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 2011/11/12 『まぼろしの王都』 エミーリ・ロサーレス 河出書房新社

表紙カバーの絵に誘われて手を出したのだが、巻末の著者紹介を読んで、これはどうかな、と思った。というのも、以前読んだ『風の影』という本の編集者だっ たと書かれていたからだ。『風の影』は一般的には評判も高かったのだが、読んでみるとそれほどでもなかった。というより、がっかりした。あの本の編集者 だったら、同じ傾向のものかもしれない。そう用心して読みはじめたのだが…。

結果的には、予想は半ば的中していた。スペインの歴史を背景にしつつ謎解き興味で引っぱっていく傾向がよく似ていた。半ばというのは、『風の影』よりは読 みごたえがあったからだ。とはいっても、これだけの素材を使って料理した作品としては味わいに欠ける憾みがある。特に人物に精彩がない。作者が操る影絵の 人形のようで、何を食べてどんな酒を飲んでいるのかさっぱり浮かんでこない。

18世紀の建築家の視点で語られるカルロス五世が計画した都市建設にまつわる物語と、現代の画廊経営者が巻き込まれた女性関係のトラブルが、交互に語られ るという構成。歴史的事実をもとに、結局は作られることのなかった「まぼろしの王都」建設のために、ナポリからヴェネチア、そしてサンクト・ペテルブルグ へと遍歴する建築家の話はかなり造り込まれていて、それなりに読ませる。

問題は、その建築家の手記と思われる『見えないまちの回想記』という原稿を送りつけられた画廊経営者の話の方だ。イタリア語で書かれているらしいが、独り で読み続けているところから見れば主人公はイタリア語に堪能なはず。それなのに、いくら分厚い書類の束だとしても読み終わるのに何日かかるというのだろ う。ティエポロの手になる幻の作品の手がかりが隠されているというのに。普通なら徹夜してでも読むところだ。こういう構成のゆるさが『風の影』に共通する 弱点である。

海外旅行が趣味で、ヴェネチア、ナポリ、サンクト・ペテルブルグを訪れた経験があり、ルネサンス・ロココあたりの美術や建築に興味のある人なら、それなりに楽しめるかもしれない。

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 2011/11/3 『昭和の読書』 荒川洋治 幻戯書房

詩人荒川洋治は、評論もエッセイも書くが、それ以上に無類の本好きでもある。なにしろ同じ作家の同じ本を何冊も持っているのだ。同じ本といっても、出版年がちがったり、版がちがうと表紙の色が微妙に変わっていたり、グラシン紙のかけ方がちがうといった程度の理由でだ。当方など、まちがって同じ本を買ってしまったりすると、とんでもない損をしたと思ってしまうのに、そうして買い集めた本を、必要とする人にはゆずってしまうというのだから、荒川洋治はえらい。

そんなわけだから、本棚にはいろんな本が整然と並んでいるのだろう。今回の本は、その六割が書き下ろしだという。本棚に並んだ各社の出版になる日本文学全集を机の上に積み上げながら、同じ作家の巻にどの作品が選ばれているのかを比較したり、よく全集についている落ち穂拾いのような「名作集」にだけ入っている作家の作品を列挙したり、という書誌学的興味にあふれた蘊蓄を披露してくれている。

荒川は、なぜこんなめんどうくさいことをやろうと思うのか。延々と作家と作品の名前が羅列されたページとページの間にはさまれた作家の肉声がこたえてくれる。荒川は憂えているのだ。一握りの人気作家ばかりがもてはやされる現代の文学事情を。

「現在は、ひとりの国際的人気作家の論集は出るが、その人をだけをめぐるものがほとんど。複数の作家を論じるものは、読者に敬遠される。知らない人のものは読みたくないという思いが強いからだ。いまは自分の興味をひろげないための読書が推し進められている。」

そういえば、ちょっと前までは複数の作家を論じた「作家論集」というのがあった。いまはあまりみかけない。人気作家の話題作が出ると、ひとしきり騒ぎはするものの、それでおしまい。点だけがあって線につながらないのだ。荒川が文学史にこだわるのも、文学は点ではないと思うからだ。

木山捷平、島村利正などといった忘れられていたような作家が近頃再評価されつつあるが、一握りの愛読者に好まれるタイプの作家はいざ知らず、丹羽文雄のようなかつては人気作家であり、現在はほとんどかえりみられなくなった作家をとりあげ、その擁護を試みるのは荒川洋治くらいだろう。

中村光夫の「風俗小説論」で、私小説の持っていた大事な部分ではなく、そのスタイルだけを身につけ、何でも小説にしてしまえる風俗小説作家と決めつけられた丹羽の小説が、同じ素材を料理しても、初期のころと晩年では全く異なることを引用部分を引きながらその作家的熟成を論じている。返す刀で、中村光夫の文章のなかで使われる漢字と仮名の比率が、なにを論じても変わらないことを例に、批評家が作家の小説をどれだけ作品自体に沿って理解しているかどうか疑義を呈す。丹羽文雄についての否定的評価自体が、翻訳文学を読み慣れた批評家の視点からなされたないものねだりではなかったのかという反論である。

薄田泣菫の「ああ、大和にしあらましかば」の詩語を空疎と決めつけ、随想の散文を愛でながらも「ぼくはふかい感動をおぼえた。静かな心の世界をあらわすには、これ以上望めないほどに澄み切った文章にも。だが、そのために彼が本当に何を思っていたかはよく見えない。あらわれてこない。」「随想には他のジャンルにあるような競争もない。その人が選んだ最初の書き方を、長い間つづけることができる。エッセイと名を変えたいまも、そのことにあまり変わりはない。」と書く。

ここにあるのは、時間的にも空間的にも閉じられた狭小な視野で文学をやることに対する基本的な忌避の姿勢ではないか。今の人が自分の好きな作家の作品だけ を読むこと、批評家が自分の良しとする文学の物差しに当てはめて文学を論ずること、競争のない世界で自足した境地に浸ること、どれも文学を豊かなものにす ることからは遠い、と荒川は感じているのだ。

ある意味、読んでいて重く感じられるかもしれない。文学なんて知らない。好きな作家や小説が読めればそれでいい、という人も多いだろう。だが、文学は小説だけではない。詩もある。大作家、人気作家の小説だけが小説でもない。文学史の片隅で静かな光を放ちつづけ、いつか誰かに読まれるのを待っている作品もある。そのことを知るのと知らぬのでは、同じ地球の上にいても、まるで別の世界に暮らしているようなものだ。読み終えた後、今まで読もうとも思わなかった作家の小説が読んでみたくなる、そんな本である。


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