と好意を得ている点だ。

今の人は知りもしないだろうが、小澤は忘れていない。ちゃんとN響からボイコットを受けたことを口にしている。村上にしても日本文学の権威筋からはかなりバッシングを受けている。はっきりと書いているわけではないが、村上はそうした二人の共通する部分をかなり意識しつつ、このインタビューを持ちかけたにちがいない。

小澤がここまで心を開いて音楽について語ることができたのは、村上に対する信頼があってのことである。たしかにかつてジャズ喫茶のマスターであった村上は自分で言うほど音楽の素人ではない。クラシックにしても、そのレコードコレクションがどれほどのものかは、小澤が驚くほどだ。

ではあるにせよ、演奏家でなく単なる聴き手にすぎない作家相手にずいぶん突っ込んだ話をしているし、最後にはセミナーの会場に同席を許してさえいる。音楽と文学という異なる分野で仕事をしてはいても、互いを理解し合える相手を得たという悦びがインタビューから伝わってくる。音楽について話される内容は勿論のことだが、何よりそういう生き生きした前向きな感動があるのだ。

音楽についてだが、個人的には、大好きなマーラーの交響曲一番第三楽章を聴きながらの対談が素晴らしかった。こちらは本を読んでいるだけなのに、小澤の「とりーら・ヤ・った・たん、とやらなくちゃいけない」というような語り口調がそのままマーラーの曲となって頭の中に響いてくる。音楽について書かれた本を何度も読んだが、こんな経験ははじめてだ。

対談の中で村上が文章を書く方法を音楽から学んだと語っている部分にも感銘を受けた。「文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まない」「でも多くの文芸批評家は、僕の見るところ、そういう部分にあまり目をやりません。文章の精緻さとか、言葉の新しさとか、物語の方向とか、テーマの質とか、手法の面白さなんかを主に取り上げます」。このあたり、かなり手厳しい日本の文芸批評に対する反論になっている。村上はきっと音楽を聴くように自分の作品を読んでくれる批評家を待っているんだ。そう思った。

でも、日本にも村上の良さを分かる批評家はいる。例えば、清水徹が粕谷一希を相手にこう語っている。「普通に書いているようでいて、突然予想外な発展をしていくし、それから文体に魅力というものがある」(『<座談>書物への愛』)。これなど、村上の「しっかりとリズムを作っておいて、そこにコードを載っけて、そこからインプロヴィゼーションを始めるんです。自由に即興をしていくわけです。音楽を作るのと同じ要領で文章を書いていきます」という発言の言い換えのように読める。

村上には小澤の音楽についての話を書き残しておきたいという思いがあったのだろうが、常々作家としての自分の仕事について誰かに心おきなく話しておきたいという気持ちも無意識の裡にあったのではないだろうか。それが、小澤という願ってもない相手と向き合ううちに期せずして顕れ出たのが、このインタビューであったような気がする。まさに、運命の出会いというべきだが、これが小澤の癌を契機として果たされた点が感慨深い。まさに「どんな暗雲の裏も日に輝いている」という英語の表現通りである。

pagetop >

 2011/12/29 『アメリカ・ハードボイルド紀行』 小鷹信光 研究社

ハードボイルド小説もそれほど読んでいるわけではない。レイモンド・チャンドラーが好きなので、関連すると思われる書物には一応目を通しておきたいという気がある。小鷹氏の著作もその一つである。

アメリカに関する雑誌等の蒐集家でもあるらしく、パルプマガジンやメンズマガジンを詳細に紹介している章や、ダシール・ハメット、ジェイムズ・クラムリーら自分が翻訳した作家について触れた章がつづく。チャンドラーについては、マーロウ物TVシリーズDVDの「ライナー・ノーツ」(懐かしい!)を頼まれて原台本やら日本語字幕、全11巻の映像のチェックをした際に気がついたことを紹介した章以外マーロウ関連の文章はない。

四部構成で、第一部「映画の旅、雑誌の旅」、第二部「ハメットと五十年」、第三部「ロード・ノヴェルの軌跡」と続き、最後の第四部が「失われたハイウェイ」。もちろん題名にある「紀行」は、ハードボイルド小説とともに歩いてきた長い道のりを意味するものでもあるわけだが、この第四部は副題にある通り、アメリカのハイウェイについて語っている部分で、実は意外にここが面白かった。

コレクターというものの性なのか、小鷹氏はアメリカに関するものなら何でも集めたくなるそうだが、近頃凝っているのが古い絵葉書蒐集。なかでも「メインストリート」を撮ったものが特にお気に入りらしい。つまり、西部の町の両側に店が並び中央の一点に消失点がある、あのおなじみの構図である。掘り出し物の絵葉書を見つけた話や、昔の絵葉書にある町並みと今の町並みを比べる“Now and Then”やら、古いロードマップを頼りに、アメリカの田舎町を訪ねる旅は楽しそうだ。

「ルート66」という60年代に流行ったTVドラマがある。昔何度か見た記憶があるが、ずっとジョージ・マハリスはルート66を走っているものとばかり信じて疑わなかった。実はとんでもないまちがいでロケ撮影は全米でロケをしていながら、66号線とは関係のない町で撮影していたことをこの本ではじめて知った。

