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Home > Library > Essay >0411

 記念日

運転手に行き先を告げ、後部座席に腰をおろした。
「側道を行った方がいいですね。」
車が走り出すと、運転手が話しかけてきた。市内では名の知れたレストランは、高速道路を降りた近くにあった。
「記念日か何かですか?」
生憎の雨にトレンチコートを羽織って出たが、二人の服装と、行き先から判断したのだろう。
「結婚記念日なんですよ。」と応えた。
「いいですねえ。奥さんはお喜びでしょう。奥さんの前で何ですが、男はどうでもいいんですよ。でも女の人には大事なんですよねえ。」
そうかも知れない。しかし、ただの記念日ではない。昔なら人生の半分を共にしてきた計算になる、節目の記念日なのだ。男にとっても、それなりの感慨はある。運転手の話は続いていたが、もう聞いてはいなかった。適当に相づちを打ちながら、ここまでの道のりを思い出していた。

偶然の出会いが二度も続いて、何か運命的なものを感じてはいたが、交際はともかく、クリアできない問題がいろいろあって、結婚は難しいと考えていた。それが、どうしたことか、結婚をすることになったのだから、周りの困惑は予想通りだった。式を挙げるまでに何度もあきらめかけた。今思えば、よくこぎ着けたものだ。病気や事故も人並みに経験したが、幸い大事に至らず、二人の子どもにも恵まれ、幸せな生活だった。人生がゲームならツキのほとんどを使い果たしてしまったような気がして少しこわいくらいだ。これから先、と考えたとき車が止まった。

時間が早いのか、客は私たちだけだった。部屋は暖かく、テーブルには小さな蝋燭がともされていた。料理は三つのコースから選ぶようになっていた。メインの肉料理から妻は脂の少ない蝦夷鹿の方を選んだ。私は熊野牛をメインにしたものを選んだ。ボジョレ・ヌーボーの解禁日ではあったが、メインに合わせて、タンニンの風味を残すシャトー・レゾルムの99年を選んだ。口の中で転がすと、果実の香りの奧に特有の渋みが残る。しっかりしているが重くはない。

前菜には季節柄かジビエ料理風の雉肉のカナッペや料理番組でも紹介されたという豚をクレープで捲いた物、それに地場産の無農薬野菜と人参のムースの上にコンソメのジュレを載せた物、と女性客を意識した健康感覚の小品が素焼きの瓦風のプレートに上品に並んでいた。二人とも小食で、量の少ないのにこしたことはない。ホールを仕切っているギャルソンヌが、料理の産地や使う銀器を小声で教えてくれる。両端から使っていけばいいだけのことだが、こういう気遣いを喜ぶ人もいるということだろう。

サラダは妻の方が牛タンをベースにしたもの。こちらは伊勢海老一尾を背割りにし、生野菜の上に置いてある。身の部分は、殻から取り出してあり、味噌の部分用に小さな専用のフォークが添えてある。実は海老や蟹の料理が好きではない。素手で持って身を掻き出すというのが煩わしいのだ。手に匂いがつくのも嫌いだ。それで、檸檬の薄切りを浮かべたフィンガーボウルが出てきた時はちょっと感動した。

次に出たのが、カップに入れた椎茸のスープをパイ皮で包んで焼いたあのロシア風料理で、これは妻の方。もう一つはフォアグラとポルチーニ茸リゾット添え、という茸づくし。ここのフォアグラは二度目だが、前回も強く印象に残っている濃厚な味わいだ。フォアグラの脂が苦手な妻は、少し味見をして、もう充分という顔をした。

魚料理は、妻の方が太刀魚、こちらが鰆だった。どちらも野菜との取り合わせに苦心しているようだったが、他の料理に比べると淡泊な味付けで、どちらかといえばちょっと一休みという感じのする料理になっていた。次が肉料理と考えると、このあっさり感はわざとそうしたものだろう。自家製の麺麭は細く伸ばしたバゲットで、胡桃入りと、入らない物の二種類。これだけを買いに来ることもある。

蝦夷鹿は、地元の人が北海道まで行って撃ってきたものだという。ラズベリーソースがかかっていた。独特の臭みをとるためだろうが、果実の甘みが勝ちすぎるような気がした。熊野牛の方だが、以前使っていたという松阪牛に比べ、サシの入り方が荒い。その分味わいも野性的といえるかもしれない。マデラ酒を使ったソースともうまくマッチしていた。

デザートはチーズの盛り合わせか、中にパンナコッタが入ったシャンパンのジュレ。チーズ好きの妻は迷わず、チーズを選んだ。ロックフォールや山羊の乳で作ったチーズは、デザートにするより、酒の肴にしたいと思う濃厚な味だ。シャンパンのジュレは、さっぱりした口当たりが爽やかな一品。

デザートが出て、後は珈琲で終わりと思うのだが、フォークとナイフが一組残っている。ちゃんと使ったはずなのにおかしなことがあるものだと訝しく思っていると、蝋燭を点したケーキが運ばれてきた。「結婚25周年おめでとうございます」と、チョコレートで書いたプレートまで上について。予約の時に「お祝い事か何かですか」と聞かれたが、こんなプレゼントがあるとは思いもしなかった。蝋燭の炎を吹き消すと周りから拍手が起こった。胸の裡に暖かなものが湧きあがってきた。

紅茶とエスプレッソで本当の終わりと思っていたら、高坏に一口大のケーキが三種載せられて出てきた。甘みを抑えた大人向けの味だった。一つ一つの料理が運ばれるまでの間にゆったりした時間が流れていたのだろう。気がついたら時計の針は九時を回っていた。文字盤に白蝶貝を使った時計は銀婚式の記念に妻から贈られたものだ。妻の指には小粒だがダイヤを配した指輪が光っている。妻からもらった手紙には「金婚式も二人で」の言葉があった。互いをいたわり合って、その日を迎えられるようにしたいものだと、あらためて思った。

 運河沿いの町

休日返上で取り組んでいた仕事がやっと終わり、ふだんなら仕事のある日だが、休みがとれた。昨夜来の雨も上がり、空中の塵を全部洗い流したかのように空は久しぶりの秋晴れである。あんまり天気がいいので外が歩きたくなった。

趣味はと聞かれると散歩と答えていたのが嘘のように最近は歩かなくなった。目的もなく歩くのが散歩のはずだが、行く当てもなしに歩くのは、これでなかなか覚悟がいる。犬でもいれば、また別だろう。いい歳をした、といいたいところだが、健康のために歩いている人たちに比べると、まだ若すぎる現役世代が昼日中隣近所をぶらぶらしているのは、いかにも暇そうでなんだか落ち着かないものがある。

同僚の話では、休日はゴルフというものもいれば、郊外のパチンコ屋というのもいる。それなら近所の目は気にならないだろう。もともとたいした趣味がない。たいていの日は本を読んでいるか、キイボードに向かっていることが多くなった。運動不足が気にならないわけではないが、健康を気にしすぎるのも一種の病ではないかと思っている。健康のことは病気になってから考えればいい。

この間、ケーブルテレビを見ていたら、ローカル番組で古本屋を紹介していた。古いレコードも置いているというナレーションとともに映ったLPジャケットがジャニス・ジョプリンと「フィルモアの奇蹟」。古い友人に出会ったようで懐かしかった。店のあるのは古い問屋街。車で行くと、停める場所に気をつかわねばなるまい。古本屋で京都時代を思い出した。たいした距離ではない。歩いていくことにした。

二つの古い町の間にある山というので「間(あい)の山」という地名を持つ坂道を下ると川に出る。川といっても、水源地は遠くの山ではない。大きな川の支流を掘削して濠をつくり、河口にある港から川船が市中に荷を運んだ運河の名残である。陸上運送に取って代わられて、すっかり寂れた川沿いの倉庫群が、度重なる氾濫に業を煮やした行政当局の河川改修の号令で、きれいさっぱり取り壊され、誰も通らない遊歩道付きの川に変わってからは、かつての環壕集落の面影もなく、生活排水を垂れ流す溝川となってしまっていた。

ところが、ここ何年か、僅かに残った蔵を再生し、飲食店その他の営業を行う店がふえてきた。間の山を越えたもう一つの町にも古い街並みを模した商店街が有名土産店の肝いりででき、思いの外、人を集めている。そちらは有名な神社の鳥居前町だから、観光客も来る。せっかくの倉庫群を川幅の拡幅工事で撤去してしまっては、観光客の呼びようがない。立ち退き反対運動もあったが、行政を動かすだけの力にはならなかった。今思えば惜しいことをしたものだ。近江八幡市や長浜の黒壁スクエアを訪れるたびにそう思う。

しかし、何が幸いするか分からない。観光客で賑わう町とならなかったことが、かえって町のたたずまいを昔のままに留めている。父の自転車の後ろに乗せられて、日曜大工の道具を買いにきた問屋は今もそのままの場所に建っていた。履物問屋の看板を提げた店では昔ながらの下駄が店先に並んでいた。蔵を改造した店は、何軒かあるが、それ以外は普通の家である。そんな中に古本屋はあった。

真新しい暖簾をくぐって中に入ると、店内は改装されて明るく、何より古本屋独特の黴臭さがない。LPは思ったより枚数が少なく、めぼしい物はなかった。ドノヴァンの二枚組があれば欲しかったのだが。本の方は、ジャンル別に整理され、探しやすく並べられていた。近頃流行りの大手のチェーン店とちがって、新しい本がないことに気がついた。まるで時間が止まっているかのように、本というものを読み始めた頃の作家の本が並んでいる。まるでその当時の自分の本棚を見ているようだった。

ロープシンの『蒼ざめた馬』や、河出から出た埴谷の『死霊』、小田実や大江の初期の作品のなかに、『ポオ全集』三巻揃いもあった。拾い物だと思ったのは、ダレルの『アレキサンドリア四重奏』四冊揃いだ。手ぶらできているので、手に持ったまま家まで歩くのは少々つらい。この次にしようと思った。京都時代なら、江戸川乱歩全集全巻揃いを二つのバッグにつめて両手に提げて下宿まで帰ったものだが。

川に出ると、河口近くの空には白い雲が浮かび、そこだけ視界が開けていた。サンクトペテルブルグというわけにはいかないが、運河のある町らしい風情は感じられる。老人が川縁の堰堤に腰かけて、腰に付けたバッグから何か出そうとしていた。俳句でも思いついたのかもしれない。濁った水の中にときおり銀色の腹を見せて魚が踊る。背高泡立草と薄が仲よく共生している川辺の叢から鶺鴒が飛び立った。汽水域に近いのか、潮の匂いと溝の匂いの混じったような異臭が風に乗って運ばれてくる。人通りはたえて、ない。歩いてこれる距離なのに、旅先にでも来ているような気がしていた。


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