若者二人がコルヴェットでアメリカのハイウェイを駈け抜ける話と紹介され、記憶にもそんなふうに残っていたが、当時マハリスは三十代。一話ずつ見ていくとけっこう深刻なテーマが扱われていたらしい。人の記憶のいい加減なことがよく分かる。全作品をチェックした氏のような人がいてくれるおかげで潜入感というものの恐ろしさに気づかされる。

写真資料も多く、「古き良きアメリカ」を愛する人には楽しい読み物になっている。ただ、「ルート66」が象徴しているように、我々が思い描いている「古き良きアメリカ」が幻想であることもまた真実である。現地で出会った人々とのやりとりの中にアメリカの持つ問題点も滲ませ、ほろ苦い味わいも持つ。

冒頭にアリゾナの砂漠で行われた核実験の話が置かれている。氏に限らずアメリカに憧れ、その文化に影響を受けてきた日本人は多いだろう。西部劇しかり、ハードボイルドしかり。しかし、そのアメリカと現実のアメリカの落差はあまりに大きいと言わざるを得ない。自分の中にあるアメリカに対する二律背反する心理をあらためて思い知らされた。

pagetop >

 2011/12/17 『ヴァインランド』 トマス・ピンチョン 新潮社

同じ訳者による改訳で河出書房新社の『世界文学全集』に収録された作品に大幅改訂を施した、どうやらこれが決定版となる模様だ。最初の新潮社版で読んだのがはじめてのピンチョン体験だった。当時、傑作だと思った記憶があるが、再読してみてその思いを強くした。訳文は大幅に改訂され面目を一新。全体に漂うグルーヴ感は色あせるどころか、ますますその疾走感を増し、一度その流れに引き込まれると途中で抜け出せなくなる。

他のピンチョン作品が続々と訳出されることで、それまでこの一作を読むだけでしか知ることのできなかったピンチョン・ワールドともいうべきものが少しずつその姿を明らかにしてきた。『逆光』に登場するウェブ・トラヴァースの子孫が『ヴァインランド』のエンディングを飾る大家族集会に顔を見せるなど、それぞれが小説として独立していながらも奥底に深い根のようなものでつながりあっているピンチョンの作品群には、権力対民衆の構図がいつも透けて見える。

そう書くといかにもベタな社会派小説のようだが、そこがピンチョンの手にかかると、とんでもなく痛快なエンタテインメントに見えるから不思議だ『ヴァインランド』は、その嚆矢とも呼べるものだ。60年代を忘れられないフラワー・チルドレンの成れの果てが男を作って逃げた女房を忘れられず、一人娘と暮らすヴァインランドに昔なじみの捜査官が現れる。どうやら、元女房の男が手勢を率いて押し寄せてくるらしい。おんぼろ車に乗り込んで娘と逃げ出すゾイドだったが…。

60年代のアメリカは輝いていた。キューバ危機やヴェトナム戦争が学生や労働者の集会やデモを呼び、世界は変わるのかもしれないという幻想を振りまいていた。ラブ&ピースを合言葉にヒッピー・ムーヴメントが世界を席巻し、ロックに代表される音楽が世界中の若者を結びつけウッドストック・ネイションという言葉さえ生まれた。しかし作品の時代は1984年。村上春樹ではないジョージ・オーウェルの書いた『1984』年だ。

ピンチョンの固定観念、それは新大陸アメリカが持っていた清新な魅力が、資本主義国家として成長するうちにとんでもない腐りきった国に成り果ててしまったことに対する徹底的なノン(否)を突きつけることではないか。ニクソン、レーガン、ジョージ・ブッシュ・シニアと引き継がれる国家的陰謀。オーウェルが想像した管理社会をより巧妙に成し遂げたその高度管理社会である1984年のアメリカを舞台にしながら、ピンチョンは凄腕のナラティヴ・テクニックを駆使して熱き60年代を紙上に甦らせる。

重厚長大が敬遠されて軽薄短小がよしとされたのは一昔前だが、ピンチョンのそれは軽薄短小などではない軽厚長大。扱う内容は厚く長く大きいのだが、語り口はとてつもなく軽い。ルーシー・ショー、ローン・レンジャーからハワイ・ファイブ・オーと、アメリカのTVドラマのノリでどこまでも突っ走る。加えてBGMどころではなくガンガンひびいてくるロック&ロール、ヘヴィ・メタ、アシッド・ロック。ドラッグまみれの音楽。

お上品な世界にそっぽを向きどこまでも悪趣味で過激、顰蹙を買うようなカウンター・カルチャー趣味を押し出しながら、どうしてこんなにピュアでセンチメンタルな話が書けるのだろう。ピンチョンを読んでいると、ここにこんないいものがあった、という気にさせられる。あまりにも無防備な姿勢で社会の不正に挑戦状を叩き付ける若いフレネシとその仲間。自分の持つ純粋さの過剰を持て余すかのようなフレネシの裏切り。同時代に学生運動を経験したものなら、この切なさに覚えがあろう。

どこまでもダメオヤジぶりを振りまくゾイドにしても、かつて信じたものをそう簡単にあきらめきれない気持ちはこちらも同じで、ダメだと思いながらも肩入れしてしまう。権力を持たないものたちが、暗躍する権力の暴力にそれでもあっけらかんとしてへっちゃらという生き方を示すピンチョン世界の住人たちにスタンディング・オベーションを贈りたい。



pagetop >
Copyright©2011.Abraxas.All rights reserved. since 2000.9.10